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シンメトリーの悪魔  作者: 虹宮
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第一章:シンメトリーの一族

 豊かな静寂で満たされた空間に、シャープペンシルが紙の上を滑る音が心地よく響いていた。

 倉敷潤はその軌跡が紡ぎ出す文字をぼんやりと眺めながら、シャツの胸元のボタンを一つ外した。山深いところに建つこの館は夏に差し掛かっているこの時期にしては大分涼しいけれど、それでも日中は少し汗ばんでしまう。この時代に珍しく、冷房設備の全く整っていないこの館は、どこか現世から隔離されてしまったような、独特の空気が流れている。

「先生?」

 隣に座る少女は手を止めると、まだ計算途中の数学の式をそのままに、潤の方を横目で見た。

「今、ぼうっとしていませんでした?」

「―――ああ、ごめん。練習問題を解いてもらっている間は、僕も少し手持ち無沙汰になってしまうから」

「でも、先生がぼうっとされている時間もお給料は発生しているわけですよね?」

「う、それは……」

 言葉に詰まった潤を見て、少女はくすくすとおかしそうに笑った。

「冗談です。先生って困った顔がとても可愛らしいから、つい」

「こらこら、年上を揶揄うんじゃないよ」

 潤が苦い顔をして見せると、少女はぺろりと小さな舌を出して見せ、再び数学の問題へと取り掛かっていった。

 少女の名前は、新郷奈緒。

 潤が受け持つ、家庭教師の生徒である。

 明るい栗色の髪に宝石のようにきらきらと輝く瞳。まだ十六歳だという彼女は、潤が知るその年代の女の子たちと比べ、大人びているようでもあり、子供じみているようでもあり。どこか、浮世離れしている少女であった。

 ただ、浮世離れしている、といえばこの家そのものがそうだった。

 自動車教習所で運転免許を取りたいと思っていた潤は、稼ぎのいいアルバイトを探していた。地方で農家を営む両親には、大学の学費を捻出してもらうだけで精一杯で、とても教習所に通うお金まで出してほしいだなんて言えず。そんな彼がどこからか見つけ出してきたのが、夏休みの間、住み込みで行う家庭教師のアルバイトだった。

 募集を出していたのが「あの」新郷家であることは、採用された後に知ったことだ。新郷家といえば、一代にして莫大な財を成した実業家、新郷匡の一族である。

地方の小さな雑貨屋から始まったと言われる彼の商売は、その辣腕ぶりでどんどん事業を拡大していき、今や複数のグループ会社を従える巨大企業にまで成長していた。それだけの巨大企業のトップであるにもかかわらず、近年はめったに人目に出てくることなく、密かに購入した別荘に入り浸っているらしい―――などという噂を、テレビだったか雑誌だったかで見たことがあったが、まさか自分がその別荘に足を踏み入れることになるとは夢にも思っていなかった。普段は匡と使用人しか住んでいないこの別荘だが、夏休みの間は、匡の二人の子供とその家族が加わることになっているそうで、潤の仕事はその間の匡の孫たちの家庭教師である。

 今授業をしている奈緒は呑み込みも早く、十分優秀な生徒と言えた。それだけに、少し気も緩んでしまうのだが。

 半開きの窓からゆるゆると微かな風が吹いてカーテンを揺らし、潤の顔をなぞっていく。

 静かにゆっくりと流れていく時間に、潤の瞼がまた少し重くなった。


               *


 今日の授業を終えて、潤は大広間へと向かった。

 洋風建築となっているこの新郷家の別荘は、玄関を入ってすぐの位置が大広間となっている。頭上は吹き抜けとなっており、二階の左右に廊下が伸びているのが見える。先ほどまで授業を行っていた奈緒の部屋は、玄関を背に右手側の二階の廊下沿いにあった。

 潤はゆったりとした足取りで階段を降り、大広間のある一階へと降りてきたのだった。

 大広間では三人の人間がソファに座って談笑している。

 新郷匡の二人の息子である武之と照義、それから武之の長女、みゆきだ。

「みゆきは今年受験だろう? 勉強の方はどうだ?」

「英語が苦手だから、この夏はそこを中心に取り組むつもりよ、お父さん。特にリスニングが苦手で……照義叔父さんは語学がお得意でしたよね。何か、コツのようなものはあるんですか?」

