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染まる海、染める碧  作者: 泉水優飛
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染まる海、染める碧 5章

     五、


 労働力を得たアイディンは、晴れて精製所をスタートさせた。解放した元奴隷達は、アイディン達の期待通りかそれ以上に、皆勤勉に働いた。彼らは現場管理者に指名されたザイードの才覚で、各々別の作業工程に割り振られた。紺灰石を緋翠に加工する者、金具となる金属を磨き上げる者、緋翠とその金具を組み合わせる者、出来上がった商品を検品する者、一つ一つを傷つかないように袋に詰める者、といったように大きな一つの流れで作業をするようになったのだ。これは、一人一人が一から作るより、余程効率の良いやり方だった。この分だと、作業に慣れれば、予定していた以上の数を作り出すことができるようになるだろう。出来上がった商品は満を持して店頭に置いてみたところ、どれも評判は上々のようだった。アイディンは確かな手ごたえを感じていた。

 世間では、どこぞの第四王子様が北方の国々に攻め入ったと話題になっていたが、アイディン達には関係のないことだった。その遠征費用の調達のために、税収が引き上げられるらしい噂が真実にならないならば、歯牙にもかけない出来事の一つだった。



「社長!」

 ちょうど近くまで来ていたアイディンが精製所に顔を出したとき、高い声でそう呼びとめられた。

「おい、なんだその呼び方は」

 振り向いた先にいた声の主は解放奴隷の子供だった。栄養不足が祟って外見では判断しづらいが、十二歳程の少年だそうだ。名を確か、モーヴといったか。少々落ち着きはないが、活発な少年だと聞いている。

「だって、「アイディン様」って呼ばれるの嫌なんだろう? だからオイラ、なんて呼んだらいいかザイードさんに相談したんだ。そしたら「社長」がいいんじゃないかって」

「そ、そうか」

 自身と天真爛漫な子供との相性は良くないかもしれない。こう無邪気に笑いかけられると、ドゥーダやエルヴァンに接するように素っ気無く振舞うこともできない。

「だからオイラは社長って呼ぶことにしたんだ!」

「モーヴ、君のお父さんが探していたよ。君の靴を買いに行くんだって」

「ザイードさん! やった! ありがとう。オイラ行ってくるね。社長! じゃあまたね!」

 モーヴはそう言って、現れたときと同じように騒がしく去っていった。ああいうところはシェナイに似ているかもしれない。シェナイよりも小型の台風のようだ。

 残されたアイディンは、入れ替わりにやってきたザイードにこの行き場のない感情をぶつけることにした。立ったまま腕を組んで、目線で彼を逃がさないようにする。

「ザイード・・・」

「仕方がないではありませんか。ご主人様とも旦那様とも呼ばせて頂けないんですから」

 確かに、そういった呼び名で己を呼ぶな、と仕事初日にアイディンは言った。自分はお前達の主人になったつもりはないのだと。しかし、まさかこのような呼ばれ方をされるとは思ってもみなかった。

「始めにモーヴがそう呼び出したら、他の者にもそれが移ってしまいましてね。諦めて下さい。あ、ご安心を、僕は今まで通りアイディン殿と呼ばせて頂きますから」

 食えない奴。ザイードは聡明なだけでなく、なかなかに強かな男だった。

「しかし、どこから社長など」

「僕達は、あなたを頂点とした大きな組織の一員となったのです。その組織の名を会社とした場合、その代表のあなたは社長でしょう? それをモーヴに話してやったら、どうもそれが気に入ったらしくて」

「お前はまた先生をやっているのか」

「えぇ。僕達は今やっと人間らしい生活を手に入れようとしています。その上で知識は必要不可欠でしょう? 僭越ながら、僕がその教鞭を取っています」

「仕事終わりにか?」

「決まった時間は今のところありませんので、空いた時間に少しずつ」

「工程が比較的空く箇所を報告しろ。その時間を当てていい。お前にも特別に手当てを出す」

「ありがとうございます。けれど、手当ては結構ですよ」

「黙って受け取っておけ。俺はアイツらに人間としての権利を守ると約束したのだ。お前が言ったんだぞ、知識は必要不可欠だと。ならお前に支払う手当ては必要経費だ」

「・・・分かりました。では、アイディン殿が今考えられている半分の額を頂きます」

「おい」

「これは僕の感謝の形です。アイディン殿、僕達はたとえあなたにそんな気がなかったとしても、本当に感謝しているのです。ごく自然に当たり前に、あなたの力になりたいと考えているのです。あなたが必要としていることを、提供できる自分を誇らしいとすら思うのです。これは僕からあなたに返せる数少ないものの一つです。どうかお受け取り下さい」

「・・・・・・」

 ザイードの瞳に、どこかで見た色が宿っていた。それをアイディンは嫌になるぐらいに見飽きている。あれだ、弟子が梃子でも動かないときと同じ色だ。この色をした人物に勝てた例はアイディンにはない。

「・・・分かった。ただし、無理はするなよ。あと、俺の経理の手伝いも忘れるな」

「もちろんです」

 結果、アイディンの負けは決定事項だった。しかしアイディンとて、簡単に引いたわけではない。心の中で、ザイードに気づかれない程度に元の賃金をその分上げておいてやることに決める。

「ザイード、それで、その足の飾りはなんだ」

「あぁ、これですか?」

 奴隷から解放されたザイードの左足首には、見慣れた物が着けられている。あれは、いつかエルヴァンがザイードにやった腕輪だ。

「何故わざわざ足に着ける。お前はもう自由なんだぞ」

 それともお前には被虐的な趣味でもあったのか? もしそうなら、付き合い方を考えねばならない。

「そんな卑屈な気持ちで着けているのではありませんよ。僕は、きっと奴隷だったからこそあなた達に会えた。これは所有されている証ではありません。僕が新しく生まれ変わった証なのです」

「・・・・・・」

「僕は僕の物です。今は自信を持ってそう言えます。だからアイディン殿、心配しないで下さい」

 それにほら、僕痩せすぎで腕だと抜けてしまうんですよ。足首に着けるのでちょうどいいんです。そう笑った顔に嘘はないようだった。ならザイードの好きにさせてやっていいだろう。

 そのときのアイディンはまだ知らなかった。他の従業員達がザイードを真似て、初任給でお揃いの足輪(正確には腕輪なのだが)を購入しそれを身に着けてしまうことを。



 何はともあれ、緋翠の売れ行きは好調だった。それに弟子は喜びつつも、このあまりの順調さに疑問を隠しきれないようだった。確かに良い物を提供している自信はある。けれど、何故すでに街の者が緋翠のことを知っていたかのような反応を示すのだろう。ちょうど手が空いたところだったアイディンは、そのカラクリを説明してやることにする。

「デモンストレーション効果というんだ」

「デモンストレーション効果?」

 見世物小屋のオウムよろしくエルヴァンが繰り返す。

「緋翠の試作品をお前やシェナイにやっただろう? お前達はそれを片時も離さず身に着けていたはずだ。お前達のように人目を引く人物が身に着けている物だ。自分も身に着けたいと思う人間が出ても不思議ではない」

「なるほど」

 小難しく言ってしまえば、他人や、家族や友人などの自分に近しい者の消費行動は、自分自身の消費行動にも大きく影響を与えているということである。周囲にいる憧れを受ける人物の持っている物を、自分も欲しいと思うことは至極当然なのだ。

