後編
走る。走る。友達の呼びかけを無視して学校から走り去る。途中、肩が何回かぶつかってしまったことを心の中で謝りつつも、口に出している余裕はない。電車に乗り、自宅へ一直線。親の「おかえり」という言葉に返答したかすら覚えていない。多分「ただいま」と言っただろう。そう信じよう。ベッドに横たわり、走ったおかげで乱れた息を整える。制服に皺がつくなんて今はどうでもいい。どうせ明日からは着ないし、一か月後には新品に早変わりする。何のデメリットもない。違う。今はそんなことを考えている場合じゃないだろう。私はあのとき何て言った。何を彼に告げた。何を口走ってしまった。思い出したくないけど、思い出すんだ。
『まだ告白するか悩んでいるの? 自分から呼び出しといて、それはないでしょ』
違う。これは前すぎる。もっと後だ。
『橋本くんなら大丈夫だって。早く行ってきな、応援してるよ!』
いつもはここで会話が終わっていた。だけど、今回は続きがあった。問題はこの次だ。
『あーあ、私が西園寺さんだったらよかったのにな』
これだ。何でこんなことを言ってしまったんだ。その後に『な、なんてね。それじゃあ、頑張ってね! 応援してるよ、うん、ほんと』って、ごまかせていないようなごまかしをして走り去ってしまった。これでは怪しすぎる。しかも、家に一直線とか怪しさを増幅させることしかしていない。二択を連続でミスするとか今日は運が悪い日だ。そうすると、呼びかけを無視しなければよかったのかもしれない。だけど、そうしたら今度は耳まで熱くなっている顔についてごまかせなくなり、からかわれるのは目に浮かぶ。だとすると帰ったのは正解? そんなのわかんない。
ああ、思い出したらどんどん熱くなっていく。こんなに恥ずかしい気持ちでいっぱいになるのはいつぶりだろう。高校生になってからは、強制的に表舞台に立つのを避け続けたのでなかった。あったとしても、グループ発表だからそこまで恥ずかしくはなかった。だとすると中学生の頃か。何十年も前の話だから思い出すのが難しくなってきている。来月にはついこの間までは中学生だった高校生にならなければいけないのに、こんな調子ではなりきれそうにない。たった一回変なことを言っただけで、ここまで調子が狂ってしまうとは。人生何が起きるかわからないものだ。ちょっとお年寄りみたいなこと考えてしまった。これも普段と違う調子のせいだろう。落ち着け、春休みは長い。それだけの期間があれば調子を戻せる。いや、戻さなければいけない。
とりあえず今は寝よう。物理的に熱を冷ますのもいいけれど、これは心理的な問題だから一時的なものに過ぎないはず。落ち着かせるという意味をこめて寝る。走り続けて疲れたというのもあるけど。行動に移す前に友達からの『大丈夫?』というメッセージに『体調が悪くなったから帰っちゃった。ごめんね』と返信。今回は卒業式後のカラオケに行けなかったけれど、どうせ次回が三年後にある。なんだったら春休みに一回集まればいい。それでチャラにしてくれと願いつつ、目を閉じる。
あの後、日付が変わったと思ったら夕飯時にお母さんに起こされたので、そんなに時間がたっていなかった。なので、夕飯を食べ、お風呂に入り、そして普通に寝た。そしてようやく一日経ったので冷静になれた……はず。何度かあのことについて考え直してみたけれど、思い出す度にたまった熱が全て放出されたはずの頬や、普段は熱くならない耳までもがあっという間に熱を帯びてしまう。冷静になったはずなのに、どんどん冷静になれなくなる。そもそも『私が西園寺さんだったらよかったのに』ってなんだ。遠回しに告白っぽいことをしているのでは? もし、気づかれていたら「恥ずかしい」から「死ぬほど恥ずかしい」にランクアップしてしまう。あれを言ったのが卒業式でよかった。今は春休み、必ず顔を合わせなければいけないことから解放された。もし、外で顔を合わせてしまった場合は知らんふりをしよう。さらに四月になれば最初から、あの言葉を言った事実も消える。この春休みを耐え抜けば私の勝ちだ。たとえ私の記憶に一生こびりついたとしても、みんなからこの記憶は消える。それだけで万々歳というやつだ。このときばかりは、このループにも感謝しないといけない。そもそも、ループしなければこんな思いをすることなんてなかったから、感謝する必要がないのでは? でも、私が何らかのアクションを起こした結果、記憶を引き継がれるという状態になってしまった。そして今、こんなに恥ずかしい思いをしているのでは? なら、記憶が引き継がれなければあんな言葉を口にしない可能性があったのでは? 現に今までは口にしていなかった。だとすると、原因は私ではないか? 責任転嫁は失敗だ。
結論、やっぱりあの言葉は恥ずかしすぎる。なので、今後二度とあんな言葉を口にしないためにも、これからは気を付けていかなければいけない。そもそも関わらなければいいのではとも考えた。しかし、この世界の重要人物ともいえる橋本くんを避けるということは、ヒントを見逃す可能性もあるということになってしまうので、その考えは却下だ。
仮に私が彼を好きだとしても、あの容姿端麗なメンバーの中に混ざって争う覚悟はあるか? いや、ない。すぐさま白旗を上げるレベルで勝ち目がなさすぎる。なので、関わることはあるけれど、傍観者の立場でいたい気持ちを決して忘れずにいきたい。まだ四月まで時間はたくさんある。その間に心を落ち着かせれば、もしかしたらあの言葉は一時の気の迷いだったに変わるかもしれない。そうだ、そうに決まってる。
次の日から春休みに入ったこともあり、一晩中この気持ちについて考える日々を送った。誰かに会うことなんてほとんどなかったので、冷静に考え続けられたのはよかったのかもしれないが、普通なら悲しいことなのだろう。今の私にはありがたい環境だった。あれから何度も彼のことを考えると心臓が高鳴ってしまう。鼓動は早くなるので、今にも死んでしまうのではないかと錯覚してしまう。今までこんなことは起こらなかったじゃないか。何故、今になって起こるようになったのか。わからない。何かきっかけがあったのか? 今更すぎではないか? 初めて彼と出会ってから、すでに何十年も経っているんだぞ。いや、逆に考えるんだ。何十年もいたからこそ、この気持ちに気づけたのかもしれない。普通のループしない世界だったら、気づくことすらできなかったのではないだろうか。そうだ、認めよう。私は橋本くんのことが好きだ。素直に認めると、心はこの気持ちを受け入れたのか心臓が落ち着いてきた。
恋心を認めた。だけど、これを叶えられるのか? 何周もしたが自分は『攻略キャラ』のポジションではない。つまり、彼と恋愛をする権利すらないのでは? 決して実らない片想いで確定なのではないか? だが、私は他の人とは違って前の周の記憶が消されないまま保ち続けている。異常な存在だ。もしかしたら、そういう権利を無視できるのではないか? 恋を叶えられるのではないか? 今まで頑張ってきたんだ、世界が戻る瞬間を見て心が壊れそうになってもギリギリのところ保ったりした。そもそも、私は普通の高校生だ。そうだ、高校生なんだ。勉強や恋や友達で青春を謳歌する高校生。ループとは無縁の生活を送っていたんだ。なら、ループで悩むんじゃなくて、恋愛で悩むのが普通の姿じゃないか。賭けだとしても、私にだって橋本くんと恋愛をする権利があるかもしれない。絶対に不可能ではないかもしれない。今までの見守ってきた経験を活かすチャンスでもあるんだ。この気持ちを叶えたい。いや、叶える。生半可な気持ちではダメだ、次の周に全てを賭けるぐらいではないと。早すぎるかもしれないけれど、思い立ったが吉日のようなもの。あと、好きな人が別の人と恋愛をしている姿を見たくないのもある。
「よし!」
気合いを入れるべく、両手で頬をパチンと叩く。これからどうするかは決めたので、とりあえず気晴らしに外出しよう。数日も太陽の光を浴びていないのは体にとって、外は眩しすぎた。しかし、久しぶりにこんなに明るい気持ちで春休みを過ごせたのかもしれない。今までは満喫といっても、心の底から楽しめたかといえば……という感じだった。
これで最後にしたい入学式。ループなんて深刻なものと比べたら恋というのは軽いのか、今までよりも気持ちが楽なのだが、その代わりなのか緊張で手が湿る。
「あの」
「ん?」
「これから隣同士、よろしく」
「うん、こちらこそ。また明日」
「また明日」
