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シンメトリーの悪魔  作者: 虹宮
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第二章:二つの死

 授業の最後に課した小テストがすべて丸で埋められるのを見て、倉敷潤の隣に座る新郷奈緒はにっこりと満足げな笑みを浮かべた。

「うん、完璧だ。よく頑張ったね」

「ありがとうございます、先生。先生が分かりやすく教えてくれるからですね」

「謙遜しなくていいよ。君は元々これくらいの実力は持っていただろう」

 潤がそう言うと、奈緒は宝石のような瞳をきらきらと嬉しそうに光らせて、からからと軽やかに笑った。

 それから奈緒は手足をぴんと伸ばし、机に向かっていて凝り固まってしまった身体を伸ばす。細い手足は猫の様にしなやかに伸び、開いた窓から注ぐ陽光が美しく奈緒を照らしていた。

 窓の外からは、気持ちいいミットの音が聞こえている。

 視線を向けると、館のすぐ前のスペースで、雄介と涼がキャッチボールをやっていた。二人とも既に今日の授業は終えている。育ち盛りの男子たちは室内で大人しくなどしていられないのだろう。

「いいなあ……」

 窓の外を見て、ぽつりと奈緒が零した。

「やりたいなら、加わってくればいいんじゃないか?」

 奈緒がスポーツ好きとは知らなかったが、こんな山奥の館に閉じ込められたら身体も動かしたくなるものかもしれない、などと思っていたら、奈緒がくすくすとおかしそうに笑った。

「違いますよ、先生。私、運動はからっきしだし、汗かくの好きじゃありませんから。そうじゃなくて、仲良さそうでいいなって」

「ああ……」

 そういうことか、と思いながらもう一度窓の外を見る。

 雄介も涼も学校では野球部に所属しているらしいが、二人の容貌には大分違いがある。

 雄介は背も高く、半袖シャツから覗く腕は小麦色に日焼けして逞しい筋肉が乗っている。甲子園出場経験もある地元の強豪高校のエースピッチャーらしく、顔立ちも精悍だ。

 対する涼は雄介よりも華奢で色も白い。可愛らしい顔立ちをもつ少年である彼は年上の従兄である雄介を兄の様に慕っているようで、野球を始めたのも雄介の影響であるようだ。

 仲の良さそうな二人を見て奈緒が考えているのは、恐らく自らの「対称点」のことなのだろう。

「みゆきちゃんとは、話したりしないの?」

「世間話程度なら、少し。でも、みゆきちゃんは私のこと、苦手みたいです」

「それは……どうして?」

 ここまで踏み込んで聞いていいものだろうかと考えながらも、潤は疑問を口にした。

 奈緒は少し寂しそうに笑う。

「さあ、何故でしょう」


               *


 奈緒との授業が終わり、一階に降りてきたところで、潤は涼に捕まった。

 雄介と涼は玄関の大扉を開けっぱなしにしたままキャッチボールをしており、それ故に二階から降りてきた潤の姿がよく見える。同時に反対側の階段から降りてきた波川も涼に捕まり、結局四人でキャッチボールをすることになった。

 波川は迷惑そうな顔を隠そうともせず、涼を追い払おうと試みたものの、新郷家最年少の少年の純真な瞳でお願いされてはさしもの彼も形無しである。元より人の頼みを断るのが苦手な潤は言うに及ばず、である。

 それでもこの館に来てからしばらく満足に身体を動かせていなかったこともあり、適度な運動としてキャッチボールはとても楽しかった。ちらりと見た二階の窓に、奈緒の姿はなかったけれど。

 意外だったのは、波川である。

 百八十センチを超える長身に長い手足、堂々たる態度を見るに、スポーツも出来そうだと見ていたのだが、実際はとんだポンコツだ。投げたボールは相手のグローブに収まるどころから見当違いの方向へと飛んでいくし、球速もへろへろと情けない。投球フォームもぎこちなく、どこから指摘してやればいいのか分からない程であった。

「スポーツは苦手なの?」

「う、うるせえ」

 潤が聞くと、波川はバツが悪そうな顔をして吐き捨てた。

 まだ出会って半月ほどの中だが、いつも不敵で人を食ったような態度の波川ばかりを見ていた潤にとっては、新鮮な反応であった。

「大体、キャッチボールなんてな、出来なくたって困りゃしねえんだよ。背が高いからって無理やりバスケのチームに入れられて失望されたり、体育のサッカーでシュートを空振りする度に笑われたり……クソが! 思い出しただけで腹が立ってきたぜ」

