ビスクドールの館
日曜を返上した十三連勤からの解放感からか、あるいは、いつ次の有給休暇が取得できるか分からないからか。
ともかく、久し振りに羽根を伸ばそうと思い、羽目を外し過ぎたのが間違いだった。
ここは、どこだ?
ドライブ中、ちょっとした冒険心から国道を外れ、斜面に広葉樹が聳える山道を走っていた。
窓を開け、郭公の鳴き声や、生い茂る草花が醸す新緑の薫りに心洗われる思いがしていたのも束の間のこと。
まるで空にミルクを流したかのように、にわかに霧が濃くなり、ライトを付けても周囲が不明瞭になってきたので、途中で車を停め、霧が晴れるのを待った。
それが、今から二時間ほど前のことだった。
電波が届かないんじゃ、ロードサービスも呼べないな。
一難去って、また一難。
ものの三十分ほどで霧は晴れたが、ライトだけを頼りに無理に車を走らせたせいで、現在地が分からなくなっていた。
ひとまず車から降り、周囲に目印になる建築物や、近くを通りかかる人物が見当たらないことを確かめると、ポケットからスマホを取り出した。
だが、アプリで確かめようにも、何故かマップにエラーが出て使い物にならず、電話を掛けようにも、画面には圏外であることを知らせるマークが表示されていて、アドレス帳から番号をタップしても、どこにも繋がらなかった。
孤立無援に陥ってしまい、途方に暮れていると、出し抜けに山鳩の鳴き声がした。
何故だか、その物悲しい声が無性に不安を掻き立て、ひょっとしたら二度と麓へ戻れないんじゃないかという焦燥感に駆られた。
その気持ちを押し殺すために、再び車の運転席に戻り、直感を頼りに山道を走らせた。
その時の頭の中には、山道で迷った時は闇雲に動かない方が良いという教訓が、すっかり抜け落ちていた。
当てもなく山道を走り続けると、どうなるか?
運が良ければ麓に戻れるであろうが、大抵の場合は迷いに迷い、泥沼に嵌ってしまう。
そして、事態は最悪の方向へと転げ落ちた。
もはや、ここまでか。
燃料計の針はイーを指し、空も茜色に変わり始めた。
窮状に至り、夜までに帰宅することを諦めて車を停め、ぐったりとシートに凭れかかりながら、会社の陰険上司に何と言い訳するか考え始めた。
その矢先、視界の端に映る樹々の隙間から、周囲に溶け込むようにレンガ塀や鉄格子に蔦が這った、一邸の洋風屋敷が見えた。
幽霊が出そうな佇まいだなぁと思いつつ、車を降りて恐る恐る屋敷に近付くと、部屋の窓にポツポツと灯りが点り始めた。
中に、誰か居る。
そう確信すると、一日の疲れが出始めている身体に鞭打ち、笹や枝で小さな切り傷を負いながらも草叢を掻き分けて向かった。
そうして、道なき道を突き進むこと小一時間。
空が藍色に変わる間際に、ようやく屋敷の出入口へと辿り着いた。
*
地獄に仏とは、まさにこのことだと思った。
真鍮製のノッカーを叩いて訪問を知らせると、重厚なドアの向こうから燕尾服を着た白髪の紳士が姿を現した。
困惑している事情を説明すると、傷口を洗い流して疲れを癒すよう、バスルームへと通された。
年季の入った手慣れた応対から、おそらく、この紳士は長年ここで仕えている執事か何かなのだろうと、容易に推測できた。
古風で、それでいて、どこか時代に取り残されたかのようにヒッソリと佇む瀟洒な屋敷に、奇妙なほど似合っていた。
あぁ、生き返る。
適温のお湯から上がると、タオルとバスローブが用意されていた。
水滴を拭って袖を通していると、片手に赤い十字が書かれた箱を持った紳士が現れた。
骨や関節に違和感が無いかなどを聞かれつつ、手際よく傷口の消毒が済み、ついでに伸び過ぎていた手足の爪も整えられた。
そのあと、紳士に夕食は済んだかと聞かれた時、示し合わせたかのように腹の虫が鳴ったのは、些か恥ずかしかった。
ここまで災難の連続で、正午過ぎから何も食べていなかったことを、すっかり忘れていた。
王侯貴族にでもなった気分だな。
シルクのシャツとビロードのスラックスに着替えて向かったダイニングでは、共にテーブルを囲む相手は、誰も居なかった。
紳士と赤絨毯の上を歩きながら、いよいよ屋敷の主人と対面かと心の中で身構えていただけに、拍子抜けした思いだった。
前菜から始まって食後にコーヒーで一服するまで、テレビでしか見たこと無いような料理が順序だてて供された。
正直、食べ慣れない物ばかりだったが、あれこれ尋ねるのはマナー違反かと思い、黙々と食べ進めた。
不思議と庶民の舌にも合う味付けだったので、一切文句は無かった。
きっと、あの赤ワイン一本だけでも、道端に置いてきた中古の国産車より、何倍も高価に違いない。
ベッドルームへ案内され、ほろ酔い気分でバルコニーに出て夜風に当たりながら、ふと、そんな小市民的考えを巡らせていると、今度はメイドと思しき淑女が現れた。
あくまで黒いロングドレスに白いエプロンとキャップをしていたから、そう判断したのであり、正確さは保証しないが、あながち間違っていなかった。
この時点で、外は月明りも無ければ星も見えず、墨で染めたかのような宵闇で、梟も鳴き始めていた。
淑女が部屋に来たのは、他でもなく、就寝前に屋敷内を案内したいとのことだった。
トイレの場所くらいは覚えておかないといけないなぁと、軽い気持ちで付いて行った。
これだけの調度を揃えるために、どれだけの財産と労力を要したのだろう?
