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家族

 ばしゃん、と気の抜けた音がして、ついでじわりと冷たさが身体の下から感じられる。

 魚が泳いでいると言っても小魚だけで、水深はそこまでではない。

 高さもさしてなかったから、少し痛い気はするが、大きな怪我もないだろう。

 だからすぐに立ちあがればいいだけなのだが──ノウにはそれができなかった。


 ──たしか、あのとき。

 話しかけるようにと父にきつく言い含められていた令嬢の何人かの一人が、ふらりと森の奥へ入っていくのを見かけて。

 思い出したことと、子供らしい好奇心につられてついていったのだ。

 彼女の足はなかなか速く、子供の足では追いつけなくて、結果、尾けるようなかたちになってしまった。

 他のことに気をとられていたのだろう、へたくそな尾行だったろうが、勘づかれることはなかった。

 そうしてたどりついた場所には、ひとりの先客がいた。

 見覚えのない顔を不思議に思うとともに、帰り道がわからなくなったことで、急に不安になった。

 令嬢に声をかけようと草むらから出ていくと、先にいたの男が血相を変えた。

「お前……見たのか!?」

 彼の形相はとても険しく、幼いノウにはものすごく恐ろしいものに見えた。

 当時はまだ両親から冷たくされてもいなかったので、あからさまな怒気をむけられたのははじめてだったのだ。

 ずんずん近づいてくる男に捕まりたくないと、ノウは思わず逃げだしてしまう。

 だが、ここがどこかわからない上に少女の足では、すぐに追いつかれてしまった。

「待って! 可哀想なことはしないで!」

 さらに後ろのほうから、令嬢の悲痛な声が響いてくる。

 けれどふりむいて見ても、男は怒りの表情のままノウを追いかけてきていて、足を止めることはできなかった。

 よそ見をしたのがいけなかったのだろう、足をつんのめらせてしまい、そばの川に落ちてしまった。

 ほとんど手つかずの場所だったからか、身体をぶつけたせいもあり、痛みで数秒、目の前が見えなくなる。

 うっすら視界が開けたと思った時には、頭上にはさっきの男がいた。

 彼はノウの細い首に両手をかけ、ぐっと力を入れてくる。

 多分、彼にしてみればたいした力ではなかったのだろう、だが、混乱しているノウには、十分命の危険を感じるものだった。

「彼女の前で殺すわけにはいかないからな……お前は全て忘れて、このまま川に流されるんだ」

 早口で紡がれた言葉に、正直理解は追いつかなかったが、拒絶すれば命はないことは本能的に察知した。

 だからノウは泣きながら必死にうなずくことしかできなかった。。

「運がよければ助かるだろうさ──」

 男はにやりと笑うと、わざとノウの身体を持ちあげて、思い切り川底に叩きつけた。

 全身に痛みが走り、口の中は水が入って苦しく、なにもかもがわからなくなる。

 ほとんど意識を失ったノウは、男に蹴飛ばされ、流れのある場所へと放られた──


 ──だからわたしは、溺れていなければならない──


 恐ろしいものはなにも見たくなくて、目に入った水も痛くて、ノウは目を閉じる。

 身体には力が入らない、傷のせいなのか、男の言葉のせいなのか。

 どちらだろうかと判断することも、今のノウにはできそうにない。

「ちょっと、なんでさっさと立たないのよ!」

 喚く声は遠くからするが、誰のものかもわからないし、意味は理解できない。

 だって殺されてしまうから、起きあがってはいけないのだ。

 このまま流れて──そして──

「──ノウ!!」

 あの時には聞いたことのない、けれど「今」の自分はよく知る声が響いた。

 ついで、ざぁっと水から引きあげられる。

「……っ、う」

 けほけほとむせていると、背をやんわりとさすられた。

 どうにか息を整えることに成功すると、視界のほうもはっきりしてくる。

 誰かに、抱えられている。──だれ、なんてわかりきっている。

 すっかり慣れた香水に、万一にも落とされる不安のない腕。

「大きな怪我はなさそうだな」

 そして、一言聞けば安堵できる、低い声。

 緩慢な動きで見上げると、そこにはアルフラッドの整った顔があった。

 急いで駆けつけてきたのか、珍しく息が少し上がっている。

「──ああ、ナディ、ありがとう」

 不意にアルフラッドがそう言ったかと思うと、肩を覆うようにストールが巻きつけられた。

 いつのまにかナディがそばにきていたらしい。

 たしか、馬車で待機していたはずだが、いつのまにここまできたのだろう。

 ストールはびしょ濡れの自分に巻いたら大変なことになると止めるべきだが、包まれる感触にほっとしてしまう。

「こんなところにいる必要はない、帰るぞ」

 アルフラッドは返答も聞かずに言い切ると、呆然としている令嬢には目もくれずに踵を返す。

 ノウは気づいていないが、濡れたことでドレスの生地が透けて、傷が見えそうになっている。

 季節柄ということで厚地のドレスだからはっきりとはわからないが、ノウが知れば傷つくだろう。

 怯えきって水の中から動かなかった姿からしても、事故の時を思い出しているのは明白だ。

 だからアルフラッドは余計なことは口にせず、とにかく邸に帰ることを優先した。

 当主への挨拶も無視するが、しでかしたのは娘のほうだ、不作法を咎められても知ったことではない。

 本気で歩けば、普通の者は追いつけない。

