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十三話:『塔』(八)


 入り口近くの分岐点での襲撃から、更に二度ボレアティの群れに襲われたライオはその全てを骸に変えて、『塔』の奥にまでやってきていた。

 ここまで階段らしきものは見当たらず。どのようにして上階へ昇れば良いのか、考え込みながら彼が辿り着いたのがここ中心部である。

 開けた空間は吹き抜けのようになっており、渦を巻く魔力は本来不可視のはずでありながらその濃密さゆえに滝のようになって見えた。


 明らかに尋常な様子でない。いや、そもそもこの場所で尋常云々がナンセンスであるのだが、それを抜きにしても異質であった。


 やけに高揚するのだ。身体が軽く、気持ちが盛り上がり、そしてどうしてか叫び出したくなる。

 ライオはそこで自覚した。

 これは魔物どもの変容と同じであると。

 それは当たっており、塔の中に踏み入ってから感じていた浮遊感もこれに端を発したものであった。

 身体が実際に軽くなっていた訳ではない。ライオの気持ちが、心が安定を欠いていたのである。




 吹き抜けに近寄ることを躊躇うライオの前に、遮るように一体の魔物が姿を現す。

 より大柄で、より毛むくじゃらで、より筋肉質で、より理性的なそいつは、基部で出会した統率個体と似ているように見受けられた。

 じゃらりと首から鎖を垂らしている魔物は、しかし誰かに飼われていた訳ではないようで、どうやらそれは装飾品であるようだった。

 装飾品で身を飾っていることからも、熱に浮かされていないのは明らかだ。


 しばし両者見つめ合うだけの時が流れる。


 ライオは戸惑っていた。

 それまでの鬼の様子から考えて、狂を発したものばかりが奥に居るのだと考えていたからだ。彼自身の感覚にまで影響を与える魔力の奔流を目にしたことで、その考えはより強固なものとなった。だと言うのに、早々に予想を打ち砕く冷静な魔物との遭遇。

 考えなしに襲ってこない時点で、相対した奴が冷静さを保っていることは間違いないことで、その事実がライオに強い警戒心を抱かせた。



 先に動いたのは魔物であった。

 吹き抜けに近付けまいとするかのように、両腕を広げてライオの方へと駆け出したのだ。入り口の方へ追いやる動きに、ライオはしかし正面から向かい合う。

 彼が一歩踏み込んだ瞬間、魔物は後ろへと跳ねた。

 間合いの外へ。

 届かぬ刃は振るわれず、ライオはただ剣を突きつけるのみに留める。


「長期戦がお望みかよ」


 二度三度と同じやり取りを繰り返し、その度に魔物は間合いを外した。ライオは剣を振るうことなく、じりじりと互いの集中力を削り合う。

 圧をかけ合う根競べ。

 沸き立つ熱に炙られながら、ライオと鬼は己れを律する。

 隙を窺い、間合いを計り、あの手この手で相手の心を殺ぐのだ。


 まるで人を相手にしているかのようだと、ライオは感じていた。空気感と言おうか、雰囲気と言おうか。読み合いが成立し、駆け引きが交わされる心理戦が、対人戦(ゲームの中)を思い起こさせた。そう言った趣があるのだ。

 仮想現実にある現実的な要素のはずが、どこまで行ってもここが仮想でしかないことを知らしめてくる。

 実に結構なことじゃないか。ライオは薄く笑みをこぼした。


「ふ……」


 ライオの口元からわずかに息が漏れた瞬間。

 魔物は素早く、そして低く姿勢を変えると、猛然と突進した。床を砕くほどの踏み込みによるショルダーチャージ。音を置き去りにするかのごとき、破壊の砲弾と化した魔物がライオを叩き潰さんと迫る。

 ライオはそれに瞬時に反応した。

 受け流しの一太刀。肩に合わせながら刃を滑らせ首を穿つ。殺せはしまい。だが、確実な消耗となる。


 互いに誤算があった。

 ライオは己れの剣が決定打になり得ると思っていた。しかし、毛皮に阻まれ、浅く斬るに留まってしまう。それにはもう一つ理由がある。魔物の突進は見せ札。本命は横に跳んでからの右腕の一撃だ。威力が逃されてしまったライオの剣は、わずかに皮を抉るだけに終わってしまった。


