第三章:推理と検分
一同は大広間に集っていた。
朝子と明恵は手で顔を覆って涙を流しており、みゆきは発作が落ち着いたものの疲れた顔をしてソファに深く凭れかかっていた。奈緒は涼を後ろから抱きしめながら強張った顔で押し黙っており、雄介は歯を食いしばって俯いている。
波川はというと、トレーニングルームと図書室を行き来して現場をちょこまかと調べまわっていたので、潤も見張りという名目でそれに付き合っていた。
そして一族の長たる新郷匡は、ぴんと張った背筋を崩すことなくソファに座り、ひたすら目を閉じて黙っている。
「大変です!」
沈んだ空気が漂う大広間に、血相を変えた中岡梨沙が飛び込んでいた。
「電話が……電話が通じません!」
「はあ!? どういうことだよ!」
梨沙の言葉に、雄介が真っ先に反応する。梨沙はこの惨状について警察に連絡するため、食堂に設置されている固定電話のところまで行っていたのだ。
「電話線が切断されております。wi-fiルーターも破壊されておりました。昨日、最後の戸締りを確認したときには確かに繋がっていたのですが……」
「そんな、じゃあ警察に連絡は……?」
明恵の絶望的な声に、応える術を持つ者はいなかった。
山奥のこの館は、携帯電話やスマートフォンは軒並み圏外だ。固定電話も使えない上、橋まで焼け落ちたとなると、外界との連絡は完全に断たれたことになる。
「照義様の指示で注文した椅子が、明後日届くことになっています。明後日になれば、人がここまで来るので、連絡を頼むことも……」
「明後日ですって!?」
朝子がヒステリックに叫んだ。
「それまで、殺人鬼に怯えていろっていうの!?」
「そ、それは……」
「主人と照義さんは館の中で殺されていたのよ! 殺人鬼は館の中に入る手段を持っているということじゃないの!」
「そりゃそうだろう。犯人はこの中の誰かだろうからな」
朝子の声に、冷静な声が割って入った。波川だ。
朝子はぽかんとした表情で波川の方を見ていた。
「ちょっと待って、波川先生。それってどういうことですか? 新郷家に恨みを持つ殺人者が橋を落として館に侵入してお父さんと武之伯父さんを殺したんじゃないの?」
黙ってしまった朝子に代わり、奈緒が波川に問うた。その顔色は紙の様に蒼白ながら、瞳には強い意志の光が宿っていた。
「犯人は館の中に入ることが出来る。固定電話やwi-fiルーターの場所を知っている。武之さんや照義さんに手紙を渡しておびき出すことが出来た。外部犯より内部犯と考えた方が自然だ」
「ちょっと待て。何だその手紙って」
雄介が聞くと、波川は手に持っていた二枚の紙をひらりと示した。
―――重要で内密の話があります。午前二時に図書室まで。誰にも知られずに。
―――重要で内密の話があります。午前三時にトレーニングルームまで。誰にも知られずに。
「それぞれ照義さんと武之さんのポケットに入っていたものだ。二人ともこれで呼び出されたんだろう」
「それは僕も保証します。波川があれこれ調べていたのは、僕もちゃんと見ていたので」
手紙が波川の捏造でないことはちゃんと潤が見ていた。二つの手紙は間違いなく、二人のポケットから出てきたものだ。
「う、嘘! 嘘よ! この中の誰かが主人と照義さんを殺しただなんて、そんなことあるわけが……」
「少し黙りなさい」
また朝子がヒステリーを起こしかけたところで、静かにそれを遮る者がいた。匡だ。
その声は静かながら重々しく迫力があり、朝子も口を噤んで匡の方を見る。
「恐らく、シンメトリーの悪魔がこの館の住人の身体を借りて手を下したのだ。お前たちも見ただろう、この美しい殺人を」
「な、何を言っているのですか、おじい様?」
不気味そうな顔をして奈緒が聞く。
「照義は図書室で殺されていた。武之はトレーニングルームで殺されていた。対称点の二人が、対称点の部屋で殺されていたのだ。これ以上に形式美に溢れた殺人はないだろう?」
匡の表情は、恍惚としているようにさえ見えた。たった二人の実の息子を殺された直後であるにも関わらず、である。