昔と比べるとスムーズに話せるようになっている。今まで通り観察をするんだったら、これでいいかもしれないが、今回は違う。もっと積極的に話せるようにしないといけない。そんなチャレンジは今まで避けてきた。自分から会話を切り出すのは難しすぎない? この周で恋愛に取り組むと決意したのに、いきなり揺らいでしまう。
それからというもの、橋本くんとは軽い会話ぐらいしかできていない。そもそも、恋愛をするとはなんだ? どうすればいいんだ? 彼の恋愛を何回も見てきたけれど、参考にできるかといえば、否だ。私は西園寺さんみたいに校内一の美人ではないし、榎木さんみたいに彼の幼馴染ではないし、楸さんみたいに委員長なんてやったこともないし、橘先生みたい先生と生徒の禁断の恋愛ができるはずもない。つまり、参考にできるものはない。これは私にしかない恋愛を考えろということなのか……それができたら苦労はしない。
「さて、どうしたものか……」
「ん? 何が?」
「あー、別に。一ノ瀬さんには関係ないことだよ」
「……ふーん」
まさか口に出すとは。彼女の話を聞いていないも同然の反応をしてしまった。
「そういえばさ。多田峰さんって、橋本くんのことが好きなの?」
「へ?」
「いつもチラチラ見ているでしょ?」
「そう、なのかな?」
「うん。前の方にいるから、そんなに後ろ見ているわけじゃないけれどさ、見るたびにチラチラしているから」
無意識だった。確かに、話すタイミングがないか探そうと横を見ているときはあったが、そんなにだったとは。恥ずかしい。弁当を食べる気力がなくなっていく。
「で、どうなの? 好きなの?」
返答に困る。このままはぐらすのが正解なのか、それとも素直に言った方がいいのか。
「う、うーん……」
「好きなんでしょ? めっちゃ赤くなってるよ」
「え? ホント?」
「あはは。そんな反応をするってことは、好きってことだね」
「ん? てことは、ハッタリ?」
「そうだよって言いたいけれど、顔全体じゃなくて耳が赤いよ」
「はぁ……うん。好きだよ」
「出会って二ヶ月で好きになるって、すごいね?」
「あー、うん。そうだね。気づいたら惹かれちゃって」
「手伝おうか?」
「何を?」
「恋の。さっきの『どうしたものか』って、そのことでしょ? 一人で悩むより、二人で悩んだ方が良い答えがでるんじゃない?」
目から鱗だ。誰かと悩むなんて考えたこともなかった。恥ずかしいことだし、そもそも一人で悩むのが当たり前になっていた。
「いいの? 一ノ瀬さんは何の得もしないでしょ」
「そうだけど、ゲームじゃなくて現実で恋愛を見られる機会なんて、そうそうないからね」
「じゃあ、お願いします?」
「なんで疑問形なのさ」
そう言いながら手を出してきた。どういうことなのかと悩めば「握手」と一言追加してきた。なるほど、と思いながら握手をする。丁度よく昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。あ、弁当。
今日からテスト返却。あれから一ノ瀬さんに会話のきっかけで悩んでいたことを話したら、テストの点数を聞けばいいじゃないと簡単に言ってきた。確かに、隣同士なので聞きやすい。彼女のアドバイスを素直に聞き入れ、頑張らないといけない。これを逃せばあっという間に夏休み。連絡先を知らないので何もできない期間に入ってしまう。一時間目は数学か。返されたテストを見ると八十五点。うん、こんなもんだ。
「橋本くんはどうだった?」
「テスト?」
「あ、うん。そうだよ。気になっちゃって」
しまった。何を聞いているのは言い忘れた。焦りすぎた。
「いいよ。はい」
見せてくれた紙には百点と書かれていた。頭が良いのは前々から知っていたけれど、まさか満点を取るほどだったとは。
「すっごい……百点じゃん」
「勘が良かっただけだよ」
「すごいことには変わりないよ」
「そういう多田峰さんだって、すごいじゃないか。八十五点なんて、そう取れないよ」
「私こそ勘が良かっただけだよ。最初の方なんてとくに」
「だったら、俺たち似た者同士ってことだね」
お互いに笑い合って会話が終了する。それにしても、一年生の頃からあんなことを言うとは恐ろしい。昔、自分のことを好きなんじゃないかと誤解するファンを見たことある。面と向かって言われたことがなかったので、そんな誤解をする気持ちがわからなかったが、そうなってしまうのが今ならわかる。もしかしたら、あと数回そんな言葉を聞くかもしれないのか? 耐えられるのか不安になってきた。それに、テスト返却の期間は午前授業なので、一日で返される数が少なくなる。つまり、あんな言葉に耐えなければいけない日数が増えるということ。一週間、耐えまくり明日から夏休み。
「明日から何もできないな」
「連絡先は?」
「聞けなかった」
「まぁ、なんとなく予想できてた」
「どうしよう……」
「まだ一年生だしさ、焦らなくてもいいんじゃない? 二年生からが本番でしょ」
「二年生から?」
「うん。そもそも、まだ知り合って間もないんだから、距離を縮めるのって難しいでしょ。だから二年生からが本番。今はその下地を作っている段階じゃない?」
「た、確かに、そうかも」
そうだ。私と橋本くんは出会って間もない。そうでないのは私しか知らないんだ。焦りすぎて失念していた。
「だから、大丈夫だって」
そう言って一ノ瀬さんはトンッと私の背中を叩く。ほんの少しだけ不安は残るものの、彼女のアドバイスで助かった実績があるので信じよう。さて、夏休みはどうしよう。この周では『俺とキミの電子の恋』は買っていなかったから、それを読もうかな。
夏休みは悠々自適だった。これまでは橋本くんが誰かと一緒に過ごしているのを偶然、本当にたまたま見かけてしまい、気になる日々だった。しかし、今回はそれが一度もなかった。どういうことだろう? 今までと同じだったら、誰かを攻略しているはずなのに、それらしき行為を見ていない。もしかしたら、今回は誰も攻略しないルートを選んでいるのかもしれない? なら、チャンスが大いにあるかもしれないのでは? そうであってくれと祈っていたりするうちに夏休みは終わってしまった。
「どう? 落ち着いた?」
「何が?」
「夏休み前のこと。焦っていたでしょ」
「あ、それね。もう大丈夫だよ」
「それならよかった。焦っても失敗するのがオチだからね」
「うん、そうだね」
たまたま気づかれてしまったとはいえ、こうやって誰かに相談できるのはすごくありがたい。忘れてしまったことを思い出せるし。無理に距離を縮めても、成功するかといえば微妙だ。焦らず、今できることをやるしかない。
それから私たちは定期的に作戦会議をし、私は自分から橋本くんに話しかける努力をした。最初は手汗がひどかったが、一年生の終わりが近づく二月あたりには手汗の心配はなくなった。もしかして、気温のせいだったのでは? という疑問が浮かんだが、考えなかったことにしよう。とにかく、これで一ノ瀬さんが言っていた下地作りは成功したはず。二年生からはもっと頑張らねばいけないのだと思うと、何もしていない今から恥ずかしくなってしまう。これも克服しないといけないことだったりするのか? 無理な気がするので諦めよう。
今日から二年生。ここからが本番。焦ってはダメだって言われたのに、やっぱり焦ってしまう。本当に大丈夫なのか不安でいっぱいだ。
「あ、多田峰さん。また一緒だね」
「ビックリだよね。こちらこそ、よろしく」
隣にいる橋本くんはいつも通りの好青年。一年前とは違って人気者になったので、周囲からの視線がちょっぴり痛い。二年生からが本番なのに、この視線があっては動きづらくなってしまう。とくに私は彼とずっと隣の席。目の敵にしている人だっているかもしれない。先行きが心配だ。
心配は当たり、橋本くんとは多少の会話はできているものの、何か大きな出来事があったかといえば、ない。まだ六月とはいえ、これでは一年生と同じままで終わってしまう。それはさすがに危険だ。頭を抱えて悩んでいたとき、逆に彼から話しかけてくれた。気さくな彼なので話しかけてくる展開は予想できたものの、いきなりなので驚きで心臓がうるさくなり、何を言っていたのか聞き逃してしまった。
「えっと、ごめん。何だっけ?」
「こっちこそ、いきなりで驚かせてごめん。多田峰さんの連絡先が知りたくてさ」
「連絡先?」
「うん。多田峰さんって成績がいいから、宿題で困ったときとかに相談したいんだ」
「え、橋本くんよりは成績が低いから、頼りにならない気が……」
「そんなことないよ。誰かに相談できるだけでも全然違うだろ? ダメかな?」
