旅の準備
父がアルフラッドとの結婚に了承の旨を返信しているころ、ノウは母と一緒にいた。
二人きりになることは年単位でなかったが、特に感動もない。
母はいつものように、ノウの顔を見ようとせず、吐き捨てるように言葉を紡いでいく。
「午後はドレスを買いに行くわよ」
実は、ノウが邸で過ごす時に着るドレスの数は、極端に少ない。
無駄な費用をかけたくないという、主に母の意思によるものだ。
夜会用は流石に一通りそろっているが、邸にノウ目当てで訪問する客は基本いないためもある。
といっても、娘のドレスをろくに注文せずにいればそれはそれで怪しまれる。
母行きつけの店は他の貴族も使用しているから、おかしな噂が立ってはいけない。
だから数は少なくて、品質が多少落ちていても、店で購入したのは男爵令嬢が着ていてもおかしくないドレスばかりだ。
注文が少ないことについて母は、寝台で過ごすことも多いので、夜着を買っているのだといいわけしていた。
実際は人前に出ない時は、町民が着るような服を着て、母の言うところの無駄遣いを少なくしている。
とはいえ、町民の服のほうが洗濯しやすいし、余計な装飾がないので動きやすいし、こっそりかれらの手伝いもできるし、と、ノウにとっては都合がいい面もあったりする。
急なことだからオーダーメイドにする必要がないので、あまり金銭的に痛手はないことを、心から喜んでいるらしい。
「とりあえず旅用の服だけは買ってあげるわ、あとは荷物になると申し訳ないとか言って誤魔化しなさい」
大きくなってからは遠出をしていないので、旅装の用意はない。
しかし、最低限それだけは揃えなければならないだろう。
加えて、領地へついて数日の着替えも必要になる。
だが、こちらは今の手持ちでもなんとかなるから、買うつもりはないというわけだ。
「あとは……装飾品も多少は持たせてやるわ、型が古いけれど、形見だとか言っておきなさい」
若い娘に似合う装飾品のほとんどは、姉のものを直して使っている。
それも普段は母たちが管理しており、出かける時にいちいち借りる形をとっているのだ。
石だけにすればそれなりに価値のあるものを持たせたくないということなのだろう。
「家具も使用人もつけないわよ、あちらで頼みなさい。……まあ、つけてくれるとは思えないけれど」
ふ、とあざ笑う姿に、嘆息でも吐けば罵倒されるので黙っておく。
母もこの結婚が偽装だと思っているから、こういう反応なのだろう。
まっとうな親なら、お飾りの妻になる娘を心配するのかもしれないが、想像しても、よくわからなかった。
「……あの、授業で使った教材などは、持っていって構いませんか?」
お母様、と呼ぶと激怒するので、ノウはもう何年も、人前以外でそう呼んだことはない。
アルフラッドに悪いので、ノウとしてもあまり荷物を増やしたくないとは考えている。
だが、教材と称して教師が持ちこんだものは、できれば持っていきたいのだ。
なぜなら、検分されないという利点を生かして、一般的には教材とは言えないもの──巷で流行の品などもある。
見つかった時はエリジャからもらったと言うなり、他者にとりいるために世の流れも知っておくべきだと言うなりするつもりだったが、ノウに宛てられている部屋を荒らすことはしなかったので、今も気づかれていないだろう。
「邸にあっても邪魔だから、持っていかないなら処分なさい。部屋も片づけておくのよ」
案の定つっけんどんに言われ、わかりましたと返答する。
これでも、外に出れば「よい母親」になるのだから不思議なものだ。
「ああ、ようやく少しは役に立ってくれるのね、せいぜい名産品を送ってきなさい」
むこうでぞんざいに扱われるだろうと言い捨てておきながら、そんなことをのたまう。
矛盾も甚だしいが、指摘しても意味はないので、ただうなずいておくだけだ。
寄越してもいいと判断されたいくつかの宝石をまとめて渡されたので、ひとまずそれを部屋に持ち帰る。
荷物を入れる大きな鞄は、ちょうどいいので買い換えるからと、それなりに渡されたのでなんとかなりそうだ。
午後までの空き時間に、ノウは急いで手紙をしたためていく。
なにせ日がない、その上、知られれば面倒だからと他者に知らせるなときつく言われている。
だが、使用人に頼めばこっそり手紙を出してくれるので、口外せず、かつ伝えておきたい相手にだけ、なんとか事実を知らせようと思ったのだ。
