第七章:悪魔の正体
「明日、配達屋さんが来るまで、こうしてみんなで固まっていない?」
夕食の後、そう切り出したのは朝子だった。
ずいぶんと人数の少なくなってしまった広い食卓を眺め、久子や梨沙が皿を下げているのを見ながら、朝子の顔は思いつめたかのように厳しかった。
「本来なら、昨日からそうするべきだったのよ。でも、なんだかんだ言って、ここにいるのはほとんどが血を分けた親族だから、どこか無条件に信じてしまっていた。もう同じことがないように、夜通しみんなで固まっていましょう」
「でも、朝子さん。犯人はお義父様で、もう亡くなっているんですよ」
「それならそれでいいのよ。でも、もし真犯人がいて、お義父様が亡くなって安心した隙をついて更なる殺人を企んでいたりしたらと思うと……。念には念を入れたいの。もう、同じ過ちは繰り返したくないのよ」
朝子は明恵にそう返しながら、心配そうな顔で雄介を見る。
みゆきに続いて、雄介まで失うわけにはいかない。そう顔に書いてあるようだった。
「そうね、万が一があっては困るし……。みなさんも、それでいいですか?」
明恵が聞くと、全員が首を縦に振る。
どの顔も一様に、恐れというよりは疲労を感じさせる表情をしている。あまりに多くの親族を失い、感情が麻痺してしまっているのかもしれない。
「なら、今夜は長くなるな」
波川が言いながら、立ち上がった。そしてそのまま食堂の中を歩いていき、かつて匡が座っていた、一族の顔が一番よく見える席の前に立った。
「皆さんに話しておきたいことがあります。長い夜の暇つぶし程度に聞いてくれればいい。肩の力を抜いて、楽にして」
波川は笑顔を浮かべると、両手を大きく広げて見せた。
「五人を殺した犯人が分かりました」
*
食堂内は、しんと静まり返った。
先ほどまで皿を洗う音が聞こえていたキッチンの方からさえも、一切の音が聞こえなくなっていた。
「あの……今、何と?」
いち早く我に返ったらしい明恵が、恐る恐る聞いた。自分の聞き間違えではないかと疑うような表情をしながら。
「五人を殺した犯人が分かったって言ったんだよ。月並みな言い方をするなら、『犯人はこの中にいる』、だな」
畏まった敬語は一瞬で引っ込めて、波川は堂々とした態度でそう言った。
その不敵な笑顔は全員の視線を一瞬で集め、波川はまるで自分がこの館の主であるかのように堂々と立っている。
「波川先生。犯人はおじい様じゃないんですか?」
「まあ、座れよ。久子さんと中岡さんも」
涼の真っ直ぐな言葉を躱すと、波川はキッチンの方にも声を掛けた。手に洗いかけの皿を持っていた二人は少しの間戸惑った顔を見合わせていたが、やがてその皿を置いて食堂の方へ出てくる。
こうして、生存者全員を集めて座らせた波川は、手を組んだまま微笑んだ。
「じゃあ、始めよう。まず、匡氏の死が殺人であることの証明から」
波川はスマートフォンで撮影した館の外壁の写真を示しつつ、土埃の理論で外壁を伝うルートが使用されていないことを説明した。匡がどうあってもみゆきを殺せなかったことを知ると、一同の顔が一斉に青ざめた。
「でも、お義父様の部屋は密室だったのよ? 自殺じゃないとしたら、犯人は一体どうやって……」
「その謎も解明されていますよ、朝子夫人」
波川は余裕の表情でそう答えると、今度はセロハンテープを使った密室トリックについて説明した。食堂の扉を使ってトリックを再現して見せると、一同はおお、と声にならない簡単を漏らす。
「さて、犯人はこのトリックの痕跡を消し去るために、匡氏の遺体発見のどさくさに紛れてドアのセロハンテープを回収したはずだ。誰かのそんな行動を目撃した人はいないか?」
波川はそう聞くが、どの顔も不安げな表情で顔を見合わせるばかり。当然だ。あのときは、誰もが匡の首吊り死体に釘付けになってしまっていたのだから。潤だって、そうだった。
「じゃあ、言い方を変えよう。セロハンテープの回収が明らかに無理だった人間に心当たりはないか?」
「セロハンテープの回収が不可能だった人物?」