確かに。すでに経験ある身なのですごくわかる。そもそも、絶好の機会なのに何で私は断ろうとしているんだ? 別に何か損するわけでもないし、自分からできなかったことなのでありがたいではないか。
「ううん。むしろ願ったり叶ったりだよ」
「ありがとう。こっちでもよろしく」
思いがけない展開であったが、念願だった橋本くんの連絡先をゲットした。これでいつでも彼と連絡をとれる、とれるのか……好きな人のだと、たかが連絡先でもこんなにも嬉しくなるのを初めて知った。その後、彼が言った通り宿題の相談をされたり、逆に相談したり、他愛もない話もした。これなら一ノ瀬さん以外の女子の痛い視線を気にする必要もない。しかも、恥ずかしくて顔が赤くなっても気にする必要はない。夏休みでも連絡がとれ、近くの図書館で一緒に宿題をすることもできた。良いことづくめで、私は少しずつ好感度上げに勤しんだ。
二年生も終わりかけている二月下旬。私と一ノ瀬さんは他愛もない話を交えながら、いつも通り下校していた。明日の授業のことだったり、彼女がハマっているアニメなどについてだったり、私の好きなことだったりと、話のバリエーションは豊富ではないものの、一人で帰るよりはマシなぐらいの楽しさがある。まぁ、お互いに趣味が合っていればもっと楽しくはなっていたのだろう。しかし、私たちは利害が一致した関係なので、これぐらいが丁度いいのかもしれないが、何十年も絡んでいる身としてはもう一歩踏み出したいところがあるけれども……相手はそうではないのでもどかしさはある。
「私たちって面白いよね」
「急にどうしたの?」
「だって、中学生のときは全然話さなかったのに、高校生になったらこんなに話すようになったんだよ? しかも、一人にはなりたくないって理由でさ」
反応に困る。そうなんだけれども、ストレートにそうだねとは言えない。返答に困り、どうしようかと悩んでいると、その反応を見てなのか一ノ瀬さんは再び口を開く。
「でもさ、二年生にもなれば、他にも友達ができるじゃん? それなのに、ずっと一緒にいるのって面白いじゃん」
「確かにそれもそうだよね。確かに……」
じゃあ、何で一緒にいるんだ? 私にも、一ノ瀬さんにも、別の友人がいる。お互いを名字ではなく、名前やあだ名で呼び合う仲がいるのに何で一緒にいるんだ。不思議だ。
「私も不思議に思って考えてみたんだよね。そうしたらさ、多田峰さんと一緒にいるのがとても楽なんだって気づいたんだ」
「楽?」
「そう。お互いにそんなに興味ないからさ、好きなことについて話しているときも気をつかわないでいいのが楽なんだと思う。だから自然と一緒にいちゃうのかな?」
「な、なるほど?」
言われてみれば、その通りかもしれない。しかし、率直に興味ないと言われてしまうと、そんなに仲が良くなくてもへこんでしまう。
「それでさ、このままでいるのもいいかなって思ったんだけど、さすがにずっと名字にさん付けで呼ぶのって味気ないじゃん」
「うん……うん?」
「せっかくだから、名前で呼びたいなって思うんだけど、どう?」
「いいんじゃない?」
「それじゃあ、明日からまたよろしくね、恵乃」
「うん。よろしく。あ、葵」
名前呼びはいいけれど、まさかの呼び捨ては予想外だった。あんまり呼び捨てはしない方なので、慣れなくてムズムズする。しかし、言ってしまったので今から訂正するのも、なんか変に思われてしまいそうだから、このままでいくしかない。
その後はいつも通りの帰宅風景。さっきまでと同じ、お互いの好きなことや授業などを話題に会話を続けていく。一ノ瀬さんこと、葵も私と同じ一歩踏み出したい気持ちはあったのだろうか。もし、そうだったら嬉しいと思う。それにしても、今まではこんな話をしたことがなかった。知り合い以上、友達未満あたりで、高校卒業後は連絡をしあうことなんてない関係だったので、名前で呼び合うことなんて一切なかった。何周もしているのに、まだ知らない展開が見れるとは思いもしなかった。
「で、どうなの?」
「どう、とは?」
「橋本くんへのアプローチのことよ! バレンタインに何かした?」
「バレンタインの日は受験で学校が休みだったから、とくには……」
「絶好のチャンスを逃すなんて……今からでも遅くないから、渡したら?」
「やっぱり渡した方がいいかな?」
「そりゃ、いいか悪いかだったら、いいに決まっているでしょ」
当たり前の答えだ。しかし、私は橋本くんがどれくらいの甘さが好みなのかがわからない。そんな状態で作れるだろうか? 友人とかであれば気にしないけれど、相手は好きな人。そういうところを気にしてしまう。好きな人にあげるのであれば、なるべく相手の好みにあわせて、あわよくば好感度を上げたい。
「でも……」
反論しようとする言葉が見つからない。自分でも渡した方がいいと思っており、反論する気持ちがないからだ。
「うじうじするぐらいなら渡す! そうやっている間に渡せなくて、他の子が橋本くんとの距離を縮めちゃうかもしれないんだよ。それでいいの?」
「それはよくないけれど」
「なら、行動する! ほら、一緒に買いに行くよ。バレンタインシーズンは過ぎたから、チョコとか安くなっているだろうし」
「今から?」
「そりゃそうでしょ。今日買って作って、明日渡すこと!」
「明日?」
「そうよ。思い立ったが吉日っていうでしょ」
いきなりすぎて頭が追い付かない部分があるが、そんなことなど気にしてくれない葵は私の腕を引っ張り、帰り道を逆戻りして近くのスーパーへと連行した。そこで、絶対に必要な板チョコ数枚、トッピング用の白やピンクのチョコペン、作ったものを入れるための箱を買うことになった。予想外の出費とはいえ、葵の言った通りシーズンが過ぎたこともあり、チョコは半額で売っていたのはありがたかった。
「いいこと、明日作ったものを持って来なかったら、恵乃のお家に行って作り終わるまで一緒にいるからね」
「そ、それは、とても困る」
まさかの持って来なかったら家に押しかける宣言。困ると返事をしたものの、実際に困るのは、自分の家に帰れない葵なのでは? そんな疑問が帰宅してから浮かんだ。
買ってしまったし、彼女があそこまで言ってきたのだ、作らなければ申し訳ない。普段は冷蔵庫にしか用がないキッチンに立つ。料理することは得意ではないので、チョコを溶かして、型に流し込む簡単な作り方にした。凝ったものを作ればいいが、失敗したら元も子もない。甘さの問題は諦めて砂糖などは追加しなかった。冷やして、丸や星といったチョコのできあがり。これだけだと味気なさすぎるし、せっかく買ったチョコペンを活かしていないので、何か描きたいと思うが、何を描けばいいのか思いつかない。これは想いを伝えるための一つなのだから、定番であるけれどハートか? 大胆に描くのは恥ずかしい、そうなると……端っこの方に小さく白やピンクのハートを描く。これならアクセントぐらいになって丁度いい。全てのチョコに描き終わり、再び冷蔵庫にしまう。そして、明日箱に詰めるのを忘れないようにしないといけないと思いつつ就寝した。
これほど学校に行くのが億劫になる日が訪れるとは……持ってきたけれど、そもそもどうやって渡す? さすがに人目があるところだと視線が怖い。かといって二人きりになるのは恥ずかしい。もしかして詰んでいるのでは? え、ほんと、どうやって渡す? 二人きりになるのが一番いいんだと思うけれど、相手にその気があると思われるのは恥ずかしい。いや、思われた方がいいかもしれないが。なんとか、自然に二人きりになれる理由があればいいのだが……。
「えーと、今日の日直は……多田峰と橋本だな、後で日誌を取りに来るように」
これだ。ナイスタイミングすぎる。神様が味方をしているとしか思えない。日直は帰りの会が終わった後に、ゴミを捨てたり、日誌を職員室に届ける作業がある。いや、日誌は会が終わった直後に渡すかもしれないから、ゴミを捨てて教室に戻ったときならばクラスメイトもいないはずなので、自然と二人きりになれる。ありがとう、日直。チョコは保冷剤で冷やしているので大丈夫だと信じよう。
「多田峰さん、今日はよろしく」
「こちらこそ。頑張ろうね」
隣で微笑みながら話しかける橋本くんに返事をする。そんな様子を葵がニヤニヤしているとは気づくことはなかった。
