日々の話
小話二本。
・ノウのノート
アルフラッドが寝室の扉を開けると、そこには誰もいなかった。
おや、と思って隣室をノックしてみると、ややあっていらえがある。
入ってみると、ノウはせっせと書き物をしているところだった。
「……っと、すまない」
慌てて謝り踵を返すが、構いません、と穏やかに止められる。
実際、入室を許可したのだから平気なのだろうが、ものが日記などであれば申しわけない。
「忘れないうちに今日のことを書いておこうと思ったのですが……ちょうどよかったです、紫色の服をお召しになっていたかたはどなたでしたっけ」
「紫?……」
「腰痛がよくなったので観にこられた、と仰っていたかたです」
ノウの説明で、ようやく心当たりができる。
名前を教えると、ありがとうございます、とペンを走らせた。
ということは、日記ではないのだろうか。
「何を書いているんだ?」
覗くわけにもいかないと遠くから声をかけると、ノウはノートを手に立ちあがった。
そして、躊躇なくアルフラッドにさしだしてくる。
いいのかと首をかしげながら受けとってみると、そこにはびっしりと文字が記されていた。
そこには、家名と名前、特徴、会話が記録されている。
日記というより、標的を尾行したあとの報告書のようだ。
「フラッド様がノートをくださったので、細かく書けます、ありがとうございました」
「あ、ああ……いや、それくらいはいいんだが」
こういうものを書くために渡したつもりはなかったのだが、ノウが満足そうなので言葉を濁す。
それにしても、と内容を読んで驚嘆する。
短い時間のやりとりだけだったのに、よくこれだけ覚えておいたものだ。
「こういうことは、昔からしていたのか?」
記述の無駄のないまとめかたからして、昨日今日のものではない。
間違いなく、彼女の中での書式ができている状態だ。
アルフラッドの問いかけに、はい、とうなずいてみせる。
「あのひとたちは、一度言ったことをもう一度言わせる気か、とひどく怒ったので」
それもしょっちゅう前と変わったりするのですけれど、と呟く表情は、以前のように暗くない。
事実として淡々と述べている様子で、大分ふっきれているのだろう。
記憶力には限界があるから、彼らからの叱責をなるべく減らすために、こうして記入することを覚えたというわけだ。
「それにしても簡潔にまとまっていて凄いな」
綺麗な文字が整然と並んでいる姿は圧巻ですらある。
「それは……その、ノートを用意するのも大変だったので……」
恥ずかしそうに話すノウの姿に、ああ、と納得した。
ノウに対して出し渋る両親は、ノート一冊ですら文句をつけたのだろう。
なんとか工面してもらって手に入れたから、少しでも無駄にしないようにと工夫して、その結果がここにある。
「これから少しずつ外に出ることも増えるから、また用意しておこう」
アルフラッドが言うと、嬉しそうに微笑んで礼を言う。
宝石やドレスの話より喜ばれるのは複雑な心境でもあるが、この情報はアルフラッドにとっても役立つものだ。
無理をさせたくないと思う一方で、もう少し社交を増やしてもいいかもしれない、とジェレミアに相談することを決めたのだった。
「……というわけで、俺はつくづくいい嫁をもらったと思う」
しみじみ呟かれたカーツは、まじまじとアルフラッドを凝視してしまう。
「まさかあなたからのろけを聞かされる日がくるとは考えもしませんでしたよ」
見た目に反して浮いた噂のない主だったのだが、変われば変わるものだ。
のろけの中味がいささか新婚家庭らしくないものの、言葉にはたしかな情が感じとれる。
「ノウはたいしたことじゃない、と恐縮してたが……」
そんなことないよな? と目線で問われ、そうですね、と返す。
出会った相手のことを記しておくこと自体は、たしかに誰にでもできることだ。
しかし、要点だけをまとめて記入すること、そもそも記入そのものが、なかなかできることではない。
やっておけば便利だとわかっていても、行動できる者は少ないだろう。
だが彼女は億劫だなんだと後回しにせずに書き記している。
それに至った事情はあまり喜べたものではないものの。
特に秀でている面があるわけではないが、真面目にとり組む姿は、ほとんどの相手から好感を得るだろう。
直情的に見えるアルフラッドとの相性も悪くない。
それになにより、彼自身が以前よりきちんと休息をとるようになったし、言動にも余裕が出てきている。
カーツにとっては結婚してくれて、うまくいって万々歳というところだ。
「……で、まとまったら情報として給料を払うことになった」
「──は?」
今、この主はなんと言った?