「いやあ、そんなものはないよ。反復あるのみさ。英語は音読で上達するから、試してみるといいよ」

 武之と照義の兄弟が、みゆきを挟むような形で座っている。

 父親と叔父を、自らの左右を守る騎士の様に座らせている新郷みゆきは、いかにも清楚な姫のような儚げな容姿をしていた。

 艶やかで長い黒髪。雪の様に白い肌。奈緒が西洋人形のような美しさであるならば、みゆきは純和風の大和撫子のような美を体現していた。

「あら?」

 親類同士で仲良く雑談していた三人だが、潤が階段を降り切ったところで、みゆきが潤に気づいて声を上げた。

「こんにちは、倉敷先生。奈緒ちゃんの授業は終わったんですか?」

「ええ、ちょうど終わったところです。お話のお邪魔をしてしまってすみません」

「邪魔だなんて、そんな。良ければ座ってください」

 みゆきは言いながら、空いているソファを手で進めた。一瞬迷ったが、ありがたくお言葉に従うことにした。

 そうしてソファに腰掛け、改めて三人を眺めると、親族でありながら随分違いのある三人だな、と感じた。

 特に武之と照義の兄弟は正反対といっていい。

 武之はやや背が低くがっちりとした体格で、日に焼けて精力的な印象を受ける。以前聞いたところによると、学生時代は柔道に打ち込んでいたらしく、加齢のためか身体に緩みは見られるものの、頑強そうな体躯は健在だ。

 一方の照義は平均以上の身長の割りに体の線は細く、度のきつい眼鏡をかけているインドア派だ。実際にかなりのインテリらしく、潤よりかなりランクの高い大学の出身だと聞いている。

「奈緒は口の達者な娘で、手を焼くこともあるかもしれませんが、よろしく頼みます、先生」

「いえいえ、そんな。奈緒さんも涼くんも素直だし優秀だし、教え甲斐がありますよ」

 そう答えると、照義は父親の顔をして笑った。

 潤の言ったことはあながち社交辞令というわけでもない。奈緒は時々こちらを揶揄ってくるようなところもあるが悪質なものではないし、その弟の涼は素直に潤を慕って行儀よく授業を受けている。二人とも、良家の子女であることを十分に感じさせる子供たちだった。

「君はなかなか教え方が上手いようだね。みゆきと雄介も君に指導を頼みたかったよ」

「あらお父さん。波川先生だって優秀よ」

「……まあ、そうなのかもしれんが。もう少し愛想が欲しいところだな」

 対する武之は、自分の子供たちを教える家庭教師に不満があるようだった。

 今、この家には家庭教師が二人いる。

 一人は匡の次男である照義の子供、奈緒と涼を教える倉敷潤。

 もう一人は匡の長男である武之の子供、みゆきと雄介を教えている波川友隆だ。

 同じ家庭教師という立場にあり、更に年齢も同じであるのだが、潤は波川とさほど親しくない。波川は皮肉屋で口が悪く、気難しいところがあるため、潤も積極的に関係を持とうという気になれないのが正直なところだった。

「あら、みんなお集まりで」

 そんなことを話していると、大広間の奥にある食堂へ続く大扉から、一人の女性が出てきた。細身で女性としては背が高いその中年女性は、新郷朝子。武之の妻である。朝子は潤たちがソファに座って話しているのを見つけるとこちらへと歩み寄ってきた。