ゲストルームにしても、パーティールームにしても、素人目にも高級と分かる品々が控え目に飾られ、その華々しさに圧倒されるばかりだった。
中でも目を惹かれたのが、コレクションルームで部屋の中央にガラスケースに入れて展示されていた、三体のフランス人形だった。
おおよそ大人の肩幅ほどの背丈で、外見上の年齢や性別はバラバラであった。
淑女の説明によると、それらはビスクドールと呼ばれるもので、全身を一から作れる職人は、今では一人しかいないという話だった。
よほど丹精込めて作られたらしく、どれも今にも動き出しそうなほど非常に精巧に作られていたばかりか、ガラスのような瞳から強い視線を感じるほどだった。
*
翌朝は、天窓から降り注ぐ朝日と雀が鳴く声で、実に快適に目が覚めた。
素材が何かは分からないが、硬すぎず沈み込み過ぎない枕とベッドのおかげで、すっかり疲れは取れていた。
淑女が持って来たシャボンと洗面器で髭を剃り、ナイトガウンから昨日着ていたパーカーとカーゴパンツへと着替えた。
パーカーもカーゴパンツも綺麗になっていたが、単に洗濯されただけでなく、泥汚れの他に汗や醤油などの染みも抜かれ、経年劣化による解れや破れまで縫い直されていたのには驚いた。
その後、スコーンと紅茶で優雅な朝食を済ませると、固定電話を借りて会社に連絡した。
この屋敷の電信設備は昭和で止まっているらしく、廊下にあったのはダイヤル式の黒電話だった。
疑り深い上司のことだから、起きたことをありのまま伝えても信用しないだろうと思い、学生時代に世話になった親戚が急死したということにした。
親戚が居ることまでは事実だから、それなりに信憑性があると思ったらしく、すんなり休むことが出来た。
ロードサービスの方へは、事情を説明した後すぐに紳士の方から連絡してくれていたらしく、昼にはレッカーが到着する予定だと言われた。
しかも、麓まで送って行ってくれるというので、お言葉に甘えることにした。
ここまで至れり尽くせりで、あまりにも虫が好すぎる待遇に、後で高額な請求書が届かないかと疑ったことと、あまりの居心地の良さに、このままズルズルと滞在していたいと思ったことを、ここで白状しておく。
紳士の運転する黒塗りの高級外車で麓に到着すると、手厚いもてなしへの感謝の言葉を述べた。
困ってる人へ救いの手を差し伸べるのは当然のことだと謙遜した後、紳士は意味深な言葉を口にした。
かいつまんで言えば、昨夜から今朝まで屋敷内で見聞きしたことを他言するな、とのことだった。
何か他人に知られてはならない事情があるのかと思いつつ、誰にも言わないと約束すると、紳士は満足そうに微笑み、走り去って行った。
それから、電波が届くようになったスマホでタクシーを呼ぶと、三十分ほどで車が到着した。
そのタクシーの運転手は話し好きで、仕事は何をしてるかとか、スポーツは好きかとか、あれこれと世間話をさせられた。
話の流れで、久々にドライブに出掛けたら車がガス欠を起こして困ったことを口にしたところ、運転手に大笑いされた。
一晩、山の中に居た人間が、そんな小綺麗な恰好のはずないじゃありませんか。
何かの冗談だと思った運転手の態度が面白くなかったこともあり、ここだけの話だと前置きして、うっかり昨夜の体験談を喋ってしまった。
すると、それまで笑っていた運転手が急に真顔になり、人通りの無い道で車を停止させると、血潮の凍るような低い声で言った。
他言無用だと、念を押したではありませんか。
その声が、紳士の声質にそっくりだと気付くより先に、運転手は胸ポケットからボールペンのようなものを取り出してこちらへ向け、ノック部分を親指で押した。
すると、カメラのフラッシュのような閃光が瞬き、目の前が真っ白になった。
どういう仕掛けか分からないが、同時に麻酔を打たれたかのように全身の力が抜け、シートに横になって眠ってしまった。
遠のく意識の中で最後に聞き取ったのは、運転手が誰かに電話をする声だった。
*
結論から言えば、タクシーの運転手は、ウィッグとメイクで変装した紳士だった。
そして、紳士は執事ではなく屋敷の主人であり、メイドだと信じて疑わなかった淑女も、彼の奥様だった。
二人が巧妙に仕組んだシナリオに、まんまと乗せられてしまった訳だ。
美酒美食も好待遇も、すべてはコレクションを増やすための下準備に過ぎなかったのだと、瞬き一つ自由に出来ない人形に変えられ、ガラスケースに閉じ込められた今では、後悔している。
と、つらつら過ぎたことを思い返しているうちに、ライダースジャケットを着た若い女が、メイドのフリをした奥様に案内され、このコレクションルームへとやってきた。
俺は、伝わるはずないと思いながらも、早く逃げろという念を込めた視線と送ってみた。
女は一瞬だけ俺の方を注目したが、すぐに視線を淑女の方へ戻してしまった。
内心で落胆していると、それを見透かしたかのように、淑女は女が別の人形に見蕩れてる隙をはかり、口角を上げて俺の方へ向いてニヤリと得意気に嗤った。