 万一にもノウを落とさないよう気をつけながら邸の入口へもどれば、そこには準備万端の馬車が待っている。

 おろおろする当主夫妻は一睨みで黙らせて、そのまま乗りこめば、即座に馬が走りだした。

「寒いだろうが、もう少しだけ我慢してくれ」

「はい、あの……ありがとう、ございました」

 抱えられたまましばらくして、そういえば礼を告げていないと思い出す。

「いや、道を把握しきれなくて遅れてしまったからな……すぐに助けられず、すまなかった」

 もっと急げればよかったのに、と悔しそうに言われて、そんなことはないと首をふる。

 ノウだけだったら、あのまま水の中にいつづけたはずだ。

 他力本願で情けないが、救いだしてもらえて本当によかった。

「……あ……カメオ、は」

 はたと気づくと、手、とアルフラッドに示される。

 にぎりしめたままの己の片手を開くと、そこにきちんとカメオがあった。

 見たところ破損はしていないようで、よかったと息を吐く。

「ノウが無事なことのほうが大事なんだが……その気持ちは嬉しい、ありがとう」

 不本意な表情を隠しもしないが、ちゃんとノウの意思を尊重してくれる。

 そういうところがたまらなく嬉しいのだと告げたいのに、まだ頭が混乱していてうまく喋れない。

 アルフラッドもあまり喋らなくていいと優しく声をかけてくれたので、ぼんやりしているうちに馬車が停まった。

 抱えられたまま邸の扉から中へ入ると、ジェレミアと使用人が何人か、そして見慣れた医者の姿もあった。

 無事に邸に戻ってこられた、とわかると、ほっと身体の力が抜ける。

「とにかく冷えた身体を温めましょう。ノウ様、非常事態ですので浴室内まで付き添いますが、ご容赦ください」

 往診の時に顔を合わせており、傷も把握している助手に申しわけなさそうに言われて、半分ほど理解できないままわかりましたとうなずく。

 流石にこの状態のノウを一人にさせるわけにはいかないという医師の判断だ。

 助手の女性はなるべく傷を見ないよう配慮しながらノウの濡れた服を脱がせ、傷を検分し、入浴の介助をした。

 その後医師が診察を終えると、すぐにアルフラッドとジェレミアが入室してくる。

「かすり傷ですんで幸いでしたな。水に濡れたので風邪を引くかもしれませんが……」

 できたばかりの川だったこともあり、傷口から雑菌が入る可能性も低そうだという。

 それを聞いた保護者二人はほっと顔を見合わせた。

 医者は、明日も往診にくると約束して帰って行った。

 うまく動かなかった心と身体は、落ちついてきたことで大分正常にもどってきていた。

「あの……ご心配をかけてしまって、すみません」

 あまり謝るなと言われているが、流石に謝らずにはおれなかった。

 傍らにすわる二人に頭を下げると、目眩がしてしばらく起きあがれなくなってしまう。

 ジェレミアはノウの背を支えて再び座位にもどすと、乱れた髪を払ってくれた。

「そうね、心配したわ。でも、それ以外の謝罪はしなくていいわよ」

 同行していたテムとハーバーは、事態を把握するとすぐに行動した。

 一人は邸にもどり状況説明、一人は医者に行ってすぐに往診にくるよう依頼する。

 そのおかげで、ノウにすぐ適切な処置を施すことができたのだ。

 すぐに移動したため、怪我の詳細などは把握できていなかったが、命に別状がないことは見ればわかった。

 だからジェレミアたちは心配はしたが、深刻なほどではなかったのだ。

「そうだぞ、悪いのはノウじゃないだろう」

「それは……どう、なのでしょうか……」

 落ち度はない、とは思う。だがノウの存在自体を気にくわなかったのであれば、まったく責任がないとも言い切れない。

「少なくとも俺はそう思ってる」

「勿論、私もよ。……でも、詳しい話を聞くのは体調がよくなってからにしましょう」

 説明しようと口を開きかけたが、制されてしまう。

 それなのに二人は、ノウを被害者だと信じている。

「……どうして、ですか?」

 不思議でしかたがなくて、呆然と呟いてしまった。

 なにも話していないのに、両者ともノウを責めるつもりはまったくない。

 ひたすらこちらの体調を案じてくれている。

 だが、わからないのはノウだけのようで、二人はなにを今さら、といった表情だ。

「恋人、……家族はいつでも味方なものだ。……そうじゃなかったのは知っているが、そういうものだぞ」

 ジェレミアに睨まれて言葉を訂正し、アルフラッドがけろりと言い放つ。

 当たり前のように告げられた家族という単語は、ぼやけた頭にもはっきりとどいた。

 二人は自分のことを、家族だと思ってくれている。

 だからたとえ(ないと思っているが)ノウにいくらかの過失があっても味方なのだと断言する。

 それは、ノウが憧れた家族の姿だ。

「……あ、ありがとう……ございます」

 弱った状態では我慢できるはずもなく、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしてしまう。

 二人は泣かせてしまったと困りつつも咎めることはなく、ずっとそばにいてくれた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 実際問題、事故として処理されたのなら家格が高かろうと程度が知れるわな。
2022/01/21 15:08 退会済み
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