「匡氏の遺体が発見されたとき、ドアの近くにいなかった人物。先陣を切って部屋の中へ入って行った人物。そんな人に心当たりは?」
あのとき、ドアの付近にいたのは誰か。
それは答えられなくても、ずっと先頭にい続けた人物ならば、誰の記憶にも明らかだったようだ。
「久子さんだ!」
一番に叫んだのは、雄介だった。
匡の部屋のドアを開けたのも久子。先陣を切って匡の遺体の近くまで真っ先に向かったのも久子。
三木久子に、誰にも知られずにセロハンテープを回収することは不可能だ。
「それに、波川先生と倉敷先生も久子さんとほとんど一緒に動いていたよね。二人のもセロハンテープの回収は無理だったと思う」
涼の言葉に、全員が頷いた。
あのときに目立って動き回っていた三人のことは、全員しっかりと見ていたらしい。
「つまり、俺と倉敷、それから久子さんは犯人から除外されるってわけだ。これで残りの候補は、五人」
新郷朝子、新郷明恵、新郷雄介、新郷涼、中岡梨沙。
五人は緊張した面持ちで、一様にごくりと喉を鳴らした。
「次に思い出してほしいのは、照義さんだ。照義さんの遺体が発見されたときのことを思い出してくれ」
そう言ってから、波川は照義の遺体が座っていた椅子のキャスター部分が壊れていたこと、それから食堂にあった黒い擦れた傷のことを説明し、照義殺害の本当の現場が食堂であったとする推理を披露した。
その推理を裏付けるように、久子が深く頷く。
「間違いございません。あの黒い擦り傷は、照義様と武之様が殺害された事件の夜に出来たものです。前日、食堂を出るときにはなく、翌朝、食堂に入ったときには既に出来ていましたから」
食堂の主として隅々までその内部を把握しているらしい久子は、自信を持ってそう答えた。額に走る深い皺が、彼女の使用人としての矜持を表しているようであった。
「それは分かったけど、それが犯人特定にどうつながるんだ? 食堂に犯人の痕跡が残っていたとか?」
潤がこの話を聞くのは二回目だったが、そこからどう推理を発展させればいいのか、皆目見当がつかなかった。
「犯人は、そもそもどうしてあの椅子に照義さんの遺体を乗せて運んだんだ?」
「え、いや。どうしてって……。そりゃ、キャスターがついているから運びやすいってことだろう?」
「でも、キャスターは壊れていたよな?」
「犯人が壊れていたことを知らなかっただけじゃないか?」
「その通り」
短い肯定の言葉に、潤は却って面食らう。
「犯人は知らなかったのさ。自分が図書室から持ってきたその椅子のキャスターが壊れてしまっていることを。照義さんをいつもの位置に座らせようと、いつも照義さんが使っている椅子を持ってきたんだ。それが壊れているとも知らずに」
波川は視線を一堂に向けた。
「さて、じゃあこの中でそれを知らなかったのが誰なのか、検証していこう。簡単だ。照義さんが壊れた椅子について話していたとき、その場に誰がいたのか思い出してみればいい。倉敷、頼めるか」
波川が潤の方を見る。
潤もその場にはいた。
だからその時のことを思い出そうと、必死に記憶を辿ってみる。
「確か、照義さんが図書室から出てきたときは、明恵さんと話をしていたんだ。それで照義さんが、図書室の椅子の調子が悪いと言って、中岡さんを呼ぶよう頼んだ。それで、中岡さんが出てきて、それと同時にトレーニングルームから雄介くんと涼くんが出てきたんだよ。で、中岡さんは照義さんから話を聞いて、メモを取っていた」
潤の言葉に、それぞれ名前の出てきた面々が頷いた。事実に概ね沿っているということだ。
つまり、そのとき一緒にいた潤、明恵、雄介、涼、梨沙は椅子のキャスターの故障を知っていたことになる。
「その場にいなかったのは、俺と久子さんと朝子夫人だ。だが、俺と久子さんには匡氏の事件でセロハンテープを回収することが不可能だということがはっきりしている。つまり……」
全員の視線が、一人に集まる。
ある者は信じられないという表情で、ある者は恐れるような表情で、ある者は無表情で。
