旅の前日
「──では、署名を」
静かな神官の声を聞きながら、宣誓を告げたのち、書類に名を記す。
両親のサインが加わって、これで、ノウは公的にアルフラッドの妻となった。
当たり前だが、呆気なく終わってしまい、少し拍子抜けしてしまう。
まったく実感もないので、やはり披露目の式というのは、相互に認識をするという意味でも重要なのだと考えてしまう。
準備に追われた日々はあっというまで、気づけば結婚証明書に署名する日になってしまった。
──つまり、明日にはアルフラッドの領地へ出立だ。
「明日の朝迎えに行きますので、よろしくお願いします」
長居しても意味もないと、早々に宣誓の間を退出したので、ますます感慨もなにもない。
使用する部屋自体は、予約しておけば誰か入ってくることはないが、神殿には礼拝に訪れている者もいる。
行き帰りにすれ違う可能性は大いにあるので、滞在時間をなるべく短く、というのが双方の気持ちだ。
両親がそばにいるので、アルフラッドの態度は素っ気ない。
それでも時折視線が交じる時は、心配げに揺らめいていて、そんな些細な部分に気づける自分に驚いてしまう。
「体調を崩されて出立が遅れる……ということだけは、勘弁してほしいので」
「ええ、今日は早めに休ませますとも」
笑顔で請け負う父は、やや仮面が剥がれている。
子を思う両親を演じるなら、別れを惜しむそぶりを見せるべきだろうが、アルフラッドがそれだけノウを都合のいい存在と思っている、と信じているからだろう。
控え室で軽く会話をかわし、時間をずらして外へ出る。
隠すように馬車に押しこまれて、寄り道もせずに帰宅した。
「いいか、明日はきちんと起きるんだぞ」
再三念を押して、あとは見る気もないと踵を返す。
こんな扱いを受けるのも、今日で最後だと思うと、せいせいする……と想像していたのだが、あまり嬉しくもない。
だからといってここに残りたいというわけでは断じてないが、見知らぬ地へ行くということで、少し心細くなっているのだろうと自己分析する。
部屋にもどれば、そこは大分すっきりしていた。
家具はそのままだが、私物はすべて鞄に詰めてある。
使用人に渡したりもしてほとんど処分せずに片づいたので、そこはほっとしたものだ。
残っているのは今夜の夜着と、明日着る服くらい。
これなら、母に文句も言われないですむだろう。
荷物の量に関しては、アルフラッドに手紙を送り、問題ないと返信がきているので、積めるはずだ。
……となると、大分手持ちぶさたになってしまう。
じっとしていると余計なことを考えてしまいそうだが、今眠って夜に支障が出るのも避けたい。
最終確認をしようと周囲を見渡すと、ひとつだけ机に置いたままの小さな巾着を思い出す。
昨夜は使用人のみんなが、約束していたお別れ会を開いてくれた。
全員が一堂に会すると気づかれるということで、使用人たちの食堂に、少しずつ訪ねてきてくれた。
荷物が増えてはいけないがなにか思い出にと、綺麗なレースのリボンを贈られた、それが包装の中味だ。
少しずつ出しあったにしても、決して安くはなかっただろう。
気遣いが嬉しくて少し泣いてしまって困らせたが、本当にありがたいと思った。
別れてしまうのは、とても寂しい。エリジャも、公爵夫人にも感じたけれど、使用人たちが一番かもしれない。
もっとも長く接していた人々なのだから、それも当然だろう。
手紙を送ると約束したので、落ちついたらアルフラッドに相談してみよう。
潰れたり折れたりしないよう、丁寧に衣類の間にそれをしまうと、いつもどおりにすごすべく、ノウはそっと部屋を出た。
普段どおりに、使用人に混じり、雑用をこなしていく。
貴族の娘としてはあるまじきことではあるが、動ける人間がいるのなら、手伝うべきだと思うのだ。
両親は邸にいる時もあれこれ忙しくしているし、ノウを気にかけていないから、気づかれる様子もない。
それに、使用人の作業する場所など見もしないから、あまり注意しなくても問題ない。
みんなと一緒に、ちょっとしたお喋りを楽しみながら作業をする時間を、ノウはとても気にいっていた。
「あちらへ行ったら、こういうことはしたら……まずいわよね?」
干していた洗濯物をとりこむと、日のいい香りがする。
洗濯自体は手が荒れるし駄目だとさせてもらえないが、こちらは手伝わせてくれるのだ。
自分が使っているシーツなどだからと、率先して行うようにしている。
たっぷりの日光を吸った寝具はとてもいい心地で、ノウの好きな作業でもあるのだが……
「まあ、普通はしないでしょうねぇ」
一緒にとりこんでいた使用人が、苦笑いとともに同意する。
使用人が少ない我が家に比べて、あちらは伯爵位を持っているし、歴史もある領地だ。
きっとたくさんの者がいる邸なのだろう。
それを考えると、雑用はたくさんありそうで、手伝いがいがありそうなのだが……
「それに、そんなことをしている暇はないのでは?」
室内でシーツを畳んでいると、家老にそう言われ、それもそうだと思い直す。
領主の妻となれば、色々とすることもあるはずだ。
むしろ、雑用の采配をする立場になるだろう。
この邸ではそこまでの必要はないが、たとえばエリジャや公爵夫人の邸では、家老の下にさらに何人かいたはずだ。
そして主人は、直接指示は出さないものの、彼らに仕事をわりふっていく。
滞れば大変な事態になるから、責任重大だ。
考えると少しばかり不安になってくる。
勉強は嫌いではないから、覚えることは嫌ではないが、格上の家となると緊張してしまう。
だが、口に出せばまたついていくと誰かが言いかねないので、そっと目を伏せるだけにとどめた。
うすうす察しているのだろうが、家老はなにも言わないでくれた。
いつものことなので作業は問題なくすみ、ノウは続いて台所へむかう。
今度は夕食の下ごしらえの手伝いだ。
そこへ行くと、料理長が待ってましたとやってきた。
「ノウ様、多分いらんでしょうが……これを」
そして、なかなかの厚さの紙束を渡してくる。
きょとんとしながらめくると、そこにはレシピが書かれていた。
「邸の料理を書いたものです」
たしかに、ざっと見ただけでも見覚えのあるものが並んでいる。
「クレーモンス領はだいぶん遠いんでしょう、味も違うはずです、だから……」
だから、これをということらしい。
「ありがとう、大切にするわね」
実際、いくら味が合わなくても、それを正直にあちらに伝えるつもりはない。
嫁ぐ身で今後何十年もその地で住むことになるのだ、味に慣れなければ生きていけないだろう。
だが、仮初めの契約の関係だから、アルフラッドに疎まれ追いやられる可能性もある。
その時は、これが役に立つことだろう。
なによりかれらの心遣いを無碍にすることなど、できようはずもない。
「いくつかは今夜もつくりますから、今日は見ていてください」
流石に主であるノウには、下ごしらえ以上をさせたりはしない。
けれど最後くらいは、と言ってくれる気遣いが嬉しくて、ノウはありがとう、と礼を口にする。
そうして最後の夜は過ぎていき、名残惜しくはあれどもすっきりした気持ちで、眠りにつくことができたのだった。
ちょっと短いのですがキリがいいので、ここまで第一章です。