5/私と妹と、髪結い
「ミンティシア、此方に背を向けなさい」
走る馬車の中、対面にはダリウス。
私とミンティシアは隣り合って座っていた。
先ほど『ハンナさん』の頭にリボンを見てからだ。
どうにも妹の頭が気になって仕方がない。
あの使用人が身につけていた物は、どう見ても妹の為に誂えられた物。
だが肝心の妹には飾り気の一つも無く。
妹の髪はそのまま流され、飾りピンすら付けていない。
装飾品の類は粗方『ハンナさん』が着服したのだろう。
切り揃えられただけで放置された髪は、決して乱れてはいない。
乱れてはいないのだが。
あの現状を見た後では、飾り気の無さが気になるのも仕方無いだろう。
気になるものは気にならないように改善すべきだ。
私と同じ物を使うことを嫌がられねば良いが……
ミンティシア用に持ち出した荷物は限られる。
そしてその中に、櫛の類は入っていなかった。
あの欲の張っていそうな世話係に取られたのだろう。
だから私は、自分用のブラシと櫛を手に妹に声をかけた。
「おにいさま?」
妹の私を見上げる目にあるのは、疑問。
何を要求されているのか、理解していない眼差し。
「殿下、器用なのは知ってましたが……もしや髪結いもお出来になるんですか?」
「幼少期は使用人が世話をしてくれないので、何でも自分でやる必要があったからな。髪すら切ってもらえず、さりとて自分で散髪するという発想もなく……となれば、自分で纏めるしかないだろう」
今となっては遠く記憶の底に沈めていたが、かつては私にも世話係が付いていた。
それも、妹につけられていた『ハンナさん』に負けず劣らず……質の低い使用人だったと、今ならわかる。アレも貴人に仕える為の教育など受けたこともない下級の使用人だった。
自分は一切私の世話をしないというのに、私の髪や衣服が乱れていては「あたしが仕事してないと思われるでしょ!? ちゃんとしてろって言ったじゃない!!」ときぃきぃ神経質に喚き散らし、血がにじむ程の強さで手の甲をつねられた物だ。仕事をしていないのは事実だというのに。
自分で髪も衣服も整えないことには僅かな食事を与えてももらえず、苦労した幼少期が思い出された。
「あ、殿下? いま不憫系の思い出話は止めて下さいね。妹君と相乗効果で2倍胸が痛くなるんで……」
裕福な貴族の子息として不自由なく育ったダリウスが何事か言っていたが、瑣末な事だろう。気にするべくもない。
背を向けろとの言葉に、意味が掴めなかったのか。
妹は困ったような顔で、おずおずと背を向ける。
だが、場所は走る馬車の中。
馬車とは、揺れるものだ。
横並びに座ったまま背を向けさせても、姿勢に無理が出る。
振動で手元が定まり難く、背丈に随分と差があることもあって思ったようにはいかない。
背を向ける妹の、角度も問題だ。無理な姿勢を取らせていることもあり、馬車が大きく跳ねた拍子に座席から転がり落ちそうになって慌てて受け止めた。
「……」
「ふぁっ……?」
考えた末、私は妹の身体に支える以上の手を伸ばす。
「不躾な真似だが、失礼」
声かけと同時、妹の両脇に手を差し入れて持ち上げた。
妹がぱちぱちと目を瞬かせ、危機意識の低い小動物の如き様子を見せる。
目が合うと、上目でじっと見つめられた。
私は構わず妹の身を引きよせ、自分の膝の上に座らせる。
……目方よりも幾分軽い体重に、改めて難しい顔をしてしまう。
そんな私の様子に気付かず、戸惑う様子を見せる妹に、対面からダリウスが明るい笑顔を向けた。
「おお、妹君。お膝だっこですよ、良かったですね」
「だっこ……?」
「ダリウス、余計な茶々入れは控えよ」
背後の私が気になるのか、妹はそわそわとしている。
あまり動かないように告げて、私は妹の柔らかい髪を梳る。
本人の資質か、それとも最低限体裁を整えるだけの世話はしていたのか。
櫛通りは引っ掛かることなく滑らかだ。
折角なので髪を結ってやろうと思うが、手元には生憎、髪紐もリボンもない。
かつては兎も角、今の私の髪は短い。
流石に今まで無用であった髪飾りの類は持ち合わせがなかった。
となれば、何かで代用するしかないが……
