「ただいま」
のんびりした日々はあっというまにすぎて、明日には帰る日になった。
もともと一週間程度だったので当たり前なのだが、ちょっと惜しい気もしてしまう。
荷物を少なくしたために、読書などの時間はとれなかったが、代わりによく歩いた。
数日いつもより歩いたからといって、すぐにどうこうなるわけではないが、普段と違って楽しかったのは事実だ。
温泉が傷に効いたかは正直わからないが、どちらでもいいと思うようになった。
相変わらず自分の傷を見たいとは思えないけれど、傷を気にせず接してくれるひとたちばかりのおかげだろう。
最後だとゆっくり温泉に浸かり、借りていた桶もきちんと返却する。
「……細くなりましたね……」
「すごいものだな」
実験のために温泉に入れておいた古釘は、元の太さよりかなり細くなっていた。
二人で眺めて、しみじみ感動してしまう。
おそらくもう数日たてば、跡形もなくなることだろう。
劣化の速度が通常より速いことは間違いない。
古い指輪もくすみがひどくなっているので、やはり錆びやすいものは持ちこまないほうがいいだろう。
「銀のほうは、まめに拭けばそこまでではないだろうがな」
だが、手入れを行うのは使用人だ、苦労を考えれば最初から減らすほうがいい。
面白いくらいにはっきりした結果に、少々興奮してしまう。
当然、ちゃんとした実験も行っているはずだから、今度探してみたい。
今回は錆にかぎったが、他の腐食に関する情報もあるはずだ。
「水問題は深刻ですね」
「そうだな、今は定期的に提供しているから問題ないが」
掘れば大体温泉が出る、なんて、話だけでは信じられなかったが、実際に体験するとよくわかる。
湯治場としては素晴らしいが、定住するとなるとこの村ならではの工夫が必要だろう。
川にも硫黄が混じるおかげで虫も少ないというから、悪いことばかりでもないのだろうが。
「さて、明日は一日馬車だ、早寝するぞ」
行きと同じように、村を出て人目につかないところに、迎えがくる手はずになっている。
あまり馬車を待たせてもよくないし、できれば起きたあともう一度入浴したい。
荷造りも終えたことだし異論もないので、ノウはおとなしくうなずいて、アルフラッドと同じベッドに入った。
狭いからをいいわけにしてくっついて眠るのも、すっかり慣れてしまった。
見上げると、柔らかいまなざしが見つめてくれる。
それがひどく嬉しくて、ノウはあっさり眠りにつけた。
翌朝、無事に早起きできたので最後に一風呂浴びることもできた。
すっかり熱めの湯にも慣れた自分は、ちょっと温泉に詳しくなれた気がして悪くない。
「お世話になりました」
手続きをすませて女将に礼を言うと、愛想良くまたどうぞ! と返ってくる。
金払いのいい客だからというのもあるだろうが、お世辞だけではなさそうな雰囲気が嬉しかった。
自分の荷物は持とうとしたのだが、今回もアルフラッドに奪われてしまう。
見慣れてきた村の中を歩き、そこからさらに歩いていく。
ちょうど木が目印になっているあたりに到着すると、すでに馬車が待っていた。
行きと同じ御者なので、すぐに荷物を運び入れて、中へ乗りこんだ。
ヒセラ夫妻と一緒なので、流石に膝を借りて寝るわけにもいかず、馬車の中では他愛ない会話に終始した。
男性陣は聞き役に回っていたが、流れる空気は穏やかで、楽しい時間だった。
滞在中、遠慮していたのでここぞとばかりに雑談に花を咲かせてしまう。
邸にもどれば、ヒセラはまた使用人らしい距離感にもどることだろう。
他の使用人の手前、当然ではあるのだが、惜しい気持ちもあるので、ついつい色々話してしまった。
ヒセラもにこにこと文句一つ言わずにつきあってくれたから、退屈することもなく邸までの道のりが消化される。
行きより遅い時間に出発したので、ついたころには夜が更けてきていた。
けれど、扉の前にはかなりの数の使用人が待っていてくれた。
アルフラッドの手を借りて馬車を降りると、一番前にいたのは勿論ジェレミアだ。
久しぶりに見る義母の顔は相変わらず整って美しく、懐かしい気持ちになる。
後ろに控えているみんなの顔も名前も、すっかり覚えている。
全員、偽りのない笑顔で出迎えてくれた。
「お帰りなさい、無事に帰宅してなによりだわ」
「戻りました」
「ただいま、帰りました」
ジェレミアの声を聞いて、ノウは自分で気づかないほど自然と言葉にする。
「待っていなくてもよかったのに」
アルフラッドが背後の使用人に苦笑いする。
同じことを考えていたのだろう。
「みなさん、出迎えありがとうございます」
軽く頭を下げて礼を口にすると、したかったからですよ、と穏やかに返された。
ジェレミアはすいと近づいきてて、ノウの顔色をしげしげと観察する。
「元気そうね、温泉は楽しめた?」
「はい、とても」