「もうすぐ夕飯が出来るそうだから、食堂に集まって。それから……」

 朝子は目つきを少し鋭くしてみゆきの方を見た。

「あなたはここで油を売っていていいのかしら? 仮にも受験生、なのよね?」

「……少し休憩していただけ。夕飯を食べたら部屋で自習するから」

「もうすぐ全国模試だってあるんでしょう? まだ本番まで時間があると油断していたらすぐに……」

「あー、もういいだろう。とりあえず夕飯だ夕飯」

「まったく、あなたはみゆきに甘いんだから……」

 ぶつくさ言いながら、武之一家が食堂へと消えていく。残された潤と照義が、互いに苦笑いを零した。

「受験生の親は大変だね。奈緒も二年後は受験生か。大変だな。……っと、そんなことより、我々も食堂へ行こうか」

「そうですね」

 そうして、二人も食堂へと入っていった。


               *


 十分後、食堂にはこの館の住人が全員そろっていた。

 出入口から部屋の奥へ向かって長い机が設置されており、その机の一番奥、俗に「お誕生日席」と呼ばれる上座に座っているのが、この館の主人、新郷匡である。七十歳も近い年齢だが老け込んだ印象は全くなく、ピンと伸びた背筋に豊かな顎髭は確かな貫録を感じさせる。

 匡から見て右側には、匡に近い方から順に武之、朝子、みゆき、雄介と長男一家が座り、左側には照義、明恵、奈緒、涼の次男一家が並んでいる。明恵は照義の妻、涼は照義の長男で奈緒の弟にあたる。

 そして次男一家の子供たちの家庭教師である潤は、次男側の並びの末席、涼の隣に座り、その正面には長男一家の子供たちの家庭教師、波川友隆が座っていた。波川は百八十センチを超える長身に細身の男で、目つきも悪ければ態度も尊大、潤が苦手とする人種であった。一応自分たちは新郷家に雇われている立場であるはずなのだが、波川はそんなことは気にするそぶりもなく、雇い主である新郷家の人間にもタメ口で話しまくっている。そんなシーンを見る度に、内心ヒヤヒヤとしたものだ。

「―――さて」

 全員が席に着いたのを確認し、上座に座る匡が厳かに声を上げた。

「今日もお前たちと晩餐の席を同じくすることができ、嬉しく思う。久子さん、中岡さん、飲み物を頼む」

 匡がそう告げると、後ろで控えていた二人の使用人、三木久子と中岡梨沙が揃って「承知致しました」と声を上げ、それぞれの席に飲み物を注いでいく。大人たちには赤ワインを、子供たちには烏龍茶を。あまりアルコールに強い方でないらしい明恵が渋い顔を浮かべていたが、新郷家では初めの一杯は必ずワインを飲まなければならない、という暗黙のルールがあるらしい。ごく大人しそうな明恵にはそのルールに歯向かう度胸はないようだ。

 飲み物が注がれている間、匡は孫の一人であるみゆきの方へ視線を向けていた。

「みゆき。お前は今年受験生だな?」

「え、あの……はい……」

「勉強の調子はどうだ? お前の志望校は聖林女子大だったか。将来のことを考えるなら、もっとランクの高い大学を考えてもよいと思うのだがな」

「あの、えっと、その……」

「何だ。言いたいことがあるならはっきり言いなさい。『あの』や『えっと』という言葉を安易に使うんじゃない。馬鹿に見えるぞ」

「あ……あの……すみません……わた……わたし……」

 匡の言葉は静かだが迫力がある。みゆきは匡と言葉を交わすのが苦手らしく、匡に話を振られるといつもドギマギしていた。

 みゆきの言葉がだんだん掠れてきた。代わりに、呼吸のスピードがどんどん速くなってきて、ヒイヒイと高い音が混じりだす。顔からはどんどん滝のように汗が流れていった。それを見て、他の者たちが「まずい」と腰を浮かす。

 みゆきは椅子から転がり落ちるようにして蹲り、極端に呼吸が早くなる。それから這いずるように窓際まで移動すると、窓を全開にして外の空気を吸った。隣に座っていた弟の雄介は窓際で苦しむ姉の傍まで駆け付け、その震える背中を撫でる。そしてもう一方の手でみゆきのポケットを探ってピルケースを取り出した。それを母親の朝子に渡すと、朝子はピルケースの中から錠剤を取り出す。それと同時に武之が汲んできた水を朝子に渡し、朝子がみゆきに錠剤を飲ませた。