 ぶつぶつと呪詛の言葉を呟く波川。

 潤は漸くこの男が身近に感じられたような気がして、少しうれしかった。

「ただいまー! やっと見つけたよ、ボール!」

 明るい声で駆けてきたのは、照義の長男、涼だ。波川があらぬ方向へ投げてしまったボールを捜索に行っていたのだが、無事発見できたようだ。

「橋の辺りまで行ってたから危なかったよ。もう少しで崖下に落ちちゃってるところだった」

「そんなところまで行ってたのか! ここにあるボールはこれ一個きりだから、危なかったな」

 雄介の言葉に、潤は視線を涼が向かっていた方へと向けた。

 新郷邸から百メートルほど離れたところには、木製の大きな橋が架かっている。木製とはいえ頑丈で、車も通れる広い橋だ。新郷邸はこの橋のみで対岸とつながっており、その間は険しい崖で隔てられている。確かにその崖にボールが落ちてしまったなら、回収は不可能だろう。

「さあ、もういいだろう。俺に投げさせていたら今度こそ崖にボールが落ちちまうかもしれねえぞ」

「それなら、場所を交換して波川先生が橋側を背にした向きで投げればいいんスよ。上手い下手はどうでもいいから、続けましょう。身体を動かすと気持ちいいし!」

 雄介は爽やかに笑ってそう言う。スポーツマンの鑑みたいな清々しい笑顔である。

「僕も昔は野球苦手だったけど、雄介お兄ちゃんに教えてもらって上達したんだ。波川先生もきっと上手くなるよ!」

「うっ……」

 どうやら波川はこの二人がやや苦手らしい。スポーツマン気質で陽のオーラを放出しまくる雄介と、まだまだ擦れたところもなく純真な涼。どちらも波川とは対照的な性格だ。

 結局その後、一時間半程度もキャッチボールは続いたのだった。


               *


 キャッチボールを終えて館に戻ると、雄介は今度は筋トレだと言ってトレーニングルームへと入っていった。涼もそれについていったが、潤と波川は流石にそれには付き合わず、トレーニングルームの前で二人と別れた。

 どことなく、雄介には焦りがあるように見えた。雄介は強豪校のエースピッチャー。夏の甲子園出場は果たせず、それ故にこの館へもやって来られたようであるが、チームメイトたちが今も練習に明け暮れているであろうところ、それに混ざれず、一日をこの山奥の館で過ごさねばならないことに不満があるようだ。

 甲子園に出場出来たら、試合に出るために、この夏は館へは来ない。

 匡にも両親にも、雄介はそう約束を取り付けていたらしいが、結果は地区予選の決勝で敗退。今年のチームの仕上がり具合から行けば、甲子園出場は決して夢ではない筈だった、とのこと。

 だが実際には、シンメトリーの悪魔に敗北の道に引きずり込まれたかの如く、雄介はここにやってくることになった。

「……あら、倉敷先生」

 潤がトレーニングルームの扉を眺めていると、二階からみゆきが降りてきた。弟の雄介とは対照的な白い肌にたおやかな足取りで。

 みゆきは潤の身体越しにトレーニングルームの扉を見て、少し表情を曇らせた。

「中に、雄介が?」

「ああ、うん。さっきまでキャッチボールをしていたんだけど、その後にここに。精が出るよね」

「そうですね。試合に負けてしまったのがとても悔しかったみたいです。毎日遅くまで、泥だらけになって一生懸命練習していましたから」

 言いながら、みゆきの視線はトレーニングルームのずっと向こうを見ているようであった。

「……どうして」

「え?」

「どうして、雄介はあんなに健康なのに。真っ黒に日焼けして野球に情熱を注げるくらいに強いのに、姉である私はこんなにも……」

 みゆきは細い腕を自ら抱きしめるかのように組んだ。

 過呼吸の持病を持ち、病弱なみゆきにとって、それは大きなコンプレックスなのだろう。痛ましそうにみゆきを見て、何と声を掛けてよいか分からず戸惑う潤に、みゆきはハッと我に返ったかのような顔をした。

