第六章:論理の示す先
「どうして……」
潤は呆然としていた。
どことなく、潤も匡が犯人ではないかと疑っていたのだ。
シンメトリーの悪魔。
シンメトリーの殺人。
この事件の犯人に、新郷匡ほど相応しい人間はいないと。だがその彼は、今、潤たちの目の前で首を吊ってぶらぶらと揺れている。
天井の梁に通ったロープが広い部屋の中心から垂れ、その先で輪を作っている。その輪の中に、匡の首が通っていた。足元には踏み切りに使ったような形で倒れている椅子が転がっている。
これはまさか、自殺?
潤の中で疑念が生まれると同時に、久子が先陣を切って部屋の中へ入って行った。ぶらぶらと揺れている匡の身体を抱きしめるような形で固定する。
「どなたか、旦那様を下ろしてください。お願いします」
久子の声を受けて、潤と波川が動いた。
二人は無言で部屋の中へ進むと、倒れた椅子はそのままにし、別の椅子をそれぞれ引っ張りだしてきてその椅子に乗って匡を下ろした。
久子はゆっくりと匡の遺体を床に横たえる。その表情は痛ましそうに歪んでいた。
「……パソコン」
匡を下ろし終えた波川が、ぽつりと呟いた。
重厚な造りの匡の執務机の上に、ノートパソコンが開いた状態で置いてあった。電源はつけっぱなしだ。
「あ、あの……勝手に覗くのは……」
マウスを動かしてパソコンの画面を覗きだした波川の行動を、後ろから控えめに梨沙が咎める。巨大企業の社長たる匡のパソコンとあれば、機密情報なども入っているだろう。確かに褒められない行動だ。
「遺書だ」
「え!?」
波川の呟きに、涼が声を上げて近くに駆け寄る。
それが契機になって、結局全員がパソコンの周りに集まった。
画面には文書作成ソフトが立ち上がっていた。そこに浮かび上がっていたのは、ごくごく簡素な文章。
「私、新郷匡はシンメトリーの悪魔として殺人を犯し、そしてシンメトリーの悪魔として自ら命を絶つ。新郷家で起こる死は私で最後だ」
殺人の自供。
これが事実ならば、四人を殺したのは、匡だということになる。そしてその後、逃げきれないと思いつめて自ら命を絶ったのか。
「やっぱり、じいさんが犯人だったのか……」
「でも、これは本当にお義父様が遺したものなのかしら。自筆の遺書ではないし……」
納得する雄介に、半信半疑の明恵。一族の反応はそれぞれだった。
「でも、姉ちゃんを殺せたのはじいさんだけだろ。姉ちゃんが部屋に引っ込んでから、俺と母さんと波川先生と倉敷先生と久子さんはずっと一緒にいた。涼と明恵叔母さんもそうだろ?」
「え、うん。それに、みゆきさんの部屋のドアを出入りした人も誰もいなかったよ。僕、見てたから」
涼が頷くと、雄介は満足そうに頷いた。
「ってことは、姉ちゃんを殺せたのは、じいさんか中岡さんのどっちかだけだ。でも、中岡さんは食堂でずっと朝食を作っていたよな。俺、姉ちゃんの部屋に行く途中、食堂にいたのをちらっと見たよ」
潤は梨沙がいたことを確認していなかったが、久子と波川も梨沙のことを目撃したと言って雄介の言葉を裏付けた。
「なら、残りはじいさんだけだ。涼がドアの出入りはなかったって言ってたから、じいさんは窓から出入りして姉ちゃんを殺したんだよ。外壁には人が歩けなくもない出っ張りがあるから、そこを使えば壁伝いに移動することは可能だ。それに、姉ちゃんの部屋のベッド際の窓が開きっぱなしになっていたの、俺は見た」
匡が自室の窓から外に出て壁伝いに移動してみゆきの部屋に侵入し、みゆきを刺殺する。その後はまた窓から壁伝いに自室に戻った。そんな推理を潤は頭で思い描いた。確かに、不可能ではない。
「おい、窓に鍵はかかっているか?」
「え?」
「見てこい」
波川に促され、何でこいつに命令されなければならないんだ、と腑に落ちないものを感じながらも、潤は渋々窓際まで歩いていく。