「アンタが犯人だ、新郷朝子」
いくつもの視線の先、新郷朝子は無言で波川を睨み返していた。
*
新郷朝子は、暫くの間不機嫌そうに黙っていた。
だが誰も何も喋らず、重苦しい沈黙が続くと、彼女は耐え切れなくなったように溜息をついた。
「……何を馬鹿馬鹿しい。言っておきますけど、私は椅子のキャスターのことは知っていましたからね。その後、偶然照義さんに会って世間話をしていた時に聞いたのよ」
「それを証明できる人は?」
「いるわけないじゃない。照義さんはもう亡くなってしまったんだし」
朝子はイライラした様子で髪を掻き上げると、改めて波川を睨みつける。
「本気で私が犯人だと言うつもり? 私は夫や娘を殺されているのよ? 動機は何よ! どうして私が愛する家族を殺さなきゃいけないのよ!」
「……それは俺も、ぜひ聞きたいもんだな」
答えた波川の声は、ぞっとするほど低かった。
朝子を睨み返す波川の瞳は、朝子以上に鋭く剣呑な光を帯びて、射抜くような視線を向けている。それはいつもふてぶてしい態度を崩さなかった波川に宿った、確かな怒りの感情だった。
「あんたのことを母親として慕っていたみゆきを、どんな理由があれば殺すことが出来るのか。知ってるか? 俺との授業中、みゆきはあんたのことをこんな風に言っていたんだぜ。『口うるさいところもあるけど、優しくて私のことをよく考えてくれるお母さんだ』ってな」
「……だから、私は犯人じゃないって、言っているでしょう」
朝子の声が、明らかに弱まった。
だがそれでも、彼女は自分が犯人だとは認めない。
「奈緒ちゃんの部屋には鍵がかかっていたわよね? つまり、密室だったわけよ。合鍵を自由にできない私がどうやって彼女の部屋を密室に出来たっていうの?」
「簡単だよ。久子さんが管理しているのとは別に、合鍵をあらかじめ作っておいた。以上だ。去年の夏、ここを訪れたときにでも型をとっておいたんだろ? 匡氏の部屋の鍵以外は、比較的シンプルな鍵で、型さえ取っておけば合鍵づくりは比較的に容易に出来ただろうしな」
朝子はイライラとした様子で腕を組み、自らの肘を擦り始めた。左足は小刻みに貧乏ゆすりを刻んでいる。
「待ってくれよ、波川先生! 母さんには無理だって。姉ちゃんが部屋に入って行ってから、遺体で発見されるまで、母さんはずっと俺たちと一緒にいたんだぜ!」
「そ、そうよ! そうだわ! 私にみゆきを殺すことなんて不可能よ。それはあのときずっと私と一緒にあなたが一番よく分かっているでしょう!」
息子の雄介の援護に助けられた朝子が、勢いを取り戻して身を乗り出す。
「私思ったのだけれど、犯人は中岡さんじゃないかしら。だって私と雄介と波川先生と倉敷先生と久子さんは一緒にいたし、涼くんと明恵さんだって一緒だったんでしょう。中岡さんだけ、ずっと一人だったわけじゃない」
「ま、待ってください!」
犯人呼ばわりされた梨沙が、慌てた様子で叫ぶ。
「私はずっと食堂で朝食の準備をしていました! みゆき様のお部屋のドアは、ずっと出入りがなかったんですよね? どうやって私がみゆき様のお部屋に侵入できたというのですか!」
「窓からよ」
焦る梨沙と対照的に、冷静さを取り戻してきたらしい朝子が、冷たい声で言う。
「あなたは久子さんが出ていった後、朝食の準備を進めるふりをして外に出ると、みゆきの部屋の窓の近くから予め垂らしておいたロープか何かを伝って二階に登って、窓からみゆきの部屋に侵入したのよ。そしてみゆきを刺殺した後、再びロープを伝っておりた。最後にロープを回収すれば、侵入経路は誰にもわからなくなる。……そうよ、これしかないわ!」
「それは不可能だ」
波川がぴしゃりと言い放った。
「窓の外を見てみたか? 前日の雨の影響で、館の周りの地面はぬかるんでいた。もし中岡さんが今言ったような方法でみゆきの部屋に出入りしたなら、地面に必ず足跡がつく。だが、館の周りの地面は滑らかで綺麗なもんだったぜ」