 アイディンは商品が店頭に並ぶずっと前から、その下準備として広告を打ってきていたのだ。その効果が目に見えて、やっとエルヴァンは理解したらしい。

「いい商品を提供するのももちろん重要だ。だが、情報戦を侮ってはいけない」

「うむ」

「商品に慢心するな。世間にまずその存在を知られなければ、そのスタート地点にも並べやしない」

「分かった」

 頷くエルヴァンは真剣そのものの顔をしている。この様子ならいけそうだ。

「だからエルヴァン、俺が今から言う仕事は、お前にしかできない仕事だ」

「なんだ?」

「店舗にはすでに話を通してある。お前は一日、店頭で緋翠の販売を手伝え」

 見目麗しい店員が売る装飾品。その装飾品を身に着けた店員。それは相乗効果となって、更に緋翠の売れ行きは伸びるだろう。適材適所が一番だ。

「私一人でか?」

「もちろん、他の店員もいる。都合がつけばシェナイにも手伝ってもらえばいい。アイツには俺が頼むよりお前が頼んだ方が確実だろう」

「姉上か・・・」

 不思議なことに、ここでエルヴァンが言いよどむ。一人では不安だとしてもシェナイの名を出せば軽く了承すると思っていたので、エルヴァンのその反応はとても意外だった。

「シェナイがどうかしたのか?」

「いや、ここ最近、姿を見ていないのでな。もちろん、姉上には姉上の事情があるのだろうし、あまり心配はしていないが」

「・・・・・・」

 言われてみれば、アイディンもシェナイの姿をしばらく見ていない。ここカレンデュラに居を構えるアイディンやエルヴァン、ドゥーダと違って、彼女は用事や呼び出しがあればこの街に訪れている。呼び出しと言っても、実際エルヴァンが初めて彼女に便りを出したあの一回きりで、後はいつも必要とするときには当たり前に彼女はここにいた。

 記憶を辿る。最後に彼女を見たのは、二週間前、ルミージェ卿の屋敷から奴隷達を解放した帰り道ではなかったか。危ないから一人にはなるな、と忠告して別れたのが最後?

「おい、お前がシェナイの姿を見たのはいつが最後だ?」

 まさかとは思うが、実際何かに巻き込まれて最悪の事態になっているのではないだろうな。目まぐるしく変わる毎日に、それを意識することを忘れていた。それぐらいに、ルミージェの報復と思われる出来事が起こらなかったのだ。

「十日ほど前だな。私を抱き締めるだけ抱き締めて、すぐに帰ってしまわれたので、ろくに話もできていないが」

「っ、十日前に会っているんだな?」

「あぁ」

 よかった。小さく息を吐く。とりあえず、あの別れた夜に彼女が何か危険な目に遭ったわけではないのが分かった。エルヴァンに対するスキンシップはいつも過剰すぎるほど過剰だから、たまたま忙しい時期が被ってしまっただけなんだろう。

「おーい、邪魔するぜー」

 そのとき、戸口からドゥーダの声がした。そして間をおかずに、ドゥーダ自身の姿が室内に現れる。ドカッと大きな音を立てて地べたに座る。見るからに汗だくだった。

「あちー、今日暑すぎるだろう」

「ドゥーダ殿、今冷たいものを持ってこよう」

「エルヴァン、わりぃな」

「気にするな。少し待っててくれ」

 エルヴァンはパタパタと奥へ去っていき、部屋には二人が残される。今日は随分気温が高いが、ドゥーダが来たことでさらに室内の体感温度が上がったような気がする。こういうとき、ドゥーダのデカイ図体は視覚的圧迫感がある。

「今日は何の用だ? 店を休憩所にするな」

「冷てーこと言うなよ。後でシェナイも来るぜ」

 シェナイが?

「おい、ドゥーダ。お前シェナイに会ったのか?」

「おぅ。市場の入り口で会ったぜ」

 噂をするとその本人が姿を現すと聞いたことがあるが、シェナイも例外ではないらしい。

「アイツは、一回緋翠が店に並んでんのを直に見てみたいったんで、すぐに別れたけどな」

「そうか」

 とにかく、いらぬ心配だったらしいことが分かった。わずかに残るこの不安も、彼女の顔を見ることができれば解消されるだろう。

 アイディンがそう思っていたら案の定だ。聞き慣れた足音が近付いてくる。

「エルヴァンー、私の可愛いエルヴァンー! 久しぶりー!!」

 そして、室内の体感温度は更に増した。

 シェナイにも冷たいお茶を出し、一息ついたところでエルヴァンは先程話していたことを切り出した。

「店頭で販売の手伝い? 私が?」

「そうだ。私一人ではやはり不安で・・・。姉上」

 お願いできないだろうか? エルヴァンが傍らの姉の様子を伺う。

「もちろんいいわよ。エルヴァンの頼みですもの」

 そう笑った顔が、何故だかいつものシェナイじゃないように見えた。



 それからしばらくして、アイディンに一通の手紙が届いた。その差出人を見た途端、アイディンはエルヴァンが今まで見たこともない顔をした。

「・・・ア、アイディン殿。何か良くない報せなのか・・・?」

 さすがのエルヴァンも引き気味に問いかける。それぐらい、師匠の顔は苦い顔だった。

「いや・・・、お前が心配するようなことではない」

 ただ、一生届くことはないと思っていた相手からの手紙だっただけだ。

 封を切って中を確かめる。筆跡もサインも間違いない。十年もの間なんの音沙汰もなかったのに今更なんだ? 何を企んでいる? とてもじゃないが、好意的に見ることはできない。それぐらいに、自分と手紙の主との関係は悪化している。

「誰からの便りだったのだ?」

「・・・・・・」

「いや、アイディン殿が言いたくないのであれば無理に聞くことはしない。立ち入ってしまってすまなかった」

 アイディンの沈黙を聞いてはいけないことだと判断したのだろう。変に気を遣われた方がやりにくい。だから端的に答えてやる。

「兄だ」

「兄上?」

 頷いて、それきりアイディンは手紙の文面をなぞる。読む価値すらない、当たり障りのない内容と思っていた文面の最後は、見過ごせない形で終わっていた。ある人物の危篤を知らせるその一文は、兄の手紙を不審に思う以上にアイディンには意味があった。

 その夕方、店を訪れたシェナイが見つけたのは、奥の部屋で心ここにあらずのまま動かないアイディンだった。

「どうしたの、あれ」

「あぁ姉上。アイディン殿の兄上から手紙が届いたのだ」

「アイツに兄ちゃんなんかいたのか」

「ドゥーダ殿も知らなかったのだな」

「あぁ。アイツ自分のことはさっぱり話さねぇからな」

「へぇ・・・」

 一人で考え込んでいるのか、シェナイの訪問に気づいた様子はない。その手には、例の手紙が握られている。こっそり後ろからそれを覗き見しようとして、やはりそれは行儀が悪いなと途中で諦めて素直に声をかける。

「アイディン」

「シェナイか」

 顔だけでシェナイを振り向く。アイディンは普段の姿から想像できないぐらいに歯切れが悪かった。

「死に顔の再会じゃなくなりそうね?」

 その一言だけで、シェナイが手紙の件をすでに知っていることが分かったのだろう。分かりやすくアイディンの表情が崩れる。

「・・・まだ帰るかは決めていない」

「会うべきよ」

「シェナイ?」

「会えるなら、会っておくべきよ」

 シェナイは有無を言わせない空気を醸し出していた。アイディンはそんな彼女を、何かを弔ったような、そんな瞳をしていると思った。空の青の瞳は、彼女に最近何か思うことがあったことを表していた。

「けれど意外だったわ」

「何がだ?」

「アイディンが今悩んでいること自体よ。てっきり無視するとばかり」

「・・・できればそうしている」

「何が書いてあったの?」

 無言で手紙を渡す。知られて困る情報は、彼女に関してはない。それぐらいには信用している。

「最後の文だ」

「・・・アブドゥラフマン? 誰?」

「俺の育ての親のようなものだ」

「何それ。会いに行きなさいよ。当たり前でしょ?」

 シェナイの声色が真剣みを帯びて強くなる。彼女なら当たり前にそう言うと思っていた。自分はそう言われたかったのだろうか?

