実験
「……ノウ、起きてくれ」
低い声が繰り返し呼びかけている。
いつまでも聞いていたいと思うが、なんだかあせりが感じられた。
ゆるゆると瞼を開けると、目の前にアルフラッドの顔があった。
「フラッドさま……?」
ぼんやりと名前を呼ぶと、小さく笑ってみせる。
「よく寝ているところをすまないが、そろそろ起きないと朝食を食い……食べ損ねるぞ」
「ちょう、しょく……」
覚醒しきらない頭で反芻するが、言葉として読みこめてこない。
それでもアルフラッドが辛抱強く声をかけてくれたおかげで、徐々に意識は覚醒していく。
「……っ、大変……!」
ここはクレーモンスの邸ではなく、宿泊先の部屋で、朝食の時間は決められている。
ようやくそこまで思い至ったノウは、慌てて起きようとするが、アルフラッドがやんわり止めた。
「支度をする時間くらいはあるから、ゆっくりで」
以前急いで痛みを訴えたことを覚えているのだろう。
気遣いに感謝しながら、変に捻らない気をつけて身体を起こす。
いつもより少し急いで着替えをすれば、十分間に合う時間帯だ。
ヒセラを呼ぶ必要もないだろうと、アルフラッドがいなくなってから身なりを整えていく。
おかげで、食堂に行っても食事がない事態は避けられた。
ヒセラたちと一緒に食事をすませて、十分に休んだあと、贅沢な朝風呂を満喫する。
早朝に掃除がされたのだろう、片方はびっくりするほど綺麗な色で、温度も高かった。
同じお湯とは思えないが、それだけ中に色々な成分が含まれている証拠でもある。
面白いなと眺めながら昨夜よりもう少し長めに入り、外へ出るとアルフラッドがいた。
「おや、あんたたち、温泉はどうだい?」
そこへちょうど女将が通りかかったので挨拶をする。
「とても気持ちいいです、独り占めは贅沢ですけど、気兼ねせずに入れてありがたいですし……」
ノウの言葉に、彼女は少し同情する顔つきになった。
けれど一瞬後には明るいものにもどしてしまう。
「そのために貸し切りをつくったからいいんだよ」
村の人間は傷病者に慣れているので、傷がひどい者が入浴しにきてもなんとも思わない。
公共浴場であっても同じことなのだが、本人が自分の姿を見せたがらなかったり、申しわけないとなかなか入れないことがあったのだという。
宿の大浴場ならまだ似たような者が多い分抵抗が少ないようだが、それでも……という者もいた。
だから女将は値は張るが、周囲を気にせず存分に湯治できるようこの宿を開いたのだそうだ。
「当分予約客もこないから、遠慮せずに使っとくれ」
豪快な笑顔につられながら、それなら、と考えていたことを口にする。
「あの、桶をひとつ、お借りしてもいいですか?」
くみ置きの桶はいくつもある。
湯冷まし用だが、今のところひとつくらい減ってもさほど困らなそうだ。
お湯の熱さに慣れてきたら、使わなくてもすむだろう。
ノウの言葉に、女将はなんだそんなことか、とあっさり許可をくれた。
なんでも目にも効果があるらしく、桶を持っていって洗う者もいるそうだ。
感謝を告げてから中へとって返し、真新しい温泉を入れてもどってくる。
「俺が持っていこう」
なみなみ入れたためだろう、アルフラッドが桶を持ち、ノウは代わりに手ぬぐいを二人分運ぶことになった。
「……しかし、なにに使うんだ?」
ヒセラたちとは別行動にしたので、そのまま部屋へもどる。
うっかり蹴飛ばさないようにと、窓際に桶を置くと、ノウは鞄の奥底から小さな包みをとりだした。
厳重に包んだそれを開けて──アルフラッドが怪訝そうな顔になる。
それもそのはず、大切そうに出してきたそこにあったのは、何本もの釘だったからだ。
ノウは釘を、迷うことなく桶の中に放りこんでいく。
「実験をしてみたくて、邸のかたに頼んで分けてもらったんです」
ここへくるにあたり、事前に言われていたのだ。錆びるものはなるべく持ちこまないように──と。
温泉には強い酸性があるため、金属がすぐに錆びてしまうのだ。
そのためアルフラッドもいつもの剣は置いてきている。
だが丸腰でというわけにはいかないので、武装自体はしているらしい。
元々着飾らないノウなので、荷物にさほどの変化はなかったが、逆に、どれほど錆びるのか興味がわいた。
そこで邸の修繕などをしている者に声をかけて、使わない釘をもらってきたのだ。
「一日に一本ずつとりだして、変化を見てみたいと思います」
村中に硫黄の匂いが充満しているので、外へ出しても錆びてしまうだろうが、そんなに厳密でなくてもいい。
ただ、どれほどのものか実感してみたいだけだ。
「勉強熱心だな……」
ノートに開始した今日の日付をまず書き記すと、アルフラッドがしみじみ呟いた。
「ただの好奇心です、あとは……」
続けて荷物からひっぱりだしたのは、紐で繋いだ指輪だ。
「……はじめて見たな?」
「はい、身につけたことはありませんから」
この指輪は母が渡してきたもののひとつだ。
年代物で手入れもされておらず、くたびれた印象がある銀の指輪。
──おそらく、祖母のものだったのだろう。
ノウにとってはなんの思い入れもないもので、かといって処分もできず、なんとなくとっておいた。
普段はあまり装飾品を身につけないし、ジェレミアによっていくつか購入されたので、わざわざこれをつける必要もない。
そもそもサイズも合っていないし、デザインにも心引かれていない。
首からかけてみるが、服装とはあまり合わないので、服の下に隠してしまう。
服数枚くらいなら、あまり変化はないだろう。
「身につけているとどれくらい錆びるのか……も、実験してみたくて」
しかし、悪くするとわかっていて、ジェレミアからのアクセサリーを使う気にはなれなかった。
頼めばそのために用意もしてくれただろうが、それも心苦しく、この指輪を思い出したのだ。
銀でできていて幸いだった、金では変化がないからだ。
「富裕層を呼びこむとなると、ああいうかたがたは着飾りたがりますから」
ざっと調べたが、どの程度錆びるかという情報は少なかった。
本気で療養にくる者が着飾るわけはないからだろう。
だが、上流階級の人間となれば、そうもいかない。
しかしお気にいりの装飾品が見るも無惨な姿になるのなら、滞在したくないと思うかもしれない。
その時は金や他の石を薦めればなんとかなるかもしれないが、そのためにも情報がほしい。
「……なんだかんだで仕事になってないか?」
ノウの話を聞いたアルフラッドは、苦笑いをする。
たしかに、興味も大きいが仕事といえばそうかもしれない。
「まあ、無理のない範囲なら構わないが……実験のためにも、散歩に行くか」
ほら、とごく自然に手を伸ばされる。
気恥ずかしさを感じつつも、誘惑には勝てず、ノウはそっと自分の手を重ねた。
ちょっと短くてすみません……
次回は遅くとも金曜日、頑張れたら火曜日も投稿したいです。