番外編その1
ノウが帰宅して翌々日の朝。
眠い目をまたたきながら食事室へ行けば、楽な格好の二人が入ってきた。
どうやら、早朝の体操をしてきたらしい。
もう数日は休ませてやるべきなのにとアルフラッドを軽く睨むと、眉を下げられた。
……なるほど、説得したが駄目だったということか。
「あちらでも気をつけてはいましたけれど、やはり見てもらえるほうが安心なので」
当のノウは嬉しそうに言うものだから、ジェレミアもそう、と呟くしかない。
アルフラッドがそれ見たことかという視線を送ってきたが、綺麗に無視してやった。
それから仕事へむかうアルフラッドを見送るべく、前と同じように玄関まで三人で移動したのだが──
「それじゃあ、行ってくるな」
アルフラッドは言いながら、ごく自然にノウの腰を引き寄せて抱きしめると、額に口づけを落とした。
途端、ノウの顔が真っ赤に染まるが、嫌がるそぶりは見当たらない。
──二人の仲が進展したことは間違いない。
だが、メイドからの報告がないので、肉体関係はまだなのだろう。
はじめから二人の間には、奇妙な距離があった。
結婚しているはずなのに、お互い憎からず思っているらしいのに、遠慮するような空気感。
ノウの傷によるものだと説明を受けていたので、誰も指摘することはなく、けれどやきもきして見守っていた。
二人の間にあった心の壁は、どうやら無事に破壊されたらしい。
しかし傷に起因するものなら、深く追求するのも、あからさまに祝うのも複雑なところだ。
ちらりとメイド長を見やると、同じ意見なのだろう、うなずきが返ってきた。
「私は果樹の冬支度があるけど……よければ見る?」
寒さにあまり強くない品種には、対策をとる必要がある。
職人に任せきりではなく、自分で行っているものもあるので、合間を見て進めているのだ。
ジェレミアの誘いに、ノウはぱっと表情を明るくして、お手伝いさせてくださいと告げてくる。
なんでも知りたがる彼女は、貴族らしくなく、眉をひそめる者もいるだろう。
だが、ジェレミアにとっては好ましいものだ。
てきぱきと作業していく姿を、感心したように見つめられるのも悪い気はしない。
昼食を挟んで続きでも、と思ったが、ふと、ノウの顔が赤いことに気づいた。
「……少し熱がある?」
いきなり近づき額に手を当てたため驚かれたが、それより掌に感じる温度のほうが問題だ。
やはり、まだ旅の疲れがとれていないのだろう。
眉をしかめるジェレミアに、ノウはしかし首をふって否定した。
「あの……多分、知恵熱みたいなものです」
熱は熱だが、心配するものではないと主張する。
だが、なぜそんな発熱するに至ったかがわからない。
不審げな表情をしていたのだろう、お茶でもと誘われたが、心配なのでノウの部屋に行くことにした。
ヒセラにお茶を用意してもらい、場が整ったところで、本人から昨夜アルフラッドに自分の傷を見せたことを告げられた。
悩んだ末の行動だったので、そのせいで熱が出たのだろうという自己分析だった。
思い返しても、万一にも傷が見えるような行動や服装をしなかったノウだ。
川に落ちた時の動揺も激しかったし、それだけ本人にとっては耐えがたいものなのだろう。
自分で決めたこととはいえ、それを見せたというのだから、神経を使った結果発熱しても無理はない。
「やっぱり好きにはなれませんけれど……でも、フラッド様はまったく気にしなかったので、少し、肩の荷が下りました」
ほっと呟く彼女は、本当に安心したのだろう。
だからこそ今朝のアルフラッドの行動なのだと腑に落ちた。
隔てる壁がなくなったから、だけではない。
ノウが不安に思うことのないように、あの男なりに想いを表現しようとした結果なのだろう。
……まあ、単純に嬉しくて舞い上がっているだけの気もするが。
「でも、動き回るのはよくないわ、私もいるから、ここでのんびりなさい」
ジェレミアの言葉に、はにかみながらはい、とうなずく素直さは愛らしい。
ノウは裁縫箱を持ってくると、細々とした刺繍をはじめた。
ジェレミアは急ぎではない書類をめくりながら、時折記されている必要な情報を教えてやる。
「あの……」
花をひとつ仕上げたノウが、遠慮しながら声をかけてきた。
「帰ってきた時に抱きしめてもらった時もお話ししましたけれど……わたしは、両親と過ごした記憶がほとんどありません」