「おそらく、罠だ」

「罠?」

「今更、あの兄が親切に俺にそんなことを教えてくるはずがない」

「それでも」

 今日のシェナイはいつも以上に強引だった。

「やっぱり帰るべきだわ。後悔しないためにも」

「・・・お前は、後悔したのか」

 しまった。瞬間表情を変えたシェナイを見て、言うべきことではなかったと悟る。仮に今彼女に泣かれてしまえば、とても困る。隣の部屋にはエルヴァンやドゥーダもいるのだ。それ以上に、アイディン自身彼女の涙は見たくない。

「後悔しないために、・・・そうしたのよ」

 けれど、シェナイは強い女性だった。凛とした表情を浮かべ、アイディンを真っ直ぐに見据えてそう答えた。そんな彼女に、アイディンは何も言えなかった。


 らしくない。もともとお節介の気はあったが、あそこまで強引なのは彼女らしくない。今思えば、笑う顔だってどこかぎこちなく見える。

 そして、それと同じぐらいに自分もらしくないことは百も承知だが、一度気づいてしまったからには無視することもできない。だから、今から己が行うことは何も不自然なことではないはずだ。アイディンは自分にそう言い聞かせていた。

「シェナイ」

「なに?」

「やる」

 ずい、と小さな袋を差し出す。不思議な顔をしつつも、シェナイはそれを素直に受け取る。

「砂糖菓子・・・?」

「モーヴがお裾分けだとか言って俺に寄越した。だが、俺は甘いものを食わん。無駄にするのも勿体ない。お前が食え」

 あらかじめ用意しておいた言い訳を、さもそれが正解のように告げる。アイディンにモーヴからお裾分けをもらった事実などない。

「どうしたの、あなたらしくもない」

「それは」

 お前の方だろう。

 お前、それで気づかれていないつもりなのか? その力ない笑顔で? その瞳の色で? 本当に?

 そう言いかけて止める。おそらく、シェナイは触れられたくないはずだ。そのために、不自然だろうがなんだろうが普段通りを装おうとしているのだから。

「・・・・・・」

 結果アイディンは、何も言えずに黙り込むしかなくなってしまう。

「・・・仕方がないわね。もらってあげる。私に感謝しなさいよね」

「あぁ、助かる」

「アイディン」

「ん?」

「ありがとう」

「俺の方こそ礼を言う」

「何に?」

「屋敷に、一度顔を出してみようと思う。その背中を押してくれたことにだ」

「素直じゃない奴ね」

「ふん」

 それ以上、シェナイの顔を見ていられなくて足早にその場を去る。顔が熱い。やはり慣れないことはするものではない。自分は気づかぬうちにあの弟子に似て、随分と甘くなってしまったようだった。

 シェナイに何があったかアイディンには検討もつかないが、少しでも早く元の彼女に戻るといい。彼女は騒がしいぐらい明るいのでちょうどいいのだ。

 残されたシェナイは思う。ジェミル()の死を一人隠匿した自分は、人の生き死にに敏感になってしまっているのだろう。あの夜の自分の選択を後悔はしていない。けれど、何も感じないわけではないのだ。

 手紙を見せられた自分が強引だったことなど、己が一番分かっている。人をよく見ているアイディンがそれに疑問を感じないはずない。

「ありがとう・・・」

 気づかない振りをしてくれたアイディンの遠ざかっていく背中に、シェナイはもう一度そう呟いていた。



 思い立ったなら少しでも早い方がいい。シェナイはそう言った。

「エルヴァン、俺はしばらくここを離れるからな」

「それはかまわないが、どうかしたのか? アイディン殿」

 そう言うエルヴァンに手紙を渡してやる。自分が読んでしまってもいいのか? と瞳は語っていたが、本当に駄目ならばまずアイディンは人前で封を開けたりしない。目線で読むように促してやると、やはり差出人のところでエルヴァンの目が止まる。正確には、その隣に並ぶ印のところでだが。あのときアイディンに手紙を見せられたシェナイは触れないでいてくれたが、エルヴァンは逆に踏み込んでくるらしい。

「アイディン殿、あの」

「なんだ」

「私の勘違いでなければ、差出人のこの印は、王都イストレージャで有名な貴族印ではないだろうか」

「生憎、お前の勘違いではない」

 いっそのことエルヴァンの勘違いでもいいので、間違いだと思いたかった。

「えと、ではこれはその貴族からの手紙で、その者がアイディン殿の兄上? あれ、ではアイディン殿は」

「はっきり言っていいぞ」

「アイディン殿は貴族なのか?」

 おい、はっきり言いすぎだ。

「忌々しいことにな」

 憎々しげにそう答える。

 カレンデュラでその事実を知っている者はいない。アイディンは家を出たときに己の身分も捨て、ここカレンデュラにやって来たのだ。まぁ今は、手紙を読んだシェナイとエルヴァンが知っているのだが。

 アイディンの貴族や王族などの上流階級、ひいては支配者階級嫌いは有名な話だ。その自分が、実は有名貴族の次男坊だなんて、なんとも皮肉な話だと思う。

 今回の手紙の主の五歳上の兄ドルキはそんなアイディンの嫌いな最たるもので、何を隠そうアイディンの支配者階級嫌いの元凶でもあり、家を出た理由でもある。

 エルヴァンがその手紙を読むのは一瞬で済んだ。シェナイのときと同じように、アイディンが理由を話したからである。

「その、アブドゥラフマンという男を、俺は放置することができない。嘘ならその方がいいが、嘘でないなら一目会いたい。だから、俺は一度屋敷に顔を出すことにした」



 カレンデュラから王都イストレージャは、馬を走らせて半日ぐらいの場所に位置している。長居をする気がなかったアイディンは、ほぼ着の身着のままで馬に跨っていた。熱された空気が頬に当たる。この道を辿るのも随分久しぶりだ。視界の先に、もう二度と戻らないと思っていた屋敷が見えてきていた。

 十年振りに足を踏み入れた生家は、その年月を感じさせずにアイディンの帰りを出迎えた。相変わらず、広いだけで冷たい屋敷だった。

「アイディン様。お帰りなさいませ」

 若い男が空気のように傍に控える。初めて見る顔だった。大方、アイディンが家を出た後に新しく雇われた者なのだろう。

「ドルキ様より伺っております。お見えになられましたら、お部屋でお待ち頂くように、と」

「アブドゥラフマンはどうした」

 己を出迎えたのがあの老執事ではないことが、兄の手紙の信憑性を増している気がした。アイディンは苦々しく問う。

「その質問にはお答えできません。私はドルキ様がおっしゃった通りに、お部屋でお待ち頂くよう務めるのみでございます」

「おい」

「私はドルキ様の命にしか従いません。さ、どうかこちらのお部屋へ」

 梃子でも話す気配のないその男に根負けして、ひとまず後について歩く。通された先は食事をする部屋だった。

「それでは、ドルキ様がいらっしゃるまで、こちらでお待ち下さい」

 そうお辞儀して、その男は去っていった。ガチャリ、とご丁寧に外から扉の鍵を閉めた音が聞こえた。

 アイディンがイライラ待っていると、しばらくして扉が開いた。一人の男が入ってくる。横に流した髪が特徴的な男だった。その顔は、憎らしいほどに己と似通っている。二人を知らぬ者にも、一発で血の繋がりを見破られてしまうだろう。そして男は、大げさな仕草で笑いかけてきた。

「アイディン」

「ドルキ・・・」

「お前、まだ兄に対してそのような口を利いているのか」

「俺がお前をどう呼ぼうと俺の勝手だ。それより、あの手紙は何だ。何故、アブドゥラフマンがいない?」

「兄が弟に会いたいと思うことの何が疑問なのだ?」

「そんな言葉が信じられるとでも思っているのか?」

 自分達はそんな、家族の情で絆されるような関係性では決してない。それはドルキも重々承知のはずだ。そんな耳障りの良い嘘よりも、反吐が出るような本音が、この目の前の兄にはあるはずなのだ。

「ふふふふ。まぁ、せっかく帰って来たのだ。食事ぐらい一緒にしてもよかろう?」

「回りくどいことをするのはやめろ」

 目的は、何だ。いつまでこの茶番を続ける気だ。

「席につけ、アイディン」

 しぶしぶ、ドルキから少し離れた椅子に腰掛ける。視界から完全に外れる位置には座らなかった。

「話は簡単だ。お前の資財全て、俺に寄越せ」

「何?」

「最近、何か新しい事業を起こして随分儲けているんだろう? そうだな、てっとり早くその権利を寄越すのでもいいぞ」

「ふざけるな」

「俺は何もふざけてなどいない。弟の金は兄の金だ。お前、よもや家督から逃げられたとでも思っているのではないだろうな。今は俺がお前を見逃してやっているのに過ぎない。本来お前は、この兄のために尽力せねばならない立場だということを忘れるな」

