研ぐこと
「んー…」
工場の奥にある研ぎ場で、そう唸る声が聞こえた。
ここは日向木工所。
社員は私、親方である日向静を入れて3人の、小さな大工の会社。
「うぅ…」
研ぎ場で不満げに呻いているのは、今年弟子入りしてきた大悟だ。
きっと、初めて研ぐ鉋に苦戦しているのだろう。
少し様子をみてやるか。
そう考えた私は自分の道具を手早く片付けて、鉋を一丁手に取って研ぎ場に向かう。
「どうだ?調子は」
大悟にそう尋ねる。
砥石に向かってしゃがみ込む彼は、小さくこちらに振り返り、眉間に皺を寄せている。
それを見て私はつい笑ってしまいそうになる。
隣にしゃがみ込み、ちょいちょいと手を差し出すと、彼は研いでいた鉋の刃を差し出した。
手渡されたその刃を、角度を変え、光にかざして刃先を見る。
「先は長いな。」
これが今回の採点結果。
大悟はすねたような顔をした後、また砥石に向き直って研ぎ始めた。
私も水に浸けてあった砥石を取り出し、隣で研ぎ始める。
しばらく、沈黙が続いて、砥石と鋼の削りあう音だけが響く。
「亮太郎、何か言ってたか?」
刃の研磨具合を確認しながら大悟に尋ねる。
「いやぁ、特に。あ、でも、気の乗らない表情でしたよ。」
そう答える大悟の顔は、にやけている。
普段なら、真っ先に研ぎ場に向かうはずの亮太郎は今日はいない。
今頃は駅前の居酒屋で楽しんでいる…はずである。
よくも悪くも仕事に没頭してしまう亮太郎は、今日誘われていた飲み会も行くつもりはなかったようだが、私と大悟でなんとか行くように差し向けたのだ。
人付き合いというのは、軽んじるのは簡単で。
人の付き合いというのは、始めるのはなかなかに難しい。
まさに私は今それをひしひしと感じているのだ。
亮太郎がそれを軽んじようとしているのを、見過ごす理由なんてこれっぽっちもない。
…というのは建前で。
いや、実際半分はその通りなのだが、もう半分は…興味半分からだ。
きっと大悟もそうだろう。
人見知り気味の亮太郎が、もっと「上手」になったとき、彼の仕事ぶりはより良いものになる気がするのだ。
ついでに彼女の一人でも出来れば面白い。
隣で小さなため息が聞こえる。
「大悟、事務所の私の机に、頂き物の煎餅があるからとっておいで。」
集中力の切れてきた彼には、何か食べさせてやれば持ち直すだろう。
研ぎは、奥が深い。
私ではとても潜り切れないほどに。
大悟が今苦戦するように、私も昔はひたすらに研いでいた。
ただ、刃物と砥石を擦り合わせて尖らせるだけの作業に、なぜこれほどに頭を抱えることになるのだろう、と。
そして今、上達するほどにより深みがましてしまう。
いけない、夜静かに研いでいると少しいろいろと考え込んでしまう。
ぱたぱたとした足音で、大悟が戻ってきたことに気づく。
何やら彼は、神妙な面持ちをしている。
「ん?どうした。そんな顔をして。」
「あの、静さん……いや、やっぱりなんでもないです。」
「ほう?まぁいい。とりあえず、これ食べて一旦休憩しようか。」
彼が何を言いたいのかは分からないが、言いにくいことなら無理に聞くこともないのだろう。
「静さん、どうしたら上手く研げるようになるんですかねぇ。」
煎餅を齧りながら大悟が聞いてくる。
「そうだなぁ。いろいろあるんだよ、考えることは。でも、やっぱり最初は研ぐしかないね、ひたすらに。」
「ですよねぇ。」
あえて言いはしなかったが、別に大悟も悪い筋ではないのだ。
ただ、まだまだ経験が足りない。
まずは基本が出来てからの、その次。何事も。
少しの間、大悟ととりとめのない会話をして、小腹を満たす。
「よし、もうちょっとだけ頑張ります。」
彼はまた砥石に向かう。
私も今日は彼に付き合って研いで帰ろう、そう思った時だった。
「あれ、まだいたんですか?」
工場の入り口から声がかかる。
振り返ると案の定、背の高い青年が立っている。
その手には鉋と鑿。
工場の中に、二人分のため息が響く。