共に出かけたことはある、と訂正されたが、それは公爵があれこれ招いた催しだったからだ。
表面上、大怪我をした娘を思いやる優しい両親を演じたが、あくまで公爵にとりいるためのもの。
帰宅すればうんざりだと罵倒され、汚いものをさわったとばかりに追いやられる。
そしてまた、公の場に出れば反対の言動。幼いノウはどれほど傷つけられたことか。
おそらく二人に会うことはないだろうが、それでいい気がする。
己の性格的に、我慢できずに手を出しそうだ──と、これは胸の内に秘めておく。
「ですから、お義母様がお嫌でなければ、色々、一緒にしたいのですけれど、どうでしょうか……?」
「……たとえば?」
今でも勉強だの果樹の世話だのは共に行っている。
問いかけたジェレミアに、おずおずと告げてきたのは、要するに外出だった。
観劇、買物、食事……ごく当たり前の母娘ならば、結婚前に何度となく行っただろう行動ばかり。
「アルフラッドと一緒のほうがいいんじゃないの?」
なにせ両思いの新婚だ、ジェレミアだって邪魔をする気はない。
だが、ノウははっきり否定した。
「フラッド様とお出かけするのも楽しいです。でも、お義母様ともご一緒したいです」
熱心に言われれば、拒否する理由などない。
通り一遍の喪が明けても、息子は帰ってくるわけではない。
むしろ、どんどん周囲からは忘れ去られていく。
せめて自分だけは覚えていようと、黒いドレスばかりを仕立てたが──
「……そうね、じゃあ、まずは仕立屋ね」
どんな服装をしていたって、息子はいないし、口さがなく言う者はいるし、時は流れていくのだ。
「ずっと黒服で、今あるのは古いものばかりだから。ついでにあなたの春服も仕立てられるし」
ジェレミアの言葉に、ノウがぱっと表情を明るくする。
「お義母様は美人ですから、きっとどんなドレスも似合うでしょうね」
他の者なら世辞だと一笑に付すところだが、この娘は本気だから嬉しいが困る。
「それから──あの子と行った場所にも、行っていいかしら」
珍しくも躊躇いながら口にすると、虚を突かれた表情をしたのは一瞬で、勿論です、と力強くうなずいてくれた。
私的にあちこち回った数は少ないが、視察がてらであれば数多くある。
あちらこちらで過ごしたささやかな思い出も、同じくらいに。
「お義母様がお嫌でなければ、その時、昔のことも教えてください」
苦しい過去を抱えているからこそ、ノウはそっと寄り添ってくれる。
ジェレミアは声が震えないよう気をつけながら「ありがとう」と返した。
帰宅したアルフラッドは、当たり前のようにノウを抱き寄せて、朝と同じように口づけを送る。
だが、恥ずかしさが頂点に達したらしく、ノウは腕の中から逃亡してしまった。
そして落ちついた先は──
「……あなたね、浮かれるのはわかるけど、ほどほどになさい」
飛びこんできたノウを抱きしめたジェレミアが、呆れ顔を隠しもせずに注意する。
嫌がっているわけではないが、誰も彼もが見ている前で何度も、というのは、まだ羞恥心が勝るのだろう。
そのとおりといわんばかりにこくこくと頷くノウに、配慮のない男よね、と頭をなでてやれば、嬉しそうにはにかんだ。
一部始終を見たアルフラッドが、対応の差に少なからずショックを受けたらしいが、知ったことではない。
今までは二人に遠慮していたのだが、その必要もなくなったのだ。
二人の恋路を邪魔するつもりはないものの、自分だって娘をかわいがりたい。
そういう意味では、ジェレミアのほうが同性の分、優位と言ってもいいだろう。
ふふん、と笑みを浮かべてみせて、年が明けるのを楽しみにしている現金な自分に、少しだけ苦笑した。
名前の由来一覧
今作はほぼすべて「ウイスキー」からとりました。
ノウ・ブーカ、アルフラッド
「ブッカーズ」生みの親は六代目「ブッカー・ノウ」七代目は「フレッド」
ジェレミア、クレーモンス
ジム・ビームの生産地はケンタッキー州「クラーモント」製造者は「T・ジェレマイア・ビーム」
エリジャ
バーボンの生みの親「エライジャ・クレイグ牧師」
メルクス「メーカーズ・マーク」
ヴィールト「ワイルドターキー」
ラフィー「ラフロイグ」
ハーバル「I.W.ハーパー」
テム「アーリータイムズ」
ナディ「カナディアン」
オーヘン「オーヘントッシャン」