「……失礼致しました。取り乱しました。今のは、忘れてください」

 みゆきは頬を赤くしながら俯く。

 そんな彼女に何か言ってやらなければいけないような気がして、しかし下手な慰めは却って彼女を傷つけるような気もして、潤はぐっと喉を鳴らした。

「こんなところで、何をしているの?」

 ドアを開ける音と共に不意に女性の声が聞こえた。

 視線を向けると、新郷朝子、明恵の両夫人が食堂から出てくるところだった。連れだってお茶でもしていたのだろうか。

「お勉強を少し休んで、お水でも頂こうかと思って……」

「そうなの。じゃあ私が持ってくるわ」

「いいよ、それくらい自分で……」

「いいから、あなたはそこで座ってなさい」

 有無を言わさず自ら食堂へ入っていこうとする朝子の背に、不意にみゆきの、これまでに聞いたことのないほど大きな声が刺さった。

「馬鹿にしないで!」

 その声量に、朝子は唖然とした表所で振り返る。明恵は両手を口に当てておろおろし、みゆきは鋭く朝子を睨みつけていた。

「何もできないと思って、馬鹿にして! お母さんはいつもそうじゃない!」

「な、何よ……私はいつだってあなたのためを思って……」

「それが鬱陶しいって言ってるのよ! 私だって、私だって―――ゲホッ!」

 興奮したみゆきが、咳き込みだした。まずい。潤の脳裏に、昨夜の食事時の光景が浮かんだ。みゆき自身もそれを感じたようで、自らを落ち着かせるように深呼吸すると、息を整える。

「水はもう、いりません。それじゃ」

 みゆきは押し殺した声でそう言うと、再び階段を上って自室へと戻っていった。

 朝子は、その背中を茫然と見送っている。

「あの、朝子さん。……大丈夫ですか?」

 小さな声でこそっと明恵が朝子に尋ねる。朝子はそれで我に返ったようで、「ええ、何でもないわ」と言って首を振った。

「あの子も受験勉強でストレスが溜まっているんでしょう。……私も部屋に引き上げさせてもらうわ」

 そう言うと、ふらふらとした足取りで寝室へと戻っていった。

「みゆきちゃん、あんな大声を出したこと、ほとんどないから……。きっと朝子さんも、驚いてしまったのね」

 取り繕うように微かな笑みを零して、明恵が潤に言う。

 この女性にはこういうところがあるな、と潤は以前から思っていた。

 使用人や雇っている家庭教師にも気を遣い、何かあったら必死にフォローをしている。我が強そうな者の多いこの一家において、明恵は気が小さく、いかにもか弱そうであった。次男の嫁という立場も、この家においてはそう強いものではない。常に他人の顔色を窺っているようであった。

「あの、そういえば……涼を見ませんでしたか? 先ほどまで雄介くんとキャッチボールをしていたようなんですが」

「ああ、僕も混ざっていましたよ。今は二人でトレーニングルームに籠ってます」

「まあ、そうでしたの。あの子、雄介くんによく懐いているから。二人でいるなら安心ね。ありがとう」

 明恵がそこまで言ったところで、近くの図書室の扉が開いた。中から、少し困った様子の照義が出てくる。図書室に置いてあるキャスター付きの椅子を押しながら。

「あら、照義さん。どうしたの?」

「ああ、明恵。ちょっと図書室の椅子の調子が悪いみたいでな。中岡さんを呼んでもらえるか」

「はい、私ならばここに」

 明恵が答える前に、梨沙が声を上げながら食堂から出てきた。

 また、それと同時にトレーニングルームから雄介と涼が出てくる。不意に大人数が大広間に集結してしまった形だ。

「中岡さん。図書室のこの椅子のキャスターが壊れてしまったみたいだ。座っていないときは特に問題ないんだが……」

 照義は言いながら、椅子を前後に動かして見せる。キャスターは滑らかに動いていた。

 続いて照義はその椅子に座り、前後に動こうとする。が、ぎいぎいと軋むばかりで、大分滑りが悪い。

「体重がかかってる時だけ、滑りが悪くなっちゃってるんだね」

 涼がしげしげとキャスター部分を覗き込みながら言う。照義は苦笑した。

「いつも私が座っている位置の椅子だからね。一脚だけ酷使させてしまったのかもしれないな」

「申し訳ございません、照義様。ただいま、予備の椅子が館内になく……。発注しておきます」

「頼むよ。それまでは、元の位置に置いておくから」

 照義はそう言うと、また椅子をカラカラいわせながら図書室に引っ込んでいった。梨沙は「メモメモ……」と呟きながらポケットから取り出したメモ帳に、今言われたのであろうことを書き出し、涼は無邪気な顔をして父を追って図書室に入っていった。雄介は鼻歌を歌いながらシャワールームへと消えていく。

