三話:オープニングシーン(三)
「良かったのか兄貴」
「良くはないが仕方ない。私は出ていくから後は任せた」
ライオの自室。
喧嘩別れに近い形で父との話し合いを打ち切ったライオは、荷物を取りに戻ってきていた。
ワイゼルはそれに付いてきた形だ。
革鎧に具足、鉢金とロングソード。それから細々した雑貨と少しの保存食。いくつか用意できた薬も忘れずに。
それらはライオの貯めていた小遣いから賄われ、商会の倉庫から持ち出してきたものだ。帳面の上では売却した物として処理してある。
身に着けたり、準備してあった背嚢に荷物を押し込むライオ。それを見ながらワイゼルは躊躇いがちにある提案をする。
「なあ、やっぱり止めないか兄貴。今謝れば父上も許してくださるだろう?」
ワイゼルは兄なら出来ると信じていた。自慢の兄なら妹のために灯薔薇を取りに魔窟へ潜っても生還が叶うと。
だが最初から信じられていた訳ではない。不安も心配も消えてはいないのだ。
父に真っ向から否定されてそれが蘇ってきていた。
もしも。
もしも万が一、上手く行かなかったら。
その懸念が脳内を占めて、ワイゼルを苦しめる。彼は弱気になっていた。
ワイゼルの言葉にライオは荷物整理の手を止める。軟膏を机に起き、背後に立つ弟の方へと振り返った。
開かれた口から出てきた言葉は優しい調子であった。
「だろうな」
肯定の言葉。
兄なら強情に言い張ると思っていたワイゼルは、俯いていた視線を上げて兄の顔をまじまじと見る。
父と同じ鳶色の瞳は強い輝きを宿してワイゼルを見返す。
ライオは弟の翡翠色の瞳を見つめて諭すように話す。
「父上は正しい。利を取るなら父上に従うべきだ。商会を守るためには動かないことも必要だからな」
「……だが兄貴はそうしようとしていない」
「そうだ。商会を守るためではなくエイミーを救うためだからな」
非情な判断も必要だとライオは語る。
そのために父が苦しんで判断を下したことも理解している。ただそれが飲み込めなかっただけの話。彼の勝手な心の話。
「父上は正しい。だが正しいだけだ。私はそれに納得が出来ない。従えないからには家を出る他ないだろう」
「それは、……飛躍していないか」
ライオは首を横に振る。お前は甘いと苦笑を浮かべて。
「私は父上の判断に異を唱えたんだ。ここでなあなあに済ませれば、後には必ずしこりが出来る。己れを貫くとは、まあなんだ、そういうことだよ」
意見を押し通すというのは時にこうした別離を生む。ライオは悲しげに己れの両手を見た。
剣だこのあるゴツゴツとした掌は、父から受けた愛の証。ライオの才能に為された投資のあとだ。
それを父から離れる理由としてしまったことにはわずかな後悔があった。
しかし弟に悟られるよりも前にライオは目線を戻し、荷を詰め終えた背嚢の口を閉じる。
荷を担いだ青年は一端の冒険者へと様変わりしていた。
とは言えその姿もまだ甘い。所々に新米である証が残っている。
例えば、磨き抜かれた革鎧。その表面の艶やかさたるや美事の一言であるものの、傷一つない様子からは新品であることが窺えた。
例えば、腰に提げたロングソード。こちらも使用の後が見られない。
よくよく見やれば冒険者志望と言うところか。それでも舐めてかかる者はそう居ないだろう。それくらいにはライオの格好は決まっていた。
ただ、ワイゼルはライオの格好を褒めなかった。
心のどこかで兄の決断を応援しきれていないがために。
ライオの自室を出た二人は、商会を出ようと廊下を歩く。
これも見納めかと感慨に耽るライオと帰る場所を守らねばと燃えるワイゼル。
言葉はなくとも通じ合えていると信じた兄弟は、しかし微妙にずれた思いを抱いて床板を踏む。
「待ちなさい」
そこに背後から声がかかった。
馴染み深い声に僅かに硬直したライオは、ゆっくりと振り返る。ワイゼルはそれを感じ取りながら、そっと兄から距離をとる。
声の主は母だった。
兄弟たちの母であるメリンダは、普段と変わらず化粧っ気のない様子で、シャツにズボンに前掛けとこれまた普段通りに商会の手伝いをしていたようであった。がっしりした体つきの彼女は、まさに女将さん、あるいは肝っ玉母さんという具合で、幼少期から過ぎた振る舞いを咎めてライオの頭に拳骨を落としたものだ。
叱られた様々記憶が脳裏を過り、ライオは唇を真一文字に結ぶがその場から退くことだけはしない。
メリンダはライオたち三人を産みながら並行して商会の事務も片付けていた猛者だ。
彼女なくしてはミュエル商会なし、と会頭であるハワード以上に従業員からの信頼を集めている女傑は、その猛禽のような目で息子を真正面から見据えていた。
