湯治へ
「二人に提案があるんだけど」
ある日の夕食後、ジェレミアが口を開いた。
アルフラッドを見やると、小さく首をふる。彼も知らないらしい。
「ちょっと湯治に行ってこない?」
「湯治……ですか?」
「ええ、ラーネ村に」
名前は勿論のこと、多少の情報は勉強して覚えている。
火口湖の色に似ていると言われたのもあるから、なおさらだ。
ラーネ村とはいうものの、場所は山からかなり離れている。
火山である山の周辺は危険なので、それでも一番近い場所なのだが、麓という印象もないくらいだ。
村は温泉地として有名で、湯治客が訪れるというのも知っている。
「最近新しい宿泊施設ができたんですって」
温泉の効能はかなりのもので、その歴史は領地よりも古いという。
ただ、諸々の理由で栄えることはなく、それゆえに今も村のままだ。
湯治客のための宿は前からあったのだが、長期間滞在できるようにと費用は抑えめのものが多いという。
そんな中、ジェレミアいわく「もうちょっと高価な」宿ができたらしい。
「で、それがうまくいくようなら、もっと高級な宿をつくりたい、って話が出ているの」
つまり、上流階級や貴族をあてにした宿ということか。
「ノウは都育ちでしょ、だからそのへんの判断は私たちよりできると思って」
まだ建築の話も出ていない、希望のものらしい。
だから視察半分、休暇半分で行ってきてほしいとのことだった。
それなりに雪も降るため、行くならその前がお薦めなのだという。
となると、今を逃せば年明けになってしまうだろう。
「俺はいいと思うぞ。効能的にノウにもいいしな」
傷によく効くという話で、実際傷病兵を収容する施設があった過去もある。
古傷でもある程度効果が見込めるという話だから、たしかにノウにはうってつけだ。
だが、うなずいていいものか少し悩んでしまう。
二人で、ということはアルフラッドと共にだろう。
つまりその間の執務はジェレミアに任せきりになってしまう。
過日の事件以来、少し塞ぎがちなノウを気遣ってくれていることは想像に難くない。
自分のために二人を巻きこんでしまうのは、と、どうしても考えてしまうのだ。
だが、たとえジェレミアの言う視察が建前に近いとしても、嘆願があったのは事実のようだ。
温泉に興味があるのも事実だし、いくらかは仕事であるというなら、無碍にするほうが心苦しい。
「わたしも……行ってみたいです。ただ、視察のお役に立てるかどうかはわかりませんけれど……」
正直、貴族といっても下級なのだ。
だが、ほとんど都に滞在したことがない二人よりは、貴族の内情に詳しいのも事実で。
自分で判断ができなかったら、友人らに手紙で聞いてみるという手段も使える。
「なら決まりね、早速手配しましょう」
こくりとうなずくと、ジェレミアは前から考えていたらしく、てきぱき説明してくれた。
宿泊する宿は高価といっても上流階級の人間むけではないので、旅の時のように身分を隠して滞在するらしい。
ノウとしては気楽なので、そのほうがありがたいくらいだ。
「とはいえ一人じゃ大変だから、ヒセラも付き添わせるわ」
前もって彼女には了承を得ていたらしく、彼女はにこにこ笑ってよろしくおねがいします~と頭を下げる。
「でもそれじゃ、ヒセラさんは大変なのでは……」
邸なら仕事を分担できるが、さっきの言葉が事実なら、ノウの世話はすべてヒセラが行うことになる。
旅行中の貴族はそういうものではあるが、自分がその立場になっていいとは思えない。
ナディと一緒の時にも、なんだかんだで色々世話を焼かせてしまったのだし。
やはり断ろうかと口にしかけたが、そのあたりは折り込みずみだったらしい。
「だいじょうぶです~私にも利のあることなので~」
どういうことかと首をかしげたが、そこにはヒセラたち夫婦の事情が絡んでいた。