 潤も夕食までの間、自室に引き上げることにした。

「すみません、中岡さん。お手数おかけしますけど、よろしくお願いします」

「はい、明恵様。これが私の仕事ですから、任せてください!」

 最後まで残っていた明恵は使用人の梨沙にも丁寧に頭を下げると、自室へと引き上げていったのだった。


               *


 その日の夕食は、どこか重苦しい空気の中でのものとなった。

 前日にみゆきが過呼吸の発作を起こしたばかりであり、周囲がそれを気にしているのだ。さしもの匡も、今日は黙っている。みゆき自身も先ほどの母親との確執を引き摺っているらしく、無表情でただ機械的に食事を取っていた。

 食事後の晩酌も今日はないらしく、夕食を終えると、それぞれがいそいそと自室へと引き上げていった。

 潤もまた例外ではない。

 早々に自室に戻ると、設えられた柔らかいベッドに俯せに飛び込んだ。この新郷家の館は全室が防音構造になっており、部屋の外部の物音などは全く聞こえてこない。重い静寂を全身で受け止めながら、潤の瞼に眠気が圧し掛かってきた。

 昼間にキャッチボールで身体を動かした疲れもあるのかもしれない。中高と六年間、バレーボール部に所属していた潤は、それなりに体力には自信があったが、それでもこの館に来てからはしばらくあまり運動が出来ていなかった。

 今まで遠慮していたが、今度トレーニングルームも使わせてもらおうか。

 そんなことを考えながら、潤はゆっくりと眠りの世界へと落ちていった。


               *


 どんどんどん、という乱暴な音が耳に飛び込み、潤は目を覚ました。

 壁にかかっている時計に目をやると、まだ六時だ。朝食の時間は八時だから、叩き起こされるにはまだ早い。

 それでも、扉を叩く音はまだまだ止まず。しぶしぶ潤はベッドから抜け出し、ドアを開けた。

「はい、こんな時間からどなたですか?」

 ドアを開けた先にいたのは、雄介だった。

「倉敷先生!」

「なんだ、雄介くんか。こんな朝早くから一体……」

「早く来てください! 橋が……橋が大変なんスよ!」

 切羽詰まった顔で叫ぶ雄介の様子にただならぬものを感じ、潤は漏れかけていた欠伸を飲み込むと、先導する雄介について館の外に出た。

 外に出て、まず初めに感じたのは、何かが焦げたにおい。その発生源をたどると、その先には何人かの住人が集まっていた。彼らの視線の先には、焼け落ちて炭と化した橋の残骸。