 さも当たり前にそう傲慢に言い放つ男に、ある種の感動すら覚えた。全く成長していない。何だコイツは。これが血の分けた兄なのか。その理論に何一つ共感することができない。

 ドルキの言う通り、緋翠事業は確かに怖いぐらいに順調だ。当初立てていた目標以上の利益を得るのも時間の問題ではある。それをどこからかこの兄は聞きつけたのだ。

「話はそれだけか」

「まぁ待て。何もお前の金を無駄なことに使おうとしているのではないぞ。これはルスタ国のためなのだ」

「何?」

「お前も、ティメル第四王子殿が北方を攻めておられるのぐらいは知っているだろう? 遠征には莫大な資金がかかる。光栄にも、俺はそのティメル殿下の付き人にその提供を打診されたのだ」

 それの何が光栄か。しかし、ドルキは弱者を徹底的に排斥し、強者に頭を垂れる人間だった。

「・・・俺の金は俺の物だ。使い道は俺が決める。戦争などに使われてたまるものか」

「何故理解できないのだ。これはとても名誉なことなのだぞ。国を大きくするために使って頂けるのだ」

「そんなことで大きくなる国になど興味はない」

 何故こんなにも話が通じないのだろう。価値観が違いすぎて、今話しているこの時間が勿体ない。それに、ドルキの本心はお国のためなんかではない。その淀んだ瞳が、この資金提供を足がかりに恩を売り、王族すら利用しようとする欲に塗れていた。そこまで腐ったか。

 間違いなく、ドルキの目的は今の話だ。むざむざと呼び出されて情けない話だが、ならばアブドゥラフマンの件はただの餌だろう。そこは少し安心する。

「俺をこんなくだらない話をするために呼び出したのか。それこそ、こんな嘘の手紙をしたためてまで」

「嘘などと言うなよ。こうでもせねば、お前はこの屋敷に寄り付かないだろう? お前はアブドゥラフマンにだけは心を開いていたからな」

「ふざけるな」

「ふざけてなどいない」

 これ以上話していても無駄だ。平行線だ。兄と自分が交わることはやはりない。そう思い、アイディンは一方的に席を立つ。

「どこに行くアイディン」

「俺は帰らせてもらう。こんな時間を過ごす暇は俺にはない」

「・・・あくまで、資金提供をする気はないと?」

「当たり前だ」

「・・・仕方がない」

 ドルキはそう言って、両の手を一度大きく鳴らした。それを合図にして扉が開き、武装した男達が部屋に押し入って来る。先頭には、ここにアイディンを案内した若い男もいた。

「どういうつもりだ」

「何、俺も本当はこんな手使いたくなかったのだがな。だが仕方がない。お前の考えが変わるまで、しばらくこの屋敷に滞在してもらおう」

「・・・クソ」

 滞在なんて言葉を使っているが、実質は監禁と同じだ。アイディンが首を縦に振るまで、解放されることはないだろう。しかし、帯刀した男は軽く数えても十人はいる。ここで変に逆らっても傷を負うだけだと賢明なアイディンには分かってしまう。

「西の角部屋にでも押し込めておけ。見張りも忘れるなよ」

 ドルキの指示に従った男二人に両脇を取られる。後ろ手に乱雑に拘束され、監禁目的にしては随分小奇麗なその部屋にアイディンは通された。

(クソ、人数で迫られてしまえば、どうすることもできなかったな・・・)

 部屋にはベッドや水周りも用意されていた。備え付けの本棚もある。縛られているとは言え、この部屋で過ごす分には不自由しない。食事は小さく開く下扉から一日三回提供されるようだし。いよいよ、長期戦を仕掛けられているのを感じる。

「アイディン様・・・」

 扉の向こうから声がする。子供の頃から聞いてきた声だ。自分が聞き間違えるはずがない。

「アブドゥラフマンか」

「はい。・・・お助けできず申し訳ありません」

「そんなことをしたらお前が斬られるぞ、気にしなくていい」

「はい・・・」

「お前、身体は何ともないんだな?」

「はい、ご心配頂くようなことは何もございません」

「そうか」

 よかった。自分の状況を棚上げして、素直にそう思えた。危篤はドルキの嘘だと判明したし大丈夫だとは思っていたが、本人の口から無事を聞けてよかった。アブドゥラフマンは、アイディンにとってただの老執事ではない。皮肉なことに、今回はそれをドルキに利用されたわけだが。そして、彼をこれ以上利用されるわけにはいかない。

「アブドゥラフマン、お前はこの屋敷を離れろ」

「アイディン様、何を」

「俺が家を出たときに言うべきだった。このままでは、お前はドルキに殺される」

 息を飲む気配を感じた。扉の向こうで否定の言葉が上がる前に畳み掛ける。

「ドルキは知っている。俺にとって、お前が人質の価値があることを。頼む、俺のためだと思ってしばらくでいい。身を隠してくれ。確か郊外に息子夫婦がいただろう、匿ってもらってくれ」

「アイディン様・・・」

「俺を助けると思って頼む。なに、俺は簡単には殺されない。交渉相手を無闇に殺めるほどアイツも馬鹿じゃないだろう」

「アイディン様」

「アブドゥラフマン」

「はい・・・、承知しました」

 長い沈黙が続いて、彼の苦渋に満ちた声が耳に届いた。アブドゥラフマンがアイディンの頼みを断れるはずがないのだ。立場を利用したようなものだが、それは許してほしい。心優しい執事に聞こえないようにそっと息を吐く。

「ありがとう、アブドゥラフマン。できれば、お前の顔が見たかったな」

「こんな皺だらけの顔でよければ、この件が終わった後で好きなだけご覧に入れましょう」

 涙を隠した声色でそう聞こえてから、扉前の気配が消えた。彼のことだ、アイディンの言いつけをきっちりと守ってくれる。心配なんかしていない。


 子供の頃のアイディンの世界は、この大きくて冷たい屋敷と兄のドルキ、執事のアブドゥラフマンしかいなかった。他の貴族の牽制に忙しい両親とは滅多に会うことはなかった。幼少の頃はアイディンも、五歳上の兄を尊敬しいつでも後ろをついて回っていた。その頃の兄は、少し乱暴だったがアイディンが追いつくのを待っていてくれる、優しい子供だったと思う。

 その小さな世界の歯車が狂い始めたのは、ドルキが学術所に通うようになってからだ。それまでは家庭教師に教わっていたドルキにも、同年代の友人が必要だろうと両親が気を回した結果だった。まだ学術所に通う年齢に達していなかったアイディンは、アブドゥラフマンと屋敷でドルキの帰りを待つ生活になった。ドルキが通うことになった学術所は、見栄を張るのが好きな両親が選んだだけあって、貴族や金持ちなどの上流階級の子息達が多く在籍しているところだった。そこで、ドルキは気づいてしまったのである。同じ貴族と言っても、力の差があること、支配する側と支配される側が存在するということ、そして自分が選ばれた側の人間であることを。

 その頃から、ドルキの物言いが変わっていった。嫌味に溢れた笑顔を浮かべるようになった。そうなってしまった兄から見れば、まだ世間を知らない弟など分かりやすく己より弱者で、支配対象だったのだろう。無理難題を言いつけられることが増えた。下の者に対する、兄なりの優しさが失われていった。それがアイディンはとても寂しかった。

 ときどき兄が連れて来る友人と言う名の家来も、アイディンは嫌いだった。彼らは卑屈な笑みを浮かべ、ドルキの機嫌をずっと気にしていた。その態度がよりドルキを助長させ、歪ませていった。アイディンが一番嫌いになった貴族は兄だが、その理由を作った彼らには憎しみの方が勝っていた。結果だけ言えば、兄を学術所に入れた両親の判断は大失敗だったのだ。

