観劇のあと
「ほら。……手が赤くなってるだろう」
「す、すみません……」
これを、と手渡された飲物は、飲むためというより手を冷やすためだろう。
両手で受けとると心地いいので、やりすぎた自覚はある。
「とても面白かったので、つい……」
上演が終わり、会場が拍手に包まれていた中、ノウも同じように手を叩いていた。
夢中になって拍手し続けたために、アルフラッドに止められた時はいくらか感触がなくなっていた。
けれど、それだけしても足りないと思うほど、素晴らしい内容だったのだ。
久しぶりに観られたから、アルフラッドと一緒だったから、好きな作品だったから、理由をあげれば切りがない。
今も興奮して喋りたくなるのを必死に耐えている状態だ。
「座って飲んでから出るか」
観劇中は目を離すまいと集中していたから、ひどく喉が渇いている。
立ったままでもマナー違反ではないが、ノウには負担がかかるだろう。
馬車も混んでいるだろうし、領主だからと順番を押しのけて行くつもりもない。
アルフラッドが空いている席へ移動しようとノウを誘導していくと、その先にはオーヘン卿がいた。
「ああ、オーヘン卿、よければあなたも」
片方にはアルフラッドとノウ、対面にオーヘン卿が腰を落ちつける。
これで、他の者は声をかけづらくなるからちょうどいい。
彼はノウの様子を見て、満足げに微笑んだ。
「楽しめたようですな?」
ええ! と深くうなずいて答えに代える。
「俺も楽しめた。二人の言っていた書斎のシーンの謎もとけたしな」
嬉しそうなアルフラッドの様子に、ノウも嬉しくなる。
書斎のシーンは、原作では事件の要となる人物の視点で描かれており、確信に至る部分がそれゆえ気づきにくい、というミスリードを誘うものになっていた。
従って演劇では再現が難しかったのだが、それを舞台や演者の配置と照明によって見事に観客を欺いてみせたのだ。
最後でそれが明らかになった時の興奮といったら大層なもので、思わず二人で顔を見合わせたほど。
オーヘン卿はそんな二人を見て、好々爺のように笑みを深くした。
「ノウの服装も理由があったんだな、……それに、オーヘン卿も」
今夜は敢えて緑色の衣装にしたのは、劇中の女性が身につけていた描写に近い形だったからだ。
オーヘン卿も同じように、主要キャラの衣装に合わせたのだろうものだ。
あからさますぎては興ざめなので、あくまでにおわす程度だが、彼のさじ加減も絶妙だ。
どうやらよく観にきているようだから、事前に準備しておいたのだろう。
ブローチもぎりぎりだったが作中で扱われているものに似せられたので、ノウとしても満足だった。
「都から帰ったと思えば、結婚したと聞いて驚きましたが……よい関係のようですな」
安堵の響きは、ノウの想像する父親のような温度を持っていた。
アルフラッドも薄く笑みを浮かべて、同意している。
彼は卿を頼みにしている、であるならば──
「あの、原作もお好きなのですよね? でしたら今度、ゆっくりお話ししたいです」
ジェレミアとアルフラッドの間をつなぐ役目のようにオーヘン卿ともつながりをつくれれば。
そうすればもっとやりとりがしやすくなるだろう。
自分は直接政治に関わっていないから、引退した彼と会ってもさほど大事にはならないはずだ。
「──こんな年寄りでよければ喜んで」
ややあって快く了承してくれた彼の目は深い知性がたたえられていて、ノウの考えなど見通されているようだった。
だが、べつにそれで構わない。ノウの目的は腹の探り合いではないのだから。
「ありがとうございます」
そんなノウの姿を、アルフラッドは少しの驚きと、感動と、ないまぜになって見つめていた。
「──ありがとう」
帰りの馬車でぽつんと落ちた呟きに、首をかしげてしまった。
「ええと……どのことでしょう」
オーヘン卿と話したあと、数名と挨拶をしたところで馬車の順番がやってきた。
アルフラッドが会話した相手は皆友好的で、彼のほうもきちんと対応していたから、関係の悪い者ではないのだろう。
そう判断して、ノウも愛想よく……とはいかないが、真摯にしていたつもりだ。
だが、それは当然のことで、礼を言われることではない。
「オーヘン卿のことだ。気にしてくれたから、ああ言ったんだろう?」
重ねて告げられ、ああ、そのことかと得心する。
だが、それもたいしたことをした自覚はない。
「お話を聞いてみたいのは本当のことですから」
まだ外に出ることの少ないノウには、友人と呼べる存在がいない。
都の友人と手紙のやりとりはしているが、なにせ辺境だ、通常のやりとりではひと月に一通がやっとというところ。
