5 空き地
いくら大学生とはいえ、本来は深夜に出かけるというのは、極力避けたい。何せ、蛍は睡眠不足になると機嫌が恐ろしいほどに悪くなるし、抗議の最中に堂々と寝てしまう。
昨夜は肝試しだからと割り切ったものの、やはりあんな遅い時間に出歩き、寝るのが遅くなるのは後に響いた。
おかげで次の日の蛍の機嫌は最高に悪かった。
いつも以上に無愛想な態度と表情に加え、まるで地を這うかのような声の低さ。よく働かない頭は、ただただ寝たい、という欲求だけが生まれた。
「愛川くん、大丈夫……?」
大学に行くなり、昨夜腕を絡めてきた女がそう聞いてきたのは記憶に新しい。腹が痛いと去ったが、それが響いたとでも思っているのだろう。
蛍はわずらわしそうに頷くと、そそくさと立ち去り、他人と必要以上に会話をしないよう心掛けた。
いつも一緒に居る太一も、その日は気遣ってか、あまり話しかけてこなかったのは助かった。やはり、タイプは違えど長年一緒に居る友人と言うのは、自分の癖や態度を分かってくれているのだと思うと安心する。
心の中で彼に感謝をして、その日を過ごした蛍は、夕方頃、眠たい目を擦ってトンネルの向こうへ目指して歩いていた。
行き先は昨夜の店であり、ペンダントを返すために、重たい頭を抱えながらゆっくりと進む。
美代には同じ時間と言われたが、深夜なんて、とても行けたものではない。眠くて仕方ないのだ。
それに、借りたものは早く返す。それは蛍が幼い頃から教え込まれてきた事であり、当然の事だ。
「お前、昨日と態度違うよな……」
ぽつりと呟いた言葉を、背後の女性は聞こえているのか分からないが、顔は笑っていた。
そう、蛍は言われた通り、ペンダントを一切外さずに過ごしてみた。
すると、以前の状況とはあまり変わらないものの、昨日のような、襲いかからんばかりの勢いと悪意で女性が追いかけてくる事はなくなった。
女性はひっそりと蛍に付き添うだけで、今やただの背後霊となっている。たまに笑い声を洩らすが、明るい表情で、幸せそうな顔だった。
以前よりも雰囲気の良い状態に戸惑いつつも、下げられたペンダントを指に絡めてみる。
月の形をした石は、トンネル内の照明に照らされて深い色を出していた。薄い黄色だったはずが、今はオレンジに近い色合いだ。光の加減だろうかと首を捻っていると、やがてトンネルを抜ける。
蛍は夏の夕方が好きだ。じんわりと汗ばむ中、淡い橙色を見つめていると、心が温まる気がするから。 ゆっくりと沈んでいく夕陽を見ていれば、今日も一日頑張ったな、という考えが持てる。
住宅街に広がる夕色を心地よい気分ですたすたと歩く。背後の女性は何もしてこないし、珍しく今日は霊をあまり見ない。
おかげで眠気から来る機嫌の悪さが少しだけ治まった気がした。
店があった道へと黙々と進みながら、昨夜は見られなかった住宅街を眺める。
どこも似たような家ばかりだが、ベランダや玄関先に個性が表れるのは見ていて実に面白い。
植物を成長させすぎたのか、壁が蔦に覆われた家がある所で、ふと立ち止まる。
「確か、ここら辺だったはず……」
辺りをきょろきょろと見回し、店がないか探す。
昨夜は深夜であまり見えなかったというものの、この家の近くだったのは、帰り際確認している。ここまで緑に溢れた家が何軒もあるはずがない。
いくらひっそりとした小さな店とはいえ、見つけるのが難しいという事はないだろう。蛍は改めて周辺を歩き回る事にした。
すると、植物に覆われた家からすぐ近くに、空き地があるのを見つける。
家と家の間に入っているせいか、やけに目立つその場所は、殺風景だった。
肌色に近い砂が、風が吹く度にさらさらと飛んでいく。隅に草が生えているが、目立つものがなくて、際立ってしまっている。
よく空き地には“テナント募集中”などの看板が立っているのを見かけるが、それすらも建っていないと言う事は、誰かの所有地なのかもしれない。
だがしかし。
「こんな所に空き地なんてあったか……?」
蛍の家はトンネルの向こう側にあるため、ここら一帯はそうそう訪れる事はない。しかし、時折友人と車で通ったりはする。
となると、こんな目立った場所は普通目に入るはずなのだ。