ハラハラ、ドキドキ、緊張していると時間の流れがこんなにも遅くなってしまうのか。六十分しかない授業一つひとつが倍ぐらいの長さだった。昼休みでは葵に「絶対に渡しなさいよ」と念を押されたり、からかわれたりして早く終わって欲しかったのに、全く終わらず顔が熱くなりすぎた。冬なので暖房代わりにはなったけれど。散々な一日だったが、それもようやく終わる。放課後がやってきた。
「あと残っている仕事ってなんだっけ?」
「えっと……日誌を書くのと、ゴミを捨てに行くだけかな」
「それじゃあ、俺はゴミ捨てをするから、多田峰さんは日誌を書いてくれる?」
「うん、いいよ。一人でゴミ持っていくの大丈夫?」
「全然平気だよ。けっこう軽いからね。じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
手を振りながら橋本くんを見送り、日誌へ目を向ける。真面目な彼のことだから、放課後になる前にサッサと書き終えるかと思いきや、最後まで書かなかったとは予想外だった。それなら私に渡しておいてもよかったのでは? という疑問は浮かぶが、時間稼ぎのために書かないままにしていたと思うから、結局どちらの元にあったとしても関係なかった。まぁ、分担作業なので時間稼ぎはできないのだが……だからといって、書かずに橋本くんを待っていたというのは印象が悪くなってしまう。今日の授業内容、欠席者、遅刻者、連絡事項、最後に感想を書き込む。一通り記入したが、橋本くんは帰ってくる様子がない。今のうちにチョコの状態を確認しよう。いくら保冷剤をたくさん入れた中で保存しているとはいえ、教室内は暖房で暖かい。万が一の可能性があるかもしれない。机の横にあるフックに掛けていた保冷バッグを手に取る。何時間も経っているが、バッグはほんのりと冷たい。これなら大丈夫だろうと安心して中を見ると、たくさん入れた保冷剤のほとんどは液体になる一歩手前ぐらいの状態だった。肝心のチョコが入った箱は冷たく、中身を確認すると丸や星のチョコは形を保っていた。ホッと一息をつくと、廊下から足音が聞こえてくる。走っているのか、早足なのか、間隔が短い気がする。もしかするとがあるので、慌てて開けっぱなしの箱を閉じたと同時に橋本くんが帰ってきた。ナイスな判断だった。
「ごめん、待った?」
「全然。さっき書き終わったから」
「それならよかった。ん? その箱は?」
「あ、ああ! これは、実は……」
この流れでごまかしたら渡せないまま終わってしまう。心の準備をする間もなかったが、ええいままよ! と思いながら、橋本くんに差し出す。
「実は、その、橋本くんにあげようと思って、先週は学校がなかったから、今日……」
語順がめちゃくちゃになってしまった。これはやってしまった。何を言っているのか意味不明じゃないか。こんな重要な場面でミスを犯すなんて、失態にもほどがある。
「えーと、もしかしてバレンタインのこと? 俺に、くれるの?」
「そ、そう! ほら、一年生のときからよく隣の席で勉強を教えてもらっているし、そのお礼も兼ねてで、チョコ苦手だったかな?」
「ううん、むしろ好きな方だよ。ただ、まだもらえるとは思わなくてさ」
「一週間も経っているもんね……それに、休み明けの月曜じゃなくて、木曜だしね」
「でも、すごく嬉しいよ。ありがとう」
そう言ってチョコを受け取ってくれた。ようやく朝から続いていた緊張から解放されたが、相手に気持ちが伝わらなくても、自分の気持ちを渡すのはとても恥ずかしい。そう自覚すると顔が徐々に熱くなってくるのがわかる。いけない、この状態を見られたら余計に赤くなってしまう。
「じゃあ、日誌を渡してくるね!」
「え、俺は行かないで大丈夫?」
「大丈夫だよ! ゴミ捨てをしてくれたお礼ということで、また明日!」
「う、うん。また明日……」
無理やり会話を終わらせて教室から去る。廊下の窓から流れてくる風は頬を冷やすのには丁度よく、また昂っている私の心を落ち着かせてくれた。日誌を提出して帰ろう。
昨日は家に帰ってから、昂りがぶり返したのでベッドの上でジタバタしてしまった。食べてくれたのかどうかが気になって、昨日はよく眠れなかった。あくびが出てしまう。
「ふぁあ……」
「あれ、あくびだなんて珍しいね?」
「あ、橋本くん。おはよう。ちょっとよく眠れなくてね」
「おはよう。そうなんだ、大丈夫かい?」
「少し眠いだけだから大丈夫だよ」
「それならよかった。そうだ、チョコ美味しかったよ」
「え?」
「昨日もらったチョコ、すごく美味しかったよ。多田峰さんが作ったからなのかな?」
「え? いや、溶かして固めただけだから……」
「気持ちがこもっていたから美味しかったのかな? あと、端っこに書かれていたハート、すごく可愛かったし、意外な一面が見れたみたいで嬉しかったよ」
「あ、ありがとう?」
「端っこっていうのがいいよね、主張しすぎない感じがとても多田峰さんみたいでさ。本当、素敵なチョコをありがとう」
予想外の褒め言葉の量に朝から顔が真っ赤になる。周囲の視線はとくにないのだが、こんな顔を見られたくないので机に伏せる。突然の行動に橋本くんが「大丈夫?」と心配してくれたが、正直に言えるはずもなく「ちょっと眠いだけだから」と嘘でごまかす。腕に伝わる頬の熱さはやっぱり暖房代わりには丁度よかった。
「それで、どうだった」
「どうだったとは?」
一時間目の授業が終わった直後、葵は私の元に来た。
「反応よ! 朝、橋本くんと話していたでしょ」
「……何で、あんな台詞がスラスラ出てくるんだろうね」
「何を言われたの? 気になるんだけど!」
これ以上の内容は私の口からは語れなかった。言えばまた顔が赤くなるだろうし、そもそも口に出すのが恥ずかしすぎる。追及しようとしてくる葵を適当に流しながら、次の授業開始を告げるチャイムが鳴るのを待った。
チョコをあげてからは何もできないままで、気づけば春休みに突入していた。休みとはいえ、だらけているわけにはいかない。先の話だが受験が待っている。毎回明智大学を受けているので、傾向はそれなりにわかっているつもりだが、それだけで受かるほど簡単なものではない。そういえば、橋本くんはどの大学に行くんだろう……彼の成績からすると、明智大学より一つ上の和瀬大学だろうか? そうなると、卒業したら会いにくくなるのか。いや、もしかすると同じかもしれない。聞けばいいじゃないかと思うが、気楽に聞いていいものなのか悩んでしまう。仲が良ければ聞いても大丈夫そうだけど、悪ければ余計に悪くなってしまう気がする。こういうときに、好感度を教えてくれるキャラがいてくれたら便利なんだろうな……考えても仕方ない、とりあえず明智大学に進む方向でいよう。
春休み中に好感度を上げることもできず、代わりに勉強ばかりしていれば、あっという間に今日から三年生。今まで以上に一日を大切にしなければいけない。これで学校生活が最後になることを祈りつつ、学校へと足を進めた。クラス分けに驚くこともなく、教室へ向かう。席の場所も変わることがなく、右隣は橋本くんの場所だ。何度も見てきた風景。これも見納めになって欲しい。
「おはよう」
「あ、橋本くん。おはよう」
「また隣だね」
「ここまでくると、ずっと隣な感じがするよ」
「それ、俺も思った。いっそのこと最後まで隣でいて欲しいよ」
「へっ……あ、うん、そうだね」
焦った。意味を理解するのに時間がかかってしまった。いや、ほんと、そういうことをナチュラルに言わないで欲しい。勘違いしそうになるし、言われるこっちが恥ずかしくなる。顔を赤くなりすぎて、これが普通だと体が認識してしまいそうだ。
「そういえば、橋本くんって……」
つい聞こうと思ったが、本当に聞いても大丈夫なのか不安になってしまった。どこの大学に行くのかについてだが、もしかしたらストーカーに見られる可能性があるのでは? いや、さすがにないと思うのだけど、一回不安になってしまったら口に出せなくなる。
「ん?」
「い、いや。なんでもない。三年目もよろしくね」
「うん? よろしく」
それからというものの、進路については一切聞くことができず、モヤモヤした気持ちのまま日々が過ぎ去っていった。その間は好感度を上げるなんて気にもなれず、勉学に励むことしかできなかった。大切な時間を無駄にしている感じがあるのが、なんともいえない。おかげで中間テストの成績はよかった。橋本くんの成績も見せてもらったが、相変わらずの好成績でさすがの一言。こうやってテストを見せ合いっこできるぐらいなので、仲は良い方なんだと思うが、一歩踏み出す勇気がでない。そして、でないままもうすぐ夏休み。どうしよう、こんなのでは恋の成就なんて無理なのでは?
