膝の上
──ふと、ここ数日で嗅ぎ慣れた香りに、意識が浮上する。
深い香りに混じるのは、微かなラベンダーの匂い。
欲しいと頼まれて渡してから、彼は欠かさず枕元に置いているらしい。
あまり布でつくったものだし、簡単な袋なので、貴族が持つには相応しくないものだ。
使用人たちの普段使いなら気兼ねなく持ててそれでよかったのだが、アルフラッドの手にあると、どうにもちぐはぐだ。
領地についたら、もっときちんとしたものを渡し直そうと何度目かの決意をする。
──それにしても、いつもより香りが濃い気がする。
どうしてだろうとぼんやりした頭が、徐々に覚醒していく。
「…………っ」
声を出そうとしたが、寝起きのせいだろう、掠れた息づかいが出ただけだった。
「目が覚めたか、気分はどうだ?」
それでもすぐに彼は気づいたらしく、心配そうな声が降ってくる。
上からの声だと気づき、どういうことかと頭を動かそうとして……ずるりと落ちそうになった。
すぐさま手が支えてくれたので驚きもしなかったが、そこでやっと、自分がなにを枕にしているかに気づいた。
「あ、あの……この状況は、一体……」
どうしてそうなったのか、ノウはアルフラッドの膝の上に頭を乗せていた。
まったく記憶にないので寝ている間のことらしいが、意味がわからない。
退こうとしたのだが、そのままでとやんわり手で止められてはかなわない。
「声をかけたら返事がなくて、中を覗いたら苦しそうだったからな」
居眠りなんてしない、と言っていたのに応答がないのを不審に思ったらしい。
覗きになると迷ったらしいが、非礼を承知で様子を窺った時には、倒れているように見えたという。
だから急いで騎乗をやめ、アルフラッドも馬車に移り、容態を確認した。
平熱のようだったし、近くに休める場所もないので、ひとまずそのまま眠らせておくことにしたそうだ。
「……だが、表情が苦しそうだったから、少しはましになるかと膝に乗せてみた」
振動も軽くなるだろうし、と告げられて、たしかにさっきよりは揺れが感じないと気づく。
しかし、いつまでも膝を借りているのも心苦しい。
「あの、大丈夫ですから……」
「どこがだ? ちっとも大丈夫には見えないぞ」
口先だけでは、案の定まったく信用されなかった。
言下に言い切られ、移動は却下されてしまう。
「でも、申しわけないです……枕扱いなんて」
膝枕などしてもらったこともないので、どうしていいかわからない。
下からアルフラッドを見上げて、どうにか考えを変えてくれないかと願うのだが、彼はきょとんとした様子だ。
「申し訳なく思うほどでもないだろう。むしろ、寝心地が悪いと文句を言われる覚悟だったが」
男の膝で、まして鍛えているから柔らかさとは無縁であるし、と大まじめな様子。
比較対象のないノウには、そのあたりはよくわからない。
たしかに柔らかさはないけれど、代わりに人肌の温かみが感じられる。
それは、ずいぶんと心地いいものだから、実は文句はなかったりする。
正直に告げればそのままで、となるのはわかっているので、どうにか理由をつけようとするが、嘘をつくのは苦手なので、すぐには浮かんでこない。
「反論はなさそうだから、このままでいいな」
その間に意志を曲げるつもりのないアルフラッドの言葉が先になってしまう。
結局なにも言い返せずに、頭は乗せたままになってしまった。
「もう少し先に開けた場所があるから、そこまで我慢してくれ」
ふぅ、と深く息を吸ったノウを気遣ってだろう。
「今日の道は昨日より悪くなっていたし……もう少し配慮すべきだったな」
「いえ、十分気遣っていただいています」
たしかに大街道を外れてから道は悪くなったが、獣道というわけでもない。
このあたりは舗装されていないが、木々は伐採されているのだから、ましなほうだろう。
地図にも記されている立派な道なのだ。
現にアルフラッドたちは平気な顔をしているのだから、悪いのは自分だろう。
「カーツも参ってきてるからな、謝るんじゃないぞ」
謝罪は禁止されているが、今は間違いなく迷惑をかけている。
だから申し訳ないと口にしかけたのだが、事前に制止されてしまった。