よく磨き上げられた、一点の曇りもないガラス窓。その全てにクレセント錠の鍵がしっかりとかかっていた。
外壁の出っ張りというのも見える。外壁を取り囲むように、約五十センチほど壁がせり出している。ここを足場にして通れば確かに壁伝いにみゆきの部屋まで行くことは可能そうだ。命綱なしで通るのはかなり勇気がいりそうだが。
「この部屋の窓の鍵は全部締まってるよ」
「じいさんが自分で閉めたんだろう?」
雄介の言葉に、波川は頷く。
「確かに、その可能性はある。ちなみに、俺たちが入ってきたのと反対側のドアの鍵も締まっていた。……これが何を意味するか、分かるか?」
窓は全て施錠されていた。潤たちが入ってきたドアも、久子たちが鍵を持ってくるまでは確かにロックされていた。反対側のドアもそうだったという。と、いうことは。
「この部屋は、密室だったってことか?」
「その通り」
いつの間にか、全員の視線が潤と波川に集まっていた。
「でも、合鍵を使えば出入りは出来たんじゃないか」
「それは不可能でございます」
潤の反論に、久子が静かに答えた。
「旦那様の部屋のものも含め、合鍵はすべて私が管理しております。ですが、私一人で自由に持ち出すことも出来ません。私の部屋で管理している、『鍵箱』と呼ばれる箱に合鍵は全て入れてありますが、その鍵箱にも鍵がかかっており、その鍵は中岡が管理しているのです」
「はい、三木さんの言う通りです。鍵箱を開けるための鍵は私が管理しています。鍵箱はここ数ヵ月開けていませんでした。間違いありません」
梨沙が久子に賛同し、場に沈黙が戻る。
合鍵は誰にも使用不可能だった。つまり、匡の部屋が密室だったのは間違いないことになる。
「外部の人間にお義父様を殺すことは不可能。つまり波川先生は、これは間違いなく自殺だって言いたいのね?」
「いいや?」
朝子の言葉を、波川は飄々と躱す。
言葉が宙に浮いた形となった朝子は、眼を白黒させた。
「匡氏は自殺したか、もしくは自殺に見せかけて殺された。そういうことだ」
波川は言いながら、ぐるりと関係者たちを見回した。その表情をみればすぐに分かる。この男は、新郷匡が自殺したなどとは欠片も思っていないということを。
*
住人たちが部屋を引き上げた後も、波川は匡の部屋に残ってあれこれと調べ続けていた。
時には床を這い、時には書棚に並ぶ書物を一つ一つ手に取り、時にはドアノブや窓のサッシを注視して。
「……みんなの前ではああ言っていたけど、匡氏は殺されたと思っているだろう?」
「当然だ」
波川は窓の外を眺めながら答える。
「雄介の推理も一理ある。状況的には匡氏しか犯行可能に見えないからな。だが実際は、匡氏にも犯行は不可能なんだ」
「え、それはどうして……」
「見てみろ」
波川は窓を開いて見せた。覗き込むと、先ほども見た五十センチほどせり出した外壁がある。
ピンと来ていない様子の潤を見て、波川は溜息をつくと、窓から身を乗り出して外壁のせり出した部分を人差し指で一掻きした。そして、その指を潤に見せてくる。
「真っ黒だ」
「土埃なんかがこびりついているんだろうな。そこにも跡が残っているだろ」
見ると、波川が人差し指で触った部分は土埃が剥げて跡が残っている。
「俺が触った場所以外はびっしり土埃で覆われていて、それが剥げた様子はない。これがどういうことか、分かるだろう?」
「誰も、ここを通っていないということか。土埃がびっしり覆っているせいで、ここを通ると必ず痕跡が残ってしまうから。そうなると、窓伝いに移動して匡氏がみゆきちゃんを殺したっていう推理は成り立たないな」
そう言ってから、潤の心に恐怖心が滲み出てきた。
ならば一体、犯人はどうやってみゆきを殺したというのか。雄介の推理で、匡氏が殺したという方法が否定された以上、不可能犯罪ということになってしまう。