それは間違いない。他ならぬ潤自身も、みゆきの部屋を訪れた際にそれを確認している。
「……じゃ、じゃあ、真下の久子さんの部屋の窓から出入りしたんじゃないの? 中岡さんは食堂で一人になると、久子さんの部屋に向かったのよ。確か、久子さんはいつも部屋に鍵をかけていなかったわよね。それで久子さんの部屋の窓から身を乗り出して、上から予め垂らしておいたロープを伝ってみゆきの部屋に侵入した。そしてみゆきを刺殺した後、またロープを伝って降りて、地面には下りずに、直接窓から久子さんの部屋に戻った。どう? これなら可能でしょう?」
「いや、不可能だな」
「どうしてよ!」
朝子は歯茎を剥き出しにしながら叫ぶ。
「簡単なことだ。久子さんの部屋の窓には鉄格子が嵌っている。ですよね、久子さん?」
「はい。間違いございません。一階の部屋の窓には全て鉄格子が嵌っておりますので」
このやり取りを聞いて、潤は漸く、波川が久子の部屋に何を確認しに行ったのか合点がいった。きっと、窓に鉄格子が嵌っていることを確認し、梨沙が犯人である可能性を潰していたのだ。梨沙が犯人でないことは分かっても、あの時点では犯人がどうやってみゆきを殺したのかははっきり分かっていなかった。だから、「あー、分かったような、分からないような、って感じだな」という曖昧な言葉を漏らしていたのだろう。
「分かったわよ! 中岡さんにも犯行は難しかった、それは認めるわ! でも、私にだってみゆきを刺殺することは不可能だったでしょう!」
「その通りだ。あんたにみゆきを刺殺することは出来なかった」
「え!?」
波川の言葉を、潤は思わず聞き返した。
「朝子さんが犯人だって、お前が言ったんだぞ!? なのに犯行は不可能だったってどういうことだよ」
「犯行が不可能だったとは言ってない。刺殺するのは不可能だって言ったんだ」
「同じことだろう! みゆきちゃんは刺殺されていたんだから!」
「ほう。監察医でもないのによく死因が分かったな」
「誰が見たって分かるさ。みゆきちゃんの胸にはナイフが刺さっていたんだから……」
潤はふと、何かとてつもない見落としをしているような気がして、思わず口を噤んだ。波川は、相変わらず不敵に笑っている。
「そうさ。ナイフが刺さっていた。だから刺殺だって勘違いしたんだ。本当は毒殺なのにな」
「毒殺!?」
「俺たちがみゆきの部屋に入ったとき、みゆきは既に毒殺されてベッドの上で事切れていた。そこに誰よりも早く駆け寄ったのは誰だった?」
「……朝子さんだ」
潤は自らが考えた早業殺人を推理を思い出しながら、そう答えた。
「その通り。そのとき朝子夫人は誰よりも早く、部屋の入口からは死角になっているベッドに駆け寄り、隠し持っていたナイフをみゆきの右胸に突き刺したんだ。みゆきを刺殺に見せかけるために、な」
潤の早業殺人説は、部分的に正解だったことになる。ナイフを突き刺されたみゆきが生きていたか死んでいたか、という途轍もなく大きな差異はあるにしろ。
「毒殺なら、被害者が死んだときに犯人がその場にいる必要はない。予め毒を仕込んでおけばいいだけだからな。俺たちは『シンメトリーの殺人』という先入観の罠に嵌っていたのさ。武之さんと照義さんはシンメトリーとなる部屋で、同じ撲殺という方法で殺されていた。だから、奈緒が自室で刺殺されていたなら、みゆきも自室で刺殺されているはず。そんな思い込みを、犯人はシンメトリーという舞台装置を上手く使って成立させたんだよ」
「待ちなさいよ! 毒なんて、そんなものどこに仕掛けていたっていうの! あの状況でそう都合よくみゆきが毒の入ったものを口にするなんて出来すぎているわ」
朝子は額に汗を滲ませながらそう主張したが、毒殺の可能性が浮上した今、どこにその毒が盛られていたのかは、潤にもすぐに察しがついた。
「……過呼吸発作の薬。それを毒薬とすり替えたんだな?」