「それで、大丈夫なの?」
「大丈夫とは?」
「橋本くんとのことよ。最近アプローチしていないでしょ」
「あー、うん。していないかも」
「頑張らないと成就なんて夢のまた夢よ? 相手が人気者なんだから」
「それはわかっているんだけど、恥ずかしさがあって……」
「恥ずかしくて恋愛ができるわけないでしょ! 一歩踏み出さないと!」
「う、うん」
「ずっと一緒にいた私が背中を押すんだから、大丈夫だって。心配しないで、頑張りなさい!」
誰かに言われるだけでこんなにも心が落ち着くとは。高校生活をずっと共にしてきた葵からの言葉なら、なおさらのことだった。これで最後だと決めたのだから、立ち止まるわけにはいかないじゃないか。そうだ、恋愛よりもループしている方がよっぽど不安じゃないか。
「ありがとう。なんだか、安心してきた」
「明日から夏休みだからって、何もしないでいちゃダメよ。誘うぐらいのことはしなさいよ」
「それは……努力します」
高校生からの、しかも最初は上辺だけの付き合いだったのに、今ではこんなに仲良くなれるとは……中学の頃の自分に言っても信じてもらえないだろう。それにしても、自分から誘うのはハードルが高すぎる、高すぎるが、今までの自分を変えるには丁度いいかもしれない。やれるかどうかは未来の私次第だが。その後、私たちは夏休みの宿題のことなど他愛のない話をしながら帰宅した。
雲一つない晴天を恨む。せめて雲があれば、まだマシなのに。ジリジリと肌が太陽に照りつけられて、ただ暑いってレベルを通り越して痛みを感じる。こんな暑さなら、地面にフライパンを置いて目玉焼きを作れるのでは? あ、でも、それは前にテレビで見たことがあるが、そのときは五十度越えとかの海外で作っていた。じゃあ、三十五度ぐらいの温度では作れないのでは? そもそも、こんな砂浜で作ったら目玉焼きが砂まみれになってしまう。それにしても、何もしていないのに潮風で髪とかがベタつく。あぁ、本当に……。
「暑い」
「そりゃ、夏だもん」
「足が焼けそう」
「裸足で砂を踏んでいるからね。とりあえずパラソルの下に移動しようか」
「そうする。どうしてこんな目に……」
「クラスの集まりという半強制参加イベントだから仕方ないでしょ」
数か月後には受験に挑む大切な時期、多くの三年生は塾や自宅で勉強に励んでいる。そんな中、私たちのクラス全員は一般の人たちに混ざって海で遊んでいる。端から見れば、ただ夏休みをエンジョイしている学生たちにしか見えず、受験生とは思われないだろう。
最初はこんな暑いのに外で、しかも海なんて行く予定なんかなかった。グループチャットで多くが『行く!』と返信しているところに、さり気なく『予定が入ってて行けないや』と返信しようとした。もちろん予定なんてものはない、嘘だ。嘘をついてでも行きたくなかった。そして、この気持ちは葵も同じだろうと思った。彼女もこのようなクラスみんなで遊ぶのは苦手だから、参加しないはず。自分だけ参加しないのは気まずいけれど、もう一人ぐらい参加しない人がいれば安心できる。なので、私も安心して参加しないで済むと思ったが、結果は真逆だった。流れていく参加表明の中に彼女もいたのだ。まさかの展開。他に参加しない人も出てこない。私はチャットから感じる同調圧力に負け『行きます』と返信したのだった。本来ならば、今は部屋でエアコンの風に当たりながら適度に勉強していたはず。
だが、これのおかげで自分から誘うことができずとも、橋本くんに会うことができた。夏休み前、葵に背中を押されたので連絡をとる一歩手前まできたのだが、やはり恥ずかしさが勝ってしまいとれないままだった。なので、感謝も多少はある……あるけれど、二人きりではないからどうなんだろう。
「それにしても、葵が参加するなんて意外だった」
「最後の高校生活ぐらいはエンジョイしたいじゃん?」
「本当は?」
「私たち以外が参加する中、断る返信ができませんでした」
「わかる。私も同じ理由で結局……」
「さらに言うと、発案者があの人気者の橋本。これは断れない」
「わかる。橋本くんはいいとして、周りが……ねぇ?」
「考えただけで怖すぎ。それにしても、みんなこんな暑いのによく遊べるよね」
「しかも、大勢の一般客に混ざってだなんて、地獄みたいなのに。すごすぎる」
波打ち際では私たちを除くクラスメイト全員が水をかけあっている姿が見られる。夏休み真っただ中なおかげで海水浴目当てのお客さんが多いため、窮屈そうだけど。あんな状態でも楽しそうな顔をしているから楽しいんだろう、窮屈そうだけど。
それにしても、海といえば恋が進展しやすい場所。どうせ行くのならば、何かしら進展させたい気持ちもあったが、こんな人混みでは無理だろう。来た意味がなくなってしまった。他にやることといえば、海で遊ぶ? 暑いので却下。じゃあ、砂で遊ぶのは? それも暑いじゃないか、却下。だとすると、このまま葵と話し続けるぐらいしかないじゃないか。楽しいのだけれども、海でやることなのかという疑問が残ってしまう。涼しいお家に帰りたい。
「その顔、本命の人にアピールできなくて悔しい顔と見た!」
「はぁ?」
「そして、その反応。ビンゴでしょ!」
「残念。これはあんたの言葉に呆れた顔よ」
「いいのかなぁ、そんなこと言って。せっかく人がキューピッドになってやろうと思ったのに」
「キューピッドって、何の?」
「恋の」
何を言ってるんだ。あまりの暑さで頭のネジがいくつか落ちてしまったのでは? あまりにおかしいことを言ってくるので、辛辣な言葉を投げてしまいたい気持ちになった。だが、葵の表情は悪気のない純粋な笑顔。投げることへの罪悪感が生まれたので、ぐっとこらえる。
「だって、夏! 海! これは、恋が進まないわけがない!」
「落ち着いて、ここは現実。ゲームや漫画みたいにそう簡単には……」
「そこをなんとかするのよ、と言いたいところだけど、よくよく考えたらハードル高いわね」
「そういうこと。変なことを考えないで、この時間をどう過ごすか考えた方が有意義だよ」
「だけど、見たいじゃん。二次元でしか見れないものを現実で。それも友人のなら尚更」
納得できるような、できないような。いや、できないだろ。現実って言ったけれど、そもそもこの世界自体はゲームや漫画と同じ二次元みたいなんだよな……まてよ、二次元であるなら、恋を進められるのでは? 可能性があるのでは? ありがとう、葵。希望が持てるようになったよ。前向きな気持ちになれたので、橋本くんの様子を見てみる。クラスメイトの男女両方に囲まれている姿は彼が人気者ということを再確認させられる。あの状況から二人きりになろうとするなんて無理だ。やっぱり諦めよう。
術がないことにようやく気づき、恋のキューピッドになることを諦めた葵とパラソルの下で話す、話す、ドリンクを飲む、そして話す。少し前にも思ったけれど、本当に夏の海でやることなのか。どう考えても違うだろう。キラキラと輝くクラスメイトとは正反対な私たち。虚しいって気持ちはこんな感じなのかもしれない。
「あれ? こっちに向かってくるの橋本じゃない?」
「え、なんで、こんな暗いところに」
「しかも、取り巻きたちがいない。恵乃、これってチャンスじゃない?」
「ただ何か荷物を取りに来ただけじゃない? 一応、ここはみんなの荷物置き場だし……忘れかけていたけど」
「あー、確かに」
だとしても、取り巻き……じゃなくて、一人だけで来るのもおかしい。荷物を取りに来るなら手伝いと称して誰かしら一緒にいそうなのだけど、他には誰もいない。納得をしていないのは葵も同じで、彼女も色々と考えている。
「二人とも、見張り番ありがとう」
「全然大丈夫だよ。見ているだけでも面白いし」
「そうそう、恵乃と一緒だから全然退屈しなかったしね!」
「それならよかった」
「ところで、橋本くんは何でこっちに来たの?」
「交代しに来たんだよ。二人だけ海に来たのに遊ばないっていうのも可哀想だと思ってさ」
「あれ、だったら取り巻き……じゃなくて、他の子と一緒に来なかったの? まさか、一人でする気?」
「そのつもりだよ。一人でも多く楽しめる方がいいだろ?」