「ライオ。申し開きはあるかしら?」
「ございません、母上」
つかつかと歩み寄って来た母に、ライオは胸を張って答える。これから己れの為そうということに弁明の余地は一切ない。そう覚悟を決めている。
恥じることなく詫びることもなく、母の視線に彼は真っ向から対峙する。
その背を見ながらワイゼルは戦いていた。
まさかこの兄のような姿勢を自分にも求められるのではないか。不安に答えてくれる者は当然ながらいなかった。
「……そう」
二人の息子たちの予想に反して、メリンダは深く追及をしなかった。ただ、少しだけその目に残念そうな色を浮かべて小さく頷いた。
小柄な母がいつも以上に小さく見えたことにライオは驚く。
あっさりとした反応にワイゼルはつい口を挟んだ。よろしいのですか、と。
「──ワイゼル、兄の背に隠れておきながら余計な言を差し挟むのは感心しません。改めるように。それに……」
「それに?」
「私の息子たちが妹を見捨てないことは知っていましたから」
母の朗らかな笑みにライオもつられて笑みを浮かべる。暖かな、向日葵のような慈愛を感じさせる笑顔。
どうしてか直視に堪えず、ワイゼルは兄に隠れるようにして母から視線を外したのだった。
ライオはそんな弟の様子にまるで気付くことなく、母に宣言する。
「必ずやエイミーを助けて見せましょう」
「期待していますよ、ライオ」
ライオの脇を通りすぎたメリンダはそのまま自室へと入っていった。
見送りながらワイゼルが言う。
「止められなかったな、兄貴」
母は止めるものだと思っていた。それがワイゼルの偽らざる本音だ。同時に、母に止められたならば兄は従うだろうとも考えていた。
そのどちらもが的外れ。
母も兄もワイゼルの思考から遠く離れたところで覚悟を固めていた。それがどうにも眩しく、羨ましく感じられた。
ライオは弟を振り返らない。志は同じであると信じているから。
母の言葉に背を押され、彼は前へと進むのみ。
もう誰かに遮られることもなく、ライオはミュエル商会の建物から外に出る。
いよいよ魔窟へ潜るのだ。目標は最奥、ウォレステスの灯薔薇。
暗闇で輝く血のように赤い薔薇は、魔力が特別濃い場所でのみ育つことが出来る。ユレンメンで最も魔力が濃いのは"歪み"である魔窟『塔』である。
そこに自生していることを、ライオは過去の記録から確認をしていた。エイミーの病が明らかになった後、荷物の準備だけでなく知識の収集も行ったのだ。さらに、ある程度の事情通なら知っているようで、酒場で奢った冒険者たちの大半はしたり顔でライオに語った。
知らぬ場所へ踏み入ることに、ライオは僅かだが恐怖すら覚えている。
冒険者とは縁遠い生活を送り、彼らを伝聞でしか知らなかったからだ。酒場でした話など、ものの経験には入らないだろう。
魔窟で己れの腕が通用するかは、それこそ試してみなければ分からないのである。
死んでしまうかもしれない。いや、かもしれないどころの話ではない。ライオの目指す最奥となれば、熟練であっても容易に近寄れないと聞く。
──死ぬのが怖くないと嘯くつもりはなかった。
ライオは死にたくない。
武芸の腕前を磨いたものの、それらはもて余すだけだと考えていたし、それで良いと思っていた。精々、いずれ道場でも構えられたらと夢想するくらいのものだ。
魔窟で剣を振るうことなど想像もしていなかった。
──ただ、それ以上に失うことが怖い。
妹の死期が迫っていると医師から聞かされたライオは、それまでの大して長くない人生で一番強く恐怖した。
額を割って出血が治まらなかった時よりも、登った木から落下した時よりも、道場で弟を気絶させた時よりも、行商人との取引で大損こいた時よりも。
血の気が引くとは正にこのこと。
ライオは世界から色が消えたかとすら思った。
冬の夜中のように周りから音がすうっと消えて、そのくせ医師の言葉だけが耳を通って心に刺さる。自分が代わってやれたなら。兄としてそう考えずにはいられなかった。
しかし代わってやることなど出来やしないのだから、ライオは己れに出来ることをするのだ。
彼の眉間には自然と皺が寄っていた。朗らかな笑みを浮かべる口は真っ直ぐに引き絞られ、目には剣呑な光が宿る。
本人は気付いていなかったが、往来では人々に道を譲られて遠巻きにされていた。
思い詰めたかのような彼は近寄りがたくあったのだ。
たどり着いた木製のスイングドアの前で一瞬立ち止まると、ライオはぐっと力強くそれを押し開いた。
そうして彼は冒険者の世界へと踏み込んだのである。
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