第四章:悪魔信仰の当主と、二人の妻
その日の夕食、食堂に集って食事をしたのは六人だけだった。
一族の主である新郷匡、それから潤と波川、奈緒、涼、雄介。亡くなった二人の妻である朝子と明恵、それからみゆきは気分が優れないからと部屋から出てこなかった。
匡はどこか浮かされた眼をして食事を続けており、以前の様に、みゆきがいないから奈緒に戻れとも言わない。
匡以外の五人は、ただ無表情に食事を口に運んでいた。
「じいさん」
それぞれの皿が下げられ始めた頃、静かに声を上げた人物がいた。雄介だ。
「親父と照義叔父さんが殺されたってのに、随分落ち着いてるんだな」
「……何が言いたい?」
匡はぎろりと雄介を睨む。だが雄介は怯まなかった。
「あんたが殺したんじゃないのか?」
「雄介くん!」
奈緒が大きな声で割り込んだ。
「何を馬鹿なことを言っているの? おじい様だって実の子を殺されているのよ」
「あんな変態じみたこだわりを持った殺し方、じいさんくらいしかしないだろ。奈緒ちゃんだってそう思っているんじゃないのか?」
「そ、そんな……」
奈緒は口籠る。
強く反論できないのは、同じことを少なからず思っているから。
奈緒だけではない。この家の者のほとんどが、この殺人がいかに「新郷匡らしい」かを実感しており、それ故に疑いを拭いきれない。やり手の経営者らしく冷酷で、情に薄いところも親族だからこそよく知っているのだ。
「雄介」
答える匡の声色に、動揺の色は微塵も見られない。それが却って、不気味であった。
「誰が殺したかというのは、重要なことではない。武之と照義は、悪魔に殺されたのだ。私の信奉する『シンメトリーの悪魔』に」
匡の眼は雄介を見ているようであって、その向こうの、どこか遠くの世界を見ているようでもあった。
「この家の中に、二人を殺し、手を下した者がいるのだろう。だがその者もまた、悪魔に操られているに過ぎぬ。悪魔が二人を殺したのだ」
「じいさんがこれだけ熱心に信奉しているのに、その悪魔とやらはその子供を殺すってのか?」
「それが悪魔たる所以。人の理で制御できるものではない。武之も照義も、シンメトリーの美しさを解さなかった。だから罰を下されたのだ」
一族のだれも匡を理解しない。共感しない。ただ不気味な存在として、一族の主は君臨していた。
「悪魔を誰よりも信奉していて、シンメトリーの美しさを理解している自分は、殺されないってか」
「何度も言わせるな。悪魔に人の理は通じん。場合によっては、対称軸たる儂をも悪魔を殺すだろう。だが……」
匡の瞳に、恍惚とした光が宿る。
「美しきシンメトリーの中で死ねるなら、本望だ」
雄介はもう、反論しなかった。
その場を沈黙が支配し、使用人たちが忙しなく動く姿だけが、ずっと続いていた。
*
食事を終えて大広間に出ると、波川がいた。
壁際の飾り棚に並んだ写真立てを興味深そうに眺めている。
古いものから最近のものまで、いくつもの写真が飾られている。最近撮ったものは、潤も見慣れた面々―――当主の匡を中心に武之一家と照義一家が左右に配置されている。その並びもきっちりシンメトリーになっていることに気づき、潤はいっそ清々しくなり苦笑いを漏らした。
「写真なんか見て、どうしたんだ?」
潤が声を掛けると、波川は一番大きな家族写真を指さした。木製の艶やかな写真立てはそれだけでかなり値が張りそうだったが、この洋館にはよくマッチしている。
「ちょっと興味があってな。新郷一族がシンメトリーになる前の写真だ」
写真の中にいるのは、今よりもずっと若い匡と、まだ小学生ほどの武之と照義、それから見慣れぬ美しい女性。これは匡の妻だろうか。
「そういえば、新郷匡氏の奥さんは、今どうなっているんだろう。亡くなったのか、離婚したのか……」
