夜更け前
しっかりと熟睡した身体は、ごく自然に覚醒した。
そんな時でも、決していきなりは起き上がらない。
息を吸って、吐いて、それから傷に注意して──
「ここは……どこ、だったかし、ら」
半身を起こしたものの、覚えのない部屋に、首回りを無意識に庇う。
だがこの部屋はあの時の部屋ではない。
白木を使った品のいい家具は家庭的で、カーテンにも使われている布は緑がかった青い色。──ノウの色だ。
暗くなりすぎないよう灯されたあかりすらも、あの時のような冷たさは感じない。
ぐるりと周囲を見渡して、眠る前の記憶が蘇ってくる。
「そう……ここは、アルフラッド様の……」
呟いた瞬間、大慌てでベッドから降りた。
窓はカーテンで覆われており、間違いなく外は日が落ちている。
あたりを探し見つけた時計が示すのは、一般的な夕食の時間をとうにすぎていた。
ありえない失態に、ざっと青ざめる。
まだ深夜ではない、だから慌てて外へ出ようとすると、まさにその時ノックが響いた。
あまりのタイミングのよさに、反射的に返事をすれば、入ってきたのはヒセラだ。
昼の時と同じように、サービングカートを押している。
それを適当なところに置くと、ベッドの傍らに呆然と立つノウに近づいた。
「ご気分はいかがですか~?」
「そんなことより、わたし、とんでもない失礼を……!」
すぐにも二人に謝りに行きたいが、寝起きの姿を晒すなど言語道断だ。
ヒセラに頼んで着替えをしなくてはと思うのだが、彼女はのんびりした様子を崩さない。
「失礼なんてなにひとつありませんよ~。おふたりから、起こすなと言われましたから~」
二人、というのは、アルフラッドとジェレミアのことだろう。
つまり起こさなかったのはわざとだったらしい。
驚いている間に鏡台の前に移動させられ、椅子に座るよう促される。
乱れた髪はあっという間に整えられた。
「ジェレミア様から、挨拶は明日でいいとのことです~」
ひょいひょいと編みこみまでされたあと、告げられた言葉。
つまり、今日はもう会わないという意味にもとれる。
失望させてしまったのだと、ため息が漏れる。
ただでさえ想定外の存在なのに、最初の挨拶から礼を欠くなんて、疎まれても当然だと、思考が暗く落ちる。
「あのかた、この時間はもう晩酌をしているので、まともな話はできないんですよ~……あ、いえ、そこまでタチは悪くないんですけど~……」
続けて飛びだしたフォローにしては内容がとんでもなかった。
鵜呑みにしていいのか悩ましいが、主のよろしくない点をでっちあげるような人物には見えない。
しかし事実ならそれはそれで、聞いてしまってよかったのかと困るのだが、ひとまず胸にしまっておくことにする。
ヒセラは新しいドレスを渡してくると、アルフラッドを呼んでくると退室してしまう。
着替えの時に席を外して欲しいと希望したことを覚えているからだろう。
ドレスは時間も遅いせいだろう、装飾も少なく一人でも簡単に着られるものだった。
気遣いに感謝して着替えをすませると、再びヒセラがドアをノックし、続けてアルフラッドが入室してきた。
あとはいい、と彼が言うと、彼女はあっさり退出する。
「本当は遅い時間に女性の部屋に入るのは気が引けるんだが……」
居心地が悪そうなアルフラッドは、サービングカートから机の上に軽食を載せていく。
ノウが夕食をとらなかったから用意したのだという。
気遣いに感謝しつつ、彩りに配慮されたそれらはおいしそうで、空腹感を思い出した。
「でも、夫婦ですし……わたしは気にしませんけれど」
たとえそれが表面だけでも、屋敷のものはそれを知らない。
むしろ、あまり他人行儀にしていては不審がられてしまうだろう。
おぼつかないアルフラッドからさりげなく茶器を譲ってもらうと、慣れた手つきで茶を淹れていく。
彼もできないわけではないが、飲めればいい程度なので、味のほうは正直微妙なのだ。
旅の間にそれを知り、道中でもよくノウが全員分を淹れていた。
「食べられるだけ食べるといい、残ったら俺が食べるから」
机の上に並んだのはサンドイッチや果物など、気軽につまめるものばかりだ。
アルフラッドにはおやつにもならないだろう。
旅の間の食事量を知っていたので、安心して自分の分をもらうことにする。
夕食を食べたのなら、残っても残らなくてもいいのだろうし。
「……ああ、そうだ。起きなくてすみませんは無しだからな」
食べはじめてしばらく、真っ先にそう言われ、渋々はい、とうなずいた。
「挨拶なんていつでもできる。あのひとも体調のほうを気にしてたから、腹を立ててはいない、賭けてもいいぞ」
ヒセラにも聞いてはいたが、アルフラッドにも言われれば真実味はさらに増す。
彼の言葉なら信じられる、とはいえ甘えてはいけないと自戒するが、その決意は軽食の前に薄れていく。
旅の間の食事も決して味は悪くなかったが、流石辺境とはいえ伯爵家、文句のない味つけに、気づけば結構な量を平らげていた。
食べすぎたかと危惧したが、アルフラッドはよく食べたな、と嬉しそうなのでいいことにする。
「あの、アルフラッド様、わたしは明日からなにをすればいいでしょうか」
