二話:オープニングシーン(二)
「ならんならん!」
張り上げた声がライオの耳朶を打った。
よく通る声の主はハワードという名前で、ミュエル商会の長である。ライオの父だ。
ふくよかな腹を備え、赤褐色の髪を撫で付けた血色の良い男である。平時はにこやかな瞳が鋭い光を宿し、怒りのあまり紅潮した顔面は鬼のようであった。
ミュエル商会はここユレンメン有数の商会で、代官にも口利きが出来るような地域に根差した地元の名士だ。
古くは騎士の家系であり、領主よりも前からユレンメンに居を構えていることを誇りに思っている。
そのミュエル商会の長は、息子のとある提案、という形をとった決別に異を唱えた。
商会を受け継ぎ、ミュエルの名を絶やしてはならない。そう信じていたというのに、それとは反する申し出であったのだ。
──冒険者になる。
長子であり跡継ぎであるライオの絶縁宣言にも近い申し出は、ハワードの心臓を止めかねないほどに驚きをもたらした。
何せあり得ないと言って良いものであるのだから。
ミュエル商会は安定した商売を続けており、経営は順調そのもの。借入金などもなく、むしろ貸付に回っている。領を跨ぐ仕入れの契約だって何本も抱えており、ユレンメンでは他の追随を許さない状況だ。
その商会長など望んでなれるものではない。だと言うのに拒絶したライオは我が儘で済ますには度を越した振る舞いである。
「お前が継がずに誰がこの商会を率いると言うのだ!」
「ワイゼルが居るだろう、父上」
弟の名前を挙げられてもハワードは激したままだ。
長子相続が基本であり、伝統でもある。連綿と続いて来た系譜を己れの代で絶やすのは憚られるのだ。また、ハワードから見てライオを家から出す必要性は感じられていなかった。
頑として首を縦に振らないハワードにライオは説得を試みる。
「ワイゼルは私よりも店員たちからの信頼が篤い。動かし方も心得ている。あいつに任せた方が上手く行くはずだ」
「それはお前がこれから学び積み上げていけば良い部分の話だろうが」
「番頭も主計も賛同している。ワイゼルが継いでも変わらず商会を盛り立てていくと約束した」
「そんなものは当然だ! しかしそれは万が一の話、わざわざ継がせてまで実行する必要はない!」
埒が明かない。ライオは顔をしかめる。頑迷な父に呆れすら抱いていた。
だがそれはハワードも同じ。愚かな息子だと心の底から嘆いて見せる。
「エイミーが死んでも良いのかよ!」
「良いわけがあるものか!」
睨み合う両者。
愛する妹を救いたい兄と、愛娘と商会とを天秤にかけた父。互いに互いの思いを理解しながら、しかし受け入れることは出来ずに視線が火花を散らす。
エイミーの病を知った時、当然ハワードは治療を考えた。伝手を辿って薬の入手をできないかと話を進め、譲ってくれる貴族家を探し出すところまではしたのだ。
しかし道はそこで途切れてしまった。
貴族家から提示された対価はミュエル商会でギリギリ用意が出来る範囲のもの。
用意すれば商会としては立ち行かなくなるほどのもの。
金銭ではなく、利権。
ユレンメンでの商会としての立場。
そう、治療薬に手は届きかけたのだ。届きそうなところまでは行けていた。だが届かなかった。
ハワードは足元を見られてしまったのである。
そうして彼は諦めた。
娘は救えぬと、代わりに商会を守るのだと。
決意を固めたのである。
ライオがミュエル商会を離れることは、ハワードにとって決意が早々に打ち砕かれることを意味する。認めるわけにはいかなかった。
「しかし父上、兄貴なら灯薔薇を持ち帰るのも不可能ではないのでは」
停滞した話し合いに口を挟む者がいた。ワイゼルだ。
兄に与した弟は、父の説得にかかる。
「兄貴は私と違って剣の才能がある。大枚はたいて冒険者を雇うよりも可能性があると思うのだが」
