午後十時
例の“東京大震災”から五年の歳月が経過した晩の事。
数時間前に対非科学者ランクDになったばかりの高校二年生、三下雪斗は、自然と口角の端を吊り上げてくる達成感を抱えながら家路に着いていた。
早い者なら彼と同じ歳の頃でCを冠している人間も珍しくはないのだが、それでも湧き上がってくる高揚を抑えきれずにいるのは単に、とある約束の件が由来しての事であろう。
“頑張ったらご褒美をあげる”。
その甘美な期待を醸す約束を嘯いた女性を語る上で外してならないのは、雪斗の複雑な家族構成である。
彼が十の時。
雪斗と当時八歳だった妹の花帆を連れた母親が再婚した相手。その側にも連れ子が二人いた。
雪斗よりも三つ上の蜃佳、その妹の霧菜。二人は二卵性の双子であり、外見は似通った部位もちらほらと見受けられるのだが、内見の方は正が付く程に対角線上の両端にそれぞれ位置している。
内と外を一言で表すと……内気な蜃佳、奔放な霧菜。ロングが蜃佳、セミロングが霧菜である。
そして現在、住民票に表記される三下家は四人家族。母親と父親は五年前の東京大震災の際に命を落としているのである。
それを踏まえた上で話を戻すと、件の約束を交わした相手とは他でもない霧菜であった。
今朝方に家を出て行く義理の弟へ、寝ぐせ頭の霧菜が挑発的な口調で囁いたのである。思春期真っ只中の雪斗にとって、三つ上の現役女子大生からの誘いは未知との遭遇に等しい。故に在らぬ期待に胸を膨らませるのも無理はない話。
街灯も疎らになった高架下の薄暗い街路に差し掛かった雪斗の心拍が早まる。
未だ自宅までの距離は開いているもののここまで来れば後は、この道なりを行った先に褒美は待っているだ。足取りは自然と鼓動に応じて早くなり始めるのも常。
しかしながら、次に瞬いた直後にその足取りは急停止する。
「え?」
ふと。傍に続くフェンスの上に立つ、黒装束の長い髪の女性が目に止まったのだ。
靡く白を白銀に魅せるのは街灯ではなく月光。その月の醸す色味のような肌。ゆっくりと雪斗の方へ向けられる瞳は赤。
浮世離れした麗人がそこに佇んでいたのだった。
☆
急げ。とにかく急げ、手遅れになる前に。
逸った気持ちとは裏腹にふわりふわり、と民家の屋根を飛び跳ねて渡っている少女が一人。
黒い丸帽子の上に手を当てがう彼女の名は月並蓮祢。職業は高校三年生兼“魔女”である。
至って普通の女子高生とは思えない肩書きを持つ彼女だが。背丈は全国平均ぴったり、趣味は恋愛小説の読書と流行りの音楽を聴くこと、など。肩書き以外の事に関しては絵に描いたような普通の十七歳である。
そんな彼女が焦りを感じている事柄はふたつ程。
一、友人の暴走。
二、暴走に一般人が巻き込まれてしまう。
共に、一人の友人に端を発しての事。
その友人も彼女と同じく女子高校生兼魔女の奇異な肩書きを引っ提げている仲間なのだ。差異といえば、蓮祢が事勿れの思想を良しとしているのに対し、友人の方は“事勿れば喚起する”の思想を持ち合わせている点であろう。
真逆の考えとは、ひとつ所に共存すれば打ち消し合える物であるが、ひとたび散り散りになった途端。一方の抑えを排した過激派が何を仕出かすのか、予想の範疇を著しく逸するのは必然。
故に事勿れ主義の蓮祢は焦燥にかまけ、他所様の家々の屋根を闊歩している。平時であればこんな移動手段を取るような娘ではない。蓮祢という少女はそういった人間なのである。
非常識な存在で在りながらその実、誰よりも一般常識を弁えんとする。殊勝にして決定的な箇所に矛盾を孕んだ女子高生なのだ。