まさか、みゆきも自殺だったのか。奈緒が亡くなったショックで発作的に自殺し、匡もまた自ら命を絶った……。
「何か下らないことを考えているように見えるが。安易に自殺説には流れない方がいいと思うぞ」
「な、なんで、僕の考えていることが……。分かってるよ。自殺説は自殺説で不自然だってことくらい。でも、殺人と考えたっておかしいだろう。例えば匡氏の部屋は密室だったんだし……」
「ああ、そのトリックならもう解けている」
「えっ!?」
驚いて声を上げる潤に、波川は長男一家側の廊下に繋がっている扉のドアノブを指さす。
「触ってみろ」
波川に促されてドアノブを握ってみると、べったりとした感触が手に伝わってきて、思わず潤は手を離して自分の手を見つめた。
「べとべとしてただろう?」
「あ、ああ。これは一体……」
「セロハンテープだ」
波川は言いながら、ドアノブの端を指さした。そこには、確かにセロハンテープの切れ端が残っている。
「セロハンテープ……これで密室を作ったと? いったいどうやって?」
「ま、見てろよ」
波川は言いながら、どこからかくすねてきたらしいセロハンテープを取り出し、内側のドアのサムターンの上端にテープをくっつけた。それからテープを伸ばし、反対の端はレバーハンドル式のドアノブにくっつけた。
「これで終わり。この状態でドアノブを引くとどうなると思う?」
「……えーっと」
「百聞は一見に如かず、だな。ちょっと待ってろ」
波川は言いながら一人廊下に出た。それから、恐らく廊下側からレバーハンドル型のドアノブを下に引いて見せたのだろう。内側のドアノブが連動して下に動いた。それと同時に、セロハンテープで繋がれたサムターンがゆっくりと九十度回転し、カチャリ、と音を立てる。
「あ」
思わず言葉が漏れる。
このドアは内側から、サムターンと呼ばれるツマミを九十度捻ることで鍵をかけることが出来る。サムターンが縦の状態であれば開、横の状態であれば閉だ。そのサムターンをセロハンテープを使ってドアノブと連動させて動かすことで、外側から鍵を使わずに施錠して見せたのだ。
中から鍵を開けて波川を迎え入れてやると、波川は微かに笑みを浮かべていた。
「あとは、匡氏の遺体が発見されたどさくさに紛れて、セロハンテープを回収しちまえば証拠隠滅完了ってわけだ。急いで回収したせいで、セロハンテープの端っこがドアノブに残っちまったみたいだけどな」
それから、波川は笑みを引っ込めて少しだけ悔しそうな顔をした。
「もしこれにもっと早く気づいていれば、犯人が即分かったかもしれない。セロハンテープの屑を持っていた奴が犯人ってな。もう容疑者たちは返しちまったから、とっくに処分されちまってるだろうぜ」
もしくは、遺体発見時にドアノブの近くにいた人物が有力な容疑者になるのでは、と思ったが潤はあのとき、誰がどこにいたのかを正確に思い出せなかった。当然だ。あのとき、全員の視線は匡の首吊り死体に集まっていたのだから。
そこまで考えた時、ふと潤の中に閃くものがあった。
「……そうだ。僕は匡氏の遺体発見時からずっと波川と一緒にいるよな。ということは、僕を身体検査してもらえれば、少なくとも僕は犯人じゃないってことが分かってもらえるんじゃないか? 僕に証拠隠滅の機会はなかったから」
「ん?」
波川は虚を突かれたような顔をして潤を見た。
「あー。お前はそもそも犯人じゃないだろうって思っていたからな。でも一応、確認させてもらおうか。それ終わったら、俺の身体検査もしていいぜ」
波川はそう言って、潤のポケットやら服の間やら、果ては靴の中まで徹底的に調べた。当然のことだが、その結果、セロハンテープの屑などは出てこない。
同様にして潤も波川の身体検査を行ったが、何も出てこなかった。
「これでお互いの潔白はとりあえず証明されたわけだけど……ちょっといいか? 僕は犯人じゃないと思ってたって言っていたけど、それってどうしてだ?」