「大丈夫。大丈夫よぉ。ゆっくり深呼吸してね」

 朝子が優しい声で言う間も、雄介はみゆきの背中を擦り続ける。やがてみゆきの息がゆっくりと静まってくると、辺りの空気がほっと緩んだ。長男一家の見事な連係プレーだ。

 潤がこの新郷家で家庭教師をするようになって半月ほど経つが、このようなことが稀にあった。みゆきはどうやら繊細な性質らしく、プレッシャーをかけられたり、極度に緊張したりすると、今のような発作を起こしてしまうようだった。一家はそれにも慣れているらしく、発作時には慌てておろおろしがちな周囲と異なり、落ち着いてみゆきの処置に当たっていた。

「みゆきは気分が優れないようですので、部屋で休ませます。よろしいですね、お義父様」

 朝子が声を掛けると、匡は鷹揚に頷いた。孫が目の前で、自分の言動が原因で過呼吸を起こしたのにもかかわらず、それを気にした素振りは一切ない。この男に人の血は通っているのだろうかと、潤は不気味に思ったが、そこからさらに、匡は耳を疑うようなことを言い出した。

「では、奈緒も部屋に戻りなさい。食事は中岡さんに持って行かせよう」

「え?」

 急に名を呼ばれた奈緒が驚いたような顔を匡に向けた。

「聞こえなかったのか? 部屋に戻りなさい」

「あの、でもどうして?」

「みゆきが部屋に戻るからだ。お前はみゆきの『対称点』なのだから」

 匡の言葉に、奈緒は諦めの表情を浮かべ、それ以上何も言わずに一人で部屋に戻っていった。その背中がどこか寂しそうで、潤は胸を痛める。

 やがてみゆきを部屋へ連れて行っていた武之が戻ってくると、ようやく夕食が再開された。けれどそこには最早温かみなどなく、それぞれが機械的に食べ物を口に押し込めるばかりなのであった。


               *


 夕食後、主である匡は早々に部屋に引き上げていき、食堂では大人たちによる晩酌が始まっていた。アルコールが苦手だという明恵とそういった集まりには興味がない波川は不参加だったが、それ以外の大人たちはみな、一様にグラスを傾けながら匡への不満を述べていた。

「あんまりじゃない! 自分の孫が発作で苦しんでいるのに、表情一つ変えないなんて!」

 特に立腹している様子なのがみゆきの母の朝子で、ウイスキーのロックを煽りながら熱っぽくくだを巻いている。

「まあまあ朝子さん。父さんは昔からああですから」

「それにしたってなあ。あの親父は人の心ってもんをどっかに置き忘れて来ちまったんだよ! 会社だっていつまでワンマン経営やってるんだって話だよ。俺や照義の話も聞きゃしない」

 朝子を宥めにかかる照義と、父親への不満を漏らす武之。

 正直、他人の家庭の内情を覗いているようで居た堪れない気分になってくるのだが、「勿論君も飲むだろう?」などと誘われてしまっては断れないのが、潤の性格であった。

 その間も、新郷家の二人の使用人、三木久子と中岡梨沙は酒を注いだり肴を追加したりと忙しい。だがよくよく見てみると、二人の間で厳格なまでに業務の線引きがなされていることに気づいた。

 三木久子は武之と朝子の世話をし、中岡梨沙は照義と潤を担当している。この線引きは徹底しており、潤の飲み物が開いていることに久子が気づいても自ら補充はせず、必ず梨沙に酒を注がせていた。

 思い返せば給仕の際に留まらず、掃除なども久子は二階東側の長男一家のスペースを担当し、梨沙が西側の次男一家のスペースを担当している。

 主である匡の世話だけは二人で行っているようだが、それ以外は明確な分担があるようだ。

 潤はふと、何かこの家に来てからずっと感じていた違和感が膨らんでいくのを感じていた。

 そういえば、新郷匡の言っていたあの言葉はどういう意味なのだろうか。戸惑う奈緒へ告げたあの言葉。

―――お前はみゆきの『対称点』なのだから。

「ん、どうした、倉敷くん。もう飲まないのか?」

 ぼんやりと考えていた潤に赤ら顔の武之が声を掛けた。最もハイペースで飲んでいた武之だが、大分出来上がっているようだ。

「もう、飲み過ぎよ。みっともない」

「そろそろお開きにしようか。兄さんが潰れてしまうと、部屋まで運ぶのが一苦労だからな」

 同様に顔を赤くしつつも、武之ほど酔ってはいない朝子と照義が声を上げ、晩酌の会は解散となった。


 三人を見送り、久子と梨沙を軽く手伝ってから部屋を出た潤の眼に、大広間のソファに座って本を読んでいる波川の姿が映った。雇い主たちの晩酌の誘いを断りながら、この大広間で堂々と本を読んでいたとは、なかなか肝が据わっている。

