二十五話:『隧道』(四)
震える石棺からどろりとした液体が溢れ出す。
蓋の隙間から零れ、側面を垂れて落ちて床に溜まる。
やがて、石棺の蓋がおもむろに立ち上がり、中から何かが身体を起こす。
魔術の照明に照らされて姿を現したそれは、赤子のようにも病人のようにも見えた。
頭がやけに大きく、ひょろりと細い身体に膨れた下腹。まばらに生えた髪は縮れていて、眼窩には黄ばんだ目が収まっている。猿のように長い腕に毛はなく、鳥のように骨と皮ばかりの足はガサガサに肌荒れしていた。
"餓鬼"。
そんな言葉がライオの頭に浮かぶ。
石棺から出てきたあれは正しく餓鬼そのもの。
狼狽えて見ていることしか出来ないライオとシェズを気にもせず、子どもの背丈ほどの餓鬼が石棺周りに溜まった液体を必死になって嘗め取っている。
「んー、不出来ですねえ。無様ですねえ。まあ残滓ではこの程度が関の山でしょうか」
神父はその姿を見て不満げだ。
人のなり損ない。いや、なり損なった人でなし。
餓鬼とは六道の餓鬼道に落ちた亡者を指す。
仏教思想である輪廻転生の一形態であり、大半が飢えと渇きに苦しむことを定められた者だ。中には膿や血のような穢れたものしか食すことの出来ない餓鬼もいる。
あれもそのようなものだろう。ライオはそう得心する。
十四人も捧げた果てに生まれ出たのがあの様とは、確かに不満を持ちはするだろう、と。
決して油断していた訳ではない。
気を抜いてなどいなかったとライオはそう主張するだろう。
視線を逸らすことなどしなかったし、魔剣は既に抜き放っていつでも振るえるようにしていた。
──それでも、表現をするなら油断としか述べようがない。
餓鬼の弱々しい外見に、惑わされていたと評する他にあるまい。
神父が手を打ち鳴らした瞬間。
餓鬼の様子が豹変した。
必死になって嘗めていた液体から顔を上げ、落ち窪んだ眼窩で爛々と光る眼球をライオたちに向ける。
刹那、餓鬼はライオの腹にその爪を突き立てていた。
「……何だと!?」
ずぶずぶと掻き回され、血液が止めどなく溢れ出す。
反射的に振るわれた魔剣は空を切り、餓鬼は石棺まで飛び退っていた。
がくんと膝の力が抜けて、ライオはその場に崩れ落ちる。
倒れまではしないように懸命に身体を支えるが、流れる血がその力を奪い去っていく。
「ゲゲゲッ!!!」
餓鬼は嬉しそうに鳴きながら、爪に付着したライオの血を嘗める。
シェズがライオに魔法薬を飲ませる。だが瞬時に回復とはいかない。
ライオの顔色は真っ青だ。呼吸も荒くなり、喘鳴が混じる。
瀕死の重傷に魔剣を隠すことなど出来はしない。彼はたまらずヴァハールの名前を呼び、戦意高揚のバフを自身へかける。
痛みが誤魔化され、底をついたはずの生命力が無理矢理に賦活される。
だが所詮、これは一時凌ぎに過ぎない。
震える脚に力を込めて立ち上がったライオを、神父は興味深そうに見つめていた。餓鬼をけしかけるのも止めて、目を丸くしている。
「なるほど。……見覚えがあると思えば、それはヴァハールですか」
ライオはその言葉に反応しない。
その体力すら惜しいからだが、神父はそれを敢えて無視しているものだと判断した。その口は止まらずにかつての思い出を語る。
「戦争の魔剣。大層な名前ですが、その剣に出来るのは敵味方問わない戦意の高揚だけ。我らはそれを携えた騎士ケルゲンを歓迎こそしましたが……大して期待はしておりませんでしたよ」
その判断に間違いはなかったようですね。神父はそう口にした。
ケルゲンは死に、魔剣は他者の手へと渡った。
彼がどのような死に様を迎えたか神父は知らないが、それもろくなものではないだろう。
「その魔剣の誇れるところは精々が古さくらいでしょうに。なんとも粗悪なものを掴まされましたね、星の祈り手よ」
シェズの目が魔剣へと向く。
かの魔剣は黙り込んだままだ。ライオの手の中で、ただの剣であろうとしている。
シェズもおかしいとは思っていたのだ。
ライオの突然鞘を叩く妙な癖。あれの直前は決まって剣から魔力の投射があった。近くで見ていなければ分からないような微弱なものだが、シェズはそれを見逃さず、しかしどのような意味があるのか分からずに困惑していた。
さらに言えば、ライオの振る舞いもそうだ。
彼は剣士であり戦士だと言うのに、やけに感覚が鋭敏だった。それが魔剣のお陰だとしたら?
