ノウの過去
「──わたしが事故にあったのは、ダニエル公爵の領地で、でした」
ダニエル公爵は国王との姻戚関係もある、押しも押されもせぬ大貴族。
代々要職にも就いており、広大な領地も有する、エリジャの実家と比肩する家だ。
つまり、父にとって是が非でも取り入りたい相手だった。
そんな公爵は、自慢の領地に人を呼んでもてなすのを好んでいた。
都から遠くないわりに、森林を持っており、勿論大きな屋敷もある。
そこへいくつもの家を呼ぶのが、彼の気にいりの行事だった。
家族連れを推奨していたので、ブーカ男爵も一家総出で出向いたのだ。
その日は大きな森を使っての狩りが行われ、男性たちは馬を駆り、女性たちは開けた場所で成果を待つ。
子供たちは近くの池の周囲で遊ぶことを許されていた。
勿論公爵家の世話係が何人もついていたし、池も深いものではない。
護衛の兵も十二分にそろっていて、なんの問題もないと公爵自身が断言していたくらいだった。
父は公爵たちとともに狩りに、母は弟がお腹にいるため、室内で休んでいた。
上の姉は年齢が違う別のグループで遊んでおり、ノウは同じくらいの子たちと、浅い池で遊んでいた。……はずだった。
それなのに、ブーカ男爵の次女は、気づいた時にはその場からいなくなっており、その数刻後、付近を流れる川の下流で発見された。
崖の上から川に転落したらしく、ひどい怪我をしており、一時はどうなることかというところだった。
しかし、責任を感じた公爵により金に糸目をつけない治療が行われ、少女は無事命をつないだ。
川は山の頂上付近から流れているものだが、子供たちのいた場所からは離れている。
小さな子が迷ったにしても、遊んでいた場所から、そこまで短時間でたどりつくことは困難だ。
状況と怪我からしても、足を滑らせて落ちた可能性より、誰かに殺意を持って突き飛ばされた可能性が高いとされ、犯人捜しが行われたが、結局見つからずじまいだった。
それらを淡々と説明すると、アルフラッドは少しばかり眉を寄せた。
「ずいぶん……伝聞だな?」
「ええ、ほとんど覚えていないので」
だから、どうしても他人事のような語り口になってしまう。
覚えているのは、事故のあとしばらく経って、広い病室に一人だったことくらいだ。
それもあるのだろう、ノウは自分にある傷をいまだに認めることができずにいる。
覚えていないのは、事故のショックと、年齢のためだろうというのが医師の見立てだ。
長い間傷による高熱で朦朧としていたのもあり、目覚めた時、ノウはその時の記憶をほとんど失っていた。
その後いくらか思いだしたものの、肝心の川に落ちる部分はあやふやなままで、それもあり下手人を見つけられなかった。
ただ、周囲は覚えていないほうがいっそ幸せだろう、と声を揃えた。
なにせ力を尽くしたのに、ノウの身体には傷跡が残る結果になってしまった。
それに加えて死にかけた記憶まであっては、哀れの一言ではすまない、と公爵は大変心を痛めた。
公爵にとっても、自慢の領地での不祥事だから、ぞんざいに片づける気はなかっただろうが、被害者が幼子ということで、なおさら責任を感じたらしい。
男爵家には多大な慰謝料が支払われ、少女にかかる医療費は、それから十年あまり公爵が負担すると申し出てきた。
実際、落ちつくまでの数年間はしょっちゅう医者にかかっていたので、ありがたい申し出だった。
なにかと不便な彼女を思いやり、公爵は様々な舞台や展示などに彼女と、付き添いとして両親を誘ってもくれた。
「父の身分では、とてもしょっちゅう行けない催しの、しかも特等席です」
おまけに、娘のドレスは公爵があつらえてくれたし、その両親がみすぼらしくてはと二人にもなにくれとなく気を配ってくれた。
公爵と同伴も許されていたし、そういう場に行けば、上位の貴族に会うこともできる。
両親は大喜びで誘われるまま、ノウをあちこちに連れて行った。
だから、一般的な子女が社交界にデビューするころまでは、むしろノウは恵まれた生活をしていたのだ。
とはいえ身体のことがあったから、回数は多いとは言いがたかったし、必ずしも彼女の好むものではなかったけれど。
ノウの怪我のおかげで公爵に近づけた父は、持ち前の事務能力の高さを評価され、役職も得ることに成功した。
だから彼女の両親は、ノウを生かしてくれた。──そのほうが便利だったからだ。
しかし、流石に結婚できる年齢になり、かかりつけの医者から日常生活は概ね問題ないとお墨つきをもらうころには、それらは減っていった。
それも当然のことだったので、ノウに思うところはない。
結婚相手に関しても、公爵から話はあったらしいが、同じ程度の爵位の青年は父が納得できず、うまいこと断ったらしい。
両親からの愛情を受けた覚えはないし、罵声も浴びせられるものの、暴力を受けたことはない。
それは単純に、かかりつけの医師に気づかれると厄介だとか、利己的なものだけれど。
専属のメイドはいなくても、一応まっとうな食事は与えられているし、勉強もできている。
身体のことがあるせいで、下働きのようなこともほとんどさせられていない。
公爵の援助があったにしろ、ノウをここまで育てるのに、両親は少なくない金を消費しているのは、事実だ。
「……ですから、その分の恩くらいは返すべきでしょう」
どうせまともな結婚は望むべくもないのだ。
それなら両親の望むまま、金持ちの貴族の後妻になるのもやむをえない。
どうしても耐えられなかったら、数年してから修道院にでも入ればいい。
手に職など持っていないノウは、市井での生活などできるわけもないのだから。
冷静に告げたノウに、アルフラッドは無言だった。
話は聞いていたようだが、どう言葉を返していいか、考えつかないらしい。
「幸福だとは思えません、でも、不幸だと言うほどでもないと思うので、どうぞお気になさらず」
自分より不幸な人間は山程いるだろう。
この年齢まで生きてこられなかった子供たちだって、きっと多い。
衣食住に困らずここまでこられたのだから、僥倖なほどだ。
「──しかし──」
アルフラッドがなにか言いかけたその時、時を告げる鐘の音が響いた。
「今夜はわたしのつまらない話ばかりになってしまいましたね、申し訳ないことをしました」
立ち上がり頭を下げると、いや、とそこには即座に反応がある。
しかしそれから言葉は続かず、だがきちんと介助してくれた。
両親と軽い挨拶を交わして、先日のように馬車へ乗りこむ。
顔に出ないように気をつけながらも、失敗した、と思う気持ちは止められなかった。
あんな身の上話をしても、面白いわけがないのに、つい饒舌になってしまった。
きっとアルフラッドも飽き飽きしただろう。
折角話し相手ができて嬉しかったのに、自分から棒に振るような真似をしてしまった。
どのみちしばらくすれば、会えなくなる相手なのだ。
だったら少ない日を楽しく過ごせるよう、心を配るべきだったのに。
陰鬱な気持ちで、帰宅したノウは言葉少なく自室にもどり、深いため息をついた。