身を整えるのに使う小道具は、荷台に乗せた荷物の中だ。
何か身近に、手頃な物はなかっただろうか。
代用できそうな物は……ハンカチが丁度好さそうだ。
今日はまだ使っていないので、汚れも心配ない。
白絹のハンカチを取り出し、妹の膝の上に落とした。
「少しの間、持っていなさい」
「……きれい。これ、なあに?」
「……………………何の変哲もない、ハンカチだが」
「はんけち……?」
「…………」
どうやら妹は、必要最低限の日用品……ハンカチすら持たせてもらっていなかったらしい。
「ダリウス」
「は、なんでしょうか」
「兄上の元へ鳥を飛ばせ。拘束してある『あの使用人』を、至急鞭打ちの刑に処さねばならぬ」
「殿下、余罪が出てくる度に一々刑を増やしてもらってたらキリがありませんよ。どうせ暫くは詮議に時間をかけるでしょうし。ここはもう他にも余罪があるものと見て、償いの先払いをお願いしましょう。纏めて、ぽいです」
「だが、報告はせねば」
「それもまだこれから妹君と暮らしていたら、ぼろぼろ出てきますって。暫く一緒に暮らして様子を見て、ある程度の目処が立ったところで纏めて報告書を送ったらどうです」
「……私の留学を決めて動かれていた時の兄上も、このようなお気持ちだったのだろうか。………………そういえば私の身辺に接する度、何やらおかしな顔をされていたような」
「十中八九、今の殿下は王太子殿下の追体験をされているようなもんだと思いますよ。近くに寄れば、どうしたって目につくでしょう。貴方がたの不遇ぶりは」
「それが当り前であれば、自分では『不遇』等と気付かないものなのだが、な。だがそれに気付くようになったということは、私の常識や価値観も思った以上に改善されていたらしい」
「正直、まだまだまだまだ不足のあるレベルだと思いますけどね」
かつて、私の世話を命じられていた使用人は若い女性であった。
やはり本来であれば王侯貴族の目に触れる場所を担当するはずもない、下級も下級の使用人。
慾深く癇癪持ちで、方々で手を焼かれた末にタライ回しで巡って来たのが、私の居住する離宮だったのだが。
離宮には他の使用人の目すらなく、野放し状態で世話係はみるみる増長していった。
初対面時から、酷い有様ではあったのだが。
何処からも咎められなかったということが、増長を加速させた。
輪をかけて酷くなる様子は、『ハンナさん』と比べても遜色がない。
使いどころのない男児であったからか、無能の役立たずと面と向かって罵られていた記憶もある。
仮にも王の子であるというのに、世話係には一切の遠慮がなく、あの太々しさは一種の才能と言えるかもしれない。
そんな彼女は、私への扱いを王太子に当然の如く見咎められたらしい。
職務放棄、王子への虐待、加えて横領。
余罪も数あれど、主なところで上記の三つが大きな割合を占める。
私は王子とは名ばかりの存在であったが、それでも王子は王子。
王家への不敬罪だけで極刑にも出来る。
彼女が私の離宮から盗み出した宝石類を単純に貨幣換算すると凄まじい額になる。
仮にも王宮、王族の端くれに与えられた宝物類だ。
何に使ったかは知らないが、一つ一つが本来であれば世話係如きに手を出せるようなものではない。
……個人の労働で稼げる額には限りがある。
世話係が横領した額を全額返済しきるのは……個人が生涯をかけても不可能だろう。
それだけでも、刑罰の加速具合は凄まじいことになるはずだ。
そして……恐らく今回も、王太子は私の時と同じ判断を下すだろう。
程無く私の世話係を務めた彼女には、新たな道連れが出来る筈だ。
そこに至った経緯も、罪状も、懲罰内容も似通った二人だ。
きっと気も合うことだろう。
一生同じ場所で暮らすことになるのだろうし、末永く仲良くすれば良いのではないだろうか。
「――さあ、出来た」
懐かしい世話係の思い出に耽る間にも、私の手は問題なく動いていた。
かつては毎日、自分の髪を束ねていた。
他人の髪を結うのは初めてだが、鏡に頼らず全体を確認できる分、自分の髪を結うよりも満足のいく出来となった。
