六話:『塔』(二)
──『塔』、あるいは『ユレンメンの逆さ塔』と呼ばれているこの魔窟は、全十四階層の規模としては中程度にあたる。踏破するには手頃、とまでは言えないものの、危険性は大規模な魔窟に遠く及ばない。
それが何故十年以上も踏破されずに放置されているかと言えば、偏に実入りの悪さが足を引っ張っていた。道中の魔物は大した素材にならず、植生も産出する鉱物も粗悪なものが大半とくれば、危険を冒して挑む者も減って当然な話だ。最奥で得られるだろう魔晶鉱石こそ十年物と期待できるが、それだけのために潜る訳にはいかない。
それでもライオは『塔』に挑むことを決めた。きっとウォレステスの灯薔薇を手に入れられると信じて。
所詮はゲームという傲りが無いとは言えないことを自覚しつつ。
背後で大扉が閉まる音を聞きながら、ライオは暗闇に身構えていた。
カンテラに照らされた道はひどく狭く、随分と視界が悪い。さらにはライオ自身の身体が影を生む。
「これは……」
次回の課題だな。ライオは胸に刻んだ。
ヘッドライトが良いかもしれない。
腰の長剣を抜くも、この通路の幅では満足に振ることなど出来やしなかった。なんせ、ライオが両の腕を横へと伸ばせば指先が壁に届いてしまうのだ。長剣など壁にも天井にも擦るどころか刺さってしまう。
ライオの身長が百七十と少しであるから、腕の幅程度しかない通路もほとんど同じなはずである。
突きしか出来ない今の状況で魔物に襲われたら。初めてライオの表情から余裕が薄れた。
【Lily's nobody】に、一般に言うデスペナルティはない。
デスペナルティはないが、死んで良い訳ではない。
それはゲーム的であってもゲームとして設計された訳ではないことに起因する。演算世界に入った人間の挙動やそれによる演算の変化、身体への反応を見る実験計画であるために、いくつかのゲーム的要素は"無駄"としてそもそも実装されていない。そして終わりに至るまでをじっくりと観測するための試験であるが故に、軽々に死ぬような真似は推奨されておらず、あまりにも無様な振る舞いは叱責の対象とすらなる。
そう、リスポーンは最初から出来ないのだ。死ねば終わりなのである。
ライオが死ねば、キャラクターとしての彼も当然ながら死亡する。周囲は死んでしまった彼に合わせたストーリーを展開し、ライオの葬式や墓参りに時々思い出話をするわけだ。
そこにプレイヤーとしての介在の余地はなく、第二陣としての再スタートまで弔いの観察を強いられる。その再スタートも別のキャラクターとなるのだから、ここで死ねば"ライオ"は本当に終わりを迎えると言えた。
少しばかり生死を軽く考えていたかな、とライオは己れが舞い上がっていたことを反省した。
何せ五感全てが現実と錯覚する完成度なのだ。
湿った空気は埃臭く、肌を撫でる感触までもがどうしようもない圧迫感を与えてくる。カンテラの光は白一色でなく影との境は幾重にも分かたれて、踏みしめる土は固くそれでいて僅かに沈み込む柔らかさがあった。革鎧だけでも重く、さらに合わせた装備が全身にのし掛かる。擦れる感触に骨を伝う振動、歩くだけで情報の洪水に溺れてしまいそうになる。
唾液が苦く感じたゲームは初めてだった。
電脳世界に没入するゲームそのものは以前からあった。仮想現実コミュニティ内でアバターで交流をする形態は、それこそ数十年かけてアップグレードされ続けている。
ワールドシミュレータをゲームに転用するのも特別珍しい話ではない。
彼もプレイした覚えはあった。
だがそれらが高いクオリティで融合した"これ"は別物だ。別格と言っても良い。
むざむざ死ぬような勿体ない真似は出来ない。そうライオは気合いを入れ直す。
長剣を片手にそろりそろりと歩を進めるライオ。
その顔にはそれまでの緩みはなく、眼光は鋭く闇の向こうも貫かんばかりだ。
そうして時間をかけて狭い通路を歩くと、彼の眼前に広い空間が現れた。
一段下がったそこはがらんと広く、流れてくる空気も埃臭さが多少マシだ。
ライオはすぐに踏み込まず、カンテラで広間を照らした。
まずは足元から。それから左右、正面の奥を照らす。
何も居ない。
広間の床は平坦で仕掛けらしきものもなく、奥に進もうにも壁で塞がっているように見える。
「どういうことだ……?」
いきなりの行き止まりにライオは混乱した。
一歩踏み出そうとして、ふとカンテラで天井を照らす。
思わず息を飲んだ。
爛々と輝く二つの目が、ライオを真っ直ぐに見ていたからだ。
明かりに眩しそうに目を細めたそれは、一声短く鳴いて地上へと飛び降りる。
広間の中央付近に着地したその姿は、ライオの知識にあるものと同一だ。
こんな時だというのに、スキルだのステータスだのの代わりに知識が与えられているのかと彼は感心した。
「なんだよ、こいつは!」
もしかすると、それは現実逃避であったのかもしれない。
毛むくじゃらのそれは鬼と言った。
額に短い角を生やした猿のような魔物だ。体躯も猿並みで背丈はライオより頭一つも二つも低い。しかしその体つきは筋骨隆々としていて、小柄なれども生物としての脅威を感じさせる。
血走った目に鋭い犬歯、長い腕を持つそいつは奇怪な鳴き声をあげた。
「ボレアティ!」
この鳴き声が名前の由来になる。
そして、これは戦闘開始の合図でもあった。
奴らは決まってこう叫んだ後に襲い掛かってくるのである。
狭い通路で掴み倒されてしまえば一巻の終わりだ。ライオは舌打ちをしながら広間に飛び込んだ。舞台に引きずり出されたのである。