速達便を使う内容でもないから、それで十分だと思っているが、今、この時に喋りたい、という時に困ってしまう。
ただ、派閥やらなにやらがある状態だから、ノウの友人選びも難しいのだろう。
ヒセラやナディは話し相手になってくれるが、どうしても身分の差が埋められない。
一般的な使用人よりは砕けて接してくれているが、それでも一線は引かざるをえないのだ。
アルフラッドやジェレミアにも不満があるわけではないが、二人ともノウの読書趣味を歓迎はしていても、読む本の種類は被らない。
聞いてはくれるが、語りあうとはいかないのだ。
その点オーヘン卿なら、年齢は離れているが政治とは無縁だからあまり気にしなくていいだろう。
「とりあえず、お手紙をさしあげるところからはじめようと思います」
原作について語りたいことは山ほどあるが、最初から飛ばすわけにはいかないので、まずは軽めに礼からはじめて……と考える。
「わたしのほうこそ、ありがとうございました。劇は勿論ですけれど、劇場も素敵な建物でしたし」
「喜んでもらえたならよかった。色々やっているから、またなにか観に行くか?」
支配人いわく、演劇だけでなく、交響曲、歌劇、舞踊など幅広く上演しているという。
このあたりで一番大きな劇場だからこそだろう。
この先の予定を聞いたが、たしかに種類豊富で、行ってみたいと思うものもあった。
だが、今回の演目はアルフラッドも気にいったが、毎回そうとはかぎらないだろう。
「それもいいですけれど……でも、今度はまた、街を歩きたいです」
社交が必要なことは理解しているし、逃げるつもりはない。
だが、そういう時のアルフラッドは領主としてのふるまいに徹していて、今ではそのほうが不自然に見える。
そうしなければならない状況は理解しているし、正しい行動なのだろう。
「フラッド様と二人でいるのが、一番嬉しい……ので」
休みの日の町歩きの時の彼は今夜のような雰囲気ではなく、もっとのんびりしている。
いずれは領主らしさも板についていくだろうが、それまでは無理をしなくてもいいのではないかと思うのだ。
ノウに無理強いをしてこないのに、こちらが強いることは避けておきたい。
アルフラッドはきょとんとしたあとに、そうか、とゆっくり微笑んだ。
反対にノウはといえば、恥ずかしい告白をした自覚が遅まきにやってきて、頬を染めてしまう。
「なら、今度はまた街へ出よう、だが、気になる上演がある時は、遠慮しないように」
はい、とうなずくと満足げにしたあと、じっと見つめられる。
「普段の服装も悪いわけじゃないが、今日みたいなのもよく似合ってる。かわいい姿を間近で見られるなら、苦手な観劇も頑張るさ」
「そ、……え、ええと……」
着飾った姿を褒められたのだと悟り、どう返すのが正解か悩んでしまった。
いつもなら否定するところだが、今日の装いは大勢の者の力で成り立っている。
否定することは彼女らの仕事まで落とすことになるから、それはできなくて。
なにより、今日の服装は自分でも色々考えた自信作だから、褒められることは嬉しくもあるのだ。
「あ、ありがとう、ございます」
だからどうにか礼を口にしたが、恥ずかしくてまともに顔は見られなかった。
「──そう、楽しめたならよかったわ」
翌日の朝食時、興奮気味にジェレミアに昨夜の報告をした。
帰宅した時には、彼女はすでに自室で飲酒中だったので遠慮したのだ。
そんな義母を見て、ノウは昨夜から考えていたことを思い切って口にする。
「あの……年明けには、果物が関わる話の舞台があるそうなんです」
昔話をもとにしたもので、果樹の精霊だかが出てくるらしい。
ああいう場所は先々の予定まで決まっているので、支配人から教えてもらったのだ。
「ですから、その時は、お義母様も一緒に行きませんか?」
年が明ければ、形式的な喪は明ける。
ジェレミアがそれからすぐに喪服を脱ぐかどうかはわからないが、対外的には外出しても問題はない。
アルフラッドとの外出は楽しいし文句はない、だが、ジェレミアとも出かけたいと思うのだ。
両親との外出は窮屈なばかりでいい思い出はないが、彼女とならきっと楽しいものになる。
「……考えておくわ」
返答はあまり前向きではなかったが、追求はせずはい、とうなずいておく。
年明けまで時間はあるのだ、それまでに寄り添い、出かける気になってもらえればいい。
決意に燃えるノウは、二人が彼女の変化にそっとうなずきあっていることには気づかなかった。
次は小話まとめの予定なので週二更新の予定です。