 兄の変化に泣く小さなアイディンに、アブドゥラフマンは言った。「ドルキ様のことは爺もとても悲しく思っております。きっと、いつか言葉は届きます。アイディン様、それまで爺がお傍に付いております」

 自分もいつか兄のようになってしまうのかと不安になるアイディンに、アブドゥラフマンはこうも言った。「アイディン様がそれを恐ろしいと思われるなら、貴方は大丈夫です。もしそうなってしまっても、爺が必ずアイディン様をお止めしましょう。ご安心下さい」

 今のアイディンを形成させた根幹はアブドゥラフマンだ。彼がいてくれたから、アイディンは歪むことなく成長することができた。今思えば、ドルキにもきっと止まれる地点はあったのだろう。けれど、兄のその変化に気づいたときには、もう手遅れになってしまっていた。アイディンやアブドゥラフマンがそれを幾ら後悔しても、間に合わなかった事実を変えることはできなかった。

 それは、まだアイディンが無力な子供だった頃の話だ。



 もうすぐ十日ほど経つだろうか。ドルキはここ数日この部屋を訪れる彼の定位置となった立派な椅子に座り、小振りな椅子に座らされたアイディンを見下ろしていた。

「アイディン、お前の考えはまだ変わらないのか?」

 屋敷の一室に幽閉されてから、何度目かの質問だった。何度聞いてきても同じだ。アイディンに、戦争に利用される可能性のある金を兄にくれてやる気など微塵もない。そんなことがまだ分からないとは。

「おいアイディン、何故笑っている」

 自然、口元に笑みを浮かべていたアイディンにドルキの怒りは募る。彼の怒りは単純であった。今、優位に立っているのは間違いなく自分なのだ。何故恐怖に震え、許しを請わないのか理解に苦しむ。彼の貴族として、そして兄としての正しい在り方はそうであったからだ。

「いや・・・、まさか「兄上様」にこんな度胸があったとは思わなかったのでな」

 嘘ではない。アイディン自身、ある程度姑息な罠を仕掛けられるとは思っていたが、ここまで直接的にドルキが武力行使するとは考えていなかった。傲慢なこの兄は、卑怯な手を使うくせに世間体を気にする。アイディンがドルキの弟である以上、肉体の安全は保障されていたはずだったのだ。逆を言えば、ドルキをそうさせてしまう程度に、彼は欲に目が眩んでしまったということだが。

「あまり兄を舐めた口を利くなよ。たかが商人風情が」

 商人風情商人風情うるさいな。それ以外にアイディンを罵倒する言葉が見つからないのか。自分はその馬鹿にする商人風情に金の無心をしているくせに。これを馬鹿正直に言ってしまったら、逆上した兄に何をされるか分からないので、ひとまず口を閉ざす。

「お前も賢明に生きろ。誰の命に従い、誰の命を断るか、お前は今重要な分岐点に立っているんだぞ」

 ドルキの言う分岐点など、アイディンは随分前に踏み外してしまっている。けれどアイディンは自分が間違ったとは露ほども思っていない。

「今一度、挽回の機会をやろう。この兄に力を貸せ。幼少の頃から今までの兄への無礼はそれで許してやってもよい」

 ここで首を縦に振った結果、アイディンの選択でどれほどの人の命が失われるのか。人の命を奪う何かに組み込まれることなど絶対に御免だった。そんなことのために、アイディンは商人として成功を収めてきたのではない。

「何度言われても、答えは否だ」

「愚か者が」

 顔面に銀の燭台が飛んでくる。椅子に縛られたままでは避けることすらできず、少し額が切れた。

「お前はもう少し利口な奴だと思っていたよ」

 そうドルキは言い、皮肉な笑みを浮かべる。アイディンに言わせれば、それは己こそが言いたいことだ。自分の行動の結果が、何を生むのか本当に理解できないほどに愚かだったのかと。間違いを正してくれる人物の言葉を、ドルキは何一つ聞いてこなかったのだ。

「世の中には俺が思っている以上に愚か者が多すぎる。よもや、あの方に盾突こうという者すらいるらしいしな」

(誰のことだ?)

「誰の目から見ても、次の王に相応しい人物はティメル第四王子だ。他の王子は悪あがきをしているのにすぎないのが何故分からぬ」

 少なくとも、アイディンの目からすればその人物は王にふさわしくないのだが。兄の演説には圧倒的に客観性が欠けている。

「滑稽なことに、たかが十五位程度の王子も何かしているらしい」

 目の前のアイディンの存在を無視して呟くドルキの言動は止まらない。アイディンには、目の前の兄が言語の通じない異国人に見えた。

「次期国王はティメル様だ。ティメル様がこの国をより大きくして下さる。そして、その礎の一つに俺はなるのだ」

 国を大きくするその犠牲に、いったい幾人の命が失われるのか、ドルキは考えたことがないのだろうか。攻め込む自国の民にも、攻め込まれる他国の民にも、同じように赤い血が流れていることを理解していないのだろうか。そんな当たり前なことを一度でも考えていたら、侵略戦争なんて軽々しくできるはずがないし、それに手を貸すことなどできない。結局この兄は自分だけが安全な場所から見ているにすぎないのだ。

「アイディン、お前の愚かさが少しぐらいは分かったか? 全く罪深いことだ」

「・・・・・・」

 ドルキの意見には全く賛同できないが、一つ分かったことがある。十五位という低位の王位継承権の王子が、王太子の座を巡り今も闘っているということだ。

(第十五王子殿下万歳)

 ティメル王子の弟王子のことなど知らないが、頑張ってくれと思った。願わくば、血を流したり支配したりする方法を嫌う王子であってほしい。

 アイディンは一度、最悪の場合この部屋で自分の命が果てるのを覚悟した。

 そのとき、部屋の扉が開き一人の男が入ってきた。若い男がドルキに何か囁く。目蓋を閉じて聞いたドルキはただ一言「通せ」と返した。そして、アイディンの姿を見ながら言う。

「・・・まぁよい、お前がどれほど拒否したところで、もう遅いのだからな」

「何?」

 ドルキがそう言った瞬間、また部屋の扉が開く。先程の若い男ではなかった。アイディンは、その先にいた人物に己の目を疑った。

「アイディン殿!」

(エルヴァン?)

 馬鹿な、何故イストレージャに? よく似た別人か? しかし、扉を勢いよく開けた人物は、見間違うことなく己の弟子だ。

「俺が呼んだのだ」

「お前が?」

「何、お前がなかなかに強情なのでな。心優しい俺が、お前の危機を知らせてやったのだ」

「・・・ふ、はははは」

 呆然とした後、自然と笑いが起きた。ドルキの怒りに触れても関係なかった。

 そうだ、自分の弟子は他でもないエルヴァンだ。困っている者を決して見捨てることのできない、お人よしの弟子なのだ。ならば、兄からアイディンの危機を知らされてしまえば、単身乗り込んで来るぐらいには馬鹿なのだ。アイディンがエルヴァンの性格を理解しているように、アイディンもエルヴァンに性格を理解されてしまっている。自分の問題だと判断したアイディンが助けを呼ばないことなど、簡単に予測がつくだろう。ドゥーダやシェナイが止めても無駄だ。師匠の危機に黙って我慢するなんて、この弟子ができるはずがない。

「アイディン殿・・・!」

「エルヴァン、この馬鹿弟子が」

「師匠の窮地に馳せ参じない弟子がいるものか」

 久しぶりの再会は、あまり弟子に見せたくない姿だったが、少し嬉しかったのも事実だった。



 話は少し遡る。アイディンがカレンデュラをエルヴァン達に任せ出立してから一週間経った頃、一通の手紙が届けられた。受取人の具体的な名はなく、ただ「アイディンの弟子へ」と書いてあった。それに従って、両際にシェナイとドゥーダを侍らせた状態でエルヴァンはその封を開いた。