彼女たちは休みがとれると、前からラーネ村に滞在していたのだという。
だから村のこともある程度は知っているし、過ごしかたもわかっている。
「私たちが泊まるときよりいい宿で~しかもお給料もいただけるなんて~大喜びです~」
夫婦二人の宿泊代はこちら持ちで、さらにヒセラの分の給金も出る。たしかに悪くない話だ。
ノウがあまり迷惑をかけなければ、彼女たちものんびり湯治ができる。
それならたしかに、双方ともに悪くない話だ。
アルフラッドと二人きりの旅行にあこがれはあるが、現実問題、彼はよくてもノウは無理だ。
心理的な問題というより、生活能力などでどうしても一人では動けない。
いい機会なので、普通の生活をヒセラに教わることにしようとひっそり決めた。
「よろしくお願いします、ヒセラさん」
「おまかせください~」
話はまとまり、先にヒセラの夫が宿などの手配を整えてくれることになった。
ノウはのんびり準備をして、アルフラッドとジェレミアはいくつかの引き継ぎをしていった。
とはいえ、日数的にも長期というわけではないから、たいした問題もない。
本気の療養となると一ヶ月以上だが、今回はそこまでではない。
万一があればアルフラッドのもとへ早馬を飛ばすことになっているが、冬への備えは概ね終わっている。
なによりジェレミアがこっそり教えてくれた。
温泉の効能的にノウを入らせたいのが一番だが、このところまたアルフラッドが仕事をしすぎているので、強制的に休ませたいのだ、と。
ノウのことと、オーヘン家に関して思うところのあった彼は、せめてまともな領主でいようと決意を固め直したらしい。
それ事態は悪くないのだが、いきなり無理をしてもいいことはない。
だから強制的に遠ざけたいと言われれば、断る理由はない。
そんな各人の思惑が交差しつつも準備は着々と進み、数日後。
使用人たちに行ってらっしゃいと見送られて、三人は馬車でラーネ村へむかった。
入口近くの目立たない場所まで手持ちの馬車で行き、そこから徒歩で行くことになったのだ。
ラーネ村行きの乗り合い馬車もあるにはあるが、流石にそれに乗せたくないというのが一同の意見だった。
ノウとしてはちょっと興味があったのだが、乗り心地を重視したものでも酔ってしまうので、すなおに従った。
早朝に出発したおかげで、旅というほどもかからず、夜になる前にはラーネ村の近くに到着する。
「──ここからでも、匂いがしますね」
馬車を見送り村のほうを見ると、見た目はごく普通なのだが、あちこち霧のように煙っている。
独特の硫黄臭ははじめてで、歩きながらわくわくしてしまう。
「気分が悪くなったりしたら言うように」
村に充満する硫黄は人体に影響のない程度だが、慣れないうちは気持ち悪くなることもある。
「はい、フラッド様、……あ」
アルフラッドの言葉にいつもどおりうなずいて、失敗した、と言葉を濁す。
今回の湯治での設定は、副隊長夫妻とその部下夫妻だ。
従って、様づけはしないこと、と決めた。
宿泊の間は、ヒセラたちも人前ではノウをさんづけで呼ぶことになっている。
「呼び捨てはやはり難しいか」
「はい……」
今まで呼び捨てにしたのは実家の使用人くらいだ。
それくらい、ノウにとっては経験のないことで、正直難しい。
なるべく名前を呼ばずにすませるしかないだろう。
「俺としては呼んでほしいんだが……ちょうどいいから練習するか?」
無理ですと言いかけたが、村に入ったので押し黙る。
入口から少し行った広場で待っていたヒセラの夫と合流すると、早速宿へとむかった。
最後の区切りです。
話の筋はできていますが文字数が予測不能なので、
このあとの投稿が長くなったりするかも……です。
なおモデルは当然のように群馬県は草津温泉です。
とはいえ、適宜いじっていますので、
効能などはまるまる信じないようお願いします。