なるほど。この優しさを誰も拒めなかったから一人で来たというわけか。確かに、優しさに加えてこんな爽やかな笑顔で言われてしまったら断りにくい。現に何て返していいかわからず、私も葵も黙ってしまった。
「へぇ……あ、じゃあ、私と交代しない? 実は恵乃って海が苦手なんだよね」
「え? 別に苦手では、むぐっ」
突然の嘘に否定をしようとするも、葵に口を手で覆われてしまい、発言できなくなってしまった。一体、どういうことなんだ。
「実は中学生のときに、この子ったら水泳の授業で溺れちゃってさ、それから海とかプールが苦手になったんだよね、ね?」
違うと改めて否定しようとする前に、葵が耳元で「いいから合わせて」と囁いてくるが、意味がわからないし、それよりも手を離して欲しいと見つめるが、離す気配がない。どうやら、私が合わせないとダメなようだ。仕方ないので、小さく頷いてみるとすぐ手を離してくれた。
「そ、そうなんだよね。いやー、あのときは本当に大変だったなー」
「そんなことがあったんだ。だから、見張り番を引き受けてくれたわけだったんだね。気づけなくてごめん、本当は海じゃない方がよかった?」
「いやいや、夏といえばやっぱり海だし、こうやって見ているだけでも楽しいから、全然平気だし、気にしないで」
だって、海が苦手なのは真っ赤な嘘なわけだし。謝られると罪悪感が……。
「ということなので、恵乃は海に行けないから、私はずっと付き合っていたわけだけど、せっかく海に来たのに遊ばないのって悲しいので、橋本くん交代してくれない?」
「うん、いいよ。多田峰さんは俺と一緒でも大丈夫?」
「大丈夫だよ。むしろ、私なんかと一緒なのが申し訳ないくらいだよ」
「よし、交渉成立ってわけで、行ってくるね!」
「はいはい、行ってらっしゃい」
立ち上がろうとする葵を見送ろうとすると、彼女は「頑張りなよ」と耳元で囁いてから去っていった。なるほど……恋のキューピッドの役目を果たそうとしたのか。なるほど?
「よいしょっと……それじゃあ、改めてよろしく」
「え、あ、うん。よろしく」
「それにしても、こうして二人だけになるのって、図書館以来だね」
「そうだね。まさか、またなるなんて、嬉しいような恐いような」
「恐い?」
「うん。だって、みんなから慕われている橋本くんと二人っきりだなんて、恐れ多いというか、後が恐いというか……」
あのときは誰にもバレなかったと思うけれど、今回は確実にバレている。嬉しさと、クラスメイト……とくに女性陣から視線の恐ろしさ、二重のドキドキで心臓がうるさい。夏休み後に何もないことを祈りたい。
「恐れ多いだなんて、西園寺さんならまだしも、俺はただのクラスメイトだよ?」
「それもそうなんだけどね……」
そうか、西園寺さんが実は普通の一般人だということをこの橋本くんは知らないのか。私は別の周で橋本くんの情報をかき集めていたときに知ったけれども、そうか、そうだよな。西園寺さんには悪いけれど、強いライバルを増やしたくないので、恐れ多いという認識は訂正しないままでいよう。本当にごめん。そして三年生では同じクラスにならなくてよかった。会わなければ気まずさは薄れるから。
「西園寺さんもだけど、橋本くんも恐れ多い存在だよ? クラスだけじゃなくて、学校中の人気者だから」
「俺が人気者? 実感がないけれど、そうなのかな?」
「ホントホント、テストの順位は十位以内が当たり前、運動神経バツグン、そしてカッコいい、それに加えてみんなに分け隔てなく接し、手伝う優しい性格。これで人気者じゃない方がおかしいでしょ」
「普通のことをしていただけなんだけど、そんな風に見えていたなんて」
できそうであまりできないことを「普通」と言い張る橋本くんはすごい。こういう謙虚なところも人気者の秘訣なのだろう。
「でも、嬉しいな」
「そりゃ、嬉しいでしょ。みんなから好かれているんだし」
「それもそうだけど、何より多田峰さんにカッコいいって言われたことが嬉しいんだ」
「へ?」
「多田峰さんとはずっと同じクラスだし、席が隣同士だからさ、話すことは多かったけれど、どう思われているのかがわからなくて不安だったんだよね。だから、カッコいいって思ってくれていたのが嬉しくて」
こういうことをスラスラと言えるから女子の人気はさらに高いんだろうな。恥ずかしさで赤くなりそう、というかもうなっていそう。少しでも薄めるために他人事のように捉えるよう。そもそも人気者の理由を言っただけで、私がそう思っているとは言っていないではないか。いや、もちろん、そう思っていますとも。今日なんて水着姿というわけで上半身裸、鍛えられすぎず、ほどよく筋肉がついた腹筋や腕がカッコよすぎる。直視できない。
「あと、多田峰さんは可愛いよ」
「あ、ありがとう?」
何があとなんだ、わからない。わからないが、そういうところだぞ橋本くん。ただでさえ熱い体が余計に熱くなる。可愛いって言われただけで、こんなに嬉しくなってしまうなんて。話を変えよう、この話題で会話し続けたら爆発してしまうかもしれない。そうだ、あのことを聞いてみよう。
「そ、そういえば、橋本くんってどこの大学を受けるの?」
「和瀬大学を受けるつもりだよ。多田峰さんは?」
「私は明智大学だよ」
予想的中。やっぱり和瀬大学か。
「へぇ、意外だな。多田峰さんって頭が良いからもう少し上の大学に行くかと思っていたよ」
「最初はそうしようかなって思ったんだけど、いざっていうことを考えて、少し下にしたんだよね」
「そうなんだ。それは残念だな」
「残念?」
「実は、多田峰さんは俺と同じ大学を受けると思っていたから、卒業しても会えると思っていたんだ。だから、残念だなって」
「あはは、私もそれは思ったよ。三年間ずっと隣の席にいたのに、会いにくくなっちゃうんだなって」
軽い反応と見せかけながら、心臓が普通より早く鼓動している。そういうところだぞ橋本くん。両思いなのではと勘違いしてしまうところだった。それにしても、彼も残念だと思ってくれているのか、そうなのか。一応、狙える範囲内ではあるが、今からでも間に合うのか。どうしたらいいんだろう。
「ちょっと、考えてみようかな。和瀬大学を受けるの」
「本当? もし、受けるんだったら教えてね。手伝うよ」
「うん、ありがとう」
その後も夏休みに何をしたのかだったり、好きなことについてだったりと会話を続けていた。気づけば時刻は正午ピッタリ。クラス全員で昼食をとるために海の家へと向かうことになったので、橋本くんと二人っきりもこれで終わり。人気者の彼はクラスの中心でワイワイと焼きそばを食べており、私は葵と端っこの方でかき氷を食べていた。
「それで、進展した?」
「ノーコメントで」
「そりゃないでしょ。私のおかげなんだから」
「はいはい。ありがとうございました。恋のキューピッド様」
「そう言うってことは、進んだってことね」
「多分ね。私の勘違いって可能性もあるし」
「恵乃って、本当に消極的だよね。進んだって確信すればいいじゃない」
「だって、勘違いだったら恥ずかしいじゃない」
「恋なんて恥ずかしいものでしょ。気にすることないって」
「そうだけど……」
「そんなんじゃ、いざっていうときも行動できなくなっちゃうよ。私が大丈夫って言ってあげるから、頑張りなさい」
そう言いながら、葵は私の背中をバンバン叩く。不安でいっぱいだった胸がスッキリした感じがする。彼女がこんなにも応援してくれているんだ、私も一歩踏み出さないといけない。とりあえず、お家に帰ったら和瀬大学について調べてみよう。
昼食後は私も遊びに参加。海が苦手という設定なので、泳がず浅いところで足をつけたり、砂で山を作ったりする程度のことしかやっていないが、楽しかった。もしかすると、根をつめすぎたのかもしれない。良いリフレッシュになったな。明日からは忙しくなるかもしれないので頑張っていこう、気合いを入れ直して帰宅をした。
それから、和瀬大学について調べてみると、明智大学より一つ上ぐらいなので狙える範囲だった。試しに過去問を解いてみると思ったよりは間違えた数が少ない。これなら大丈夫だと親に相談してみたら、許可された。とりあえず、橋本くんにも連絡した方がいいかな……。「受けるんだったら教えてね」って言われたし。