「ん? おお、あんたも参加していたのか」

 潤が近づいていくと、波川は本から視線を上げ、意地が悪そうに笑った。

「知っていたくせに。雇い主の誘いを断っておきながら、よくこんなところで本なんか読んでいられるな」

「俺の雇い主は匡氏であって、あの人らじゃないぜ。まあ、匡氏に誘われたところで俺は行かなかったがな」

 自由な奴だなあ、と潤は半ば呆れた眼で波川を見た。

「それに、いくら俺でも誘いを断っておきながら、食堂から丸見えなこんなところで最初から読んでいたわけじゃない。図書室で呼んでいたのさ」

 そう言いながら波川が視線を向けたのは、館の東側に位置する図書室だった。潤も中に入ったことがあるが、匡氏の蔵書が大きな本棚にずらりと並んでおり、食堂にあるものより大分小ぶりな長机が一つと、椅子が四脚並んでいる、簡素な部屋である。簡素とはいっても、個人の家の図書室としては十分すぎるほどの設備だが。

「照義さんが入ってきたんで、代わりに抜け出てきたんだよ」

「ああ、寝る前に図書室で読書するのが習慣だって、言ってましたもんね」

 今日のような晩酌の後でもそれは変わらないらしい。勉強家なのだろう、頭が下がる。

「それでもう誰もいないだろうと思って大広間で読んでいたら僕に見つかったわけですか。部屋で読めばいいのに、横着しますね」

「言葉に棘があるなぁ。この家の『対称点』同士、仲良くしようや」

「……何ですか、その『対称点』って」

 先ほどの夕食の時にも出た言葉に、潤は思わず反応した。

 波川は潤のそんな様子を見て信じられないといったような驚いた顔を一瞬見せ、それからにやにやと笑みを零す。

「おやおやおやおや。半月近くもこの館で暮らしていながら、まさかまだ気づいていない? この館の構造と、この一族の家系図に隠された構造を?」

「隠された、構造?」

 こちらを小馬鹿にしたような波川の口調に腹は立ったものの、それ以上に波川の言葉が気になり、思わず聞き返した。

「ところで倉敷、新郷匡氏の著書、『わが生涯』は読んだか?」

友人の様に呼び捨てにされたことに引っかかるも、波川に「先生」と呼ばれる筋合いもないなと思い、気にしないことにした。代わりに自分も、タメ口で話すことにする。

「読んでないよ。不勉強で申し訳ないけど」

「俺は読んだぜ。つまらん本だった」

「おい」

 思わず突っ込みを入れた後、辺りを見回す。大広間なんて聞かれやすいところでなんてことを言うのだろう。図書室には照義が、食堂には二人の使用人がまだいるはずだし、二階から誰かが廊下に出てきたりしていたら、吹き抜け越しに丸聞こえだ。

 だが当の波川は潤の焦りなどどこ吹く風で、話を続けていた。

「片田舎の雑貨屋からここまで会社を大きくした手腕は確かに大したものだろうが、文章の端々から自己愛というか、承認欲求というか、そう言ったものがあふれ出ていて気持ち悪かったな。だが面白いことが書いてあった。『シンメトリーの悪魔』について」

「……シンメトリーの悪魔?」

 歯に衣着せぬ波川の物言いにハラハラしていた潤は、不意に出てきた聞きなれぬ単語に首を傾げた。

「三十年ほど前、匡氏の夢に異形の悪魔が現れたんだそうだ。漆黒の体躯に隆々たる肉体、それでいてこれぞ完璧と思わせるような造形美のような美しさを感じさせる姿だった、らしいぜ。で、その悪魔は匡氏が会社を大きくするために行ってきた悪行をつらつらと並べ立てて、これだけのことをしてきたのだから、お前は死後地獄行きを免れない、どうしてもそれが嫌なら、自分を崇め奉り、完成された『対称の美』で周りを満たすように、とか宣ったらしいぜ。そして、その悪魔が最後に名乗った名が―――」