「そんなことか。ま、見るからに嘘とかつけなさそうだしな、っていうのは半分冗談な。半分は本気だが。あとは照義さんが殺されたときの状況から、お前は犯人候補から外してた。それに、匡氏が発見されたときも、お前はずっと俺の目の届く場所にいたし―――」
波川は言葉を途中にして、何か考え込み始めた。
虚空をしばらく見つめていたかと思うと、顎に手を当て、やたら真剣な顔で何やらぶつぶつ呟きだす。
「どうした? 大丈夫か?」
思わず潤が声を掛けると、波川は真剣な表情のまま潤の方を見た。
「……犯人が、分かったかもしれない」
「え!? 本当に? い、一体誰が―――!」
「いや、まだ駄目だ。そいつがみゆきをどうやって殺したのか、よく分かってないからな」
誰が犯人であっても、新郷みゆきの死は不可解だ。
誰にも彼女を殺せたとは、思えない……。
「みゆきの部屋に、行ってみるか」
波川は顔を上げると、そう言った。
あまりにも不可解な状況。それでもこの男の表情に、絶望感は全く感じられなかった。
*
みゆきの部屋に向かおうと匡の部屋を出たところで、雄介と涼に会った。それぞれの手には、アガパンサスの清涼感ある青い花がある。
「あれ、二人とも……」
潤が声を掛けると、涼が弱々しい笑みを浮かべた。
「お姉ちゃんとみゆきさんに、花を手向けてあげようって思って。そう言ったら、中岡さんが花壇からこの花を取って来てくれたんだ」
「母さんと明恵叔母さんは、部屋に引っ込んでるよ。……ショックが大きいんだろうし、そっとしておいた方がいいと思って、声はかけてない」
雄介は言いながら、母親の部屋に視線を向けた。
数日の間に夫と娘を立て続けに失った朝子と明恵の心痛は察するに余りある。勿論、父と姉を失った雄介と涼も。
「それなら、俺たちも同行する。いいよな?」
「ああ」
いずれにせよ、みゆきの部屋に行こうとしていたのだ。
そうして四人でみゆきの部屋に入ると、部屋は遺体が発見されたときの状況そのままで残っていた。ベッドの上のみゆきの遺体も、そのまま。遺体の右胸からは、痛々しくナイフが伸びている。
部屋の中に、窓は二か所あった。勉強机の近くと、ベッドサイド。ベッドサイドの方の窓は開け放たれていて、外からの風にカーテンがふわりと舞っている。
雄介はみゆきの近くにアガパンサスの花束をそっと置くと、無言で手を合わせた。他の三人もそれに続き、部屋は祈りで満たされる。
やがて合わせた手を解くと、波川はベッドのすぐ近くの床に目を寄せた。蓋が開いたピルケースが無造作に転がっている。
「これ、みゆきさんの手から滑り落ちたものかな?」
「そうだろうな。中に薬が残っていないのを見るに、薬はちゃんと飲まれたみたいだ。飲みかけの水も残っているしな」
涼の呟きに波川が答える。
その視線の先では、飲みかけの水がコップに入ったまま、ベッド近くのサイドテーブルに置かれていた。
「みゆきは発作を起こした後、恐らく窓際にいって窓を開け、それから薬を服用したんだろう。そして、その後殺された」
ぎゅ、と音がして雄介の拳が強く握られる。
「ひとつ、思いついたことがある。朝子さんなら、みゆきちゃんを刺殺出来たんじゃないか?」
潤が雄介と涼に聞こえないよう、小声で波川に言う。
「朝子さんは、みゆきちゃんの遺体発見時、誰よりも早く部屋の中に入って行った。部屋の入口からは死角になっていたベッドのところに誰よりも早く行き、みゆきちゃんを刺した。所謂早業殺人だったんじゃ……」
「みゆきのもとに辿り着いた一瞬に、一突きで即死させたと? どんな暗殺者だよ」
「…………」
「それに、みゆきが刺されていたのは右胸だ。心臓のある左胸ならともかく、右胸を刺して即座に即死させるのは難しいだろう。そもそも、みゆきが部屋を開けた時点で生きていたなら、ノックに応えて自分から出てくるはずだよ。それがなかったってことは、みゆきはドアが開かれた時点で死んでいたと見るべきだ」