広間の中央から走り寄る鬼に対して、ライオは剣を構えて待ちの姿勢を取る。ただこれは消極的な選択であった。どうしたら良いのか、彼の中で迷いがあったのだ。
殺すのか、殺さないのか。
間近で目にする敵意ある生き物に、ライオは圧倒されていた。命あることに戸惑い、恐れすら抱いていた。
さらには、キャラクターとしてのライオが修めた剣術は対人戦闘を基本としている。街中を想定してのものだったからだ。そして、プレイヤーとしてのライオは竹刀くらいしか振るったことがなかった。
魔物、いや獣の相手をするなど心得がまるでなかったのである。
生殺与奪は等しく握られていた。もしかすると、不慣れな分ライオの札の方が弱いかもしれない。
それでも魔物は容赦なく迫る。
近くまで駆け寄ると、一気に飛び掛かってきた。
そこに合わせて長剣を切り上げるライオ。
咄嗟ながらも動作自体はスムーズで、鉄の輝きは瞬きの内に伸び上がった。
鈍い手応え。
打ち返すようにして鬼を押し退けると、ライオはすぐさま剣を突きつけて間合いを確保する。
「くそが……っ!」
刃筋が立てられていなかった。
長い毛と固い筋肉によって長剣は弾かれ、魔物の右前腕を痛打するに留まっていた。
振り回す速度は及第点に達していた。ライオとしての肉体はきちんと要求に応えていたのだ。それを活かしきれなかったのは偏に技量の不足ゆえ。
それも当然の話だ。
知識としては持っているものでも、経験としている訳ではないのだから。
血肉となって身に付いているはずなどありはしない。
逸る心を押さえつけて、ライオは荒れる呼吸を整える。
知識があるのだから、それを活用して経験へと変えていくのだ。己れに言い聞かせて、恐れる心を叱咤する。
ライオの長剣を警戒する鬼は間合いに踏み込むことを嫌っているようで、遠巻きに探るようにしている。
長剣を油断なく突きつけながら、ライオはまず姿勢を変えることにした。
正面に突き出していた剣を頭上に掲げて、待ちながらも相手へ圧をかける。がら空きの胴を見せて誘いながら、しかし次の瞬間には撃ち下ろされるだろう刃がどれ程のものになるかは想像も出来やしない。それまでの消極的な待ちではなく、攻撃的で積極的な待ちへと変える。
殺気がライオより漏れ出だす。
応戦する、から一つ踏み込んだ"殺す"という純然たる害意。一般人ではおよそ持ち得ないだろうそれをようやく確立したのだ。
魔物もそれを嗅ぎ付けたのだろう。
自然と一歩退いた。そしてそれを信じられないかの如く、鳴き声をあげる。
「ギッ…?」
戸惑う鬼を見て、ライオは薄く笑う。
己れの出来ることが相手に通用している実感は、彼の中にあったわずかな焦りを取り払った。
竹刀を振るったことはある。しかし長剣を振るったことはない。だがそれでも先の一瞬で、ライオは一つ思い至ったことがあった。
鋒を速く鋭く重く遠くへと撃ち当てる。
そうすれば多分、相手は死ぬのだ。
余裕の生まれたライオは知識でもって己れを強化していく。姿勢を正し、握りを正し、ぶれる剣先を揺るぎないものへと変えていく。
一振り目のような無様さは刻々と取り払われ、驚異的なまでに素早く調えられていった。
キャラクターとしての彼が修めた知識や技術が、プレイヤーの彼へと吸収される。緩やかに、だが目覚ましく。
掲げられた剣には目に見えない力が宿っているようだった。寄れば斬る、という圧力が不可視のままに刀身を包むようにして渦巻いている。
そうして、ライオはただ待った。
威圧をしながら、その剣を振り下ろすべき瞬間を。
確信があったのだ。
それはすぐに訪れた。
「……ギイィ!!」
かけられる圧力に堪えかねたのか。
些か弱々しくなった鳴き声とともに、魔物は再びライオへと襲い掛かる。
一度は防がれたものの二度目なら。そんな思考が透けて見えるようだ。
毛皮を頼みにしての突進。さらには分厚い筋肉と頑丈な骨によって、刃を正面から受け止めるつもりなのだ。破れかぶれにも見えたが、鬼は自身の強みを押し付けようとしていた。
鬼が咆哮とともに躍りかかる。
砲弾のように飛び上がった魔物は勢いそのままに天井へと到達した。
天井を蹴り付けて、重力までも利用してライオへと迫る。
その動きを、ライオは正面から捉えていた。
僅かに右足を前へと出し、地面よ砕けよと言わんばかりに強く強く踏み込んだ彼は、ただ無言で長剣を振り下ろした。
気合いを入れることなどなく努めて冷静に。
激情を内に秘めてのそれは、傍目には機械的にすら見えた。
それほどまでに美しく、無機質で、透徹とした一振りだったのだ。
音もなく振り抜かれた刃は地面に触れることなく静止し、残心の後にゆるゆると下ろされた。
「──っ、はぁぁ……」
ライオは大きく息を吐く。
かつてない緊張に、額には汗が浮いていた。
丁寧に剣身を布で拭い、ゆっくりと鞘へと収める。普段以上に慎重な動作は倍以上の時間を要した。彼はそれも必要経費と割り切る。
再び大きく息を吐いたライオは、広間の中央へと歩いていく。
まさか行き止まりということはあるまい。
先へ繋がる何かがあるとすれば、それは端か真ん中がセオリーだ。
まずは近い中央から調べようということであった。
──後に残されたのは死体が一つ。頭頂から股までを両断された、哀れな化け物の成れの果てであった。
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