侯爵に囲われた!
応接室に座っていたのは、なんと美貌の侯爵様だった。
オールバックの長い銀髪は後ろで一纏めにし、品の良い臙脂のリボンで無造作にくくられている。強い意志が光る切れ長の瞳はアイスブルー、右目には銀フレームの片眼鏡。それが彼を更に硬質で神経質そうに見せているような気がする。年齢は三十代前半くらいだろうか。
「初めまして。ジュリアです」
にっこり微笑んでカーテシー。
かなり年上で興味はないけど、美貌の上位貴族ともなれば媚を売っておいて損はないはず。けれど侯爵様はピクリと眉を動かしただけで、それほど色好い反応がない。さては美しいものを見慣れてるのかな。
侍女が四人分の紅茶を淹れて退出したのを見計らい、最初に口を開いたのは侯爵様だった。
「昨日の今日でその態度とは、ずいぶん肝の座ったご令嬢のようだ」
恐れ入ります?
褒めてるように聞こえるんだけど、彼、目が全然笑ってなくて怖い。
それは同じ二人掛けのソファに座るお母様も同じようで、膝の上でつないだ手にきゅっと力がこもった。
お父様もお母様も、顔が真っ青のままだ。大丈夫だろうか。
「お二人とも、昨日の学園での騒ぎはきいているね?とある伯爵家の令息が、そちらのお嬢さんをエスコートして卒業パーティーに参加し、あまつさえ自身の婚約者に婚約破棄を突き付けた」
お母様の手がカタカタと震え、お父様が真っ青な顔のまま小さく肯く。
ジョルジオに頼まれたから仕方なくパーティーに参加しただけなのに、それの何がいけないのか。ドレスを贈って誘ってきたのも、私を伴って参加したのも、婚約破棄を叫んだのも、全部ジョルジオのしたことであって、私は全く関係ない。
「…お嬢さんは全く理解ができていないようだ」
「申し訳ございません…」
なぜお父様が謝るのよ。
侯爵様の冷たい瞳に射抜かれ竦みそうになるが、背筋だけはちゃんと伸ばしたまま澄ました顔を取り繕う。なんとなく彼には負けてはいけない気がしたので。
「君にも理解できるように説明しよう。彼らの婚約は大きな利権や金銭の絡んだ政略の一部であって、決して個人の裁量で破棄していいものではなかった」
破棄したのはジョルジオですけどね。
「実際に破棄されるかどうかは問題ではない。彼がいくら言ったところで実行力はないに等しい。ただ…」
淡々と語る口調は一貫して冷たい。その美貌で、甘いテノールなんて良い声してるのにもったいない。そんな場違いであろうことでも考えていないと、この視線の寒さに耐えられそうにないのが悔しい。
「その発言をしたという責任は取ってもらわなくては。伯爵家にも、君にも、そしてこの子爵家にも」
「どうして私が…」
「君はあの時、彼の隣に立っていた。それだけで十分だよ」
初めて侯爵が笑った。さも愉快そうに。理解の出来ないものを、蔑むように。
お母様の手の震えが止まらない。お父様に至ってはその表情がごっそりと抜け落ちて、顔が土の色のようになっている。よくわからないが責任を取らされる、そしてそれが私だけでなくこの家にとってもとても良くない事だけはわかった。どうする。どうすればいい。彼には、私の可愛いは通じそうにないのに。
「ところで子爵、それから夫人。私はかのご令嬢の家とは遠戚にあってね。条件によってはこの子爵家は婚約破棄とは無関係であったと、あちらに取り計らうことも出来る」
この居丈高な侯爵と、あのか弱いご令嬢が親戚?本当に?