アルフラッドたちは慣れているし鍛えているから、比べてはいけないとまでつけ加えられた。
それなら自分も鍛えれば平気になるのかと問いかけようとした時、がくんと馬車が揺れた。
今進んでいるのは森の中らしく、時折ぬかるんだ土などを踏んでこうなってしまう。
ノウの身体はアルフラッドのおかげでなんともなかったが、その拍子におろしたままの髪の毛が落ちかかる。
すると、ごく当然のように伸びてきた手が、視界を隠したそれを払ってくれた。
「…………あ、すまない、つい」
しでかしてから失礼だったと気づいたらしく、慌てた声になる。
「いえ……その、ありがとうございます」
とはいえ膝枕までされている現状では、髪に触れられた程度は誤差のようなものだ。
一声かけられなかったから少し驚いたが、アルフラッドの存在には慣れてきている。
丁寧な動きだったしぶつけられたわけでもないので、不快感もなかった。
「こういう……ことを、された記憶がなくて、でも……なんだか、落ちつきます」
他人の体温だとか、心配されている気配だとか。
諸々混ぜてしまったから、うまくまとまらなかったけれど、気持ちは伝わったらしい。
頭上の気配が少し緩くなったようだった。
「あ、でも……不謹慎かもしれないですけど……」
「そうは思わないし、安心するなら俺も嬉しい。調子の悪い時は心細くなるしな」
落ちつくならなによりだと、そっと頭をなでられた。
大きな手が優しく動くのが不思議だが、きっと、こんなふうに母親がしてくれたのだろう。
髪の毛が絡まないよう配慮しつつなでられて、こわばった身体がほどけていく感じがした。
ちゃんと自分を見てくれている、とわかることが、これほどほっとするなんて知らなかった。
勿論実家でも、体調を崩せば使用人があれこれ世話を焼こうとしてくれた。
けれど、明らかな病気ではなく、怪我によるものの場合、効果的な治療法があるわけではない。
ただ休むことくらいしかなかったから、両親も医者を呼ぶことはほとんどなかった。
その状態で使用人がしょっちゅうノウの部屋を訪れれば、彼らの不興を買うことは明らかで。
だからノウは物心ついてからは、彼らに必要以上にこないよう頼んでいた。
ベッドの中でひたすら痛みを我慢していれば、そのうちおさまるのだから。
それが日常だったのに、こんなふうに優しくされると、前の状況にもどりづらくなってしまう。
けれど、強くどきますと押し通すには、あまりにも心地よくて。
「馬は……怒ってませんか?」
結局、違う気がかりへと話題を変えてしまった。
拗ねるからと騎乗していたはずなのに、結局、ノウのせいであまり長いこと乗っていない。
「旅の間はどうしてもな。どこかで思い切り走れればいいんだが……」
街道でそれをやると、他の旅行者に迷惑がかかってしまうし、あらぬ疑いも持たれるという。
ある程度はしかたがないし、しつけてあるからと言われると、さっきまで感じていた疑念が再燃する。
──それならどうして今日、突然騎乗したのだろうか。
横になっていたので定かではないが、今日の道は大街道とは違い、苦もなく対向車とすり抜けられる幅ではない。
記憶にあるかぎりではそういった一悶着があった覚えもないので、あまり使う者の多くない道なのだろう。
舗装がろくにされていないことからも、それは明らかだ。
馬の蹄のためには土のほうがいい、という理由はあれど、こんな林道では速度も出せないはずだ。
やはり自分といたくなかったからかと塞ぎそうになるが、それなら膝枕を続ける理由と合わなくなる。
ノウの手持ちの欠片では、納得のいく結論が出てこない。
しかし、問いかける勇気は出てこなかった。
気分がすぐれないこの状況で、落ちこむようなことを告げられれば、平静ではいられない。
とり乱したり、なおさら体調を悪化させて、ますます疎まれるという繰り返しも避けたいところだ。
なにより、はじめての他者の温もりは、手放すにはあまりにも惜しい。
休憩場所につくまでだけだから、と心に言い含めて、促されるままに目を閉じた。
膝枕は私の性癖です(断言しちゃった