馬車でのすごしかた
翌日目を覚ますと、ノウはゆっくり身体を起こした。
特に身体の異常も感じられないので、問題はなさそうだ。
時刻は使用人たちが起きだすころ、べつに寝ていてもいいのだが、手伝ううちに癖がついてしまった。
もう一度眠る気にもならないしとベッドから降りて、そういえばシーツはどうするのだろうかと考える。
洗濯を考えれば剥いでおいたほうがいいと思うのだが。
──と、衝立に遮られた奥から音がした。
「起こしたか?」
寝起きとは思えないほど、アルフラッドの声はしっかりしている。
「いいえ、いつもこれくらいに起きますから」
「……早くないか?」
お互い様ではないかと言いかけたが、彼は軍人だったのだから、それも当然かもしれない。
護衛の者は夜勤などもあるというし、実家も少ないとはいえそういう者がいた。
彼らのための夜食づくりを手伝ったこともある。
「昔から、あまり寝るほうではないので。でも、大丈夫ですよ」
眠りは浅いほうだし、睡眠時間も長くない。
だが、慣れているので困ったことはないし、問題なく活動もできる。
旅のせいではないことを告げたが、そうかと答えた声は納得しきっていないようだ。
「だが、起きたならちょうどいい、もうすぐナディがくるはずだから」
連絡でもしたのかと驚いたが、もともと時間を決めていたらしい。
ノックの音より前に入室の許可を出すアルフラッドは、気配で察しているらしいが、足音もしなかったのでノウには手品のように感じられる。
言葉どおり少しすると、きちんと着替えをすませたナディが入ってきた。
「おはようございます……ノウ様も起きてるんですか?」
「おはよう、ああ、だからあとは頼む」
「了解しました」
やはり気配かなにかで起きているかもわかるらしい。
自分にもできるようになるだろうか、とちょっとだけ興味がわいてしまう。
必要最低限の会話をすませると、ノウ、とアルフラッドが呼びかけてきた。
「支度はゆっくりでいいから」
寝起きの姿を見ないようにという配慮だろう、始終衝立ごしの会話だった。
はい、と返答すると、アルフラッドは隣の部屋へ行く。
着替えなどもそちらですませるのだという。
「ノウ様、そちらに行っても大丈夫ですか?」
ナディの問いに、どうしようかと少し悩む。
まだ寝間着のままだが、見られても困るものではない。
だが、着替えを手伝ってもらう必要はないし、必要なものも自分でそろえられる。
「ええと……少し待っていてください、着替えてしまいますから」
「ああ、もともと待機のつもりだったので、急がなくていいですよ」
まさかノウがここまで早起きだと思っていなかったそうで、アルフラッドと交代したあとは、起きるまで待つ予定だったという。
たしかに普通の貴族なら、寝ているかもしれないので、驚かれたのも納得する。
「軽い運動をしてから朝食なので、のんびりで十分間に合いますから」
「運動?」
着替えつつ、待たせたら申しわけないとノウが気にすると、なんてことないように答えられる。
軍時代の習慣が抜けないのと、健康のためと、アルフラッドは毎朝運動をしているのだという。
それは領地にいても、旅の間も同じで、今ごろ部下と一緒に下で汗を流しているだろうとのことだった。
宿の敷地内で派手なことをすると警戒されてしまうので、簡単な運動だけだが、領地や野宿の時には戦闘訓練も行うという。
腕が鈍らないように、ということらしい。
「……わたしもやろうかしら」
きちんとした運動をしたことはほとんどない。
怪我のこともあるし、両親はそんなことに気を遣ってはくれなかった。
家のことを手伝っていたので、じっとしているばかりではなかったが、アルフラッドたちに比べればしていないも同然だろう。
「運動することはいいことだと思いますけど……アレに混じるのはオススメしません」
衝立を挟んでの会話でも、ナディの渋い声から表情が察せられた。
軍にいたくらいだし、軽いと言っても素人には厳しいのだろうと納得する。
ナディが言いたかったのは体育会系で鬱陶しい上に、時々子供のような競い合いをはじめる連中と一緒にさせたくない、というものだったのだが。
「お待たせ、改めて、おはようございます」
そんな会話をしているうちに着替えがすんだので、顔を出す。
「おはようございます……」