 「アイディンの命を助けたくば、事業の権利書を持って、イストレージャに来い。その際、必ず一人で来い」。そう書いてあった。

 随分アイディンの戻りが遅いと思っていたら、当初の懸念通りに策略に嵌ってしまったらしい。エルヴァンは、実の兄がそんなことをするとは信じたくなかった。

「権利書を持ってこいって書いてあるぜ。何のだ?」

「たぶん、緋翠の購入ルートと精製所のものじゃないかしら。とりあえずそれを押さえてしまったら、全ての利益を得ることができるもの」

「マジかよ・・・」

「私が届ける」

「エルヴァン」

「姉上、幾ら姉上が止めても、従うことはできません」

「エルヴァン・・・」

 ドゥーダはそのとき、エルヴァンの怒りを初めて見た。その場の空気が凍えるように張り詰めたのを感じる。静かに氷のような熱さで、エルヴァンは怒り狂っていた。エルヴァンの整った顔が、それをより恐ろしく見せていた。

「・・・権利書はアイディンの物よ。それを渡すことはいいわよ。けど、エルヴァンが一人で行くなんて」

 そのエルヴァンを見た上で諦めず続けるシェナイに、ドゥーダは尊敬の念を抱いた。とても自分には無理だ。ドゥーダとて、アイディンを助けたいし、エルヴァンを危険な目に遭わせたくもない。けれど、今のエルヴァンに触れることはそれ以上にできそうもなかった。

「指名されているのは私です。私以外が行って、無用な怒りは買いたくない。大丈夫です、姉上。このような卑劣なことをする輩にかかる私ではありません」

 張り詰めた空気のまま、青と紫が交錯する。そらされたのは青だった。

「・・・分かったわ。けれど約束して頂戴。必ず二人とも無事で戻って。何かあったら報せを寄越して。すぐに駆けつけるわ」

「あぁ。約束しよう、姉上」

 エルヴァンの空気が幾らか和らぐ。それにドゥーダはそっと息を吐く。

「・・・決まっちまったみたいだな。エルヴァン、アイディンを頼むぞ」

「もちろんだ、ドゥーダ殿」

 こうして、エルヴァンは単身イストレージャのアイディンの生家に赴いたのだ。


 アイディンを間に挟み、エルヴァンとドルキが向かい合って席に着く。貴族らしい、細工が施された豪華な椅子だった。縛られた師の姿に怒りが募るが、思ったより無事な様子にはほっとした。

「それで、指定した物は持ってきたのか?」

「権利書ならここにある。しかし、今なら私はこの権利書を燃やすことだってできる。だからドルキとやら。私と一つ、賭けをしないか?」

「賭けだと?」

「今からする賭けにおぬしが勝ったら、この権利書は素直に渡そう。なんなら私を労働力として使ってくれてもかまわない。ただし、私が勝てばアイディン殿を無事返してもらう」

「お前、己の立場が分かっていないのか? 俺がそんな提案を受けるとでも?」

「なら、交渉決裂だな」

 マッチを素早く擦って、迷うことなくその火を懐から出した権利書へ近づける。冗談を言っているような顔ではない。

「待て! お前、アイディンがどうなってもよいのか?」

 その権利書こそが唯一アイディンを助けることができる手段だと、まさか理解できていないのか?

「おぬしこそ、心せよ。短絡的にアイディン殿を殺めてみよ。私はおぬしの所業を絶対に許しはしない」

 紫の瞳が燃える。

(なんだ、この迫力は)

 何故、たかが年若く見目麗しいだけの庶民に、貴族である自分が気圧されねばならない。一瞬でも自分がそう思ってしまったことを、自称誇り高い貴族のドルキが認められるはずもなかった。

「・・・・・・」

「何、簡単なゲームだ。おぬしはただ、答えるだけでいい」

「・・・話を聞こうか」

「その前に、大振りの皿と、その皿を覆える大きさの銀製の蓋を用意して頂けるだろうか」

「ふん・・・」

 近くに控えていた護衛の一人に目線だけで命じてやると、一礼して部屋から出て行く。じきにそれらを持って戻ってくるだろう。

「これでいいのだろう」

「あぁ。ここに布製の袋と一つの石がある。この石を袋に入れる。その後、私はその袋に一つ魔法をかけさせて頂く。おぬしは、中の石の色を当てるだけでいい」

 エルヴァンの手の平には、確かに金貨一枚ほどの大きさの石が一つ乗っている。あまり、見ない色だ。

「色の表現を、主観で違うとお前が言わない可能性は?」

「そうだな・・・。では、こうしよう」

 エルヴァンはそう言うと、机の上に大小様々な石を転がす。全て違う色の石だ。

「この中から、同じ色だと思う石を選んでもらえばよい。おぬしの主観でも、私の主観でも、同じ色のものがあるはずだ。答え合わせのときにそれを見比べれば一目瞭然であろう?」

 並べられた石を見やる。確かにエルヴァンの言う通り、袋に入れる予定の石と同じ色合いの石が一つだけあった。けれど、こんな勝負をするまでもない。子供にでも簡単に答えられてしまうではないか。

「お前、何を考えている?」

 これでは、ドルキにまんまと権利書を奪われてしまうだけだ。アイディンの弟子を名乗るコイツは、それを阻止したくてこんな賭けを言い出したのではないのか?

「私から権利書を無理やり奪い取るのは簡単だ。けれどそれをすると、おぬしは誇り高き貴族ではなく、下賎な盗賊以下であることを自ら認めたも当然になってしまうぞ。それは、アイディン殿を人質に取って迫っている今も同じことだ。おぬしが真の貴族であるならば、最後は己の力で正々堂々と権利を手に入れてはどうかと私は提案しているだけだ」

「・・・いいだろう」

 そこまで言われては、強行な手は打てない。ドルキの貴族としての誇りが、それを許しはしなかった。

(なるほど、そういうことか)

 黙って成り行きを見守っていたアイディンは心の中で思う。アイディンの知らぬうちに、弟子もなかなか強かになったものだ。おそらく、エルヴァンは石に細工やイカサマなど何もしないだろう。

 用意させた皿と銀製の蓋を受け取ったエルヴァンは、まず手の平の金貨大の石をドルキに見せ付ける。ドルキに手渡し、直に確かめさせる。

「なんなら、おぬしにしか分からぬように印を付けてもらってもかまわない」

「ではそうさせてもらおう」

 護身用の短刀で小さく傷をつける。簡単に、ドルキのイニシャルを刻んだ。そして、それをまたエルヴァンに返す。受け取ったエルヴァンはその石を茶色の袋に入れた。

「ではドルキとやら。この袋の中に入っている石と同じ色の石を選んで頂こう。さぁ、どれだ?」

「ふん」

 ドルキは机に並べられた幾つかの石を見やる。大小様々な大きさがあり、一つとして同じ色の種類はない。結局は大口を叩いただけか。正解など当に決まっている。先程己が確認させた色の石は一つしかないのだから。

「・・・これだ」

 紺と灰が混じった色の石を掲げる。他の色の石なんて、今見る価値すらない。

「その石で本当によいな?」

「くどいぞ」

 ドルキの返答を聞いて、エルヴァンは選ばれなかったその他の石を雑多に机の脇に寄せる。そして、袋の口を固く閉ざしたまま、中の石ごと強く握り締める。変な動きをしている様子はない。ドルキにはよく分からないが、あれが魔法にあたる部分なのだろうか。

「私が袋に変な小細工をしたと疑われても困るので、袋ごと火で燃やしてしまおうと思うが、よろしいか?」

「いいだろう」

 これで、実は袋の中に二つ入っていました、といったくだらないイカサマは使えない。ドルキからしても、その提案は好都合だった。

「それでは」

 そう言ってエルヴァンは、大振りの皿の上に載せたその袋にマッチを擦って一気に火を放つ。そして、ある程度燃え上がったところで食膳用の銀製の蓋をする。煙を吸わないようにする配慮だ、ドルキはそう思っただろう。真実はそんなに優しいものではないが。

