第五章:赤き死の饗宴
朝七時半。
潤が部屋を出ると同時に、正面の部屋から波川が出てきた。
だらしのない大欠伸を漏らしながら出てきた波川の緊張感のない様子に、潤は密かに溜息を漏らす。この男の図太さはどこから来るものなのだろう、と思ったが、深く考えても無駄だと気持ちを切り替えた。
食堂の中を覗くと、久子と梨沙が忙しそうに朝食の準備をしているのが見える。
朝食は朝八時から。今が一番忙しい時間だろう。
潤は食堂の入口からそっと離れると、大広間の方へ戻った。
「今日はやけに人が少ないな」
大広間のソファに座っていた波川がどこか落ち着かなそうに呟く。
「まだ七時半だろう。朝食は八時からだから」
「そうだが、例えば奈緒や雄介や明恵夫人なんかはこの時間にはいつも下に来ているだろう」
確かに、そう言われてみるといつも早起きである面々の姿が見えない。
奈緒は元々朝早く目覚めてしまう体質だというし、雄介は早朝から外に出てジョギングなどを欠かさない。明恵はよくソファで編み物などをしている。
それが、いずれの者の姿も見えないのだ。
「……ちょっと、様子見てみようか。八時から食事を開始するなら、そろそろ起きた方がいいだろうし」
波川の言葉に不安が刺激された潤は、階段を上がって二階へ向かった。二階へ上がってまずは一番手前の、涼の部屋をノックしてみる。
数秒沈黙が続き、心臓がばくばくと嫌な音を立てた。武之と照義の遺体が発見されたのも、朝方のことだった。まさか、という思いが不安を積もらせる。
しばらくして、鍵の開く音がして涼が顔を覗かせたのを見て、潤は漸く安堵した。
「先生、どうしたの? まだちょっと早いよね?」
大きなくりくりとした目でこちらを見る涼に、潤は苦笑を返す。
「ごめんね。みんななかなか起きてこないから、ちょっと心配になっちゃって」
「ううん、大丈夫です。僕もそろそろ下に降りようと思っていた頃なので」
涼はそう言ってそのまま部屋の外に出てきた。仕立てのいいシンプルな服に身を包んだ華奢な体は、雄介と同じ野球少年のものにはとても見えない。
それと同時に、二つのドアが開いた。
涼の隣の明恵の部屋と、吹き抜けを挟んで正面の雄介の部屋だ。
雄介は「おはようございまーす!」と吹き抜け越しにこちらに元気な挨拶を送ってから下へ降りていった。
明恵は、部屋の前に潤と涼が立っているのを見て目を丸くする。
「どうしたの二人とも、こんなところで」
「いや、すみません。なかなかどなたも降りてこないので、何だか心配になってしまって」
「そうだったの。ごめんなさいね、心配かけて。何だか昨日は不安で目が冴えてしまって、起きるのが遅くなってしまったわ」
明恵がそう言ったところで、再びドアが開く。
吹き抜けの向こうに見えたのは、朝子の姿。遠目にも化粧もしっかりし、隙のない服装で固めているのが見える。大変な状況下にあっても、「ちゃんとした」母であり、妻であることが彼女の矜持なのだろう。
「奈緒もまだ起きてきていないの?」
「ええ、そうなんです。奈緒さんも昨日は眠れなかったのかもしれませんね」
言いながら、奈緒の部屋を見る。そのドアは、未だ開く気配がない。
明恵はそのまま奈緒の部屋の前まで歩みを進めると、控えめな勢いで娘の部屋のドアをノックした。
「奈緒。起きてるの?」
明恵はそう言うが、実際、それは無駄な行為である。
新郷邸は全室防音構造になっているので、外から呼びかけても中にいる奈緒にその声が届くことはない。ただ、ノックの音は室内に響いているはずだ。
明恵は辛抱強くノックを続けたが、中から奈緒が出てくる気配はない。
「……おかしいわ。あの子、寝付きはいつも浅い方で。部屋をノックしたらいつもすぐに起きてくるのに」
不安そうな声色で明恵が呟く。ドアノブを握るが、鍵がかかっており、中に入ることは出来ない。
「合鍵はどこに?」
「久子さんが管理しているわ」
潤が問うと、明恵が不安そうな顔で答える。
「僕取ってくる!」
涼が明恵の声を受けて、走って一階まで下りていった。事態が事態だけに、それを咎める者はいない。明恵は落ち着かない様子で肘を指でとんとんと叩き、涼が戻ってくるのを待つ。潤もまた、言い知れぬ悪い予感に焦燥感ばかりが蓄積していくのを感じていた。
しばらくして、涼が戻ってきた。久子に朝子、波川、雄介の四人を伴って。
「こちらが合鍵でございます」
