十話:見舞い
「……兄、さん……?」
めっきり弱った妹の姿に、さしものライオとて言葉が出なかった。あるいは、プレイヤーであるからこそ、この惨状に言葉がないのかもしれない。
ライオの元に使いが訪れたのは日もとっぷりと暮れた頃のことだ。
実家からの、弟のワイゼルの使いだった。
どうやってかライオが宿をとったことを知ったのは良い。さして大きくもない町だ。少し聞き込みをすればすぐに見つけられるだろう。
問題はその使いが届けた話だ。
慌てた様子でまくし立てる小男を落ち着かせて聞き出すと、妹の容態が悪化したと言う。
「──エイミー様は昼間に食事を戻されたそうでそれからずっと『寒い寒い』と震えているとか。身体は冷えきっていて顔色も真っ青になってしまったとワイゼル様が」
「どうしてこんな急に」
あと一月は持つだろうという医者の予測はどうなったのか。
それに答えられる者はここに居ない。
ライオは呻く。まさかこのようなことになるとは、と。
彼の冷静な部分が告げていた。これはクエストの期限が早まったのだと。ただ難易度を上げただけなのか、そもそもクリアさせる気がないのかは分からないがそこは置いておく。
きっと、これのきっかけはライオだ。
一度の探索で『塔』の基部を踏破したために、テコ入れが入ってしまったに違いない。
「すぐにでも採ってこないとな……」
「お待ちください! せめて、せめてエイミー様に一目会っていただきたく!」
小男がライオにすがり付く。
それを振り解いて実家に先触れを出させることにした。エイミーに会う算段をつけさせるためだ。使いを出したということはワイゼルが準備している可能性が高いものの、念を入れての事である。
一瞬、家を出たその日のうちに戻ってくるとあれば格好つかないとライオの頭を考えが過る。だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
急ぎエイミーの様子を確認して、そのまま魔窟へ再突入する。
忙しないがそうする他あるまいと判断したライオは、手早く荷物をまとめ宿を出た。
──そうしてライオは実家に戻り、エイミーの寝る部屋を訪れたわけである。
エイミーを優先してか、揉めることなどなくライオはすんなりと通された。
ベッドに横たわる妹の息は荒く、額には脂汗が滲んでいる。しかし血の巡りが悪いのだろう。顔面は蝋人形のように蒼白で、唇はかさかさに乾燥していた。
そして部屋に漂う肉の腐ったような臭い。
少女の部屋に似つかわしくないそれは、背筋を粟立たせるような嫌な気配が混ぜ込まれている。
一目見てライオは察した。
エイミーの死期が近い。
「……兄、さん……?」
弱々しい呼び掛けに答えることは出来なかった。
この妹を置いて出ていく判断をしたと言うのか。そんな怒りがライオの胸の奥に沸き上がる。
それはプレイヤーではなくキャラクターのライオに向けての怒り。ただ同時に、その心情を理解することも出来た。恐らく、見ていられなかったのだろう。
震える瞼をようやく持ち上げて、ライオに視線を向けるエイミー。しかしその目は焦点が定まっておらず、瞳が揺れている。
濁った白色の眼球はもう物を映す機能を喪っていた。それでも彼女は気配の方へと視線をやる。
「……来て、くれたんですね」
わずかな単語ですら苦しそうに発するエイミーから、ライオは視線を逸らさない。焼き付けるようにその姿を脳へと刻む。
エイミーは快活な少女であった。
兄とは違い明るい赤毛を腰まで伸ばし、家の手伝いをよくする近所でも評判の子。計算が得意で綺麗な字を書く妹は、兄たちを慕っていた。
少し太めの眉を八の字にしてそばかすの散った顔を笑みで満たして、挨拶のよく出来る子だった。
兄たちに似ずよく笑う子で、父母の良いところばかりを受け継いだ妹。小柄で細身の身体は今ではやつれて骨と皮ばかりになってしまっている。伸ばしていた髪も手入れが出来ないからと短く切られてしまい、もちもちとしていた肌は荒れてガサガサだ。
その痛々しい姿は思わず目を逸らしたくなるものだが、ライオはしかしエイミーを正面から見据えることを止めなかった。
記憶にある、──もちろん前情報としての、設定としての話になる──、エイミーとは大きく異なるその姿。愛すべき妹はライオが家を出る前より明らかに衰弱していた。
たった一日かそこらでここまで悪くなるとは。
予想していなかった事態に戸惑いを隠せないが、苦しむ本人を前にしてそんな様子を見せる訳にはいかない。ライオは努めて平静を装った。
「エイミー。私がお前のことを気にしないはずがないだろう」
彼は臥せる妹の頭を撫でた。
たどたどしく、それでも真摯に。
「早く良くなってくれないとワイゼルが心配で倒れてしまうよ。まずは眠りなさい」
脇に立つ弟は何も言わない。身動ぎ一つせずに兄と妹のやり取りを見守っている。
その妹はわずかに表情を和らげると、かすれた声で言った。
「兄さん、は……」
「何だ?」
「兄、さんは……無理を、してないですか?」
私は兄さんに無理をさせていないですか?