「あの、条件とは…」
お父様が声を振り絞っているのがわかる。緊張のあまり喉を潤すことも忘れ、口を付けられなかった紅茶はとうに冷めてしまった。後で温かい紅茶を淹れ直してもらって、私がお父様を慰めなければ。いくら私が手を握っていても、お母様の手も冷たいままだ。侯爵が帰ったら抱きしめてあげよう。
「この子爵家に養女などいなかった。それが条件だ」
お母様の目から、ほろりと涙が落ちた。
そのまま侯爵は、私を連れて子爵家を出た。
お母様の涙を拭う間もなく。お父様にさよならも告げられずに。
どこに連れていかれるか不安はあったけど、それよりも、初めて家族として私のことを可愛がってくれた人たちとの別れに胸が痛んだ。
侯爵は馬車に同乗した侍従らしき男と確認らしい言葉を交わすだけで、俯く私に話しかけてくることもなく、今はそれがありがたい。
程なくしてたどり着いたのは、こじんまりとした一軒家。たぶん貴族街というよりも庶民が生活する地区に近いと思う。それでも一軒家を建てるか借りるかするだけでも、かなり裕福な部類になると思うけど。
「また来る。逃げようなんて思うな」
それだけ言って、侯爵様は侍従と共に帰っていった。
残された私はといえば。
「ジュリア様、お食事の用意が出来ました」
「湯あみはなさいますか?」
「お召し物はこちらからお選びください」
使用人は中年の女性が一人と少ないものの、彼女が全てをこなしてくれる。そして衣食住全てが揃い、何不自由ない生活。
子爵家であれだけ脅されていた私は拍子抜けした。あえて言うならば、窓はすべて嵌め殺しで開かない上に、玄関の扉の前には見張りであろう騎士が常に交代でついている。逃げようにも逃げられない。今は別に逃げる気なんてないけど。そんな生活が三日ほど続き、暇を持て余していた四日目。久しぶりに見た侯爵は、やはりその美貌をピクリとも動かさずにしゃべり始めた。
「君に教師を付ける」
連れられてきたのは三人。棒みたいに細い女の人と、中肉中背の青年、それから長身で筋骨隆々としたおじさん。ぽかんと口を開いてしまったが仕方ないだろう。
そもそも教師ってなんで。
「背筋が伸びているのは及第点ですが、口を開いたままなのはいただけませんね」
「頭のてっぺんからつま先まで、全部意識して動かないと」
既に採点が始まっている、らしい。とりあえず口を閉じて手をそろえてみた。
三人がそれぞれ違った表情で目を細めている。どんな感情なのかはわからないが、あまり良く思われていない事だけはわかった。
「そうだな…半年後にテストでもしようか。合格したら褒美がある」
一見、甘い言葉を吐くその顔は相変わらずの無表情。美貌がもったいない。ちょっと笑うだけで周りがいいようにしてくれるのにな、私みたいに。
「不合格だったら?」
「ありえないな。必ず合格しろ」
無茶言うわー。まだ何するかすら聞いてないのに。
「拒否権はない」
無情なその一言で始まった三人の教師たちの授業は、厳しいなんてものじゃなかった。昼間は常に授業である。
ダンスの講師である青年と踊っているときは、唯一の女性教師が常に目を光らせてダンスを誘われたときの返し方なんかを叩き込まれつつ、けれど指の先をパシリと打たれる。
お茶会のマナーと作法を学ぶと言って女性教師と円卓に座れば、なぜかおじさんがお茶を入れてくれて言葉使いや言い回しについて口うるさく注意してくる。
おじさんに貴族特有の暗喩や言い回しを教えられているときは、常に背筋を伸ばす様にと青年が私の可愛い頭に分厚い本を乗せてきた。
起きているうちは常にだれかしらが張り付いていて、息をつく暇もない。常に注意されれば気も滅入る。
しかもこんな意味も分からない事、目的もなく続けられるわけがない。何度か脱走を計っているのだが、ことごとく失敗に終わっている。
誰も褒めてくれない。辛い。しんどい。やりたくない。泣きたい。てか泣いた。
ついに私が癇癪を起こして自室に閉じこもっていたら、騎士にこじ開けられて、何事もなかったように地獄の授業が再開された。涙と鼻水まみれになりながら、せめて目標が欲しい、目的が知りたいと訴えると、本当に仕方なさそうに、いやいや感が伝わってくるため息をつきながらおじさんが教えてくれた。
侯爵様は、私を完璧な淑女に育てたいらしい。そのための三人の教師である、と。
食事と睡眠時間が削られなかったのは、容姿も大切だかららしい。お菓子はなかったけど。
つい口をぽかんと開けてしまったら、女性教師に無言で閉じさせられた。
ご褒美が何かまでは知りませんが、達成すればあなた自身に磨きがかかりますよ。
補足のようにつぶやかれた言葉は誰のものだったか。とにかくこの言葉が、私に火をつけた。どうして忘れていたんだろう。私の武器、可愛いを。
今までは容姿だけに力を入れてきた。それさえあれば良いと思っていた。
けれど学園でうっすらと気付いていた、が、認めたくなかった。美しさには、所作や言葉遣いも大切なのだと。
貴族のご令嬢が囀る言葉はいまだに意味がわからないし理解したいとは思わないけれど、評価してくる人間がそちら側にいるのならば、同じ土俵に立ってやらねばまず評価すらされないだろう。
腹を決めたら、あとは突き進むばかり。
すぐに泣きごとも言いたくなるくらい厳しい授業が再開されたわけだけれど、なんとか根性で食らいついていく。
私の、可愛いのために。
そして半年後。
訪れた侯爵を完璧なカーテシーで迎えた私を、三人の教師のみならず、使用人と騎士までもが満足げに見つめていた。
「…様にはなったか」
「ご満足いただけると思いますわ」
にっこりと返す笑みは極上。
上質な、けれど華美過ぎない訪問着に身を包み、普段使いにもなる控えめなアクセサリーが日の光を反射してきらめく。
半年ぶりの外の空気を控えめに吸い込んで堪能する。ここではしゃいでは、今までの苦労が水の泡である。
「では、行こうか」
侯爵自ら馬車にエスコートしてくれる。
相変わらずの無表情ではあるが、その仕草がもう合格のそれじゃなくてなんだというの。
乗り込むと、指示もなく馬車が走り出した。
「どこに向かっていますの?」
「君の友人の公爵令嬢のところだ」
私に公爵令嬢の友人なんていませんけど?