戦意高揚とやらが能力の底上げに繋がるとしたら、優れた知覚力にも納得がいく。
それに今も。神父が反応したと言うことは魔剣の力を行使しているのだろう。でなければ立ち上がることなど出来はしない。
ただ、彼女が"魔剣"という言葉から受ける印象からするといささかインパクトに欠けると言うか、ライオの魔剣はしょっぱい能力に思える。
本当にそれが全力なのかと疑ってしまう。
シェズの動きが止まったのを、ライオも感じたのだろう。
ぽん、とシェズの肩に手が置かれた。
彼は一言「済まない」とだけ言うと、一歩前へと出る。
「……言いたいことは、それだけか?」
「なんです?」
「言いたいことはそれだけかと聞いたんだよ」
ライオの声は力なく、しかし芯がしっかりと通っている。弱っていながら、それでも折れないことがその場の誰にも分かった。
神父の顔つきが険しくなる。
反対にライオはへらりと笑って見せた。
「ヴァハール。あのスカした面をぶっ潰すぞ」
『……良いのか? この剣はあの男の言う通りのものだぞ』
「何だよ、弱気になってる場合か? 手前の手前たる部分に喧嘩売られたんだぞ。黙っちまったら敗けだろうが──」
──戦争だ。
己れを懸けた闘争なれば、それは魔剣の領分だろう。
ライオはそう言った。
シェズはその背中を見つめている。
神父もまたライオを見ていた。こちらは忌々しげに、面白くなさそうに。
「片付けなさい」
「ギャギャッ!」
餓鬼は神父の言葉に従い、ライオへと襲いかかる。
石棺から一飛びだ。その瞬発力は凄まじく、ライオの目では捉えきれない。
集中力を高めた上に魔剣の魔力で身体機能のブーストまで行っているのにだ。
十四人もの肉体を一纏めにしただけのことはある。
だが、捉えきれはしないものの"知覚出来ない訳ではない"。
「ギィッ!?」
餓鬼が横へ跳んで逃れた。
その怯える目に映るのは、振り抜かれた魔剣。
数瞬遅れて、餓鬼の額がばっくりと割けた。
響く絶叫。
神父は信じられないものを見たような、驚きの表情を浮かべている。
怒りに吠えた餓鬼が再度の突撃を敢行。ライオの振るった斬撃が掠めて、また距離を取る。
それをさらに繰り返した。
餓鬼が戸惑いを露にする。
あれは自分よりも遅いのに、どうして先に届くのか。そう問いたげに神父を見た。
一方、ライオの顔は喜悦に歪んでいた。
攻撃が当たったから、ではない。
抱いていた違和感が、隠していた疑念が、目を背けていた不信感が。氷のように解けてなくなったからである。
"戦争の魔剣"と大仰な看板を掲げるヴァハールが、やけに使いにくいことに彼もスッキリしないものを抱えていた。
それがゲーム的な調整によるものだと思おうとしていた。が、それでもどこかで何かおかしいと感じることは止められなかった。
今なら分かる。それはライオが"戦争の魔剣"という名前に踊らされていただけのことなのだ。
「──まさかあなた、見ていないのですか……?」
神父の驚きの声。
そう。ライオは目を瞑っている。
目では捉えきれない。ならば、目以外に頼るだけのこと。
「相棒が教えてくれるからな」
ライオでは餓鬼を見切れない。だがヴァハールなら別だ。
魔剣であるヴァハールは普段から視覚ではない方法で周囲を察知している。
微弱な高周波による反響定位。音を発し、反射して返ってきた時のズレや乱れで周囲を知覚するイルカやコウモリと同種の技法だ。
餓鬼とて今は肉の体を持つ身。反応が出来ないほどに瞬発力に優れようが、音波をすり抜ける真似は出来ない。
ヴァハールが視て、ライオが動く。
二人羽織の究極形だ。
「そんな真似を、出来るはずがない……」
「出来るとも」
ライオの疑念は払拭されている。
必要なのは信頼だったのだ。
反響定位の活用。それより前の魔力による身体機能のブーストもそうだ。
ヴァハールは段階的に機能を開放していく。
それがどんな制限によるものなのか。ライオはなんとなくだが理解していた。いや、理解していると自ら決めた。
反響定位でも分かるようにヴァハールは敵味方の識別をしている。した上で、戦意の高揚を区別なく振り撒いている。それはきっと"戦争の魔剣"だからではなく、ヴァハール自身の意思によるものだ。
それによってライオは疑いを持っていた。敵に利していると内心で責めていた。
ただ、それは止めようとして止められるものではないのだろう。
ヴァハールという魔剣は、戦争の輝かしい部分への憧れなのだ。英雄譚に夢を見る子どもとなんら変わりない。
正義を信じ、悪徳を憎み、多数を相手取って屈しないどころか勝ちをも奪う。そんな担い手を求めている。
だからヴァハールは公平に力を与える。
持ち主に苦難を越える、輝かしい英傑としての在り方を望んで。
今、ライオがヴァハールから多数の助力を引き出せているのも、餓鬼の生まれによる相手の悪辣と戦力の均衡が大きく傾いていることによるだろう。
それでいいとライオは笑った。
その方が良いとヴァハールに語りかけた。
「勝つぞ──」
短い言葉がヴァハールの心を燃やす。
戦意を高めるはずの魔剣は、逆に力を貰うことになった。
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