 鬼は自身の勝利を確信した。

 肉は浅く裂いた刃は後方へと振り抜かれ、爪の一撃が眼前の人間に届く方がはるかに早い。

 鋭く長い鉤爪がライオの胸元へと迫る。



 ──だが、誤算は互いにあったのだ。



 引き戻しの刃。返しの一刀。

 それが間に合わぬのであれば、あるいは鬼の勝ちも有り得たことだろう。


 ライオの学び修めた技術は、二太刀目にこそ重きをおいている。

 その真価は初撃を凌がれた時にこそ輝くもので。

 それは即ち、今であった。


 走り抜けたはずの銀光が視界から失せない。鬼がそのことに思い至った時には既に手遅れ。

 離れていくはずだった刃が首筋に当てられ、さらには毛皮を押し込み斬り込んでくる。鬼は恐怖した。頸骨が軋みを上げる。恐れ戦き、はね除けようとした。

 ああ、それは間違いだった。逃げるべきだったのだ。何をおいても。勝機が見えていたからこそ、それを捨てて命を守る判断が必要だった。


 ライオの剣は魔物を撫で切りに出来るほどの鋭さを持たない。元が元だ。町の商家で用意できる程度の長剣に、逸品ものの切れ味を期待など出来まい。また、ここまでの戦いで刃毀れもしていた。いくらなんでも技量で誤魔化せる範囲からは外れている。

 故に、肉に食い込ませることが精々。……そのはずだった。


「オォッ……!」


 骨にまで達していた一刀が、気合いとともに振り抜かれる。ガリリ、と何かを噛ませたような音がした。それでも綺麗に弧を描いた白刃は、鬼の首を中ほどまで断って見せた。

 水道管が破裂したかのように噴き出す鮮血。辺りに撒き散らされて、床のみならず天井までが深紅に染まる。一瞬で鉄臭い匂いが充満した。

 よたよたと鬼は数歩足を進めると、ライオの後ろでどたりと倒れた。もう起き上がることはない。


 荒い息を吐きながら、ライオは手にした剣を見る。

 その刃は大きく欠けてしまっていた。

 頸骨は太い。それに硬くて頑丈だ。無理に斬り込んだ代償を支払った形である。

 同じ真似はもう出来ないだろう。今度は剣が負けてしまう。


 そこでライオは思わず膝を着いてしまった。

 突き出した剣は見せ札で、本命は斬撃の二太刀目であったとは言え、いささか無茶が祟ったようだ。

 いや、それだけではない。

 彼は自身が思っていた以上に疲労していたのだ。『塔』の前で休んだものの、それ以外は常に気を張り続けている。

 さらには今の戦闘だ。一つ違えば骸を晒していたのはライオである。無傷と言えば聞こえは良いが、怪我を負わされれば勝つのは難しい相手であった。大いに集中力を使わされ、気力の消耗は著しい。



 血溜まりの中から立ち上がると、ライオはゆっくりと吹き抜けの方へと移動を始めた。

 抜き身の剣をしまうことすら厭うて、彼は先へ進むことを選んだわけだ。

 返り血を拭うことさえせずに滴らせたまま、魔力の奔流の前に立つ。


 ごうんごうん、と唸る魔力。

 静かに立つことでライオははっきりと感じ取れた。


「……何か混ざってるのか」


 墨を垂らした水のように。あるいは暖気と冷気のように。近しいが相容れないものが入り込んでいる。

 それはこの上から。魔力の集まる歪みの方から、流れに乗ってやって来ている。

 目指すべきはそこだと彼は直感した。

 何かは魔窟の最奥に陣取っている。ウォレステスの灯薔薇があるとしたら、そこをおいて他にあるまい。


 ──では、どのようにして向かうのか。


 ライオはごくりと唾を呑んだ。

 吹き抜けを見上げれば、虚空に繋がるように果てなど無いように見える。

 見下ろしてみると、滝のごとき魔力が泡立ち弾け風を巻き起こしている。


 一番早いだろう方法は既に検討がついている。

 ライオは再び唾を呑むと、頭を振るってから良しと小さく呟いた。


 吹き抜けを囲う欄干に手を掛け、彼はその上へと身体を持ち上げた。

 魔力の飛沫が頬を叩く。

 ライオには勝算があった。

 この魔窟において、上へ昇るということは下へ落ちることになる。逆もまた然り。そう伝えられたし、それは実体験もしていることだ。

 それがここに来て通用しなくなるとは思えなかった。


 ならばこの吹き抜けは上階への直通ルートとなるのではないか。


 いくらか勘頼りな推測になるが、ライオは自信を持って欄干の上に立つ。

 魔力の奔流はその余波だけで、彼の身体を後ろへ飛ばしてしまいそうだ。

 あったはずの自信がぐらつきそうになる。

 それを感じたライオは、覚悟を決めてその身を吹き抜けへと躍らせた。





 ──直後、吹き抜けの向こうに通路が見えて……。

 ライオの意識は闇に飲まれることとなる。








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