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呼び名と、

 途中で視点が変わります。

「ああ、そうだ、ちょうどいいからその話もしておこう」

 まだ眠くないかと問われて、はい、とうなずく。

 寝ようと思えばできそうだが、もう少し話していたいと思えた。

「邸の中では基本的に、相手のことは名前で呼んでいるんだ」

 アルフラッドのことは旦那様と呼んでも問題ないのだが、当の本人が呼ばれている自覚がなく、聞き逃してしまうらしい。

 慣れていないからというのもあるし、そんな身分の自覚も薄いからだという。

 なので、名前で呼んでくれと頼んでそうしているのだそうだ。

「あのひとも、大奥様呼びは嫌だと言うので、ちょうどいいからと統一させた」

 アルフラッドは彼の父を毛嫌いしているが、どうやらジェレミアも快くは思っていないようだ。

 最も、聞いた話だけでも、好感を持ちにくい相手ではある。

 夫であるはずなのに、彼への挨拶を急かさないことからしても、あまり話題に出さないほうがいいのかもしれない。

「あの男はそういうのが好きだから、大旦那様呼びらしいが……まあ、それはどうでもいいしな」

 前領主であり舅である彼は、今自分たちのいる棟とは別の場所で生活している。

 とはいっても敷地内だし、歩いて行ける距離だが、建物自体がまったく別なのだそうだ。

 表向きは療養のためだが、要するにアルフラッドが顔を合わせたくないのだろう。

 そちらにも十分な使用人がいるそうで、特に問題は起きていないらしい。

 ただ、ノウとしては一度は会っておきたいところなのだが。

「そういうわけで、君のことも名前で呼ぶと思うが……大丈夫か?」

「問題ありませんけれど……どうしてです?」

 なにかあっただろうかと問いかけると、少し口ごもる。

「その……名前にいい思い出がないんじゃないかと」

 ややあっての言葉に、納得する。

 それと同時に何度も感じている優しさに、じわりと胸が熱くなった。

「平気です、あのひとたちはわたしの名をほとんど呼びませんでしたし……名づけたのは、祖母らしいので」

 きちんと名を呼ぶのは、公の場、人前でだけだった。

 それ以外ではお前と言われればいいほうで、そもそも存在を認識してもらうことが少なかった。

 母に至っては口にすることすら嫌そうにしていたので、外でもほとんど呼ばれていない。

 だから、名前に対して思うところはないのが本音だ。

「それならよかった。じゃあ俺も、気にせず呼ぶことにするな」

 ほっとした様子を見て、そういえば彼はよく「君」を使っていたと気がついた。

 癖なのかと深く考えていなかったが、名前が嫌かもしれないと配慮していたわけだ。

「──あ、でも、名前というなら……アルフラッド様のほうこそ」

 母親の意思など無視されていた状況からして、名前をつけることが許されたとは考えづらい。

 漏れ聞く過去からしても、名付け親は彼の父だろう。

 それなら、アルフラッドと呼ぶほうこそ問題なのではないか。

 ノウの不安を、けれど彼はありがとうと笑って否定した。

「まあ、つけたのはたしかにあの男だが……先祖の名前から選んだものだから、そこまで抵抗はない」

 なるほど、だからアルフレッドではないのか、と納得する。

 偉大な先祖の名前をつけるというのは、よくある話だ。

 歴史に重きを置いているという話だから、なおさらだろう。

「この名前の人物は、剣技に長けていたらしいから、ちょうどいいくらいだしな」

 名は体を表すというべきか、なんというか。

 愉快そうに笑うアルフラッドに、つられて少し笑ってしまう。

 それならこちらも、遠慮なく呼んでいいだろう。

「──そうだ、いっそ、フラッドと呼んでくれ」

 名案だ、といわんばかりの弾んだ声。

 愛称だというのは察せられたが、今まで誰かが彼をそう呼んでいた覚えはない。

「母が呼んでいたんだ」

「お母様と一緒、ですか……」

 おこがましいと呟きかけたが、きっと彼は喜ばないと言葉を濁す。

 しかし、彼の母親と同じ愛称を使うというのは、ノウには勿体ない気しかしない。

 だが彼は、ほんの少し寂しそうにつけ加える。

「もう誰も、そう呼んでくれないからな」

 そんなふうに呟かれたら、嫌と断れなくなってしまう。

 ジェレミアとの仲は悪くないというが、砕けた雰囲気とも違うのだろう。

 一緒に生活するようになってからの月日もまだ短いから、当然でもある。

 父親からは呼ばれたくないだろうし、他に愛称を許せる親しい人間もいないのだろう。

 自分の立場は妻なわけだから、愛称で呼ぶのはなんの不都合もないし、むしろ好印象を与えられそうだ。

