17 視える世界
何かの妄想かと思った。あまりにも景色に憧れて、見えるように錯覚してしまったのではないかと。しかし、それが嘘だと分かるのにそう時間はかからなかった。
「見える?本当にか?だって、柊は盲目じゃ」
「でも……見えます。光が。横で、小さな動物が、鳴いてます。……どうしてですか?」
いやむしろそれはこっちが聞きたい。頬を引きつらせて、あり得ない現象に戸惑う二人は、呆然と立ち尽くしていた。
朝日に感動している所ではなくなり、驚きの感情が支配する。雪月は不安そうに、しかし僅かでも見える世界に嬉しそうにしていた。
見開いたままの目は、瞬きさえ忘れていた。
「……本当に見えているなら、今見ているものを教えてくれ。そしたら、信じる」
見事それが目の前にあったなら、本当にそうなのだろう。
「大きな建物が、あります。あれが大学ですか?後ろで光がきらきら射してて……綺麗」
「……ああ、確かに」
それが先ほどまで蛍が感動していた朝日だ。そう教えると、雪月はとびきり嬉しそうな顔で、笑う。だが、蛍にとっては不可解で笑い事じゃない。
彼は気を紛らわすように雪月とは反対に、左に視線を逸らした。丁度歩道の信号が青に変わっていて、誰かを通すべく光っている。しかし時間が時間なだけに、誰かがそこを通る気配はない。
朝早くから何をしているんだろう、と片隅で思いやっていると、雪月が、手を握る力を強くする。
「……柊?」
「青色の何かが……光っています。これは……信号?でも、朝だから、誰も通っていないみたい……」
「いや、それ……、」
蛍がその言葉を理解した途端、無意識に雪月の手を離してしまっていた。振りほどかれた彼女の手は虚しく宙を舞い、最後にはだらりと垂れ下がる。
しかし蛍はそれに気づく様子もなく、辺りを見回す。
雪月は、今大学の建物がある方向を向いていたはずだ。しかし、そこに歩行者の信号はない。あるのは、蛍が今しがた見ていた所だけ。
見えている。確かに見えている。だけど、おかしい。
見えない筈の所まで映しだしている。
「柊、今正面向いたままだったよな?」
「……はい?そうです」
やはり可笑しい。突然視界が戻る事もそうだが、見えない所まで見えている。それが、可笑しい。
蛍の視界では、正面を向いていたら信号に目は届かない。なのに、どうして彼女にはそれがくっきりと見えているんだ?
「柊、今は何が見えているんだ?」
「……何も、見えません……。いつもの、真っ暗な世界です」
その言葉に、安堵してしまう自分が、何処か憎らしかった。
大学が始まるまでまだ時間はある。蛍が急いで雪月の手を引いて、店に戻り、美代にこの不可思議な現象について話をすると、彼女はこれ以上ないくらいに驚き、そして僅かに涙を浮かべながら嬉しそうに雪月の頭を撫でていた。
そして、店の中で色々試してみて、いくつか分かった事がある。
まず、彼女はやはり一人の状態では何も見えない。視界は暗く、目の前に霊が立たない限りは、何も見えない。見えたとしても、霊の人生だけだ。
だが、それも一人ならば、の話だ。
いつもと状況が違った事と言えば、蛍が雪月の手を引いて歩いていた事にある。もしや、誰かが手を繋いでいれば大丈夫なのかと美代で実践してみるが、視界は暗いままだったと言う。
美代曰く、
「蛍、アンタは何か力が隠されているんだよ。雪月の見る人生を共有したり、視力を与えたり。多分、アンタが原因だ」
という事らしい。自分ではそのつもりはないが、事実彼が雪月に触れる度に何かおかしな事が起こっているので、完全に否定できなかった。
となると、蛍と手を繋いでいれば雪月は視界に問題なく生活できるのでは、と単調に考えもしたが、それも難しかった。何度か様々な物を見せていて気付いたのだが、彼女は、自らの目を通して世界を見ていなかったのだ。
あくまで、蛍が見ているものを、手を、目を通して雪月に映しているにすぎなかった。
つまり、見ている方向が違ったのに、今朝雪月に信号が見えたのは、蛍が見ていたからだ。
蛍の見ているものが、雪月の目の前に現れて、見える。そんなものだった。
「でも、見えないよりマシ、だろう?」
人ごとだと思って美代は誇らしげに言っていたが、結局それを見せるのは蛍だ。まさか自分と同じ視界を持つ人間を抱えるなんて気が重いし、ずっと手を繋いでいるなんて、柄にもなく気持ち悪い。
それに、彼女はあくまで蛍が見て、意識を向けたものしか映らないらしいのだ。
部屋があるとして、コンポを見ている。当然、何となく背後に机やカーテンが見えているのだが、雪月がそれを蛍と一緒に見た場合、背後は一切切り取られ、ダイレクトにコンポしか映らないらしいのだ。
そして、もう一つの欠点が、人に対してだ。
それらの事を注意して、蛍が美代の顔を見る。当然、雪月もこれでやっと彼女の顔を見る事が出来るとわくわく顔で目を開いた。
しかし、顔はもやがかかっていて、何も見えないと言うのだ。店のエプロンや、服装、靴など、身につけているものはちゃんと見えているのに、顔だけが見えない。
これでは何も意味がないではないかと雪月は泣きそうな顔をして俯いていた。
色々分かった今では、雪月にとっては、少し嬉しい現象、しかし蛍にとっては負担がかかる、欠点だらけの謎の現象だった。
それでも大学に二人して行ったのは、美代に半ば強制的に追いだされたからだ。