ノウの言葉聞いたジェレミアは、だが、愚問だったわね、と小さく笑う。
なんだろうと首をかしげると、すぐに答えをくれた。
「硫黄の匂いがするわ、たくさん温泉に入った証拠ね」
言われて、はたと己の姿を見下ろす。
村にいた時はあたり一面に硫黄の匂いがしていたから、すっかり慣れていたが、ここでは逆に目立ってしまう。
こんな近くにいたら、匂いがうつってしまうだろう。
「す……すみません、すぐ着替えますね」
慌てて距離をとろうと後ろに下がりかけたが、その前にジェレミアがノウの腕をとった。
勢い余ってしまい、ジェレミアの胸に飛びこむかたちになってしまう。
いつも彼女がつけている香水の香りが強く感じられると同時に、自分の纏う硫黄と混じるのが申しわけなくなった。
抱きしめる形になったジェレミアは、一瞬躊躇ったようだが、逆にしっかりと腕に力を入れる。
「悪いと言ったわけじゃないのよ、誤解させてごめんなさい」
むしろ、気に入ったようでよかったと思ったの、と続けられて、勘違いに恥ずかしくなる。
アルフラッドとは違う柔らかい感触は、なんだかとても安心する。
「……こんなふうに抱きしめられたことは、ないのですけれど、嬉しいものですね」
実の親から触れられた記憶はおぼろげだ。
本当に小さなころにあっただけで、事故のあとは必要な時以外はまるで汚れたものでも見るような扱いだった。
抱きしめられることはおろか、頭をなでられることすらなかった。
だから思わず呟くと、背中に回った腕に力がこもる。
「そういえば、していなかったわね。……傷にさわったりはしない?」
アルフラッドと同じような心配をしてくれる。
これくらいなら痛みも感じませんと正直に告げると、ほっと息をついた音がした。
「なら、これからはたくさんするわ。改めて、お帰りなさい」
見上げたジェレミアの顔は慈愛に満ちていて、つい「お母様」と呼びそうになる。
なんとか押しこめた代わりに、ぽろりと涙が落ちることは止められなかった。
けれどジェレミアはからかうこともなく、微笑んだまま胸の中に抱えこんでくれる。
おずおずと自分から腕を回すと、褒めるように頭をなでられた。
子供のようにたどたどしい口調でただいまを繰り返すノウを、アルフラッドと使用人一同が静かに見守ってくれた。
涙が引っこんだところで身体を離し、久しぶりの邸へ入る。
荷物は使用人が引きうけてくれたので、身体を清めることにした。
なんの匂いもしない、美しく整えられた浴室は、今朝までの温泉とはあまりに違う。
当たり前なのになんだか面白くて、一人風呂場で笑ってしまった。
寝間着に着替えてノウの部屋へもどると、ナディが軽食を準備してくれていた。
夕食の時間はとっくにすぎているし、早めに食事もとっておいたことを知っているのだろう。
見ていると食べたくなったので、ソファに腰かけていくつかつまんでいく。
懐かしい料理長の味に、気づけばそれなりの量を食べてしまっていた。
「お疲れでしょうから、明日の朝は無理しないでくださいね」
機能訓練はまた今度でも、と言うナディに、無茶はしないことを約束する。
再三念を押してから、お休みなさいと食器とともに下がっていった。
アルフラッドは留守の間の連絡事項を聞いてからにすると言っていたので、まだもどっていないらしい。
先に寝室に行くのもなんとなく憚られて、食休みを兼ねてソファでぼんやりとする。
──ノウの色とたとえられた布製品でまとめられた、部屋。
はじめてきた時から、少しだけ調度品や壁の絵が変更されている。
他にも本棚にはお気に入りの本が増え、飾り棚にはクレーモンスの収蔵品から素敵だと思ったものを置かせてもらっている。
帰宅すると伝えていたからだろう、花瓶には新しい花も生けてある。
手ずからカップにお茶を注いで、ほう、と安堵の息をついて──そんな自分にびっくりした。
今、自分は、心の底から「帰ってきた」と思ったのだ。
いつのまにかクレーモンスの邸は、ノウにとっての「家」となっていたのだ。
そのことに唐突に気がついて、けれどすとんと腑に落ちる。
家族と呼べるジェレミアとアルフラッドがいて、信頼できる使用人がいて──
心地よく整えた室内は、もう広くて落ちつかないなんてこともない。
むしろ、一番気を抜ける場所になっている。
湯治で邸を離れてみなければ、気づかないままだったかもしれない。
微かに香るハーブも、自分の好きなもので──安心したからなのか、今さら旅の疲れを自覚したのか、唐突に睡魔が襲ってきた。
しかし、ソファで眠ってしまうわけにはいかない。
ノウはなんとか立ちあがると、ふらふらと寝室へのドアを開け、なんとかベッドまでたどりつく。
いつもの位置にもぐりこむと、出かける前と同じ状態の寝具にほっとして、そのままあっさり眠ってしまった。