潤はそんな匡の様子にぞっとし、背筋がぞわぞわと冷えるのを感じていた。
「我はシンメトリーの悪魔。対称点を、対称点で殺す」
呟くように言ったのは、涼だった。全員の視線が、涼に集まる。
「波川先生が、あの文章を見て武之伯父さんが危ないって言ったのは、その意味が分かったからなんだね」
対称点を対称点で殺す。
新郷武之と新郷照義を、トレーニングルームと図書室で殺す。
つまりは、そういう意味だったのだ。
やがて食堂から、それまで姿の見えなかった久子がやってきた。その手に乗せられたトレイには、湯気を立てるコーヒーカップが乗せられている。
「お飲み物をお持ち致しました。これを飲んで、少し落ち着きましょう」
「私は部屋に戻ろう。久子さん、私の分は部屋まで持ってくるように」
「承知いたしました」
部屋へと戻る匡を見送る一族の視線は、一様にほっとしているように見えた。
*
「先生。誰が父と武之伯父さんを殺したのだと思いますか?」
コーヒーを飲み終え、それぞれが自室に引き上げていった後、最後まで残っていた奈緒が潤に問うた。潤は応える術を持たず、黙り込むしかない。
父と伯父を一気に失った奈緒。悲しみ、怒り、恐怖。様々な感情が彼女の中で渦巻いているのだろう、と潤は慮るが、それでもその全てを押し込み、気丈にふるまっているように見えた。
「下手の考え休むに似たり、って言葉知ってるか」
答えられない潤に代わって口を開いたのは、波川だった。その言葉を発すると同時に、波川は立ち上がる。
「こんなところで雁首揃えて陰気くせーことぼそぼそ喋ってる暇があったら、現場を調べるぞ」
「波川、そんな言い方は……。それにそんな勝手なことを……」
「いえ、波川先生の言う通りです」
奈緒も立ち上がった。
「私、お手伝いします。それで誰が犯人か分かるなら」
「あ、なら僕も!」
奈緒と一緒に残っていた涼も手を上げた。それから、三人は一斉に潤に視線を向けた。
潤は溜息をつく。
「分かったよ。僕だって気になっているし、協力する。でも現場はなるべく保存しておいた方がいいと思うから、あんまりそこら中弄るなよ」
「ふん、そんな馬鹿なことする俺じゃねえ」
波川は自信たっぷりにそう言うと、早速照義の遺体のある図書室へと向かった。潤、奈緒、涼の三人はその後に続く。
図書室の中には、照義の遺体が発見時のまま放置されていた。長机が一つと、椅子が四脚。そのうち、入り口から正面に当たる位置にある、すぐ後ろに窓を背にした席が照義の特等席だ。照義専用の席である、とはっきり決められているわけではないものの、照義はいつも読書する際はその席に座っていたし、他の者も座る際は何となくその席は避けていた。
その席から転げ落ちた体勢で横たわっている、照義の遺体。
波川はしゃがみ込んでまずその遺体を調べ始めた。奈緒と涼は父親の遺体から目を反らしていて、その心中を察した潤は二人の肩を叩いて無理しなくていい、と諭した。
「頭蓋骨が割れてんな。鈍器で頭を殴られたのは間違いないみたいだ。他に目立つような傷はない。殴られた傷は後頭部にあるから、恐らく後ろから殴られたんだ」
辛そうな二人を思いやる素振りも見せない波川に微かに苛立ちを覚えつつ、潤は波川の方を見た。
「つまり、照義さんはこの図書室で本を読んでいたところ、後ろから忍び寄ってきた犯人に鈍器で頭を殴られて殺されたってことか?」
「全然違う。馬鹿かお前は」
突然馬鹿にされた潤は一瞬、呆気にとられる。
「いや、そういう話だったよね? 照義さんは後ろから殴られたって……」
「この席に座っている照義さんを、お前は後ろから殴れるのか?」
波川は照義がいつも座っている席を指さした。その席のすぐ後ろには、窓が迫っている。
「そうか……すぐ後ろが窓だから、後ろに回り込むことはできない訳か。でも、窓を開けて窓越しに殴ることなら……」
図書室の窓には鉄格子が嵌っているが、腕くらいなら通せる幅だ。窓越しに照義を殴ることは不可能ではない。