「ああっ!?」

 思わず潤は叫んでしまった。

 館と外界を繋ぐ唯一の橋が、無残に焼け落ちている。対岸までは十メートル近くあり、間を隔てる崖は深い。これはつまり、館が孤立してしまったということ。

「一体何で……」

「分からないの……。朝起きたらこんなことに……」

 明恵が泣きそうな顔で答える。

「ま、放火だな」

 重い空気の中、軽い声で言った男がいた。波川だ。

「放火って……」

「山火事にでも見えるか? ピンポイントでこの橋だけ燃えるとかありえないだろ。俺たちを孤立させるために、誰かが火をつけたんだよ」

「誰かって……?」

「心当たりなど、いくらでもある」

 潤の問いに、館の主、匡が重々しい声で答えた。

「ビジネスは戦争だ。儂のせいで廃業したり路頭に迷った人間など星の数ほどおるわ。そういった者の嫌がらせだろう。ふん。家に火をつけられなかっただけマシか」

「それはどうかな」

 吐き捨てるような匡の声に、波川が異を唱えた。家でも企業でも、絶大な権力を誇る匡に意見するものなどそういない。匡は波川の方を少し驚いたような顔で見た。

「よく見てみろよ。橋のこっち側は完全に焼け落ちていて、対岸側は少し焼け残っている。これが意味することはなんだ?」

「……む?」

「分かった!」

 戸惑った顔の匡を遮って、涼が無邪気に声を上げた。

「火は橋のこっち側でつけられたんだね!」

 涼のその言葉に、潤の腕がぞっと鳥肌立った。火がつけられたのはこちら側。それはつまり……。

「放火犯が、まだこちら側に……?」

 梨沙の呟きが恐怖となって、潤の背筋を駆け上がっていった。周囲に、重い沈黙が降りる。

「館の戸締りは完璧でした。犯人がいたとして、まだ館内へ侵入はされていないはずです。でしたら、早く中に入った方がよろしいかと」

 久子の進言に従い、一行は館の中に逃げ込むようにして入った。面々の表情は、一様に困惑に歪んでいる。

「こんなときに、うちの人は何しているのかしら!」

「主人もおりません。図書室でうっかり寝てしまったのかしら」

 朝子と明恵が不安そうな顔で言った。そういえば、武之と照義の姿がない。二人とも、寝室にもいなかったそうだ。

 武之はともかく、照義は就寝前に図書室で読書をする習慣がある。そのまま寝室に戻ることなく、図書室で寝入ってしまった可能性はあるだろう。この館は全室防音構造になっているため、中で寝入ってしまったら、外での騒動には気づかないはずだ。

 一行はそう考え、まずは図書室に行ってみることにした。

「あなた? 中にいるの?」

 まず妻である明恵が図書室のドアをノックした。だが、中から返事はない。そのため、明恵はそのままドアノブに手を掛け、ドアを開けた。図書室には元から、鍵はかかっていない。

 ゆっくりと開く、図書室のドア。その向こうの、窓際の席に、誰かが座っていた。机に突っ伏しているようだ。

「なんだ、やっぱりお父さん、ここで寝ちゃってたんじゃない」

 奈緒がそう言いながら、軽やかな足取りで母の明恵を追い越して、図書室の中に入っていった。

「お父さん? 起きてよ。外が大変なことになっていて―――」

 奈緒が言いながら、照義の肩を揺する。すると照義はバランスを崩し、床へと身体をどうと横倒しにした。その四肢に力は籠っておらず、その頭部は、血で濡れていた。

「……おとう、さん?」

「きゃあああああああああああっ!」

 奈緒が震える声で呟くと同時に、明恵の叫び声がその場に響いた。全員が棒立ちで、床に倒れた照義の姿を見下ろす。

 その中から、ぐいぐいと他人の身体を押しのけ、波川が前に進み出る。波川は厳しい顔で照義の姿を見下ろすと、無言のまま、その手首を取って脈を診た。

「波川……その、照義さんは?」

 恐る恐る聞いた潤に、波川は静かに首を振った。

「死んでる。頭蓋骨が陥没しているところを見るに、恐らく撲殺だ」

 波川がそう言うと同時に、ヒュー、と一際大きな、奇妙な呼吸音が響く。ぶるぶると震えながら奇妙な呼吸を繰り返すのは、みゆきだ。過呼吸の症状が出ている。その顔色は紙の様に蒼白だった。雄介が急いで駆け寄ると、みゆきの肩を抱いて、玄関の方へ向かう。外の空気を吸いに行ったのだろう。続いて朝子が食堂へ水を取りに行っていた。

「見てみろよ」

 波川はその様子を横目に見ながら、照義が座っていた近くの机の上を指さす。そこには、一枚の紙きれが置いてあり、印字でこのように書かれていた。

 ―――我はシンメトリーの悪魔。対称点を、対称点で殺す。

「何だこれ……どういう意味だ?」

 意味不明な文章に首をかしげる潤。だが波川はそれを読むと、眼を見開いて震えていた。

「波川?」

「トレーニングルームだ! 武之さんが危ない!」

 叫ぶと同時に、波川は図書室を出てトレーニングルームへと駆けていった。意味が理解できないながらも、潤たちもそれを追う。

 そして波川が開け放った、トレーニングルームのドアの向こうには。

 脚力を鍛えるレッグプレスの器具に腰掛けて、頭から血を流して事切れている新郷武之の姿があった。


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