自分では試したことのない髪型だが、問題なく纏まっている。
「……殿下、本当に器用ですね」
「私自身、納得のいく出来上がりだ」
「妹君、お可愛らしいですよ」
「え……?」
今まで誰かに髪を結ってもらったことが、有るのか無いのか。
妹はぼんやりとした顔で、未だ自分に何が起こっていたのか理解していないらしい。
ダリウス曰く「貴人の側仕えを務める者の義務」とやらで持ち歩いているらしい鏡が、妹の幼い顔をはっきりと映し出した。
「え?」
自分の髪がどうなっているのか、鏡を見て気付いたらしい。
妹の髪はサイドから編み込みにして後ろに集め、白絹のハンカチでハーフアップに纏めている。
鏡で前から見ただけでは、サイドの編み込みくらいしか見えまい。
だがそれで、妹にとっては充分に衝撃であったらしい。
私の膝に乗ったまま、今までとは別の理由でそわそわと身を揺らす。
小さな手が、確認するように自分の頭部へと向けられ……
だが、ハッとしたように引かれた。
自分の手で触っても良いのか、と。
触って崩してしまえば、怒られるのではないかと。
一瞬、妹の表情に乏しい顔に不安が過ぎる。
確認するように、妹は私を見上げた。
そんな妹に、私は頷きで返す。
「自分の身体だ。好きに扱いなさい」
「……うん」
そろり、と恐る恐る妹の手は自身の髪に触れた。
髪型を崩すことのないよう、慎重に。丁寧に。
妹の指は、髪の編目を一つ一つ辿って行く。
やがて後頭部へと回った指が、ハンカチを摘まんでそっと持ち上げた。
鏡の中に、ハンカチの端に刺繍されていた紋章が広がる。
不本意ながら私や妹の帰属する家……金糸で刺された王家の紋章。
ふと、思う。
王家の紋が入った品の、王族以外の無断所持は禁じられている。
『ハンナさん』もそれを知ってか、妹の持ち物で王家の紋が入ったモノはあまり荒らされていなかった。
紋章の意味など、幼く知識に乏しい妹は知らないだろう。
だが経験として、『誰かに取られない物の印』と記憶している可能性はある。
……何かを与えられる度、誰かに奪われる生活だ。
誰かに奪われることが前提では、恐らく『自分のモノ』という意識すら薄いだろう。
物を与え、それがミンティシアだけの物であることを示すのに……当面は、忌々しいが王家の紋を使った方が良いかもしれない。
歪んで育てられた妹の情緒を育てる上で、慮るべき物事は多い。
どうしてもかつての自分が重なってしまうが、同一視して妹の心を蔑ろにすることのないように気をつけねば。
私は自分の考えに没頭し、気付いていなかった。
未だ妹を、自分の膝の上に乗せたままであることを。
考え込む私を見上げ、妹はやはりそわそわと落ち着かない様子であった。
暫し、逡巡した後で。
妹が、私をひたと見上げる。
その段階になって、私は妹を膝に乗せたままだと気付いたのだが。
妹は自分の座る位置についてではなく、私の金釦を指さし尋ねた。
「おにいさま、これ、いっしょ? ミンティシアと、いっしょ?」
「ん? ああ……紋章のことか」
妹が気にしている金釦には、ハンカチと同じ王家の紋章が刻まれていた。
私は妹に頷きかける。
「そうだな。ミンティシアの髪を結んでいるハンカチとお揃いだ」
「そう……おにいさま、ミンティシアといっしょ、ね?」
『いっしょ』という単語を、妹が繰り返す。
どうやら『お揃い』がお気に入りらしいと……私と『一緒』であることが、嬉しいのだと気付いたのは後日のこと。
ただ、この時は何だか嬉しそうだとしか思わずにいた。
「ああ、私と一緒だ。これからも、ずっと」
「……ほんと?」
「ああ。ミンティシアが私の傍にいる限りは」
そう告げて、私は妹の頭に手を置いた。
こんなことは、あまりしたことがない。
誰かの頭を撫でることなんて。
不思議と僅かな緊張が走り、手は慎重に動く。
妹は殊更に戸惑った様子で、私を凝視した。
「……お、おにぃ、さま?」
「ん? 嫌だったか」
「いやじゃ、ないよ?」
「そうか」
頭を撫でられた経験に乏しいのだろう。
そわそわと身じろぐ妹の体は、やはり軽い。
膝の上で絶えず動かれていても、全く気にならない程に。