「匡氏には二人の妻がいたが、何れも死別したそうだ」
波川は言いながら、視線を別の写真に移す。
今度はそれよりもう少し時間の経った写真だ。匡は少し老け、武之と照義は大学生か高校生くらいの青年に成長していた。武之は肩幅広くがっちりとした体格で快活そうに見え、雄介に似ている。照義はいかにも文学青年といった出で立ちで、はにかみながら写真に写っていた。口元が奈緒に似ていると潤は思った。
一緒に女性も写っていたが、最初の写真とは別の人だった。
最初の写真に写っていた女性が純和風な美人であったのに対し、こちらの女性はエキゾチックではっきりとした目鼻立ちの美女である。
「この女性が、匡氏の二人目の奥さん……?」
「左様でございます」
答えたのは波川ではなかった。
ぬるりと背後から現れたのは使用人の三木久子。ほとんど気配を感じなかった潤はうわっとその場を飛びのいたが、波川は堂々とその場に立ったまま、動じていない。
「ご主人様の最初の奥様が、多美子様。二番目の奥様が美香様といいます。多美子様も美香様も、お美しく、お優しい方でした」
「三木さんは、その頃からこの家に?」
「はい。三十年以上勤めております」
「二人の奥さんは何故亡くなってしまったのですか?」
「多美子様は交通事故で。美香様はご病気でした。旦那様は、多美子様を亡くされた心痛のあまり、あのような悪魔信仰に傾倒するように―――」
そこまで喋ってから、久子は口を噤んだ。
「使用人風情が、余計なことを申しました。お忘れください」
そう言って頭を下げると、足音もなく食堂の方へと戻っていった。
「悪魔信仰の当主と、二人の妻」
その姿を見送りながら呟いたのは、波川だ。
「移動された死体……落とされた橋……呼び出しの手紙……そして、シンメトリーの殺人」
目を瞑りながら腕を組み、ぶつぶつと何事かを繰り返している。
「やっぱり、パズルのピースが足りねえな」
しばらくして溜息と共に出てきた言葉は、どこか頼りなさげで、いつもの自信に満ちて不遜な彼の姿からは、かけ離れたものだった。
*
午後十時三十分。
壁に掛けられた時計を見て、潤は文庫本を閉じた。
殺人事件が起こるよりも前に、図書室から借りていた本だ。読み終わった本が数冊、机の上に積まれているけれど、あそこに返却しに行く気分にはどうしてもならない。しばらくは借りっぱなしのままで勘弁してもらおう、と潤は思った。
窓の外は、雨。
陰鬱な館の空気を表しているかのように、重たげな天気だった。
「……飲み物でも貰いに行くか」
思った以上に喉が渇いている。
こんな夜は食堂に行けば久子か梨沙がホットミルクを出してくれる。十一時には二人とも自室に下がってしまうから、行くなら急がなければ。
潤は手早く身支度を整えると、部屋を出て食堂へ向かう。
そこには、先客がいた。
「あれ、みゆきちゃんに雄介くん」
武之の子、みゆきと雄介。
二人が向かい合って、ホットミルクを飲んでいた。
「お、倉敷先生」
「倉敷先生も、寝付けなかったんですか?」
みゆきは長袖のパジャマにカーディガンを羽織っていた。夏のこの時期にしては少し熱そうだったが、身体の弱い彼女にとって冷えは大敵なのだろう。
「うん、僕もちょっとね。……悪いのですが、ホットミルクを頂けますか?」
潤がそう言うと、梨沙がキッチンを動き始める。やはり潤の担当は久子ではなく、梨沙なのだ。
「……倉敷先生。さっき、波川先生と、奈緒ちゃんと涼くんと色々調べていましたよね。何か分かりましたか? 誰がお父さんと照義叔父さんを殺したのか、とか?」
「それは……ごめん。まだ何とも……」
潤が答えると、みゆきは残念そうに顔を伏せた。
「調べるまでもない。犯人はじいさんに決まっている」