「そうだ。精神的に脆いみゆきに奈緒の死を知らせれば、必ず発作を起こすだろう。だから薬と毒をすり替えておけば、必ずみゆきはそれを口にする。母親であるアンタなら、薬のすり替えは可能だったはずだ。更に言うなら、みゆきが入り口からは死角になっているベッドの辺りで死ぬことも見越していたんだろう。みゆきは発作を起こすと、外の新鮮な空気を求める癖があった。室内で発作を起こしたら、外に出るか窓を開けるか、必ずしていたな。そして、薬を飲むための水差しはベッドの近くのサイドテーブルにあった。みゆきはベッドの近くの窓を開け、それから薬を飲む。……そして、死ぬ。アンタはそこまで計算に入れていたんだ。窓が開いてれば、窓を通って犯人が出入りしたと他の奴らに思い込ませることも出来るしな」
事実、朝子はそうやって匡や梨沙に罪を擦りつけようとした。
朝子は、震えている。
「でも、それが成立するには、奈緒ちゃんの遺体が発見されるまで、みゆきが部屋にいなくてはいけないじゃない。みゆきがその日、たまたま早く起き出していたらどうするのよ」
「それだって、母親というアンタの立場を利用すればどうとでも出来ただろう。『犯人が親族の中にいる可能性がある以上、誰も信用できない。朝も私が迎えに行くから、それまで決して部屋を出ないこと』とでも言い付けておけば、みゆきは従っただろうぜ」
「……でも、そんなにうまくいくとは限らないわ。そうは言ってもみゆきが部屋を出てしまう可能性はあるし、毒を飲んだ後、死角となっているベッドの近くではなく、ドアを開けてすぐのところで力尽きてしまうかもしれない。そんな不確定要素だらけの計画を、私が立てたっていうの?」
「今回のケースはかなりうまくいった方だろうが、いくつか失敗があっても問題はなかったろうぜ。薬と毒のすり替えさえうまくやっておけば、どちらにしろ奈緒の死にショックを受けてみゆきは過呼吸を起こしていただろうから、毒殺は出来たはずだ。刺殺に見せかけることは出来なくても、アンタのアリバイが鉄壁のものとならないだけで、アンタが犯人だと即バレてしまうわけでもない。低リスク高リターンなトリックだったと思うぜ」
朝子は必死に反論を探しているようで、血走った眼を忙しなくきょろきょろとさせている。そんな母親の様子を、雄介が複雑そうな顔で見つめていた。
「……証拠。そうよ、証拠は? 私がみゆきの薬に毒を盛ったっていう証拠はあるの? みゆきが本当は毒殺だったっていう証拠でもあるの? 全部あんたの推測じゃないの!」
「そうだな。俺は医学に明るいわけじゃないから、みゆきの遺体を見てそれが毒殺だったのか刺殺だったのか、判断することはでいない。……だが、警察が来れば話は別だ。事件性のあるみゆきの遺体は必ず司法解剖に回され、死因は必ず解明される」
「要するに、今の時点じゃわかりません、ってことでしょう? 裏付けもなくよくそんな自信満々に的外れな説を信じられるわね。……でも、あなたの言う通りよ。警察が来ればはっきりする。みんなでこうして警察を待とうじゃないの」
「その隙にみゆきの遺体が燃えてくれることを期待して、か?」
「……は?」
波川の言葉に、朝子が途方に暮れた顔をした。
「警察が来ればみゆきの死因ははっきりする。だから、本当にみゆきが毒殺されたなら、犯人であるアンタがみゆきの遺体をそのままにしておくはずがない。それくらいは予想がつく。なら、対策ぐらいしているさ」
波川はそう言って、椅子の下に隠していた装置を取り出した。タイマーと繋がったその装置が何であるかは、話の流れからして容易に想像がつく。
「時限式発火装置だ。もうタイマーは止めてあるから安心してくれ。みゆきの死因をはっきりさせないために、犯人はみゆきの遺体を燃やそうとするだろう。匡氏が犯人だということにしたい犯人が、匡氏の死後にみゆきの遺体を燃やそうとするなら、匡氏が死の前に設置しておいたのだという設定が使える時限式の発火装置のようなものを使うだろう。そう予想したんだが、ビンゴだったよ」
言いながら、波川はスマートフォンを全員に見えるように掲げた。そこにはみゆきの部屋の中を撮影した映像が流れており、その中で朝子が、人目を気にするそぶりを見せながら部屋に侵入し、みゆきが横たわるベッドの下に、発火装置を仕掛けるところがはっきりと映っている。