「それは無理があります、先生。虫が入ってきてしまいますから、お父さんはいつも図書室の窓を閉めていましたし。犯人もそんな殴りにくい場所から犯行に及ぶとは思えません」
先ほどまで気分が悪そうにしていた奈緒が復活し、冷静に潤に反論した。潤もまた、不可能ではない、というだけであって、現実味のあまりない推論ではある自覚していた。
「そうすると、照義さんは……」
「別の場所で殺され、ここに運ばれた可能性がある」
「いや、ちょっと待ってくれ」
波川の言葉についていけず、潤は手を上げた。
「いつもの定位置の席で座って読書しているところを殺されたのは考えにくいというのは分かった。でも、別の場所で殺されてここに運ばれたっていうのは飛躍してないか。犯人は照義さんをここに呼び出したんだろう。だったら、この図書室で立って待ち合わせの相手を待っていた照義さんが、隙をつかれて撲殺されたと考えた方が……」
「じゃあ、何で照義さんは椅子に座った状態で発見されたんだ?」
「え?」
波川の言葉の意味が分からず、潤は思わず聞き返した。
「その状況なら、殴られた照義さんは床に伏している状態で発見されるはずだろう?」
「それは、犯人が照義さんを座らせたからで……」
「何のために?」
重ねられた疑問に、潤は答えられない。一旦床に伏した遺体を、椅子に座らせ直す意味なんてあるだろうか。犯人にとっても、結構な重労働のはずだ。
「……そっか」
返事に窮した潤に代わって、それまで黙っていた涼が声を上げた。
「お父さんが椅子に座らされていたのは、お父さんの身体を運びやすくするため。だから、別の場所で殺されたって波川先生は考えたんだね」
「そういうこと。お前は倉敷よりも頭がいいな」
波川に馬鹿にされつつも、潤はすぐには涼の言葉の意味を理解できなかった。
運びやすくするため。
その言葉の意味を遅れて理解したのは、照義が座っていた椅子の足元を見たときだった。図書室の椅子にはキャスター―――つまり車輪がついている。
もし犯人が照義を別の場所で殺害し、この図書室へ連れてきたのなら、遺体を担いで運んで来るより、キャスター付きの椅子に座らせて椅子を押して運ぶ方がずっと楽だ。
犯行現場が図書室なら、わざわざ遺体を椅子に座らせる必要はない。その必要が出てくるのは、殺害現場が別の場所である場合だけ。
それだけの推理を、波川は照義が椅子に座っていたという、それだけの事実から導いて見せたのだ。潤は波川の明晰さに、密かに舌を巻いた。
「でも、図書室に呼び出したのにどうして別の場所で殺したんだろう」
「その前に別の場所で鉢合わせして思わず、ってとこか。少なくとも犯人にとってはイレギュラーな事態だったんじゃないか。わざわざ遺体を運搬するのは、犯人にとってもリスクが高い行動だろうしな」
犯人にとって、イレギュラーな事態。
もし本当にそうだったなら、そこに何か犯人のミスがあったりはしないだろうか。
「では、本当の現場はどこなのでしょうか?」
「椅子で運んだなら、同じ一階だろうな。それ以上絞り込むには、ちゃんと調べてみないと分からん」
奈緒の問いに波川はそう答えると、スタスタと図書室を出て行ってしまった。潤たちもそれを追う。
図書室を出たところの大広間では、波川が這うようにして念入りに床を観察していた。
「な、何を……」
「うるせー。お前らも手伝え。血痕とか、何か引き摺った痕とか、そういうのが床にないか探せ」
「わ……分かった」
潤たちは手分けして床を這って痕跡を探した。端から見れば異様な光景であっただろう。奈緒や涼も、潤が着ているのとは仕立ての違う上等な服が汚れるのも厭わず、痕跡を探した。それだけ、父や伯父を殺害した犯人を見つけたいという思いが強かったのだろう。
「先生!」
しばらくして、食堂の方から奈緒の声が聞こえてきた。
潤たちがそちらに向かうと、奈緒が床の一点を指さしている。その指の先には、何かを引き摺ったような、黒い痕が残っていた。
「この痕、昨日まではなかったな」
「え、覚えているのか?」