クレーモンス領につけば、手紙くらいは問題なく出させてもらえるだろうが、あまり自分に労力を割かせるのも気が咎めてしまう。
まして、領地は都からかなり離れている、手紙ひとつ出すのも難儀な距離だ。
だから今のうちに……と、いつ母に呼ばれてもいいよう支度を先に整えてから手紙を用意した。
昼食後に呼びつけられ、母がいつも贔屓にしている店へ行き、何着か見繕う。
ノウも何度かつくってもらっているので、寸法などはわかっているから買い物はスムーズにすんだ。
珍しく多く買うので不思議がられたかもしれないが、貴族相手にお喋りは禁止だからだろう、詮索されずにすんだ。
帰宅すると父から、明日、詳細を煮詰めに伯爵がくると伝えられる。
「同席していいが、余計なことは言うんじゃないぞ」
「はい、承知しています」
静かに答えると、ならいい、と追い払われる。
一礼して部屋を出ると、次にむかったのは食堂だ。
「お嬢様……!」
そこにはいつもより多くの使用人が集まっていた。
昼すぎ、ノウが外出してから、使用人全員に結婚が知らされたらしい。
ただ、つきそう者はいないので、いつもどおりに仕事をしろと言われただけだという。
「あたしが辞めて、こっそり一緒に行こうと話していたんです」
思い詰めた表情をしているのは、一番ノウの手伝いをしてくれる使用人だ。
傷こそ見せていないが、着替えの時などにはいつも側にいてもらっている。
ノウにとっても一番気の置けない相手だ。
だが、ノウは静かに首をふって、彼女を止めにかかる。
「そんなことしないでちょうだい。急に辞めるなんて言ったら、父がなにをするかわからないもの」
まさか暴力はないだろうが、あまりよい方向に進むとは考えられない。
この時期に辞めると申しでれば、勘ぐられることは間違いないだろう。
「ですがお一人でなんて……!」
そうだそうだ、と他の使用人も同意する。
心からノウを心配してくれている姿には感謝しかない。
それくらい自分に心を砕いてくれている事実が、とても嬉しくありがたい。
だから、隠し立てせずに、事情を話そうと決めた。
──本当なら、万一を考えて黙っておくべきだけれど、そこまでかれらを疑いたくないのだ。
「実は……みんなが思うほど、ひどいことにはならないの」
秘密よ、と念を押してから、ざっとアルフラッドのことを説明する。
最初は半信半疑だった者たちも、話し終えるころには大体納得してくれたらしい。
けれど昨日やってきた当人を見た数名は、両親との会話も聞いていたため、疑いを捨てきれないらしい。
たしかにあれだけ聞いていたら、騙されていると案じるのも当然だろう。
「大丈夫よ、アルフラッド様は誠実なかただから」
意図的に強く断言すると、渋々といった様子で折れてくれる。
こんな優しい人々を、自分の都合でふりまわすわけにはいかない。
なんとかおさまってくれてほっと安堵した。
正直なことを言えば、一人で行くのは少し……いや、かなり心もとない。
いくらアルフラッドがよくしてくれると言っても、実際関わるのは、こうした使用人や、義理の母という後妻の女性だ。
彼ら彼女らとうまくやっていけなければ、遠い地での生活はとても難しいものになるだろう。
傷もあり、特に秀でたところもない自分が、気にいってもらえる可能性は低いので、せいぜい嫌われないよう努力するしかない。
「もう少し邸にはいらっしゃるんですよね?」
「ええ、あと数日は……多分」
どうしてかと問えば、両親にバレないよう、ささやかだが夜にお別れ会をしたいと言う。
気持ちだけでいいと言ったが、見送りもできないだろうからと食い下がってこられては、それ以上断れなかった。
あまり派手にすれば勘づかれるので、豪華なものは用意しないこと、時間も短く……と念を押して、明後日の夜行うことに決めた。
その心遣いだけで十分嬉しいのだが、彼らとしてもなにもしないままは嫌なのだろう。
すっきりして送ってくれるなら、と要求を呑むことにした。
部屋にもどる前に手紙をお願いして、寝る支度を整える。
「明日は部屋を少し整理して……」
アルフラッドは午後にくると言っていたから、あまり時間はない。
けれど母に手伝われるのも嫌なので、自分でなんとかするしかないだろう。
そのためにも、体調を崩すわけにはいかないと、すぐに寝台に横になった。