そう問いたげなエイミーにライオは胸が苦しくなった。
「そんなことはない。ないんだよ」
頭を撫でる手を止めて、彼は項垂れた。
ライオは【Lily's nobody】に参加したことを初めて後悔していた。
同情したのだ、エイミーに。それから彼女の行く末を見守れない己れに成り代わられてしまったライオというキャラクターに。
ライオはここに至っても、まだどこか覚めた目でエイミーを見ている。死んだところで所詮はNPC。そう感じている彼が居ないと言えば嘘になる。
だがそれでも、申し訳なさを覚えていない訳ではなかった。
この子から兄を奪ったという意識が、後ろめたさが心の奥の方に居座っている。
俯いて黙り込むライオを見て、ワイゼルは兄から目を逸らした。
弱りきった背中は初めて見る。
強い兄しか知らなかった彼はひどくショックを受けていた。怒鳴り散らしたい気持ちを必死に抑える。そんな弱気でエイミーが助けられるのか、と。
彼は奥歯が砕けそうになるほどに強く強く噛み締めた。
「兄さん……」
優しい声に、ライオはゆるゆると顔を上げた。
その目は揺れて普段の力強さがない。
「兄さんは、兄さんです」
「わたしの、自慢の、兄さんなんです」
ライオの目が大きく見開かれる。眼球がこぼれ落ちそうなほどに。
身体を震わせ、ゆっくりと頷く。
それから彼は妹に感謝を述べた。ありがとうと。
エイミーはかすかに笑みを浮かべるとすぐに目を閉じた。呼吸はある。だが弱々しい。いつ途絶えるか分からないと思われるほどに。
ライオとワイゼルは妹の部屋を出た。彼女の面倒を見ている侍女と入れ替わりだ。
玄関へと向かう二人は無言だった。
廊下を黙って歩いていく。
「ワイゼル」
呼び掛けられたワイゼルはその場で立ち止まり、同じく足を止めていた兄の方を振り返る。
そうして思わず息を呑んだ。
廊下は薄暗い。夜間に照明を点けたままになどしていないからだ。ミュエル商会くらいの規模ではそんな真似をしていられない。
その暗い廊下で、月明かりに照らされた兄は目を爛々と輝かせていた。
猛禽のように鋭い目に覇気を乗せて、これまた初めて見る兄に彼は気圧される。
「三日だ」
「え?」
「三日で戻る。エイミーを頼んだぞ」
それだけ言うとライオは大股で歩き去っていった。
その場に立ち竦んでいたワイゼルは置いていかれ、慌てて兄の背中を追う。
何を言われたかは遅れて理解した。
三日で魔窟を踏破するつもりなのだ、この男は。
ワイゼルは兄が何か途方もない怪物になってしまったかのように感じ、その想像を振り払おうと頭を振った。何度も。何度も。
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