「わかりました、ええと……フラッド様」

 様づけをするとちょっと不満げだったが、これ以上は無理だ。

 呼び捨てなんて、慣れた使用人にしかしたことがない。

 今後の課題だな、と言われたが、そんな未来は想像できなかった。

 だが、素直に告げて悲しませる気にもなれず、とりあえず黙っておく。

 邸で主に顔を合わせる人間の名前をいくつか教わっているうちに、小さな欠伸が出てしまった。

「遅くまでつきあわせたからな、俺のことは気にせず眠るといい」

 すみません、と謝る前に先手を打たれてしまう。

 どうやらアルフラッドはもうしばらく起きているつもりらしい。

 そういえば旅の間も、先に眠った姿を見たことがない。

 軍経験がそうさせるのか、それとも自分が耐えきれずに眠っていたのか。

 どちらもありえることだと働かなくなってきた頭で考えかけて──そこで途切れた。




 すうすうと穏やかな寝息に安心して、アルフラッドはボトルに残っていた酒を直接あおった。

 喉を通る独特の風味は気に入っているのだが、今はどこか苦く感じる。

 深く嘆息して、改めて眠る姿を見やった。

 こうして見ている分には傷はわからないので、特に変わったようには見えない。

 けれど、心に残る傷は、目に見えるそれより大きいのではないかと思う。

 彼女はかつて言っていた、育ててもらった恩くらいは返すべきだ、と。

 だが、話を聞いたアルフラッドには、とてもそう考えられない。

 年端もいかない娘の首を絞めるような親に対して、そんな感情を持つ必要があるとは、どうしたって賛同できないのだ。

 ノウは実際にされてはいない、と話していたが、そんなことは些細な問題だ。

 肝心なのは、体面を気にしなければ、本当に行動に移していた、と、ノウが感じているという部分だ。

 そうされてもおかしくないと、実の父親に対して判断している時点で、まともではない。

 そんな相手に恩返しなど不要というか、むしろ、こちらがふんだくってもいいくらいだ。

 ブーカ男爵家には折々に挨拶とともになにかしら贈ることになるだろうが、最低限ですませてしまおうと決意する。

 カーツあたりに頼めば、うまくやってくれるだろう。

 ──アルフラッドの母は、決して父の悪口を発しなかった。

 そして、めいっぱいの愛情を惜しみなく与えてくれた。

 今になってみれば、それがどれほど大変なことだったかわかるが、当時はそれが当たり前だった。

 愛されていることになんの不思議もなく、受けとめて、おかげで立派に成長できた。

 今父親を嫌っているのは、母によるものではなく、長じるにしたがって知っていった情報からの、総合的な判断だ。

 それがなかったころは、父親に対してここまでの感情はなかった。

 幼いころに伯爵家で暮らしていた時も、ほとんど交流を持たないままだったので、空気のような存在だったし。

 そのままであれば、アルフラッドは父のことを、特になんとも思わないままだっただろう。

 なんの運命の悪戯か、こうして爵位を継ぐことになったから、負の感情が出てきたわけで。

 だが、ノウは己が不幸であることも自覚せず、異常だとも認識できず──いや、認めることを無意識に拒絶しているのかもしれないが。

 とにかく、歪んだままにきてしまっている。

 だが、今は彼らから離れているから、時間が経てば、いびつな認識もなおっていくことだろう。

 少なくとも、邸の中の人間は、彼女の傷だけで判断をくだしはしない。

 性格がどうかによるわけだが、そこは問題ないと自信を持って断言できる。

 あまり酒の匂いをさせてもと切りあげると、毛布をとるついでに、ノウが眠るベッドに近づいた。

 いつも同じ姿勢で眠っていて、あまり寝返りも打っていない。

 眠っている時も傷を庇っているのであれば、眠りが浅いのもうなずける。

 そっと髪の毛を払いのけてから頭をなでると、くすぐったそうに身じろいだ。

 さしあたっては、これでもかと甘やかしてやろう、と、何度目かの決意をする。

 といってもアルフラッドに名案があるわけではないが、幸い頼りになる者がたくさんいる。

 楽しいことを見つけて、毎日笑顔になれるように──当面の目標はそのあたりだろう。

 落ちついたらどこかへ出かけるのもいいし、したいことはなんでもさせてやりたい。

 そして、できればその時、隣にいたい。

 緩やかに生まれてきた願いの名前には気づいているが、今優先すべきはノウ自身のことだ。

 だからアルフラッドはその感情を急かすことはなく、もう一度だけ頭をなでて、ソファに身体を横たえた。

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