「犯人の行動が予想できるなら、そこに罠を仕掛けてやればいい。今日の夜は全員で固まっていようって言ったのも、みゆきの遺体を燃やすためだけに起こす火事で、無駄な人死にが出ないようにするためだったんじゃないか? ―――この映像はみゆきの死因が確定できない今の状態であっても、アンタが犯人だっていう決定的な証拠になると思うけどな。どう思う、新郷朝子さん?」
波川の言葉に、朝子はそれでも必死に反論しようとしていたようだが、やがてがっくりと膝をつくと、「私の負けね」と呟いた。
*
「どうして……」
しばらくの沈黙の後、絶望に満ちた声を上げたのは、雄介だった。
「どうしてだよ! 何でこんなことを……!」
ただ母親が殺人を犯したというだけではない。家族をその手にかけたのだ。母親が犯人だなんて、雄介としてはどうしても信じたくないことだろう。
「……復讐よ。新郷匡への、復讐。病を患ったにも関わらず放置され、弱って死んでいった美香姉さんの、ね」
「……美香姉さん?」
潤は思わず声を上げた。
美香とは、匡の二番目の妻、新郷美香のことだろうか。朝子にとっては義理の母にあたる相手のはずだが、「姉さん」とはどういうことだろうか。
「私の母はシングルマザーだったわ。私は父親の名前も、顔も知らずに育った。私が中学生になるとき、母がようやく父について教えてくれたの。父は妻子ある人で、母は父の愛人だったのだと。子供の認知はしてもらえず、僅かばかりの手切れ金だけ渡されたらしいわ。それでも、父のために母は身を引いた」
朝子の眼は、どこか遠くを見ている。
「あるとき、母が使っていた戸棚の引き出しから、父が今住んでいる家の住所が出てきたの。そのときは私もまだ父親というものに幻想があったから、どうしても会ってみたくなった。それで、母には内緒でこっそりその住所の家に行ってみた。……インターフォンを鳴らして、出てきたのは父だったわ。私が名乗ると、父は焦った顔をして、それから虫でも追い払うような仕草をして、こう言ったの。『金でもたかりに来たのか? これをやるからさっさと帰れ!』って。そう言って、私に一万円札を叩きつけるようにして渡すと、そのままドアを閉めてしまった。……私は、自分が惨めで、悔しくて。泣きながらその家を離れて帰ったわ。……そんな私を追いかけてきたのが、美香姉さんだった」
「それって……」
「美香姉さんは、私の父と本妻との間の子供。つまり私たちは、異母姉妹なのよ」
匡の後妻、美香と朝子との関係は親族の誰も知らなかったらしく、全員が驚愕の表情で朝子の方を見ていた。
「そのとき、美香姉さんは大学生だった。父に追い返された私に追いつくと、美香姉さんはそのまま私を抱きしめたわ。ごめんなさい、ごめんなさい、なんてひどいことを。そんなことを繰り返しながら、美香姉さんは泣いていた。それが、私と美香姉さんの出会い。それから私たちはたまに会ってお茶なんかするようになって……。だから、美香姉さんが新郷匡と結婚することも、本人から聞いて知っていた。私は、美香姉さんが富豪の家でやっていけるか心配で……それと、堂々と美香姉さんと家族になりたくて、武之さんに近づいた。武之さんの妻になれれば、姉妹としてではなくても、義理の母と嫁という関係であっても、同じ苗字を共有する家族になれる。そう、思ったから」
朝子が新郷家に近づいたのは、はじめから新郷美香が目的だったのだ。母親の思わぬ告白に、雄介は呆然としている。
「でも、美香姉さんは新郷匡に大切に扱われなかった。病に侵されても、放置された。私がもっと、気を付けていれば……。美香姉さんは、私たちの関係はこの家の人には伏せておこうと言ったわ。私が認知すらされていない妾の子だと知ったら、そして美香姉さんと異母姉妹だと知られたら、この家の人に受け入れてもらえないかもしれないと。私もそれを了承したけれど……だったらもっと、美香姉さんのことに気を付けておくべきだった。私が気づいたときには、もう、美香姉さんの病は手遅れなところまで進行していて……」