「ドルキとやら、おぬしが選んだ石を隣へ」

 エルヴァンに促されて銀の横に置く。エルヴァンからは触れない距離に置く用心も忘れない。そして、エルヴァンの手によって蓋が持ち上げられる。

「ば、馬鹿な・・・」

 袋が跡形もなく燃え尽き、皿の上には予想通り一つの石だけが残されていた。けれど、その色が。ドルキの想像もしていなかった色をしている。

「碧、だと?」

「おぬしには、この二つが同じ色に見えるだろうか?」

 見えるはずがなかった。机の上には紺と灰を混ぜた醜い色。皿の上には透き通る碧。全く別の色だ。

「おい、お前何をした。いつ石を摩り替えた!?」

「私は摩り替えたりなどしていない。それはこの命に誓って言える。それに、おぬしが付けた印もこうして残っておるぞ」

「何・・・」

 エルヴァンから引っ手繰るように奪って自分の目で確かめる。確かにドルキにしか分からない傷があった。正真正銘、その石は先程袋に入れたのと同じものだ。

 ドルキが驚くのも無理はない。エルヴァンにではなく、石自体に仕掛けがあったのだ。エルヴァンが勝負に使ったその石は、緋翠の原石の紺灰石なのだから。熱を加えて色が変わる事実を知らないかぎり、この勝負に乗ってしまった時点でドルキの負けは確定だったのだ。

「えぇい、俺は認めんぞ。お前が俺の目を盗んで何かやったのだろう! 俺がお前なんかに負けるはずがないのだ!!」

 見苦しく喚き散らすドルキを、エルヴァンは冷めた目で見る。

(小さいな)

 エルヴァンはつくづくそう感じた。初めて会ったときから思っていたことだが、これが自分の師と血を分けた本当の兄なのだろうか。身なりは有名貴族の名に恥じぬ煌びやかなものだが、それが何だというのだ。

 ドルキとエルヴァンは一回り以上年齢が違う。体格など比較にならないほど大きな差がある。けれどそれがどうした。仮に今、目の前に剣を突きつけられたとしても、エルヴァンが恐怖を感じることはないだろう。己は、本物の大きさを知っている。

「おいドルキ。これ以上は見苦しいぞ」

「アイディン・・・!」

「エルヴァン、権利書(そんなもの)などドルキにくれてやれ」

「アイディン殿?」

 しかし、いいのか? と本来の持ち主に確認する。

「あぁ、そんなもの一つで、俺の資産を手に入れられると本当に思っているならな」

 アイディンには確かな自信があった。仮にドルキがアイディンに成り代わろうとしても土台無理な話だと。自惚れでも何でもなくただの事実として、あの従業員達はアイディンを絶対に裏切らない。ドゥーダやザイード、モーヴにその他全ての者達。その者達の苦労を何も知らないドルキが命じたところで、誰もそれに従いなどしない。

「俺の資産をくれてやるのは御免だが、望む物がそれなら俺は一向にかまわない」

「アイディン・・・!」

 弟のこの言い草で、権利書が紙ほどの価値しかないことが分かる。結局、アイディンの心を変えぬかぎりは無理な話なのだ。

 ドルキが悔しそうに唸っているその間に、エルヴァンがアイディンの拘束を解く。

「帰るぞ、エルヴァン」

「馬鹿め、このまま素直に帰すとでも思ったのか! こうなってしまった以上、無理やりにでも首を縦に振ってもらうぞ! おい、衛兵達を集めろ!」

 屈辱に燃えたドルキは、貴族としての誇りを捨てることを選んだ。逆らうようなら、この無礼者達の死体を無様に並べてやる。手始めに護衛の剣をその血で濡らしてやる。血走った目がそう語っていた。

「ここまで腐ったかドルキ・・・!」

 腕が自由になったアイディンが背後にエルヴァンを庇う。部屋の外からバタバタと物音が近付いてくる。ひどく慌てた足音だった。

「ドルキ様! 今すぐにお耳に入れて頂きたいことが」

 入ってきた若い男はそう言って、ドルキの耳元で小さく何かを囁いた。それを聞いた瞬間、ドルキの表情が変わる。

「何!? それは本当か?」

「はい。今、屋敷の外でお待ちになっています」

「何故中にお通しせぬ! 無礼だろう!」

「ご本人様がここでよいと申されましたので・・・」

「えぇい、この時間が勿体無い。すぐに行くぞ!」

 そう言うと、アイディンとエルヴァンのことなど忘れたようにドルキは慌しく部屋を飛び出していった。若い男もドルキに続いたため、残された二人は意味が分からなかった。

「・・・何だったのだ?」

「誰か、来たらしいな」

 二人は頷き合うと、そっと様子を伺うために後を追った。


「ティメル様・・・!」

 玄関の扉を開けたドルキは、引っ繰り返りそうになるぐらい驚いた。まさか、このような場所にわざわざおいで頂けるとは。初めてのお目通りが、自分の屋敷だなんてその姿を前にしても信じられない。

「お前か、使者が言っていた兄というのは」

 王族らしい、強い瞳をした長身の男だった。金の髪を後ろに流し、鍛えられた逞しい身体は鋼のようだった。目前の男はただそこに立っているだけで、鋭利な輝きを持つ男性的な美しさに溢れていた。

「使者・・・? ティメル様、今日は如何にしてこのような場所においで下さったのですか?」

 当然、そのような予定は聞いていない。王子の付き人に会うのだってドルキには一苦労なのだ。

(この男が・・・)

 突然この場を訪れたように見えるティメルにも、もちろん理由はある。つい先日、滅多に会うことのない妹からの使者が手紙を持ってきたのだ。それには、「ある貴族があなたのためと言って、自分の弟を脅して資金を得ようとしている。これはあなたの差し金なの?」と随分失礼なことが書いてあった。ティメルにすれば、何のことを言っているのか皆目検討もつかなかった。事実の確認に数日を要したところ、己の付き人が勝手にしたことだと白状した。ティメルは付き人を処断したその足で、その貴族の屋敷にやって来たのだ。そして、目の前の貴族は分かりやすいぐらいに己に媚を売っているように見えた。

 揉み手を繰り返すドルキは、ティメル王子がこの場に来た理由を、上手く事を運べない自分を怒ってのことだと思った。だから自然と、次の言葉は決まっていた。

「申し訳ございません。次は必ずやもっと上手くやりますので」

「おい」

 誰がそのようなことを頼んだ。何故、この男はさもそれをティメルが望んだことのように話すのか。まさか、己に手を貸してやるなどと思われたとでも言うのか。ふつふつと、王族としての誇り高い矜持が燃え上がっていく。

 ドルキは知らなかったのだ。付き人の独断で資金提供を打診されたこと、ティメル自身はドルキのことを知らなかったこと、今回ドルキの取った策がティメルの最も嫌いとするものであったこと、ティメルが噂以上に誇り高い人物だったこと、その全てを。

「貴様は、我のためにこのような姑息な手を使ったと言うつもりか」

「ティメル様・・・?」

 貴族らしいこの男はなんと愚かで卑劣なのだろう。このような男の大義名分に己が使われてしまったことに、ティメルは純粋に腹を立てていた。これ以上、この男の言葉を聞く気はなかった。

「不愉快だ。失せろ」

 ドルキにはおそらく何も分からなかっただろう。今、何故自分が王子の怒りを買っているのか、自分は何を間違ったのか、言葉と同時に自分に振り下ろされた物がいったい何であるのかさえも。

 辺りに血が飛び散る。

 最期の言葉も、最期の願いも、最期の悪あがきも、何もなかった。一瞬であっけなく、ドルキは物言わぬ塊になった。

 それに黙っていられないのは、その場に駆けつけたエルヴァンである。

「おい! 何故、何故殺した!! 命まで奪う必要がどこにあった!!」

「おい、エルヴァンよせ!」

 止めたのはアイディンだ。自分の目の前で兄が事切れたのだ、アイディンだってもちろん混乱している。けれど今大事なのはそんなことではない。

 直感だ。貴族としてのか、一般市民としてのか、商人としてのか、いったいどの立場から見た直感かは分からなかったが、本能レベルで分かってしまった。目の前の男は「別格」だ。まさしく虫けらを見るような目で、アイディンやエルヴァンを見下ろしているこの男は、自分とは違う生き物だ。