ノウの姿を見たナディは一瞬きょとんとしたが、すぐに礼を返す。
「ポプリ、ありがとうございました、枕元に置いておいたら、馬車の中じゃないみたいで」
嬉しそうに報告してくれると、お世辞半分でも嬉しくなる。
馬車の中でいくら一人で気楽と言っても、宿泊するためのものではないのだから、少しでも気分がよくなればなによりだ。
「よかった」
心からそう呟いて、一緒に荷物をまとめていく。
一人でやってもよかったのだが、手伝わせてくださいと頼まれれば無碍にはできなかった。
中味を少し入れかえたかったので、正直たすかるところもあったし。
荷造りを終えてしばらくすると、アルフラッドが帰ってきた。
着替えをすませた彼は、ほんの少しで荷物を押しこんだらしく、すぐに食堂へ行くことになる。
「ずいぶん手早いですね」
階段を降りながら言葉にすると、隣についた彼は、そうか? と首をかしげる。
手を貸してもらうほどではないので断ったが、万一に備えてだと半歩先を歩いているから、少しだけいつもより身長差が少ない。
「男なんてこんなものだろう。身支度を整える暇がない時もあるしな」
さらりと告げられる言葉の節々に、彼が平和とは真逆の場所にいたことを知らせてくる。
ノウには想像もつかない話だし、語る調子も重苦しくないから、まるで小説の中のようだ。
食堂での朝食は夜と同じく一人ずつで、ノウにとってはかなりの量だったため、半分以上がアルフラッドの胃に吸収されることになった。
やたらと心配されたが、朝はいつもこうだと説明して、どうにか納得してもらう。
食事が終われば、カーツによって支払いがすまされ、昨日と同じ馬車に乗りこむ。
あとから乗ってきたアルフラッドは、片手にいくつもの菓子袋を携えていた。
それをノウのほうに置いて、うん、とうなずく。
どうやら、朝食が少なかったからとわざわざ買ったらしい。
日持ちのする焼き菓子ばかりのようだし、厚意を無にするつもりはない。
「ありがとうございます」
「ああ、俺も食べるしな」
「甘いものもお好きなんですか?」
ふと問いかけると、それなりに、と返事があった。
「母がよくつくってくれたし、仕事中は勿論、訓練中もそうそう食べられなかったからな」
国境沿いの任務などもあったというから、緊迫した時に甘味などは難しいだろう。
場所柄買えるところばかりでもなかっただろうし。
「あの……お母様の話題が出たところで、お願いがあるのですが」
馬車が進みはじめてしばらく、地図を見ていたノウは、思い切って声をかけた。
本を読んでいたアルフラッドが顔を上げて、目だけで続きを促してくる。
「よければ、もう少し聞かせてくださいませんか? お母様と過ごした日々のこととか」
「それは……俺は構わないが」
「では、ぜひ」
最初は領地のことを教えてもらおうと思ったのだが、アルフラッドに断られてしまったのだ。
教えられるほど自分も詳しくないというのが一点、領地に行けば嫌でも勉強することになるのだから、今はいいだろう、と。
アルフラッドなりの気遣いだということはわかったが、会話がまったくないのも寂しいものだ。
たった数日で、書類上とはいえ結婚を決めたが、双方とも互いのことはほとんど知らない。
馬車の中は、知らない部分を埋める絶好の機会だと思うのだ。
ノウから話せる面白い話はほとんどないが、アルフラッドの母の話なら、きっと楽しい話がたくさんあるだろう。
彼は母親との記憶を大切にしている。それなら、それをきちんと知っておきたい。
ノウの熱心な様子に、アルフラッドは嬉しそうにしつつも、僅かに寂しげに眉を寄せた。
「話せるのは、正直、嬉しい。……邸の者にはしづらいからな」
慎重に選ばれた言葉に、あ、と声を漏らす。
彼の母は邸から追いだされた人間だ。
しかも今は、後妻である義理の母がいる。
となると前妻の話題が出しづらいのは当然のことだ。
「俺は話がうまくないから、わかりにくかったら言ってくれ。……そもそもどこから話したものか」
前置きをしてから、うーん、と首を捻る。
そんな姿は少し子供のようで微笑ましい。
「では、アルフラッド様がお母様と一緒に暮らしはじめたころから、お願いできますか?」
離ればなれの間は楽しい記憶ではなかっただろうから、そこは省いてしまえばいい。
ノウの提案に、ぱっと表情を輝かせたアルフラッドは、ゆっくりと思い出を語りはじめた。