ううん、と首を捻っていると、本来の目的である店を探す事を忘れているのに気付いて、あ、と声を漏らした。
すると、その声に反応してか、不意に話しかけられる。
「そこで何してるの?」
振り返って、声の主を探すと、スーツ姿の若い男性が立っていた。歳は二十代半ば。驚くほど背が高く、そしてひょろりとしている。まるでごぼうのようなその見た目に、柔和な目元を見ると、爽やかな男性だった。
「いや、前までこんな空き地はなかった気がして……見てたんです」
「なるほど。でも結構前からあったよ?見落としてただけじゃないかな」
「……そうなんですか?」
言われて、蛍はまっさらな土地を横目で見る。楽観的な思考を持つ彼は、そういうものか、と一人で納得すると、頷いた。
そして、目の前の男性をもう一度見やる。きっちりとアイロンがかけられたスーツは、清潔だし、よく切りそろえられた髪は、好印象だ。仕事帰りだろうかと見つめていると、男性は照れたように笑った。
「ごめん、突然話しかけたから驚いたのかな?大丈夫、怪しい人じゃないから。とって食おうなんて、思ってないよ」
「いや、そこまで気にしてる訳じゃないです」
慌てて首をぶんぶん振る。確かに、最近は世の中物騒で、道端で話しかけただけで通報される事も多い。しかし、さすがにそこまで疑り深い訳ではないし、彼の見た目や話し方から、信用出来る人物だと分かる。
それに、ここは田舎だ。田舎では、世間話を知らない人とする事なんて、わりと当たり前なのだ。
「仕事帰りなんですか?」
「そう、一応ね。疲れて歩いてたら、君を見かけたの。空き地をずっと見てる若い子なんて、珍しいから」
「珍しい?」
「うん、だって何もないだろ?なのに君ときたら結構真剣に見入ってるから」
「ああ、それは……」
ようは、自分こそ変な子だな、と思われたらしい。苦笑して、気になっただけですから、と返しておくと、そっかそっか、と柔和な笑みで返される。良くも悪くも、人の度肝を抜いてしまいそうな人物だった。
そこで、彼は自分の本来の目的をまたもや忘れている事に気づいて、そう言えば、と声を漏らす。もしかしたら地元の人かもしれないし、聞いてみるのもいいかもしれない。
「ここの近くに、お店ってなかったですか?」
「……お店?」
「はい、昨日の深夜に見かけて入ったんですけど。アンティーク雑貨を取り扱ってる所です」
そう言うと、突然男性の表情は、真剣な顔になった。しばし蛍を見つめて、ううん、と唸ると、やがて重苦しく口を開く。
「もしかして、それで空き地を見てたの?」
「は?何言ってるんですか?」
反射的にそう返していると、男性は身体を空き地に向けて、まっさらな敷地を見つめる。その横顔には何か事情めいたものがあった。
「ここはね、深夜になると突然開店するお店があるって言われているんだ」
「……それって、」
大学で流行っている噂ではないか。ついでに言えば、あの変な店の事ではないだろうか。
いや、しかしその店は噂によると、入る事は難しく、入れたとしても神隠しにあってしまうとの事だ。現在、こうやって元気に街を歩いている彼はそんな経験はしていない。きっと違うはずだ。
「大学でその噂を聞いたことがあります。けど、それって本当なんですか。幻の店って、言われてますけど」
「……どうだろう。でも、君は実際にあるはずもない店に入ったんだろう?ここらは住宅街だから、店は何もないよ。あったとしても、駅前のコンビニくらいだ」
「そんな。じゃあ、まさか」
彼は、ありもしない店に入ったというのだろうか。
突然、言い知れない恐怖に、背筋を凍らせ、胸元のペンダントを見る。そして空き地に視線を送った。
幽霊ばかりが蔓延る店に居た事は、このペンダントが証明している。だがしかし、そんな店はないと言う。ならば一体何だったのだろうか。
訳も分からず、唖然としていると、男性は目を細めて柔らかい口調でこう言う。
「君が経験した事を信じて行動してみるといいよ。きっと君には素質があるんだと思う」
追いうちをかけるように分からない事を言われ、それでも蛍はおぼろげに頷く。情報整理で頭が回らない彼には、男性の言葉を気にしている余裕はなかった。