神楽舞
11月4日、群馬会館ホールで「前橋舞楽祭」という催しがあった。前橋神明宮舞殿設営を奉賛するという目的のある会だった。
わたしの実家は前橋市の北部にあたり、まちなかからは程遠い。前橋神明宮の場所はわかるが、残念ながら詣でたことはないらしい。七夕まつりや秋の前橋まつりでまちなかをぶらつくことはあれど、神明宮にふらっと寄った、みたいな記憶がまるでないのだ。
舞楽祭の第一部、神明宮の東野宮司の公演では前橋神明宮の由緒や境内に祭られている祭神の名の数々の説明があった。『群馬のお伊勢さん』と呼ばれているそうで、実際神明宮の境内は内宮と外宮に分かれており、伊勢神宮の形を模しているそうである。そしてそこに、この度めでたく『舞殿』の工事に着工したと発表があった。舞殿とは、神前で奉納する神楽や巫女舞が行われる場、とても神聖なステージである。この舞殿の設営によって、神明宮でも神楽の類が奉納され、若い世代に伝統文化の継承がされることを視野に入れているとか。
そして第二部はお神楽。浪速神楽より劔の舞、神前神楽より悠久の舞の演舞であった。舞い手は長野雅楽会の舞姫たちである。
劔の舞は、二人の舞姫が舞う。手に剣を携え、切込みの動作などで邪を払う、邪気払いの舞である。剣はさすがに真剣ではなかろうが、剣の形をしたモノには霊性が宿る。某誌で読んだが、能の土蜘蛛を演じた際、演者が刀で斬りつける動作をしたら、舞台の幕が刀でバッサリ切られたようになっていたという。気で斬ったのであろうと言われていた。わたしは剣の刃の煌きにこそ神聖さが宿ると信じているので、舞台の照明に反射して剣が動く度に煌めきを放ち、たとえそこが神聖なステージでなくとも、『劔の舞』を舞ったことで会場には神気が満ちた。そんな気がした。
舞姫たちが剣を手に舞うのを見ながら、記憶が蘇る。小学校6年生のときである。運動会で『七頭舞』を舞うことになった。わたしが小学校時代を過ごした玉村小学校という学校は、当時の運動会に組分けや勝ち負けという制度はなく、徒競走や玉入れなどの普通の運動会の種目はあれど、メインは学年ごとの表現の踊りであった。わたしの学年は特に民族舞踊色が強く、1年生でエイサーを踊り、5年生の組み立て体操でも『龍神に守られし玉村の土地』みたいなものがテーマだった。そして6年生で『七頭舞』である。わたしたちの学年は1年生のとき、当時の6年生が剣を持ってなにがしかの踊りをしていたのを見ている。それが七頭舞であったことには自分たちが踊り手になって初めて知った。
七頭舞は七種の道具を持って舞う、農作業に由来する神楽舞の一種であると認識している。わたしたちの指導をしていた先生方は、七頭舞を自分たちで解釈をおとしこみ、道具作りは悩んだと察するが、結局いちばん簡単かつ安上がりな角材とアルミテープで作れる太刀一種で舞うことになった。先生たちは七頭舞をやると決めたのがいつかは知らないが、夏休みから笛や太鼓の猛特訓をしていたそうである。それこそ笛は酸欠になるまで、太鼓はバチが折れるまで、ひたすら身体に叩き込んだという。そんな話を聞いたら、子どもたちも張り合って練習する。朝、20分休み、昼休み、放課後、体育館の鍵が借りられるときは6年生が独占し、故あって借りられない場合は教室で口唱歌を口ずさみながら跳ねまわっていた。
本番は、地下足袋に兵児帯をたすき掛けにした装束(と言っても体育着の上からなので少々シュールだが)で太刀を手に取り、炎天下の中を、その熱気を切り裂くように舞った。ミアシと呼ばれる踊りのパートに入ると、何組かに分かれて一人ずつ舞うので当然待ち時間が発生する。校庭の砂に片膝ついて、背筋を伸ばして待たねばならない。組み立て体操で経験しているとはいえ、事前に痛そうな石は拾っているとはいえ、痛い。しかし本番はなぜか、「痛さを感じなかった」とみんな口々に言っていた。ミアシは見せ場なので、みんな緊張したからかもしれない。そしてわたしも、自分の番になったとき、気付いた、周りの静寂に。先生たちのお囃子の調子は聞こえているが、観ている人たち、当然下の学年の子どもたちも、息を詰めて見ているのである。……いや、それは気のせいかもしれない。ある種神がかっていたのかもしれない。わからないが、お囃子以外はなにも聞こえない。身体が勝手に動く。いつもより高く跳べる。なんだかわからないが本番はとにかくいつもより調子がよかったのである。不思議な体験であった。
……話が大幅に逸れた。さて、舞楽祭だが、わたしの真の目的は、第三部の『迦陵頻』であった。昔、たぶんネムキだと思うのだが、漫画雑誌を読んでいたとき、童子の舞として迦陵頻が描かれていた。それ以来、ずっと「生で見たい」と願っていた。
いざ迦陵頻! となり、息を詰めて見ていると、四人の舞姫が翼を背負ってしずしずと出てくる。いちばん最後に出てきたのが、長野雅楽会の最年少の舞姫なのであろうと思われる、小学校低学年くらいの童女であった。「ああ……これでこそ迦陵頻よ……」と心の中の誰かが感嘆の息を洩らした。童女らがあの翼を背負って、ぴょこぴょこ舞うのがいいのである。念願の生での迦陵頻はえもいわれぬ体験であった。
やはり神楽舞というのは、童のうちにしか出せない神性がある。七つだか五つまでの子どもは神様からの預かりもの、という認識もよくわかる。京都祇園祭で祭り上げられるのもその年代の童子であったと思うし、心が純粋なぶん、神様の一時的なイレモノとして機能するのだろう。
わたしも心が健康で、十代だったら、いまからでも舞い手になって伝統文化の担い手になりたかったが、心を病んだ年増は神様への奉納の舞を演舞するのに相応しくない。わたしが神様だったら嫌がる。それはもう拒絶する。
それにしても、舞殿が完成する前に、神明宮に詣でてみようかと興味を引かれる会であった。お伊勢さんにはなかなかいけないが、日の本の象徴たる天照大御神にごあいさつくらいはしておきたい。そしてなにより、あの萩原朔太郎も参拝したのかもしれないと思うと、わたしの中の近代浪漫が疼く。前橋のまちなかに漂う萩原朔太郎の亡霊を追いかけるためにまちなかに行っているくらいだ。朔太郎は故郷を憎んでいたので、わたしは見当違いな追いかけ方をしているかもしれないが、まあそれでもいい。
叶うならば、五年に一度くらいは、この舞楽祭という催しを開いてほしいものだ。