「待ってよ!」
朝子の言葉を遮って叫んだのは、明恵だった。
「あなたがお義父様を憎む理由は分かったわ! 共感もする! でも、じゃあ、他の四人はどうして殺したの! 照義さんは、奈緒は、どうして殺されなきゃいけなかったのよ!」
いつも控えめで他人の顔色を窺ってばかりだった明恵の叫び。悲痛な絶叫に、潤の胸が揺さぶられる。
そうだ。新郷匡を憎む理由はよく分かった。
では、新郷武之は、新郷照義は、新郷みゆきは、新郷奈緒は、どうして殺されなければならなかったのか。
「きっかけは、あなただったのよ? 明恵さん」
「え?」
「私、聞いちゃったの、あなたと照義さんの会話を。一昨年の夏休み、この館に親族で集まっていたときに。涼くんとあなたたちは血がつながっていないことを……養子だってことをいつ話すか、相談していたわよね」
「朝子さん!」
明恵が叫ぶが、朝子の声は涼にしっかりと届いていた。
突然自分が引き合いに出された涼は、状況が把握できていないらしく、戸惑った様子で朝子と明恵を交互に見ている。
「新郷匡はシンメトリーに拘っていて、私が雄介を生んだ後、あなたたちにも相当なプレッシャーをかけていたみたいね。奈緒ちゃんが生まれたら今度は、第二子を、それも男の子を、って。それであなたは一時病んでしまった。そして、選んだのが、男の子を養子に取るという選択。年に数回しか会わない私は知らなかったけれど、どうやら武之さんや新郷匡は知っていたみたいね。新郷匡も、そうすることでシンメトリーを作れるのならと了承したのでしょう」
「そ、そんな……嘘だよね、お母さん?」
見つめてくる涼を、明恵は抱きしめた。
「黙っていてごめんね。あなたがもう少し大きくなったら、言おうと思っていたの。でも、これだけは信じて。血がつながっていなくても、私も照義さんも、涼のことを愛しているわ」
「…………」
涼は言葉を返さなかった。
だが自らもその両手を明恵の背中に回し、いつまで抱擁を続けていた。
「……涼くんのことと、四人を殺したことと、どうつながるんですか?」
明恵に代わって潤が問うと、朝子は明恵と涼を横目で見ながら言葉を続いた。
「新郷家はシンメトリーに支配されている。館の構造から、家系図まで。涼くんは養子だった。明恵さんや照義さんと……そして、新郷匡と血は繋がっていなかった。じゃあ、雄介は? 勿論雄介は養子じゃないわ。確かに私がお腹を痛めて産んだ子よ。でも、新郷匡とは血は繋がっていないかもしれない。この一族が本当にシンメトリーなら、そうなっているはずなのよ」
「何を言って……」
「美香姉さんと家族になりたいがためだけに私は新郷家に嫁いだわ。そして、みゆきも生んだ。でも、美香姉さんとは年に数回しか会えない。そんな状況で育児や家事が忙しいストレスもあって、私……一度だけ、見知らぬ男と寝たわ。武之さんが出張でいない日に、まだ幼いみゆきをベビーシッターに任せて、繁華街で気晴らしに飲みまくって……そこで出会った男と、一晩だけ。もう顔もよく覚えていない、名前も知らない男とね。そんなこと、ずっと忘れていた。でも、涼くんが新郷家の血を引いていないと知って、思ったのよ。本当にこの館が新郷匡の言うようにシンメトリーに支配されているなら、雄介も新郷家の血を引いていないはず。つまり、雄介の父親は武之さんではなく、あのたった一晩寝ただけの見知らぬ男だったんじゃないか。そう思って、こっそり雄介と武之さん、それから私自身の髪の毛を採取して、DNA鑑定に出したの。……その結果、雄介は私とは母子の関係にあるけれど、武之さんとは血がつながっていないことが分かった。鑑定結果を見た瞬間、私は思わず震えたわ。この一族は間違いなくシンメトリーの悪魔に支配されている。そう、確信したのよ!」
朝子は瞳の奥に底知れぬ闇を湛えている。