『こんばんは。ちょっといいかな?』
『全然大丈夫だよ。何かな?』
『大学のことなんだけど、私も和瀬大学を受けることにしたんだ』
『本当! それは嬉しいな。そうだ、手伝えることってあるかな?』
『いいの?』
『もちろん! 俺がお願いしたみたいだったしさ』
『じゃあ、お言葉に甘えて。勉強を見てもらってもいい?』
『オッケー。ここだけじゃなくてさ、放課後とかで一緒に勉強しない?』
『うん! ありがとう!』
『それじゃあ、また連絡して。おやすみ』
『おやすみ』
連絡が終了。あまりの展開に顔が真っ赤だ。二人で勉強するのは、二年生の夏休みであったが一回だけだ。しかし、これからは何回もある。一回でもとてもドキドキしたのに、これから耐えられるのだろうか……。
夏休みが明けてから、橘先生に受験する大学を変えたことを報告した。最初は心配されたものの、私の素行をずっと担任として見てきたこともあるのか、最終的には背中を押してくれた。これで本格的に和瀬大学を狙いにいける。その後、橋本くんと話し合った結果、土日を含めて週に三、四回ほど一緒に勉強をすることなった。
こうして私と橋本くんの受験勉強の日々が幕を開けた。気楽な宿題ではないし、今になって受験先を変えたこともあり忙しかったが、帰りに一緒にご飯を食べたりとデートみたいなことを味わえたりして楽しくもあった。こんな素晴らしいのが週の半分もあるなんて、神に感謝してもしきれない。幸せすぎて死んでしまいそうだ。死ねるかはわからないが。幸せだったり、楽しいことはあっという間に過ぎていき、あっという間に新年を迎え、受験の結果発表当日が訪れた。
「あ、橋本くん!」
「多田峰さん。よかった、合流できて」
結果を見た後、付近で落ち合うことになっていたのだが、周囲は受験生、塾の講師、家族であふれていたので会えるか心配だったが、無事に会えてよかった。
「すごい人だもんね……それで、どうだった?」
「俺は大丈夫だったよ。多田峰さんは?」
「私も。はー、やっと肩の力が抜けた」
「お互い合格できてよかったよ。四月になってもよろしく、だね」
「まだ卒業していないのに早くない?」
お互いに見つめ合い、あははと笑い合う。これで心配事は一つなくなった。あとは肝心の恋愛だけだ。もう一月、残り時間は少ない。悔いは残さないようにしないといけない。本当に大丈夫なのか不安になるが、全力で頑張ってきたのだから大丈夫、信じよう。
それはそれとして、受験勉強に付き合ってくれたお礼を渡したいけれど、何がいいんだろう。何にするかのも問題だが、渡すタイミングもだ。やはり去年と同じバレンタインを理由にするのがいいかもしれないと思うが、それを理由にするのは意識していると思われそうで恥ずかしい。いや、お礼だから恥ずかしくはないんだけれども。そもそも、去年は偶然一緒に日直をすることになったから、運よく渡すことに成功した。今回はそうならないかもしれない。
どうしようかと悩むうちに時間はどんどん過ぎていき、気づけばバレンタインが過ぎたどころか、卒業式が目の前に迫っていた。さすがに悩む暇もないと思ったので、とりあえずお礼のチョコケーキを、ついでに葵には色々とお世話になったのでクッキーを作った。これをどうすれば……卒業式後に渡して告白の流れしかないのでは? それは大丈夫なのか? 不安でいっぱいだが、もうそれしかない。最後がこれでいいのかと疑問は尽きないが、気にしている暇も余裕もない。
卒業式。何度も体験しているので、これ自体には緊張感とかそういったものは一切ないけれど、この後に一大事が控えているので手汗がひどい。そもそもどうやって誘うんだ? お礼を渡すタイミングを気にしすぎていて、肝心なことを忘れていた。どうする、どうする、後で解散するときに? いや、そのタイミングでは橋本くんは人々で囲まれて誘うどころではない。そうなると先生が話しているときか? 先生には申し訳ないけれど、そうさせてもらおう。場所は校舎裏なら人もいないと思うからそこかな。うん、これで大丈夫。これまでの私を信じるしかない。
卒業式後の先生の話。いいことを言っているはずだが、今の私には聞くほどの余裕がない。今まで聞いてきたのでそれで許してください。そう思いつつ、橋本くんにメッセージを送る。
『この後、暇?』
突然のメッセージ、しかも隣の人間から、それに驚いたのか橋本くんはこっちを見たものの、携帯をこっそりといじるためなのか下を向いた。
『暇だけど、どうしたの?』
『ちょっと用事があって、校舎裏に来れるかな?』
『うん、いいよ』
私だったら唐突にこんなことを言われたら断ってしまいそうだけど、橋本くんは用事の内容を聞かずに了承してくれた。ありがとう。だけど、こっちを見てくるのはとても恥ずかしい。とにかく、これで準備は整った。あとは緊張しないようにするだけだ、とりあえず手のひらに人って書いて飲み込もう。
校舎裏。三月になり暖かくなってきてもここは少し寒い。先生の話が終わり、解散した後は予想通りで橋本くんは人に囲まれた。あんな状態では一緒に行くなんて難しいので、メッセージで『先に行ってるね』と伝えておいた。あとは来るのを待つだけだが、この時間が一番ドキドキする。いつ来るかわからない、もしかしたら来ないかもしれない。私が先約なのでさすがに来ないというのは、橋本くんはしないと思うけれど他の子が来させないようにする可能性もある。だんだん悪い方向に考えていると、急に名前を呼ばれた。
「恵乃!」
「葵?」
「いやー、そろそろ橋本くんが来そうだからさ、その前に葵と話したくて」
「話を?」
「うん。最後にもう一押しをしたくて」
「一押し?」
「告白するんでしょ」
「ど、どうして、わかったの!」
「三年間、二人を見てきたんだよ。先生が話しているときに見つめあっていたからさ、もしかしたらそうなのかなって思ったのよ」
「なるほど……?」
「ほら、恵乃ってこういう重要な場面だと緊張するとから、私が勇気づけてあげようと思ったわけ」
「そんな認識されていたんだね、私」
「恵乃なら大丈夫! 自分を信じなさい!」
そう言いつつ、葵は私の背中をバンバンと叩く。痛みで緊張が吹き飛んだ気がする。彼女がそう言うなら不思議と安心できる。この流れも恒例となったな。
「ありがとう、葵。そうだ、これ」
「ん? クッキー?」
「うん。葵にはずっとお世話になっているからさ、お礼に……」
「ありがとう、すっごい嬉しい!」
行動で感謝を伝えたいのか、葵が抱き着く。最初は利害が一致したから一緒にいた関係でしかなかったけれど、三年間でこんなに仲良くなれるなんて夢にも思わなかった。彼女と友達になれて本当によかった。
「それじゃあ、そろそろ来るかもしれないから、私は行くね」
「本当にありがとうね」
「こちらこそ。私がここまで協力したんだから、成功させなさいよ!」
「それは相手次第だから……」
「弱気にならない! じゃあね、春休みとかで遊ぼうね!」
「うん!」
葵は去ってしまったが、交代したかのように橋本くんがやって来た。あまりのタイミングのよさに見ていたのではないかと思ったが、息を整えているのでそうではないようだ。
「大丈夫?」
「あ、うん。待たせちゃ悪いと思ったから、走ってさ」
「別に気にしなくていいのに」
いや、ありがたいのかもしれない。葵がもし来なかったら、悪い方向に考えすぎて泣いていたかもしれないし。
「それで、用事って?」
「こ、これを渡したくて」
さすがにチョコケーキは鞄に入れられなかったので、袋に入れて持ってきた。その袋ごと橋本くんに差し出す。
「これは?」
「チョコケーキ。受験勉強を手伝ってもらったから、そのお礼に渡したくて」
「ただ勉強を見ただけだし、もらえないよ!」
「いや、本当、すっごい助かったし、橋本くんがいたから合格できたようなもんだからさ」
「俺なんかがもらっていいの?」
「むしろ、橋本くんにもらって欲しい、えと、その……」
流れで告白できそうになってしまった。どうする、このまま続けて言ってしまうか? もうそれしかない、やれ! やるんだ私! 大丈夫!
