桜散恐怖症
桜が散るのが怖かった。
昔から花が散ったり萎れたりすることが恐ろしかった。散らない花があれば良いのにと思う。しかしドライフラワーやプリザーブドフラワーなどは、花の死骸を見つめている気がして、生物標本や剥製を見ているときのあの気持ちになる。
生きているものは美しい。元気に、若々しく、瑞々しくあるものは美しい。
わたしはこの恐怖がどこからくるのか考えたときに、結局は美しくなくなるのが恐ろしいだけなのだということに気づいたら、この感情が一般化されてしまったことにがっかりしてしまった。
桜は、春を迎えると一斉に花開く。わたしの住んでいるところには川沿いに桜並木があって、その風景を橋の上から撮ったものをTwitterのヘッダーにしているのだが、生で見たほうがずっといい。桜は美しい。日本人のこころなどと、安易なことは言いたくない。どこの国の人が見たって桜は美しいのだから。
昔の漫画で申し訳ないのだが、峰倉かずや『最遊記外伝』では、桃源郷は万年、桜が咲き誇る場所だという描写がある。そんな場所がほんとうにあればどんなに良いものか。その漫画の中では、『花は散るからこそ美しいのだ』と言っていた。たしかに、わたしたちの生が短いために、毎年やってくる桜の時期を、まるで最後に見る桜かのように眺めてしまう。つまり、死を毎日予感しているから、我々は懸命に生きられるのだと、暗喩している。
花が散るというのは花の死を見ているということ。桜はその死に際でさえ、花吹雪などという言葉もあるように、美しく形容されている。花は桜木、人は武士。パッと散って、なおかつその散り際さえ美しいものの例えである。忠臣蔵に出てくる言い回しだ。第二次世界大戦中に日本軍が用いた人間魚雷にも『桜花』という名がついている。若くして散る青年たちの歪められた愛国心よ。それは果たして美しいか。
わたしの、美即善という考え方は、所謂死の気配から目を背けたくて持っているものなのかもしれない。わたしはまだ若いが、母や祖母の髪に混じる白や、皺の寄った手、加齢で肉付きが良くなったそのだらしないボディライン。その全てが許せない。祖母は写真しか知らないが、母のいちばん美しかった頃をわたしは知っているからこそ、なおのこと怖い。
世間一般の女性が抱える醜形恐怖症と違うのは、その恐怖は自分に向かないことだ。桜が散るのが怖い。母や祖母が老いるのが怖い。それだけだ。
美しいものは美しいままであれ、と思うが、年齢に逆らってまで美しくあろうとする姿は美しくない。例を挙げるなら、晩年のマイケル・ジャクソンや、最近のピンクレディー、これは反感を買うかもしれないが、若作りを頑張っているおばさん達など。自然に見えるのならいいのだが、年老いて皺だらけの貧相な首元を差し置いて皺のない白い顔。ヒアルロン酸注入などで張らせた唇。筋肉がなくなって萎んでしまったのに大胆に出している手足など、嫌いなものはたくさんある。
桜のように素朴な美しさのまま、パッと散って死ねよ。などとは言わないから、椿のように潔く首落ちて死ね、とも言わないから、自然にだんだんと老いていくのが人間らしいのではないか。男らしくとも女らしくとも言わないから、せめて美しいままでありたいのなら、人間らしい日々を重ねてだんだんと萎れて、ドライフラワーのような綺麗な死に方をすれば良いと思う。人間らしくあれ、人間。
最近大伯母さんに会って、着物の着付けを簡単にだが習ってきた。大伯母さんは快活でワイルドな祖母と違って、上品で慎ましく、体つきはもう棒きれのような人だ。だいぶ薄くなった白髪頭を見て、歯の噛み合わせについて力説する彼女を見て、ふと死の気配を感じてしまった。生きている人にそんな陰を見ては失礼なのはわかっているが、萎れかけたパンジーを見て、そろそろ摘まないとかな、と思うように……。もちろんまだまだ元気だし、これからも元気であってほしいのだが、そう思ってしまった。またひとり好きな人がいなくなる。その寂しさが悲しい。
桜の散る恐怖にはその寂しさがある。
寂しさと、萼が残されて淡い薄紅から紅く染まっていく木が醜く見えるのを嫌う気持ちと。
花の終わりはいつも醜くあるものだ。妹がフラワーアレンジメントを習っているので、毎月玄関にそのアレンジメントが飾られるのだが、それはまるで美しい九相図だ。夏は特に顕著である。最初こそ瑞々しく元気に玄関を彩り、フラワーフォームも隠れているが、だんだんに萎れ、花びらは散り、茎も痩せて、フォームがまる見えになり、腐る。そこに人間の生の儚さを感じているのはわたしだけかもしれないが、寂しくて恐ろしい。
今年もまた桜が散る。花盛りの時期を終え、川面に花筏を作り、並木道には花びらの絨毯ができる。その様子は美しいが、ひとつひとつが死の象徴なのだと思うと、わたしの桜散恐怖症は治らない。