対照的にきっぱりと言い切ったのは、雄介だ。夕食の際の騒動からも、雄介は祖父の匡が殺人の犯人であると信じて疑っていないらしい。
「そうとは限らないだろう。仮にも血の繋がったおじいさんをそんな風に言うのは……」
「親族だからこそ分かることだって、ありますよ」
雄介の意思は固い。
「俺はどれだけのあいつが冷酷なのかも知っている。あいつは自分の信仰する悪魔のためなら、家族の死さえ厭わない男だ」
「雄介、それって……おばあ様のこと?」
「おばあ様、って……新郷多美子さん?」
潤の問いに、みゆきは無言で首を振った。
「そちらのおばあ様は、私や雄介が生まれる前に亡くなっていますから、よく知りません」
ならば、みゆきの言ったおばあ様とは、匡の二番目の妻、新郷美香のことか。
「おばあ様は優しくて聡明で、とても素敵な女性でした。後妻なので、私たちとは血の繋がりはありませんでしたが、そんなことを気にする人でもなかった。私たちも、おばあ様のことが大好きだった。おじい様よりも、ずっと。でも、おばあ様は病気で……」
「あの男が……じいさんが殺したようなもんだ」
「え?」
不意に雄介の口から出た不穏な言葉に、潤は思わず聞き返した。
みゆきは、雄介の言葉を否定も肯定もせずに、俯いている。
「ばあちゃんの病気は、治らないものじゃなかった。ちゃんと早いうちに病院に行って、適切な治療を施せば、今もばあちゃんは生きていたかもしれない」
「それって……」
「見殺しにしたんだよ。病院にも連れて行かず。自宅での療養が一番だとか言って」
「おじい様は、あまりお医者様を信用しない方だから……」
みゆきの反論は、あまりにも弱々しかった。
声が小さいうえ、本気で匡を信じている訳ではなさそうな白々しさがある。
「美香さんと匡氏はあまり仲が良くなかった?」
雄介は首を振る。
「仲がいいとか悪いとかいうより、じいさんはばあちゃんに関心がなかったように見えたな。……見殺しにしたのは、憎んでいたからじゃない。自分がシンメトリーの軸になるためさ。そのためにばあちゃんが死んでくれた方が、都合が良かったってわけだ」
シンメトリーの軸になる。
その言葉を頭の中で何度か反芻し、その意味を理解すると、潤は背中がすっと冷えるのを感じた。
家系図上で、匡とその妻は横線で繋がれ、その中心から下へ縦線が伸び、枝分かれして武之一家と照義一家に分かれることになる。その時点での対称軸は、匡と妻の間を両分する線になるだろう。
だが、もしそこから妻がなくなったらどうなるか。
生者のみを残すと、家系図から妻が消え、匡を頂点、そして起点として下に線が伸び、枝分かれして武之一家と照義一家につながることになる。
「儂はこれで、家系図の対称軸の一部となった」
低い声で、雄介が呟く。
「じいさんがばあちゃんの葬式の場で言っていたことだ。妻が亡くなったその葬式で、そんなことを言うか、普通。あいつは、とっくに狂ってるんだよ。でも、あいつの権力が怖くて誰も何も言えなかった。身内さえ」
雄介の握られた拳が、ぎゅっと音を出す。
「いつかこんな家、出て行ってやる。俺はあんな狂った爺さんに支配されるなんて、ごめんだね」
「……強いなあ、雄介は」
手の中のホットミルクを憂いを含んだ眼で眺めるみゆきが、ぽつりと呟く。
「私とは違う……全然違う……」
「まーた姉ちゃんはそう言うネガティブなこと言うんだもんな」
雄介は一気にホットミルクを飲み干した。
「昔はお転婆だったんだぜ、姉ちゃんも。俺なんかいっつも泣かされてた」
「ゆ……雄介! そんなの昔のことでしょう」
「母さんも誰に似たんだか、って手を焼いてたんだよ、先生。想像つかないだろ。で、俺は父ちゃんに男の癖にビービー泣くなって……」
雄介の言葉が途切れた。
父の死に顔を思い出したのだろうか。苦々しい顔で下唇を噛んでいる。