弟として彼も最初は反対していた。兄の暴走を止めねばと考えた。
当然だ。自殺としか思えない。
幾分か冷静な弟は、妹にそこまでの価値を見出せていなかった。
エイミーの具合を考えれば猶予はほとんどない。一月足らずで魔窟を踏破する必要がある。
ユレンメンの魔窟は稼ぎになりにくく人気がない。立地も悪く、近くの街へと冒険者が流れていってしまっている。
それを踏まえても、もう十年ほど踏破されていない魔窟を時間制限付きで制覇するなど、無茶を通り越して無謀と評する他ないことだ。期限は焦りを生み、焦りは失敗を生む。崖の端でダンスするようなものだ。近い内に命を落とすことが確実に想起できる。
ライオの意思の固さに折れたのはワイゼルだった。
家督を譲るとまで言われた時、兄の本気に恐れすら抱いた。いくら妹とは言え命どころか将来まで擲つとは。ワイゼルには真似できないことだ。
真似が出来ないからこそ、憧れた。覚悟を決めた兄がこの上なく格好良いものに見えた。それを支えることこそが己れに出来る最良の選択肢だと信じた。
引きずられるようにして、ワイゼルも賭けに出ることを選んだ訳である。
しかしハワードは意見を曲げない。
そんなものはまやかしだと。憧れは目を曇らせるだけだと。兄を思うなら止めるべきだと。過ちを正さないのは信頼ではないと。
ハワードは愚かな息子たちに怒り心頭だ。
「ですが父上!」
「黙れぇい!」
ワイゼルの訴えもハワードは聞く耳を持たない。
怒鳴り付ける父に次男は口をつぐむ。こうも激昂する父を初めて見た。
兄といい父といい、見たことのない姿を立て続けに露にされて、ワイゼルは戸惑い疲れてしまっていた。
ライオは止まらない。
憤怒に顔を染めたハワードを説得することは叶わないと見るや、席を立つ。
話は終わりだと言わんばかりの彼の態度は、言葉で分かり合えないという白旗でもある。同時に決別でもあった。
「待て! どこへ行く!」
そのまま部屋を出ていこうとするライオをハワードは制止する。
彼は諦めていなかった。
正しい道に子を導こうと、どうにか言葉を尽くして意見を翻させようと考えていたのだ。父として息子を愛しているが故に。
商会の存続も叶えたいことではあるが、それ以上に子どもを失いたくない。ハワードの思いはそれに尽きた。
エイミーのことだって救いたいのだ。そのために頭を下げて伝手を頼り、いくらかの私財を投じて情報を集めた。ユレンメン外への支店進出という夢も捨てて金を集め、領主に嫌な顔をされながら貴族の紹介をして貰った。
それでも駄目だったのだ。父祖を裏切ることは出来ない。断腸の思いでハワードは薬を諦めた。
エイミーの死を受け入れたのである。
このようやっと受け入れた事柄に、息子が命を賭けると言い出したのだ。彼の心中は荒れに荒れていた。
娘に続いて息子までも失うことになれば、ハワードは堪えられる自信がなかった。
椅子から腰を浮かして半ば縋るようにライオを引き止めるも、ハワードの言葉を無視して息子は部屋を出て行った。後を追うように退室するワイゼル。一人残されたハワードは深く息を吐きながら、椅子に埋もれるように凭れ掛かった。
己れの無力さを呪いながらポツリと呟く。
「剣など……」
がらんとした部屋に空しく響く。
「……剣など教えるべきでなかった」
力があると錯覚したから、ライオは無謀な真似をする。
力があると夢を見たから、ワイゼルはそれを応援する。
息子二人に道を誤らせたのはハワード自身の判断で。
父祖のように強く在れと願ったのはハワードだ。
身体を丸め、頭を抱える。
懊悩するハワードを慰める者は誰も居ない。
家族が散り散りになる。
悲惨な行く末を予見して、彼は一筋の涙を溢した。
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