染まる海、染める碧 4章
四、
翌日、貴族夫人サリーネの訃報は、すぐにアイディン達の下にも届けられた。
「アイディン殿、これは・・・」
「・・・よく分からんな」
一人、毒入りの酒を飲んで死んでいたところを使用人が見つけたらしい。
その情報を持ってきたドゥーダもそれ以上の事情は知らないのだろう。困惑気味の表情をしている。
「このサリーネ夫人っていや、確かアイディンの顧客だったよな? ほら、エルヴァンを随分気に入ってた」
「ああ、そうだな。残念なことだ」
「アイディン殿・・・」
傍らのエルヴァンにだけ聞こえる小声で囁く。
「エルヴァン、何がどうなったかは俺にも分からんが、当事者がいなくなったのだ。わざわざ他の者に言うこともないだろう。俺とお前だけの秘密だ。いいな?」
「・・・分かった」
「どうした? 何かあったのか?」
「いや、なんでもない。大口の顧客を失ったのは痛いが仕方ないな。ドゥーダ、よく知らせてくれた」
「おう」
もちろん、アイディンとエルヴァンの心中は複雑だ。正直、後味が悪い。
ドゥーダが帰った後も、その重苦しい空気はなかなか払拭できるものではなかった。主にエルヴァンの切り替えが上手くいかない。お前、被害者だったろ、とはさすがに今はアイディンも言えない。
昨夜のことはエルヴァンが早々に気を失ってしまったので、詳しく話していない。当初は頭が痛くなるまで叱ってやろうと思っていたアイディンだったが、翌朝のエルヴァンの表情はその必要性がないことを表していた。弟子は弟子なりに、自分の行いをしっかりと振り返ることができているようなので、アイディンは苦言を飲み込んだのだ。
「エルヴァン、お前の気持ちも分かるが、これ以上考え込むのはやめておけ」
「アイディン殿、私は、サリーネ殿を好ましく思っていたのだ。どこか姉のように慕っていたと言ってもいい。それはあんな目に遭わされた今となってもだ」
「エルヴァン」
「無邪気に笑う方だった。確かに、彼女には私の知らない面もあった。けれどそれでも、あの方が亡くなったことは素直に悲しいと思うのだ」
アイディンはそのエルヴァンの発言を甘いと思う。けれどこうやって、素直に誰かの死を悲しむことができるのは、間違いなくエルヴァンの美徳だ。
これは、一度思っていることを聞いてやった方が長引かないな。そう思ってアイディンは書類の整理をしていた手を止める。どうせ、サリーネ夫人向けの商品を仕入れることはもうないのだ。
「何故、命を絶たれたのだろう。何故一人、冷たくなってしまわれたのだろう」
「俺には分からんさ」
「アイディン殿。私には、サリーネ殿が自分で命を絶たれるとは、どうしても思えないんだ」
それは、アイディンも同感だ。昨夜の彼女は別れの言葉だって随分と肝が据わっていた。悲観した結果、夫人自ら毒を飲んだとは到底思えなかった。なら。
「殺されたのかもな」
「そんな、誰に」
「それこそ俺には分からん。だが、自殺でないのだとしたら、それしかないだろう」
「酷いことを・・・」
「さっきお前が言ったように、夫人には俺達の知らない面があったのだ。誰に恨まれていても不思議ではない」
「・・・」
「お前が夫人を慕っていたと言うのなら、お前はちゃんと夫人のことを覚えておいてやれ」
「アイディン殿」
「人は、忘れられたときにもう一度死ぬからな」
「・・・あぁ、分かった」
そう言って泣きそうな顔で無理に笑ったエルヴァンを見て、アイディンは優しすぎるこの弟子の心が少し心配になって柄にもなく苦しくなった。
(そろそろいいか・・・)
アイディンの傍らで仕入れた商品を仕舞っているエルヴァンを視界の端に収めながら思う。弟子もまだときどき落ち込んだ様子はあるが、切り替えられるようになってきている。ちょうど時間もあることだし、以前から思っていたことを試すことにした。
「エルヴァン、今少しいいか」
「もちろんだ、アイディン殿」
「そろそろ、緋翠の販売価格を考え始めねばならない」
「いよいよだな」
「あぁ。物件のおおよその目処も立った。これぐらいがいい頃合いだろう」
「アイディン殿は以前、かかる費用とも示し合わせねばならないと言っていたな?」