「別に構わないと言っているんだが、気にするからな……ノウが自由に使える金があったほうがいいと思って」
だが、きまじめな彼女はただ受けとるだけをよしとしない。
そこで、情報提供料という形をとることにしたのだという。
「まあ……お互い納得なら、かまわんですが……」
どうもこの夫婦、双方共に微妙にズレている。
しかし、水を差す気にもなれず、カーツは黙殺を決めこんだ。
・ノウの思い出の味
「あの、今大丈夫ですか?」
台所に顔を出すと、気づいた一人がすぐに料理長を呼んでくれた。
昼食後の比較的時間があるだろうころあいを見計らったのだが、食堂には何人かがいて、遅い食事をしていた。
悪いところにきてしまったかと後悔したが、支度はすんでいたらしく、料理長は帽子を脱いだ姿だった。
「ノウ様、動いて大丈夫なんですか?」
顔を見てすぐの言葉に、つい微苦笑を浮かべてしまう。
「皆さん大袈裟です、少し気分が悪かっただけですから」
このところの暑さのせいだろう、朝から軽い吐き気と目眩がしていた。
気取られぬようにしたかったのだが、食事が食べられずあっさりバレてしまったのだ。
医者を呼ぶほどではないと説得した結果、それは免れたが、部屋で休むようにと二人から厳命された。
おかげで玄関で見送ることもできず、それを悔やんでいたらアルフラッドがわざわざ出る前に寄ってくれた。
涼しくなるようヒセラが気を遣ってくれ、自分でも水を飲んで安静にしていたので、もう吐き気はおさまっている。
「はやくお礼を言いたくて……お昼、わざわざつくってくれたんですよね?」
昼食に出てきたスープは、とても懐かしい味がした。
料理長はええ、と微笑んでみせる。
「メモが書いてあったんです。お嬢様は体調が悪い時でも、このスープなら召し上がる……とね」
実家で調子を崩した時、よく出してくれたものと同じ味だった。
おかげで完食できたので、ちゃんと感謝を告げなくてはと決意したのだ。
ただ、レシピ通りに調理したということは、料理長にとっては、自分の味ではないものを出したことになる。
ノウは料理をしないので判断しづらいが、それは料理人にとってあまり気分のいいものではないのでは、と心配にもなったのだ。
だが、料理長は豪快に笑ってノウの不安を飛ばしてしまう。
「調子の悪い時は、好きなものを食べるのが一番ですよ」
「でもわたし、ここのお料理も大好きです」
それは、嘘偽りない本音だ。
味つけは実家と異なるが、嫌なものではない。
「ええ、いつもきちんと召し上がってくださいますしね」
にこにこと嬉しそうに頷かれて、少し恥ずかしい。
食べ過ぎているわけでないが、明らかに以前より食事量が増えているのだ。
アルフラッドいわく、機能訓練などで動いているから当たり前、だそうだが。
昔だって痩せ気味ではあったが、定期的に医者に通っていたので、両親は疑われないように気を配っていた。
だから、決して病的なものではなかった。
「勿論、ちゃんと考えてくださっているのはわかっているのですけれど……」
色々な食材をバランスよく使っているし、同じくらい食べているジェレミアたちの体型もすっきりしている。
だから大丈夫だろうと思っても、気になるのは乙女心というものだ。
「いらしたならちょうどいい、まだ食欲がなかったらとつくったものがあるので、味見してください」
これはうちの味つけですよ、と加えられれば、断る選択肢はない。
ノウは喜んで、と答えて中へ入っていく。
本来は使用人たちの食堂であり、主が入ることはないのだが、ジェレミアもうるさく言わないので気にしない。
まだ残っていた者がびっくりしていたが、お邪魔します、と断れば察してくれる。
ノウにとっては、実家でよく出入りしていた場所なので、懐かしさすら感じるくらいだ。
出てきたものはたしかに普段の食事と似た味つけで、けれど十二分においしく、さらに試作品のデザートまで出されてしまった。
ぺろりと平らげたノウは、朝できなかった機能訓練をこっそり部屋でやろうと心に決めた。