 シンメトリーの悪魔、というわけだ。それ以来、匡はその悪魔を信奉するようになった。嘘か真か、判断に困る話ではあるが、「わが生涯」にはそう書いてあったらしい。

 潤はそこまで聞き、漸くひとつの閃きを得た。大広間の隅に飾られている、この別荘の見取り図まで足を向ける。(「登場人物及び見取り図」参照)

 初めてこの館を見た時からどことなく感じていた、居心地の悪さ。この館はぴったり左右対称に作られているのだ。一階の間取りは、食堂の中心を対象軸が貫く形で見てみると、西側は食堂の隣にシャワールームがあり、壁際には波川の部屋、トレーニングルーム、三木久子の部屋の順で並んでいる。東側も全く同じ間取りで、食堂の隣がトイレ、個室がそれぞれ潤の部屋、図書室、中岡梨沙の部屋となっている。

 二階も同様で、食堂の真上に匡氏の部屋があり、吹き抜けを挟んで西側が長男一家の部屋、東側に次男一家の部屋が並んでいる。

「確かに、この館、完全に左右対称の構造になっているな……」

「館だけか?」

「え?」

「左右対称なのは、館だけかって聞いたのさ」

 波川は出来の悪い生徒に言い聞かせるようにそう言ったが、潤の眼には、それ以外に左右対称になっているものというのが見つけられない。

「目で探しているようじゃ、一生見つからないぜ。俺が言っているのは、この家の家系図のことだからな」

「……というと?」

「聞き返すばかりじゃなくて、ちゃんと考えてみろよ。そしたら一目瞭然だろう。当主の新郷匡を頂点、そして対象軸として、その下に二人の息子がいる。息子にはそれぞれ妻がいて、子供が二人。性別も第一子が女で第二子が男ってところまで揃ってやがる」

「流石にそれは偶然じゃ……」

「偶然じゃねえよ。長男夫婦のところに子供が二人生まれた時は、次男夫婦は匡氏からかなりプレッシャーかけられたらしいぜ。子供を二人、性別まで指定して産めってな」

 滅茶苦茶言う人だな、と潤は愕然とする。それで本当に産めてしまうのが驚きだが。と、いうよりこの男はどこからそう言った話を仕入れてきたのだろう。

 そして、そこまで言われたところでふと気づいた。波川の言った『対称点』の意味に。

「そうか……対称になっているのは新郷家の人たちだけじゃない。例えば使用人の三木さんと中岡さんもそうだ。長男一家を担当する三木さんと、次男一家を担当する中岡さんという構造になっている。そして僕たちも……」

「長男一家の子供たちの家庭教師である俺、次男一家の子供たちの家庭教師である倉敷。だから俺たちは『対称点』なのさ」

 まさか、そのために二人家庭教師を雇ったのか、と潤の腕に鳥肌が立った。匡の異様な対称への執着に、恐怖を覚えたのだ。

「いつもは家庭教師なんか雇ってなかったらしいんだけどな。今年はみゆきが受験生だから、夏の間予備校にも通えないのは不安だってことで、家庭教師を雇いたいって武之氏が匡氏に言ったらしい。で、だったら次男一家にも家庭教師をつけないとバランスが取れないからってことでお前が雇われたんだよ」

「そうだったのか……」

 理解できない、とばかりに潤は首を振る。だが、それくらいネジが飛んでいないと、これほどまでの成功というのは収められないものなのかもしれない、と頭の中のどこか冷静な部分で感じているのだった。

「ま、そういうわけだから」

 波川は馴れ馴れしくぽんと潤の肩に手を置く。

「同じ『対称点』同士、仲良くしようや」

 それでも何だか、この男は油断ならないような気がする。潤は頭の隅で、そんなことを思った。


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― 新着の感想 ―
[一言] まだ途中までしか読んでませんが 「三角屋敷」 を連想しました。
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