久子から鍵を受け取ると、明恵は急いでそれを鍵穴に入れる。
「開けるわよ、奈緒!」
明恵が言いながら、鍵の開いたドアを開ける。
部屋の電気は消えていた。ドアが開いた正面には窓と勉強机があり、向かって右側の、入り口からでは死角になっている位置にベッドがある。
「奈緒……?」
明恵が娘の名前を呼びながら、部屋に入っていく。
そのすぐ後に、波川、潤、雄介、涼、朝子と続いていき、久子は使用人らしく部屋の入り口で待機していた。
六人が進んでいった部屋の中、奈緒はベッドの上で眠っていた。
その胸に銀色のナイフを突き立てて。鮮やかな深紅の血で純白のシーツを染めながら。
永遠に目覚めることのない、眠りの中に。
―――冗談です。先生って困った顔がとても可愛らしいから、つい。
―――さあ、何故でしょう。
―――私、お手伝いします。それで誰が犯人か分かるなら。
悪戯っぽく笑う顔、陰のある表情、決意に満ちた凛とした表情。
一か月にも満たない短い交流の中で見た、いくつもの表情がぐるぐると頭を巡った。
何故奈緒が。こんな、まだ十数年しか生きていない少女が、殺されなければならないのだ。絶望というものが形を持っているなら、きっと、この少女の遺体がそうなのだろう。
そう、信じたくなるほどの、美しくも哀しい抜け殻だった。
「いやああああぁぁぁ! 奈緒ぉぉぉ!」
泣き叫ぶ明恵の声を聞きながら、潤は失われたものの大きさを静かに噛み締めていることしかできなかった。
*
「待ってくれ……姉ちゃんは? 姉ちゃんはどうなったんだ?」
誰もが呆然としていたところ、いち早く我に返ったのは雄介だった。
そう、これはシンメトリーの殺人。奈緒が殺されたなら、もう一人の対称点は……。
「我はシンメトリーの悪魔。対称点を、対称点で殺す」
温度の感じられない冷たい声でそう言ったのは、波川だった。彼の視線の先にあったのは、奈緒の勉強机。その上に、まるで宿題のプリントでも広げてあるかの様に、一枚の紙が置いてあった。
武之と照義の兄弟が殺されていた時と同じ文言の、紙。
次の瞬間、驚くべきスピードで奈緒の部屋の中の電話機に飛びついた者がいた。波川だ。
各部屋には、電話機の子機が設置されており、これは館内のみで繋がる内線となっている。
波川は奈緒の部屋の子機で、みゆきの部屋の内線にかけているのだ。
「ああ……みゆき、みゆき……」
波川の横で、祈るような声を出しながら、朝子が応答を待つ。
五秒、十秒……。
見守る面々が、最悪の状況を想像し始めた、そのとき。
「みゆきか!?」
不意に内線が繋がり、波川が声を上げた。
「お前、無事なんだな? 波川だ。ちょっと大変なことになった。部屋から出てこられるか。今、みんな奈緒の部屋に前にいる。……ああ、待ってるぞ」
波川は終始冷静な声で子機に向かって話すと、ゆっくりとそれを戻した。
それと同時に、開きっぱなしのドアの向こうで、静かにドアの開く音がする。潤が振り向いたその先にいたのは、自分の部屋から出てくるみゆきの姿。
「みゆき! ああ、無事だったのね!」
朝子が駆け足で部屋を出て、吹き抜け越しにみゆきに声を掛ける。みゆきは、きょとんとした顔でこちらを見ていた。
「お母さん。さっき、波川先生から内線があって。いったい何が……どうして、みんな、奈緒ちゃんの部屋の前に……?」
話すみゆきの顔色が、だんだん曇っていくのが見えた。
昨日殺人事件が起こったばかりの館内で、多くの人間が集まっている。その意味を、薄々感じ取ってきたのだろう。
「奈緒ちゃんが……奈緒ちゃんが亡くなっているのよ! この部屋の中で!」
ほとんど叫びに近い朝子の声を聞いて、みゆきが両手を口に当てて驚愕の表情を見せる。
あまり仲が良くなかったといつか奈緒が言っていたけれど、それでも二人はこの家における対称点であり、唯一の同性の従姉妹だったのだ。
「そんな……嘘でしょう! 奈緒ちゃんが……奈緒ちゃんが、そんな……ゲホッ!」
取り乱すみゆきの呼吸が、おかしくなってきた。よろよろと後ろに後退り、壁に背中を付けた体勢のまま、喉の辺りに手を当てる。その身体が、遠目からも小刻みに震えているのが見えた。
潤もこの家に来て何度か見たことがある、過呼吸の症状だ。
「姉ちゃん! 落ち着け! 薬! 薬だ!」
雄介が叫ぶと、みゆきは苦しそうな顔で頷いて見せ、薬を取りに部屋の中へ戻っていく。