「その、好きな人だから」
「え?」
「私、橋本くんが好きです。だから、受け取ってください!」
言葉の選択を間違えた気がする。これではチョコケーキの意味がお礼から変わってしまった。どうして、どうして、肝心なところでミスをするんだ。思わぬ展開にうつむき、地面を見つめる。何も言ってこないし、私も何も言えないので沈黙の空間で静かなはずだが、心臓がバクバクと鳴ってうるさい。
「ありがとう、受け取るよ」
「え」
「俺も多田峰さんが好きです、付き合ってください」
「は、ひゃい!」
だから、肝心なところでミスをしない! まさか成功するとは思ってもいなかった、いや葵に励まされたときにちょっとだけ思った。橋本くんが袋を受け取ろうとしたので渡しつつ、彼を見る。いつもと同じ冷静な顔のようだが、よく見ると耳の上がちょっとだけ赤かった。もしかしたら彼も緊張をしていたのかもしれない。だけど、それを顔や声に出さないのだから、やはり橋本くんはすごいな。
「まさか、多田峰さんから告白されるなんて、思わなかったな」
「そうなの?」
「そういうのをやるイメージがなかったからさ、すっごい嬉しかったよ」
「わ、私も。まさか橋本くんも同じ気持ちとは思っていなかったから」
「そうだ。名前で呼んでもいいかな? いい機会だし」
「うん! 全然いいよ!」
「ありがとう、恵乃。俺と付き合ってくれて」
「こ、こちらこそ、ありがとう……翔太くん」
好きな人から名前で呼ばれるのはこんなにもすごいものだったとは。まさか知れるとは夢にも思わなかったし、今でも夢なのではって思ってしまう。あまりの嬉しさに心躍らせていると、急にはし、ではなく将太くんが右手を摑んできた。名前呼びだけではなく、手を摑まれるとは、天に昇ってしまいそうだ。
「そろそろ帰ろうか、校門が閉まるかもしれないしさ」
「もうそんな時間? それは急がないといけないね」
左手で携帯に触ると思いのほか時間が過ぎていた。こんな時間ではもうみんな帰っただろう。いくら校舎裏とはいえ、みんながいなくなるのがわからないなんて、よっぽど気分が舞い上がっていたのかもしれない。いや、でも、三年間も頑張ってきたのがついに実ったんだ。舞い上がるのが当然だろう。
「それじゃあ、行こうか」
「うん!」
手をつないで一緒に帰る。恋人と。ああ、幸せで胸がいっぱいだ。そうだ、葵に報告しておかないと。すっごい嬉しかったことを伝えたら「早速のろけかよ」って言われるのが想像できる。ふふっと笑うと、翔太くんが何かわからず困惑したが、一緒に笑ってくれた。彼のこういうところが好きだ。そして私たちは笑い合いながら、歩を進めた。
翔太くんと付き合うことになってから、かなり時間が経過した。高校生としての最後の春休みは気づけば残り数時間。本当に明日を迎えられるのか不安しかない。あんなに勉強を頑張って彼と同じ大学に入ったことも、勇気を振り絞って告白をしたこともなくなってしまうのだろうか。不安ばかりが募っていく。こんな状態では寝るどころではない。
後ろ向きになりすぎてお腹が痛くなってきた。いや、気がするだけかもしれない。前向きに考えよう。今回はこれまでとは全く違う展開を迎えた。だから大丈夫。大丈夫なはず。多分。ダメな気がしてきた。日付を超えるまで後ろ向きにしかなれない。
うんうんと唸り続けているだけでも時間は過ぎていく。携帯で確認すると、あと数分で日付が変わる。恐い。日付が変わる瞬間を見たくない。顔を枕につけて目の前を真っ暗にする。静かな部屋ではチッチッと目覚まし時計の秒針が時を刻む音しか聞こえない、ということはなくて、実際は心臓の鼓動の方が大きくてうるさい。
落ち着きたくても落ち着けない状況。あと数分、たかが数分なのに長く感じる。デートしているときみたいに嬉しくて幸せなときは早くて、現在のような辛くて不安なときは遅い。どうして逆にならないのか。そうだったらいいのに。まてよ、まだ数分しか経っていないのか? 目覚まし時計を見ようにも暗くてわからない。もしかしたら、すでに日付が変わっているのかもしれないのでは? ありえそう。
枕元に置いていた携帯を手に取り、薄目でピントをずらして画面を見る。ぼやけているが、大きく表示されている時間にはゼロが並んでいるのが見え、本当に日付が変わっていたことがわかる。問題はその下にある数字だ。小さく、ぼやけさせているおかげで黒い点にしか見えないので、正確な数字がわからない。少しずつ、少しずつピントを合わせていく。今でも十分に早い鼓動の動きはどんどん早くなっていく。
「あっ……」
ピントが合い、見えた日付は四月一日。八日ではない、一日。ずっと見たかった日付。慌てて電気を点けて周囲を見渡す。何も変わっていない。数時間前に準備したものがそのままある。そっか、ついに、ついに、終わったんだ。もう、高校生じゃないんだ。そっか、そうなんだ。ずっと求めていたけれど諦めてもいた。原因すらわかっていないものを解決なんて無理。一生このままなんだと思っていた。だけど、終わったのだ。果てしなく長かった高校生活とも昨日でさようなら。私は今日から大学生。
「やった!」
深夜なので近所迷惑にならないように、顔を枕につけて叫ぶ。喉が枯れようが気にしない。この興奮を発散する方が大事だ。全ての力を声に変えて放出したせいか、それとも不安で張り詰めていたのが緩んだせいか、全身から力が抜けて眠気が襲ってきた。ようやく訪れた四月一日、大学の入学式当日の朝を気持ちよく迎えるため、目をつむる。さようなら藤咲高校。今度こそ本当のお別れだ。
八時半に起床。翔太くんと一緒に大学に向かい、何事もなく無事に入学式を終えられた。入学式の後は各学部で説明があるので彼とは別れ、今は一人。私の方が早く終わったのか、待ち合わせとして決めた桜の木の前には知らない人しかいない。一番大きな木だから、という理由でココにしたけれど、こうも人が多いと別の場所がよかったのかもしれない。今から変えるにしても、他にわかりやすそうなところを探す時間もないし、まだどこに何があるのかわからない状態なので迷ったり、すれ違いになるのも困る。仕方ない、翔太くんには頑張って探してもらうことにしよう。
何度も試着だけで終わってしまった新品のスーツに袖を通せているのが、改めて自分が大学生になったのだと実感してくる。本当にループが終わったのか。結局、何が原因だったのかは全くわからなかった。どうして私だけ記憶が消されなかったのか、そもそも何故ループなんてことが起こったのか。謎ばかりが残されてモヤッとした気持ちではあるが、終わったことだし気にしないでおこう。
「恵乃! 見つけた!」
「あ、翔太くん。思っていたより長かったね」
「そうなんだよ。連絡しようにも携帯を使うわけにいかないしさ……待った?」
「ちょっとは待ったけれど、全然気にしていないよ」
「それならよかったよ。それじゃあ、帰ろうか」
「うん。そうだ、翔太くん、あのね」
「ん?」
「これからも、よろしくね」
明日からは知らないことばかりの生活。正直なところ不安はある。だけど、これが普通なんだ。その普通を私はようやく取り戻せた。大丈夫、彼となら前へ進める。
私たちを祝うかのように舞う桜の中、私たちは帰宅しようと歩を進めた。