「僕も覚えてる。この痕、昨日まではなかったよ」
よく観察しているものだ。結局、潤以外の三人はこの痕が昨日までなかったことを覚えていたようだ。
「でも、何でこんな痕が?」
「照義さんを運んだときのものに決まってるだろ」
「いや、でもキャスター付きの椅子で運ばれたのなら、こんな引き摺ったような痕がつくものかな?」
「お前……そこから説明してやらなきゃいけないのか?」
呆れたような顔でこちらを見る波川。
「照義さんが座っていた椅子は普通の状態じゃなかった。何ならもう一回図書室に行って見て来いよ」
潤はむっとしながらも、素直に図書室に行って件の椅子を観察してみた。他の椅子と変わらない、何の変哲もないキャスター付きの椅子であるはずだが。
「あ」
そのキャスター部分を見て、潤は思わず声を漏らした。
車輪を覆うカバー部分が緩くなっている。この状態で座ると、カバー部分が車輪に接触して滑りが悪くなってしまうだろう。
そこまで考えて、潤は昨日のことを思い出した。
照義が言っていたではないか。いつも使っている椅子のキャスターが壊れ、滑りが悪くなってしまった、と。その言葉を受け、梨沙が新たな椅子を注文したのだ。
「そうか……その椅子を遺体の運搬に使ったから、キャスター部分が床と擦れて痕が残ってしまったのか!」
漸く理解した潤は図書室を出た。
波川、奈緒、涼の三人は既にトレーニングルームの武之の遺体の検分に取り掛かっていた。一人だけ置いて行かれてしまったようで少し悲しい。
「何かわかったかい?」
波川に話しかけるのは癪なので、奈緒に聞いてみた。
「伯父さんの遺体の傍から、お父さんのものと同じメッセージの紙片が出てきました。『我はシンメトリーの悪魔。対称点を、対称点で殺す。』って」
つまり、どちらの遺体を先に発見しても、「対称点」に位置するもう一つの遺体も速やかに発見されるよう仕向けられていたということだ。
潤は視線を武之の遺体へ向けた。レッグプレスのマシンに腰掛け、頭から血を流している。
「武之さんも、後ろから?」
「傷を見る限りはそうだな。で、恐らくはこの辺りに倒れこんだんだ」
波川が指さす先には、血痕がいくつか残っている。レッグプレスの位置とは少し離れているから、そこから飛び散ったとは考えづらい。
おそらくは後ろから殴られた武之がまず血痕のあるあたりに倒れ、それからレッグプレスに座らされたのだ。
「お父さんが椅子に座っていたのは、運ばれたからだよね。じゃあ、武之伯父さんがレッグプレスのマシンに座っているのはどういう意味があるのかな」
涼が首をかしげる。
確かに、マシンは椅子と違って運搬には使えない。血痕が残っていることを考えても、武之は照義と違い、正真正銘このトレーニングルームが殺害現場なのだろう。涼の疑問に、潤も考え込むしかなかった。
「シンメトリー」
「え?」
不意に奈緒が呟いた言葉に、潤は思わず聞き返す。奈緒はガラス玉のような透き通った瞳に伯父の遺体を映しながら、続けた。
「犯人は、シンメトリーに拘ったのかもしれません。お父さんは、椅子に座った状態で亡くなっていました。だから、対称点の伯父さんも、同じように座った状態で亡くなっている必要があった」
「あり得るな」
波川は、吐き捨てるように呟いた。
「この事件の犯人は、形式美に拘っているように思える。『シンメトリーの悪魔』とやらを自称しているくらいだからな」
「悪魔が、誰かの身体を乗っ取って、こんな凶行を……」
言ってから、奈緒は首を振った。
「ごめんなさい。おじい様じゃあるまいし、馬鹿なことを言いました」
シンメトリーに支配された一族。その一員である彼女もまた、シンメトリーの悪魔には底知れぬ畏怖を感じずにはいられないらしい。自らの身体を抱きしめるように腕を組むと、その細い身体を小さく震わせた。
「犯人は、だれよりも悪魔を信仰している人物なのかもしれないね」
潤は言いながら、大広間に出て二階の方を見る。
その視線の先にあったのは、一家の主にして悪魔信仰に取りつかれた男、新郷匡の部屋だった。