「俺らも行こう。ちゃんと薬飲めているか心配だし」
「そうね」
雄介と朝子が頷き合い、みゆきの部屋に向かうべく進みだす。直線距離ではさほど離れていない奈緒とみゆきの部屋だが、二つの部屋の間は吹き抜けで隔てられており、それ故に、一旦階段を下りて一階に降りた後、反対側の階段を上がって二階に上がり、奥へ進むという面倒な道筋を辿る必要がある。
「そうだ。匡氏の部屋を通り抜けさせてもらえば、すぐにみゆきちゃんの部屋に着けるんじゃないですか?」
潤が朝子と雄介を追いかけながら声を掛ける。新郷邸の二階部分は吹き抜けで隔てられているが、匡の部屋はそれに跨るように存在しており、吹き抜けの両側に一つずつドアがあるため、匡の部屋を通り抜けられればかなりのショートカットになる。
「そうね! ちゃんと薬飲めてなかったら危ないし、急いでいるのだから通らせてもらいましょう!」
朝子がそう言うと同時に匡の部屋の前についた雄介が、匡の部屋のドアを叩いた。
他の家人の部屋のドアとは違う、重厚な造りの艶のある木製のドアだ。この家の主は自分だと主張しているかのような、威圧感がある。
だが雄介はそんなことはお構いなしに力任せにドアを叩いている。ある程度強く叩かなければ中までノックの音が響かないかもしれないという思いもあったのかもしれない。
だが、いくら叩いても中からの反応はなかった。まだ寝入っているのだろうか。
「合鍵をお持ちしましょうか?」
「それを待っていたら余計に時間をロスするだけよ! これなら普通に行った方が早いわ!」
久子の申し出を一言で切って捨てると、朝子が匡の部屋を通ることを早々に諦め、早足で階段を下っていった。雄介もそれに続いたのを見て、潤も追いかける。後ろを振り返ると、波川と久子も付いてくるようだった。
奈緒の部屋の入口では不安そうな顔をした涼が立ち尽くしてこちらを見ている。明恵の姿は見えない。まだ娘の部屋の中で、その死を嘆いているのだろう。
胸が締め付けられるような感覚がしたが、今は急いでみゆきの部屋へ向かうことにする。ちゃんと近くで生きている彼女を見ないと、不安だという思いもあった。
階段を下り、食堂の前の扉を横切り、反対側の階段を駆け上る。二階の反対側の廊下に出ると、その一番奥の部屋がみゆきの部屋だ。
「みゆき、発作は大丈夫? 入るわよ?」
朝子が数度部屋のドアをノックした後、ドアノブを捻る。だが、みゆきが中から鍵をかけてしまったようで、入ることが出来ない。朝子に代わって雄介が焦れたように力ずくでドアノブを引くが、それなりに頑丈なドアを無理やり開くことは不可能だった。
「久子さん、合鍵お願い」
「鍵ならば、今お持ち致しました!」
駆け足でこちらへ向かってきたのは、もう一人の使用人の梨沙だ。その手には、みゆきの部屋の合鍵が握られている。ずっと食堂で久子に代わり一人で朝食の準備を進めていたそうだが、ただならぬ空気を察してやってきたらしい。
「貸して!」
半ば奪い取るように朝子が鍵を受け取ると、急いで鍵穴に入れた。
みゆきは奈緒と違って殺害されていないことが分かったが、それでも過呼吸発作は放置すると危険だ。ドアをノックしても反応がないのも不安である。朝子が焦れている気持ちもよく分かる。
そして鍵が開くと同時に、朝子は鍵を雄介に押し付けて、勢いよくドアを開けて中へ駆けていった。
みゆきの部屋は、奈緒の部屋とほぼ同じ造りだった。
正面に窓と勉強机があり、向かって左側の死角となる位置にベッドが置かれている。みゆきの姿は、部屋の入口からでは見られない。
「い……いやあああああああ!」
真っ先に駆け込んだ朝子が悲鳴を上げる。
慌てて部屋の奥まで進むと、そこで潤は強烈な既視感を覚えることになった。
女の子らしい清潔な部屋の中、ベッドの上で仰向けに横たわっている少女。
その胸には、無情にも深々とナイフが突き刺さっていて。
「え……?」
思わず、間抜けな声が漏れる。
だって、ベッドの上で倒れている少女は、先ほどまで生きていたのだ。部屋から出て、ちゃんと言葉だって交わした。
それが、なぜ。
こんな、ベッドの上で、ナイフで刺されているんだ。
「嘘でしょう!? 嘘だと言って! みゆきぃぃぃ!」
悲痛な声を上げながら、朝子が何度もみゆきを揺すっていた。潤は呆然として、その様を見ていることしかできない。
不意に、肩を叩かれた。
波川が、これまでに見たことのないような真剣な眼でこちらを見ている。