しかし、ならば誰ならみゆきを殺せたというのだ。
潤は途方に暮れた気持ちになりながら、空いた窓から身を乗り出して外壁を見下ろしてみた。せり出した部分の土埃は全く乱れていない。誰も降り立っていないことはやはり明白だ。
さらに下を見下ろすと、昨日の雨の影響でぬかるんだ地面が広がっている。地面は滑らかに広がっており、僅かな乱れも見当たらなかった。
「この部屋のすぐ下は、三木さんの部屋だったよな?」
「ああ、そうだな」
潤が答えると、波川は何かをしばらく考えており、それから無言で部屋を出ていった。
「あ、おい!」
慌てて追いかけると、波川が向かったのは久子の部屋だった。久子自身は大広間で掃除をしていたので、波川は手を上げて久子に話しかける。
「すいません、ちょっといいですか?」
「はい、なんでございましょうか」
手を止めた久子が波川の方を向いた。波川と潤を追いかけて一階に降りてきた雄介と涼が不思議そうな顔でこちらを見ている。
「三木さんの部屋って、普段鍵かけてます?」
「かけておりません。貴重品も持っておりませんので」
「そうですか。申し訳ないんですけど、部屋の中を見せてもらうことは出来ませんか? 中には入らず、部屋の入口から中を見せてもらうだけでいいんですけど」
波川の申し出に、久子は流石に面食らったらしかった。
数秒逡巡するような仕草を見せたが、結局久子はそれを受け入れ、自らの部屋のドアを開いて見せた。
「一体どうして、三木さんの部屋なんて……」
「後で説明する」
波川はつれない。
久子が開いたドアの先、綺麗に整頓された使用人の部屋が続いていた。
扉を開けた正面には図書室と同じ鉄格子の嵌った窓がある。その近くにベッドがあり、脇には執務机が置いてあった。部屋の入り口近くの小さな棚の上に鍵の付いたボックスが置いてあり、これが合鍵を集めて入れてあるという鍵箱なのだろう。
「ありがとうございました。もういいです」
波川が部屋の中を見ていた時間はせいぜい十秒。いったい何を確認していたのか、潤には想像もつかなかった。
「一体、何をしていたの? お姉ちゃんの部屋には行かないの?」
「いや、行くよ。今から行く」
涼に不思議そうに問われ、波川はそう答えてさっさと歩きだす。自分勝手と言うかマイペースというか、周りを省みない男だ。部屋を見せてくれた久子も怪訝そうな顔で波川を見るばかりである。
潤はそんな久子に会釈をすると、さっさと歩きだしてしまった波川を急いで追う。
「何か分かったのか?」
「あー、分かったような、分からないような、って感じだな」
波川の返事は歯切れが悪い。
この男も、推理に行き詰って悩んでいるようだった。
やがて今度は奈緒の部屋に辿り着く。今度は涼がアガパンサスの花を供え、四人は無言のまま手を合わせた。
ベッドの上では、シーツを赤く染めた奈緒が眠るように目を閉じている。きらきらと美しく輝いていたあの瞳は、もう二度と見ることが出来ない。
悪戯っぽく笑ってこちらを揶揄ってくる彼女の軽やかな笑いが、どうしてももう一度聞きたかった。
「……奈緒は、三か所刺されているな」
波川が呟いた。
確かに、ナイフが刺さっている胸の傷以外に、腹部と胸部にそれぞれ一つずつの刺し傷がある。まだ警察も来ていないこの状況では、死因も断定はできないが、失血死だったのか、ショック死だったのか。せめて少しでも苦しまずに逝けたことを願うばかりだ。
「みゆきが差されていたのは一か所だったな。一か所と、三か所……」
「何だよ、どうかしたのか?」
しばらく黙り込んでいた波川がやがて勢いよく顔を上げた。
驚くほど冷たく鋭い顔。鋭利な光を湛えた瞳。
やがて波川は、重々しく一言、呟いた。
「そういう、ことか」