食後のお茶を淹れ直してから、今後のことを問いかける。
アルフラッドはのんびりすればいいと常々言っていたが、そういうわけにもいかないだろう。
「とりあえず俺は仕事をするが……ノウは休んでいていいぞ」
案の定の返答だが、それにはいそうですか、とはいかない。
いきなりやってきた予定外の妻なのだ。突然領地の諸々に関わらせてもらえるとは思っていないが、雑用でもなんでもやるつもりだ。
せめてこの地の人々にとって、有益な存在にならなくてはいけない。
「室内の……内装というのか、そのへんも勝手にしたから、君好みにしたいと言っていたし、服も必要だから呼ぶとか、だから本当に休めるわけじゃないぞ、多分」
「室内に文句はありませんけれど……」
むしろ、こんなにいい部屋で大丈夫かという不安のほうが大きい。
妻としてある程度いいものを、ということだと納得させているが、こんなちゃんとした部屋を自由に使っていいなんて、夢のようだ。
服も遠慮したいところだが、実家からはほとんど持ちこんでいない。
クローゼットに何枚かかかっていたのは、あらかじめ聞いたサイズで揃えたものなので、普段着ならともかく人前に出られるものではない。
領主夫人として公の場に出る場合は、相応の見た目が求められるのだから。
自分の容姿は傷と相まってろくなものではないから、せめて衣装はちゃんとするしかない。
こんな身に費用をかけるのは申し訳ないが、必要経費と割り切るしかないだろう。
「あのひとの部屋はもうできあがってるし、俺はそういうのに興味がない。だからみんな張り切ってるんだ、しょうがないと思ってつきあってくれ」
「そんな……気が咎めます」
歓迎されても、自分は瑕疵ばかりの存在なのに。
困惑に眉を寄せると、そんなことはないと言下に返ってくる。
「俺は君に出し惜しみはしないと宣言してあるからな。俺もあのひとも浪費しないから、ここぞとやってくるぞ」
おまけにとんでもないことまで宣われて、うっかりはしたなくも声をあげてしまう。
いわく、新婚の妻に対して大盤振る舞いはおかしくない、むしろ自然だ、とのこと。
そんなことはないと訴えたが、どこ吹く風だ。
辺境で、裕福ではないとは言うが、地盤のしっかりした地は決して貧乏でもない。
つまり、やろうと思えば結構な豪遊ができてしまうのだ。
伯爵家の品位を損なわない程度に、なおかつ全力で止めなければ、とひっそり決意する。
必要に迫られて節約に頭を悩ませたことはあれど、こんなことははじめてだ。
「──さて、大分顔色がいいとはいえ、無理はよくないな、そろそろ休むといい」
時計を確認した彼は、食休みにはまだ短いが、と呟く。時間を計っていたらしい。
「なにかあればそこを通って俺の部屋に来るといい。何時でも遠慮はしないこと──いいな?」
本当はいいえと首をふりたかったが、うなずくまで彼が引かないだろうことは、これまでで把握している。
はい、と殊勝にしておけば丸く収まるから、素直にうなずいておいた。
アルフラッドはヒセラを呼ぶと、やわらかくノウに微笑みかけた。
「おやすみ、ノウ」
「おやすみなさい、アルフラッド様」
入れ替わりに入ってきたヒセラから、湯も使えると言われ、遅い時間にと思いつつ、ありがたく使わせてもらう。
馬車に乗ってばかりだったとはいえ、髪の毛などはどことなく埃っぽい。
綺麗な部屋を汚すのはしのびないので、丁寧に身を清めた。
その間もついていたのはヒセラだけで、必要以上に身体を見ようとすることもなく、ノウの素振りで察して引いてくれた。
アルフラッドの伝達が正しく受けとめられている証拠だろう。
屋敷の者たちへの信頼感が上がったところで、改めて自分の寝台に向かう。
さっきは疲れていて頓着せず眠ってしまったが、よく見なくても大きい寝台だ。
実家で眠っていた時の二倍近いのではないだろうか。
思考がクリアなため、先ほどより慎重に中へもぐりこむ。
ふかふかの寝具は文句ない品物で、すぐにも眠りにつけそうだ。
だが──慣れない広さが幼児のころを思い出してしまい、息苦しくなる。
いつも着ていたものより首の空いた夜着の襟もとを無意識に庇っていることは、まだ気づかない。
ここはあの時の場所ではないと、頭ではわかっているのだが、一度思い出が蘇ってしまうと駄目だった。
嘆息し起きあがると、旅の荷物の中からアルフラッドに贈ってもらったストールをひっぱりだし、首に巻いた。
それで少しだけ心は落ちついたが、眠れそうかというと微妙なところだ。
灯りをつけて椅子に腰かけて、さてどうしようかと考える。
ソファで本を読んでいれば、そのうち眠気もくるだろうか。しかし、朝それを目撃されれば、アルフラッドにいらぬ心配をかけてしまう。
しばらく椅子に腰かけたまま悩んだが、眠気はこないし落ちつけそうにもない。
舌の根も乾かぬうちにと思うのだが、さんざん迷惑もかけているのだ、今さらひとつふたつ増えても誤差だろう。
いくらか疲労が残っているせいか、大きな部屋に圧倒されたか、ノウにしてはやぶれかぶれの心境になって、続き部屋のドアを開けた──