「おい、朝子夫人を引き離せ」
「は?」
「みゆきから引き離せって言っているんだよ」
「お前……何でそんな……!」
思わず怒りがこみ上げた。娘の無残な姿を見て嘆いている母親を無理やり引き離すなど。波川の口調があくまで冷静であることも、現状との温度差を感じて受け入れがたかった。
「まだ、生きているかもしれないだろうが! それを確かめるって言っているんだよ! 急げ!」
直前まで冷静な様子だった波川の怒気の籠った声に驚いた潤は、そのまま頷いて朝子を後ろから羽交い絞めにし、みゆきから引き離した。
「落ち着いてください! 落ち着いてください!」
潤は朝子の耳元で、ただそう言うことしかできない。
生きているかもしれないから、とは言えなかった。そう言って期待させて、やっぱり亡くなっていました、となると余計に彼女を傷つけることになる。それに、胸をナイフで刺されているというのに一向に反応を見せないみゆきが、生きているようにも見えなかった。
その潤の印象が事実と相違していないことが分かるまでに、十秒とかからなかった。
首筋と手首、二か所で脈を確認した波川だったが、ほどなくして力なく首を振る。それをみた朝子はそのままその場で崩れ落ち、蹲って泣き出した。
「嘘だろ……だって、さっきまで生きてたじゃんか……姉ちゃん……」
震える声で、雄介がじっとみゆきの亡骸を見つめていた。
「なんでだよ……なんで……」
悲痛な雄介の呟きに、答える者は誰もいなかった。
*
「旦那様に……ご報告をして参ります」
しばらくして、口を開いたのは久子だった。
その一言で、潤は館の主である匡だけが、まだこの状況を把握していないのだということを思い出す。よほど深く眠りについているようで、何度ノックしても部屋から出てこなかったのだ。
久子は頭を下げると、そのまま梨沙を伴って急ぎ足で匡の部屋の合鍵を取りに戻っていった。
「こんなときに、お気楽なもんだ。じいさんも」
「……出て来られないのじゃないかしら。みゆきや奈緒ちゃんを殺した証拠を隠滅していて」
雄介の呟きに、低い声で答えたのは朝子だった。その声の低さに、潤は思わずぎょっとする。
雄介が昨日口にしていた疑念を、朝子もまた抱いていたらしかった。いや、朝子だけではない。雄介のように口にしないだけで、この家の誰もが思っていたことだろう。
先ほどまで蹲っていた朝子が、ゆらりと立ち上がった。
そしてふらふらとした足取りで、部屋を出ていく。どうやら、匡の部屋へ向かうつもりらしい。
雄介や波川もそれに続いたので、潤も一緒に向かうことにする。
それと同時に、階段から匡の部屋の合鍵を持った久子と梨沙が現れた。先ほどまで奈緒の部屋にいた明恵と涼も伴って。
明恵は暗い表情ながらも、潤たちの姿を見つけると無言で会釈をした。
涼はそんな明恵を気遣って、腰の辺りに手を当てて支えている。
こうして図らずも、匡以外の生きた館の住人が、部屋の前にすべて集まることとなった。
「旦那様。お目覚めでしょうか」
久子が言いながらノックする。
匡の部屋も例に漏れず防音構造となっているので、久子が何を言おうと中の匡の耳には届かないであろうが、それでも声を掛けるのは使用人としての分を弁えてのことだろう。
「……返事がないな。鍵で開けるのか?」
「はい。緊急事態ですし、いざというときには鍵を使って中に入る許可は事前に頂いておりますので」
波川の言葉に久子はそう返し、持ってきた鍵を鍵穴に入れる。
匡の部屋の鍵は他の部屋のものと形が異なっていた。プレートの表面に穴がぼつぼつと掘られている、いわゆるディンプルキーと呼ばれるものだ。合鍵の偽造が難しい、複雑な造りの鍵である。他の部屋の鍵が比較的合鍵づくりも容易にできるものであるのに比べると、より高いセキュリティを自分の部屋にのみかけていることになる。
久子が鍵を捻ると、かちゃりと音を立ててロックが開錠される。久子は改めてドアをノックしたのち、ゆっくりとドアを開いた。
「旦那様。お休みのところ申し訳ございません。ご報告したいことがあり―――」
久子の声は、途中で途切れた。
その場にいる全員が息を呑む音が、潤の耳に確かに届く。その中には勿論、自分自身のものも含まれていたけれど。
全員が呆然と見上げる視線の先で、新郷家を悪魔信仰によって支配していた当主、新郷匡が首を吊って死んでいた。