潤はそれを感じて、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「雄介と涼くんは新郷匡と血が繋がっていない……それを知ったとき、ただあの男を殺すだけじゃない―――新郷家そのものへのもっと大きな復讐が出来ることを思いついたのよ。あの男、はじめは全てを受け入れましたって顔して冷静だったのよ。部屋に入るときも、普通にノックしたら普通に出てきて、『悪魔に支配されたのは、お前だったか』なんて全て悟っています、って顔してね。でも、私、あいつの首を絞めながら、耳元で言ってやったの。『お前の血を引く者はもう誰もいない。これからこの家は、お前とは何の血のつながりもない私たちが支配していくんだ』ってね! それを聞いたときのあの男の間抜けな表情! アンタたちにも見せてやりたかったわ! 全てに絶望したって顔して、涙や鼻水を汚く垂れ流してね! あは、アハハハハハハハ!」
朝子は壊れた玩具のように笑い続けていた。
新郷匡と、その血を引く四人。その全員を殺害し、雄介か涼が新郷家を継いでいけば、新郷家から匡の血は排除され、血縁上は全くの他人が新郷家を乗っ取ることになる。悪魔を信仰してまで一族を支配することに腐心していた匡にとっては、それは絶望的な事実だっただろう。
そのために。
そんなことのために、罪のない人間を更に四人も殺したのだ。その中には、自ら腹を痛めて産んだ実の娘もいたというのに。
「……ふざけるな!」
それまで黙って朝子の話を聞いていた波川が、憤怒の表情で叫んだ。
「復讐だと!? くだらねえ! そんなもの、てめえと新郷匡の間で勝手にやってろ! 雄介は……そして、みゆきは! お前の復讐の道具じゃねえんだぞ!」
今まで人を食ったような態度ばかりを見てきた。
だから、波川がここまで怒りをあらわにしていることに潤は驚いたが、それと同時に納得した。
この男は、自らの教え子のために、謎を解いていたのだ。初めは、みゆきと雄介の父と叔父の死の真相を解明してやろうとして。それが叶わぬうちに、姉のみゆきが殺されてしまい、その仇を取るために。
この男はこの男なりに、「先生」であったのだ。涼のために、そして殺されてしまった奈緒のために何も出来なかった潤とは違って。
「私だって良い母親であろうとした! 妻であろうとした! 新郷匡に復讐を遂げたら、武之さんを、みゆきを、雄介を愛してシンメトリーから解放された家族の一員として平穏に暮らそうと思ってた! でも、無理なのよ! 今でもときどき美香姉さんが夢に出てくるの。私の無念を晴らしてって、病気でやせ細った身体で訴えてくるのよ! 新郷匡を、そしてその血族を一人残らず皆殺しにしてって……ああ……」
不意に、朝子は何か気づいたように、天を仰いだ。
「もしかして、あれこそが、シンメトリーの悪魔……だったのかしら……」
震える手を、朝子はじっと見つめる。
「命を奪った感触は、今もこの手に残っているわ……。最初は照義さん。図書室で待ち合わせした置手紙は偽装だったの。あの人はいつも遅くまで図書室で本を読んでいることを知っていたから、図書室に乗り込んで撲殺するつもりで……その前に食堂で鉢合わせして思わず殴り殺してしまった。その後、寝ていた武之さんを起こして、トレーニングルームから物音がするって言って連れて行ったわ。そして武之さんも、後ろからダンベルで殴り殺した。奈緒ちゃんは去年の夏に予め型を取って作っていた合鍵で深夜に部屋に侵入して、刺殺した。その後、新郷匡の部屋をノックして入れてもらって、縄で首を絞めて殺した。最後に、既に毒で死んでいたみゆきの遺体に誰よりも早く駆け寄って、ナイフを身体に突き立てた。撲殺した感触も、ナイフの感触も、絞殺の感触も、全部全部覚えてる。でも、今思うと、あのとき、私は、誰かに身体を操られていたような……」
「悪魔のせいにするな。五人を殺したのは、お前だ」
波川の冷たい声に、朝子は反論しなかった。
窓の外は徐々に明るく、淡い紫がかってきている。
夜が、明けようとしていた。