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食事という行為

『食事』という行為は、わたしに愛されていない。わたしにとってのそれは、空腹を満たすための手段で、少なくとも楽しむものではない。しかしどうやら世の中には『食事』を愛している人のほうが多いらしい。


 わたしは、家族団欒の場としての食事が嫌いだ。家族が嫌いなわけではないが、幼少期、まだ“父親”が家庭内にふんぞり返っていたとき、夕食の時間が来るのが怖かった。“父親”は存在自体が恐怖と暴力で出来ていて、ただでさえ気を遣うのに、食事の際は箸の上げ下ろしから監視される。わたしは、母の連れ子で、左利きだったから、彼は特にわたしを監視した。妹と肘がぶつかる、食器に箸が当たって音が出る、父親が怖くてチラチラと様子を伺う、父親専用のおかずに箸を伸ばしてしまう。これをやると怒られる。ただ怒鳴られるだけでなく、顔をじーっと見られるのだ。目を背けても、下を向いても、気にしないフリをしても、彼はじーっとわたしの顔を見ている。「ごめんなさい」と謝っても許されず、食事が終わるまでじーっと見ている。気色が悪かった。食欲などはじめからないが、さらに食欲が失せた。だからわたしは、“父親”から離れて10年以上経つのに、他人の顔を見るのも、顔を見られるのも、大嫌いだ。


 まるで夕食を毎日食べられたような書き方をしたが、これはまだ彼の機嫌がいいときで、機嫌が悪いときは居間に入るのも禁じられた。狭い団地の居間には流しも冷蔵庫もある。つまり、機嫌が悪い日の子どもたちは飲食の一切が禁じられたのだ。喉が渇いたらトイレに行って、流したときに出てくる水を手で掬って飲む。わたしはいつしか、喉の渇きを覚えない人間になっていた。いつでも兵糧攻めされてもいいように、わたしたちは“父親”がいない隙にいろいろなものを食べた。いろいろとは言ったが、ド貧乏だったので、冷蔵庫はいつも空っぽで、カップ麺を常備できるほどの金もなかったから、調味料の類を少しずつ舐めたり、運良くパンがある日はバレないようにパンを齧ったり、運良く乾麺がある日はそうめんを乾いたまま齧った。いくらも腹は膨れないが、口の中になにか入ったことで飢餓は防げていた。


 小6までそんな生活をしていたから、未だにカップ麺やポテトチップスは高級品だと思っている。コンビニのご飯なんて贅沢の極みだ。だが、別段憧れてもいない自分がいる。なぜだろう。


 思うに、わたしにとっての食事は、幼少期の盗み食いとレベルが変わらず、いつも背徳感をもって行われるものなのだ。わたしなんかが味の良し悪しを理解しているはずもない。



 大人になってから、結婚式のバンケットの仕事をしたことがあった。宴席でのお給仕さんだ。大抵ああいう場では、フレンチのフルコースが出るものだが、フルコースというのがどのくらいのボリュームで出てくるものか、知らない人は多いと見える。まずアミューズ、スープとパン、魚料理、メインの肉料理、デザート、コーヒーか紅茶。これが流れだ。魚料理の時点でお腹いっぱいになっているご婦人方をよく目にした。それから目にしたのは、ポワソンスプーンという魚料理にナイフの代わりに使うスプーンを出す場所で、スプーンがなんのために置いてあるのかわからず、ヴィアンドナイフ(肉料理のナイフ)を使ってしまい、勘の悪い給仕にナイフを下げられてしまって、肉料理のナイフがないと騒ぐ人々だ。フルコースではカトラリーは外側から順番に使う。ポタージュスプーンは大抵まんまるであるから、ナイフ群に見慣れないスプーンがあるときはポワソンスプーンだと思っていいだろう。ベテランの給仕なら、客人がカトラリーを使い誤っているのを見たら、新しくその料理にあったカトラリーを出してくれるものだから、わからなくても安心していい。


 ただ、わたしはこういう作法は知っていても、フルコースを食べたことはないので、堅苦しい食事の場がどんなものなのか知らない。よく、招かれた席では緊張して味がわからないと言うが、やはりそんなものなのだろうか。



 うつ病を拗らせてから、一層食事への関心が薄れた。SNSで『大人は仲良くなりたい人と同じものを口に入れたがる』という旨の投稿を見て、思わず吐き気をもよおした。食事の本質である、“口に入れる”という行為が、あまりにも本能的で、気持ち悪く思えてしまった。動物たちがもぐもぐしているのは可愛らしいのに、人間が食事をするのはなんでこんなに気持ち悪いのだろう。


 一説に聞いたことがある、真偽の程は知らない話に『映画やドラマで、ベッドシーンを入れたいときに、何らかの事情で入れられない場合、代わりに食事シーンを挟む』というのがある。見る人には、同じものを食すという行為が性的に見えているのだろうか、想像力の逞しいことだ。



 こういう話を知れば知るほど、食事のことは愛してあげられそうにないと思う。



 だが、ある小説の食事シーンを読んで、そのあまりの丁寧な描写の美しさに、筆者は食事を心から愛しているのだな、と感じ、憧れた自分がいた。


 それから、意識して3食たべて、3時のおやつも嗜むようにしている。ルーティンワークだから仕方なしにやってるという感情は拭いきれないのだが、形から入るのもアリだと思う。実情は献立を考えるのが面倒で、朝昼は毎日同じものを食べているので、美味しいとか美味しくないとかいう次元に来ていないことは確かだ。


 いつかわたしが『食事』を愛せる日が来たら、きっと自己肯定感も上がっているだろう。そんな日が来ることを夢見て、今日も仕方なしに食事をするのだ。

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