(コイツが、そうなのか)

 確認するまでもない。血に濡れた刃を携えるこの男こそが、ティメル第四王子だ。それが分かってしまった。きっと、子供にだって分かる。気に入らないと判断されれば、自分達の命も一瞬で奪われてしまうだろう。そう思えば、一旦は自分の激情を押し殺して、弟子を黙らせるように努めるしかなかった。

(ほう・・・)

 思うところがあったのは、ティメル王子も同じだった。己の身分も弁えず醜く喚き散らす小さな存在を、瞬時に止めた男を見やる。この男は、己を知ってなお、目線を逸らさずただ前に在るのだ。

「貴様、名は。あぁ、その無様に喚いている方ではないぞ」

「・・・アイディン」

「ほう、貴様が」

 ティメルにはその名に聞き覚えがあった。確か、己の付き人が勝手に気を回した結果、『国一番の宝』を入手するように命じた商人の名だ。ティメル自身は自分の力以外で手に入れる宝の存在になど塵ほどの興味もなかったので、「こっぴどく断られたので厳罰を」と望む付き人の言葉を無視し放置していたが。そうか、この男が。

「おい貴様、この痴れ者は貴様の何だ?」

 この地面に倒れ臥した、名も知らぬ亡骸の。

「兄だ」

 アイディンはその問いに、無表情のまま簡潔に答える。

「そうか・・・」

 無様だな、とティメルは思う。この弟の聡明さを、愚かな兄は少しも学んでいなかったらしい。弟の方は一目見ただけでティメルの本質を見抜いていたというのに、愚かな兄は臣下の振りをして近付き、あまつさえティメルを利用できる人物だとすら勘違いしていたのだ。

「貴様なら、我に殺されることもなかっただろうにな」

「・・・・・・」

 アイディンの返事は待たずに、わき目も振らずその場を去る。今も尚、自身に対し喚き散らす矮小な存在がいたが、ティメルの気にするところではない。瞳を交わすのは、今でも此処でもないのだ。

 アイディンは遠ざかっていくティメルの背中をただ黙って見送る。追いかけることも、身内を殺されたことを詰ることも、何もできなかった。

 世間の評判ほど当てにならないものはないと痛感する。ティメル王子は差別的で排他的、気に入らない者は簡単に斬って捨てる人物と聞いていた。実際、ドルキはその気に入らない者と判断されこのような末路を辿ったのだろうが、事態はそんなに簡単な話ではないと思う。短気で攻撃性の強い、いっそ戯れに人を殺める男だと思っていた。けれど、あれは違う。冷静に、今己に害する相手のみを排除できる男だ。あの刃が無差別に振り下ろされることはないだろう。今回のことも、おそらくドルキがティメルの逆鱗に触れたのだ。己の力のみを信じ、自分の正義に反した相手を処罰する、ある意味正しい王族の姿があの王子なのだ。

 しばらくただその場に立ち尽くしていると、傍らの弟子が落ち着きを取り戻したのか、アイディンを心配したように声をかけてきた。

「アイディン殿・・・」

「エルヴァン、誰か、屋敷の者を呼んで来てくれ」

「あ、あぁ」

 全く感情のこもっていないアイディンの言葉に、エルヴァンが弾かれたように動き出す。その足音を背後で聞いて、アイディンは地面にしゃがみこんだ。

 全く反りの合わない兄だった。もう、分かり合えることはないとお互いに理解していた。嫌い合っていたと言ってもいい。けれど、死を望んだことは一度たりとてアイディンにはなかった。子供の頃の優しかった兄を、忘れたことなどなかったのだ。

ドルキ(兄さん)・・・」

 開いたままだった目蓋を下ろしてやる。まだあたたかい身体が現実感を失わせていたが、地面を濡らす冷たい血液がアイディンにその事実を思い知らせていた。



 次の日、アイディンの兄ドルキの葬式はしめやかに営まれていた。跡取りを失った両親の嘆きは大きかったが、それを殺めた者が王族と知れば文句を言うこともできなかった。

 アイディンは昨夜以来、ドルキの亡骸に近付くことはせず、輪から少し離れて遠目にその光景を眺めていた。先程、己が屋敷に呼び戻した、涙を流すアブドゥラフマンの肩に手を置いた後は、ぼんやりとずっと違うところを見ている。

「アイディン殿・・・」

 そんなアイディンを、エルヴァンは声をかけることもできずただ見守るしかなかった。エルヴァンの隣にはシェナイが佇んでいる。彼女はエルヴァンからの急ぎの報せを受けて、馬を走らせてイストレージャまでやって来たのだ。ドゥーダは、シェナイの判断でカレンデュラの留守を頼んできたため、ここにはいない。

「エルヴァン」

「姉上」

「・・・もう、決めたの?」

 シェナイは何も、アイディンの兄の葬式に出るためだけにイストレージャにまで来たのではない。エルヴァンの手紙に書いてあったことを、確認するためにも来たのだ。

「あぁ。アイディンの兄上が亡くなった今回のことに、私は無関係ではいられない。アイディン殿やその家族は私達のいざこざに巻き込まれたに過ぎないのだ。それを知って、私だけが今のままではいられない」

「そう、ね」

 潮時、ということなのだろう。シェナイにもそれは分かっていた。

「けれど、アイディン殿がカレンデュラに戻るまではここにいることを許してほしい。今、アイディン殿を一人にすることはできない。いいだろう? 姉上」

「もちろんよ」

 エルヴァンにわざわざ言われなくとも、初めて見るあの力ない背中を、放置することなんてできるはずがない。

「エルヴァン、ここはしばらく私がついてるから、あなたは少し休ませてもらいなさい」

「姉上・・・、しかし私はアイディン殿のそばに」

「ダメよ。あなたが倒れでもしたらそれこそ迷惑よ。・・・どうせ昨夜から寝てないんでしょう?」

「・・・分かった、そうさせてもらおう。姉上も疲れているだろうにすまない」

「いいのよ」

 優しく頭を撫でて、少しでもエルヴァンが不安にならないように笑顔を見せる。エルヴァンにはさも身体を心配しているように言ったが、本音は今のアイディンの姿をこれ以上見せたくないだけだ。嘘をついたようで悪いが、今気にかけるべきはエルヴァンではなくアイディンだと思う。師匠として弱っている姿を弟子に見せるわけにはいかないだろう。

(後悔させないために行かせたのに、結局同じことになってしまったわね)

 エルヴァンを見送ってから、シェナイはわざと足音を立ててアイディンの背後から近付いた。そして、手紙が届いたときと同じように声をかける。

「アイディン」

「シェナイか」

 会話も、ここまではかつてカレンデュラでしたものと全く同じだった。けれどあのときのように、アイディンがシェナイを振り向くことはなかった。なのでシェナイはアイディンの左隣に回って、強引に腕を引いてその場に二人で座り込むことにする。ちょうど、花壇のレンガが二人を受け止めてくれた。

「アイディン」

 距離を縮めて、顔を見てもう一度呼ぶ。

「・・・本当に、死に顔を拝むことになるとは思ってもみなかった」

「アイディン・・・」

 小さな声でそう呟いたアイディンにそれ以上は言えず、シェナイはそっと彼を抱き締めた。この天邪鬼で意地っ張りな男は、己が今泣きそうな顔をしていることなど分かっていないのだろう。けれど常のアイディンなら、そんな己の姿を他の者に見られるのを良しとはしないはずだ。シェナイのこの溢れる情が、どこから来るものなのかは分からないが、ひとときだけでもこの男を自分が隠してしまえればいいと思った。アイディンも抵抗することなく、シェナイの腕の中に静かに納まった。

 しばらく、そのまま二人は身動きすることなくずっとそうしていた。



 そしてその数日後、エルヴァンがカレンデュラからもアイディンの前からも姿を消した。

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