「……こうなった以上、姉ちゃんも母さんも俺が守る。親父の代わりに。だから、安心してろよ、姉ちゃん」
「……まったく、泣き虫雄介の癖に」
そう言ったみゆきの表情は、少し柔らかくなっていた。
*
夜。
倉敷潤は、夢を見ていた。
静かな夜の海を揺蕩っていた。
その水面で穏やかな波に揺られ、頭上の満月は怪しく光る。
その光は初めは優しく、だんだん大きく膨らんでいき、やがて潤を飲み込んでいった。
白い白い光の先、潤は広大な畑の中にぽつんと立っていた。草のにおい、土のにおい、肥料のにおい。
その向こうに、父と母がいた。
腰を曲げて、せっせと畑の野菜を収穫していて。本当はもっと便利な農機具で収穫を行っていたと記憶していたが、ここでの両親は籠を背負って手作業でせっせと収穫している。
「僕、東京の大学行くから」
気づけば、傍らに学ランを着た潤自身が立っていた。
では、今これを見ている自分は何者なのか。そんな疑問が泡のように膨らんで、次の瞬間には弾けて消えていた。
東京を目指したきっかけに、目新しいものはない。田舎に生まれた若者なら誰もが思うであろうこと。このままここに骨を埋めたくない。華やかな都会に行きたい。その程度の、でも当時の自分にとっては切実な思い。
母は収穫の手を止めて額の汗を拭うと、微笑んで高校生の潤を見た。
「そう。きばいやんせ」
優しい声色だった。
寡黙な父は、黙ったまま、作業の手を止めない。だが、反対の言葉もなかった。
潤は小さく頷くと、二人に背を向けて家へと駆けて帰って行く。
その背中を見送った両親の顔を、潤は知らない。
ただ、いつまでも息子の姿を見送るその背中が、遠く小さく見えた。
―――ああ、最近、手紙書いてなかったな。
目覚めると、深夜だった。
掛け時計の時間は、午前三時半。
十二時にはベッドに入ったはずなのに、目覚めるにはまだ早すぎる。
窓の外の雨はもうほとんど止んでいて、霧雨といっても良い程度に弱まっていた。
「……変な夢を見たな」
当然と言えば当然だ。
殺人事件なんてものに巻き込まれて。シンメトリーの悪魔だなんてオカルトに晒されて。いずれもごく普通の大学生だった潤には縁遠いものだ。
だから、心が無意識に故郷の安らぎを求めたのだろうか。
この館から生きて出られたら、久しぶりに実家に戻ろう。たまには戻ってきなさい、という母親の言葉を、いつ間にか聞き流すようになってしまっていた自分を、潤は静かに恥じた。
父を亡くした子供たち。
奈緒、涼、みゆき、雄介。
それぞれの顔が浮かんで消えた。
次に思い浮かんだのは、自らの父親の顔。
頑固で寡黙で、でも最後はいつだって背中を押してくれる。
もしあの父が殺されたら。
潤は想像して、身震いした。胸が押しつぶされるようにきゅうきゅうと鳴った。
―――あの子たちを、守らなければ。
親を亡くしたばかりなのに、その配慮を碌に払ってあげられなかった。
ただの雇われ家庭教師とはいえ、先生失格だ。
あの波川という男は特に、そんな配慮とは無縁にあるようであったから。ならば自分がしっかりしなければ、と潤は天井の染みを睨みながら思った。
心理学や教育学の本など、あの図書室にあっただろうか。こんなとき、どういう言葉を子供たちに掛けてやればいいか。そんなことが載っていたら是非読みたいと思った。
読書家だった新郷照義が生きていれば、アドバイスだって求められたのに。
そんなことを考えながら、潤は自らの瞼がだんだん重くなっていくのを感じていた。中途半端な時間に起きてしまったが、どうやら漸くまた眠気がやってきてくれたらしい。
明日は図書室に行ってみよう。照義の遺体の方は、なるべく見ないようにして。
そして再び、倉敷潤は夢の世界へと旅立っていった。
同じ頃、館内で次の殺人が起こっていることには、全く気付くこともなく。