高架を滑走する電車から身を隠す為、家と家との間に潜んでいた彼女が再び星空の元へ再帰した時。眼下に見得る光景に息を呑んだ。
手首の先まで隠すレース状の黒手袋をはめ込んだ両手で顔を覆うと、うわ言のように一言。
「そんな」
直視せんとして遮った筈の痩身な指と指との狭間に、赤黒い水溜りの上で這う、左の肩口から先を失った男性の姿が映し出される。次にそんな彼女に追い討ちを掛けたのは、その様を一瞥したまま身動ぎひとつ見せない友人の姿。
――間に合わなかった。
膝から崩れるようにして屋根の上に両手を着く蓮祢は、心の内に生じた絶望をそう謳った。
☆
この男は馬鹿なのか。
読んで字の如くレンガ調の地面に血の池を作った男を見下ろしながら、最上黒恵は呆然としていた。
折には自身の魔女という肩書きを思って、救えんな、と嘲笑してみせる事もある彼女だが。先刻にこの男がとった行動を思い返すと、そんな肩書き以上に救えない人間だ、と腹を抱えて嘲笑ってしまいそうになる。
「勇敢と蛮勇とでは大きな差異があるというのに……やはり救いようのない馬鹿か阿呆の類だな、この男は」
しかし、と黒恵はひとり語りを続ける。
「私を案じての事だったな……さて、どうするか。蓮祢を待つのが最善だけど、このままじゃ数分と保たないだろうし」
どうしたものか、と腕組みをした時の事。
「クロエの馬鹿っ!」
どこからともなく急降下して来たコスプレ娘が、彼女の細っそりとした身体を容易く弾き飛ばしたのだ。高速道路を疾走する四トン車にでも衝突されたかの如き衝撃を受けた黒恵は、フェンスを大きく歪めるに至った。
しかし本来ならば、肋骨どころか全身の骨が粉微塵に砕け散ても何らおかしくはない衝突事故に遭ったというのに、変形したフェンスをハンモックのようにして寝そべる黒恵は、さぞ呆れ返った声音を伴って平然と起き上がる。
「いきなり、どうしたのよ」
「どーしたじゃないよっ、一般の人をこんな風にして、クロエは何を考えてるのっ?」
「えーっと、何って……どうして蓮祢が怒ってるのか、かな」
今は、そう付け足して言い切る。
するとコスプレ娘……もとい蓮祢は、顔の紅潮だけでは止まらずに涙まで流し始める。
「どうして、じゃないよ……」
遂にはへたり込んでしまう始末。
目の前の人間が何を思い違いしているのかを何となく察してきた黒恵は、それを訂正するよりも優先するべき事柄が転がっているのを思い出す。
「忙しそうなとこ悪いけど。もう時間も無いし、早いところその馬鹿を治してやってくれない?」
「ほえ?」
間の抜けた声と、見開かれるた翡翠の目が向けられてくる。
嗚呼、もう面倒臭い。内で叫ぶ。
「取り敢えず立て」
「え?」
「いいからっ」
「う、うん」
起き上がる。
「そしたら男の方を向け」
「うん」
指示通りに血の池へ向き直る。
「次に右手を前に」
「うん」
「時間変異」
「あ……まだ生きてるのっ?」
「この瞬間に息絶えるかもね」
「わわわわっ?!」
ようやく黒恵の思考を察したようで、蓮祢は慌てた様子もそこそこに、時間変異の準備に入る。
何かを呟くと、彼女と血の池の下に淡い桜色の魔法陣が出現し始めた。
弧を描いた桜色は次に、長針と短針とを描く。光輝が一層に激しくなると、描かれた針たちは忙しなく円の中を回り始める。
「相変わらず、綺麗なモノよね」
蓮祢の魔法が発動したのを見届けると黒恵は再び、硬質で寝心地の最悪なハンモックに飛び込みようにして背を預けた。
カチカチカチ……やや早足ながら小気味い針たちの足音を子守唄に見立て、彼女はそのまま目を瞑った。