「その通りだ。この場合かかる費用とは、大きく分けて施設費と光熱費、人件費とあとは材料の原価などだろうな」
「待ってくれ、書き止めさせてくれ」
エルヴァンが手元に紙とペンを用意する。それを確認して、アイディンは次の言葉を話す。
「原価に関しては簡単だ。今のところ、紺灰石を一つ当たり本来の十倍の値でカルロから仕入れている。これが40クルツ。他の部品の金具がだいたい50クルツ。単純計算だが、一つの装飾品を作るのに必要な材料の合計は90クルツとする。大量に仕入れた場合はもう少し安くなるだろうが、計算上はこの金額とする」
「あぁ」
アイディンの言う数字を、エルヴァンは手元の紙に記していく。
「次に施設費だな。俺達は、精製所にあたる物件を賃貸ではなく購入して自分達のものにしようといる。俺達はそれを話し合いで3,600,000(360万)クルツで購入する手筈となっている」
「なかなか高額だな」
一般的な市民の年収が350,000(35万)クルツだと考えれば、確かに高額だろう。なんせ、十倍の値だ。
「本来なら十年単位でこれを返済する計算にするが、今回はそんなに細々と稼ぐつもりはないからな。少々乱暴だが、二年間で元を取る計算とする」
「うむ」
「つまり、一月にかかる・・・まぁ正確には違うがこれを家賃とすると、それが150,000(15万)クルツということになる。それに一月の光熱費を、まぁこれは暫定だが50,000(5万)クルツとする。これで、一月当たり建物の維持にかかる金額は200,000(20万)クルツだ」
また書き込む。
「ちなみに、建物は長く使えば当然ガタが来るからな。仮にこれよりも安く物件を手に入れることができたとしても、建物としての価値は変わらない。そしてそれは少しずつ失われていく。この金額を計算に入れることに変わりはない」
「分かった」
「あと、忘れてならないのが設備費や雑費だな。機材や備品などがこれに含まれる。これはある意味消耗品だからな、これはとりあえず100,000(10万)クルツでいいだろう」
「よし」
「最後に人件費だ。俺は一〇〇人を雇う気でいる。その賃金を、そうだな。一人当たり月30,000(3万)クルツ出そう。これで、一月の人件費の合計は3,000,000(300万)クルツだ」
「・・・あぁ」
もうエルヴァンは紙に記すのにせいいっぱいで、アイディンの言っている内容は頭に入ってきていない。
「エルヴァン、ここでお前に宿題を出す」
「宿題?」
「お前は、今の話を聞いた上で、緋翠の価格を考えろ。もちろん、年間の利益目標を忘れるなよ。そのためには月当たりどれぐらいの利益を上げればいいのか。そして、一つ当たり幾らの商品を幾つ売ればいいのか。それを考えてこい」
「アイディン殿、私には難しくて」
「話をきちんと聞いて、今までの俺の教えを理解していたらできるはずだ。期限はまだ設けない。しっかり考えておけよ」
アイディンだって、何も一度で良い答えを出せるとは思っていない。なんせ、商売において要となる部分だ。けれど、いつまでもここから逃げていては、エルヴァンのこれ以上の成長はない。ここは厳しくても乗り越えてもらわねばならないのだ。
「アイディン殿! アイディン殿! すまない。ちょっとこちらへ来て、手を貸してくれ!」
「どうした?」
やかましい弟子の声に従って表へ出る。エルヴァンが肩に誰かを支えている。痩せた男のようだった。少なくとも、エルヴァンだけでも身体を支えられる程度には。
「おい、これはどういうことだ」
「この者が道に倒れておったのだ。何度話しかけても返事がない。このままではまずいと思って連れて来た」
厄介事だけにととまらず、ついに人間まで拾ってきたか。
「居た場所に戻して来い」
まるで、捨て犬を拾ってきた子供に言い聞かせる親のような心境だった。なので、物言いも自然そうなってしまった。
「アイディン殿!」
弟子の責めるような瞳が痛い。
「・・・冗談だ。とりあえず、中に寝かすぞ。この男が起きないことには事情がさっぱり分からん」
「あぁ・・・!」
ベッドなんて気が利くものはないから、仕方なく奥の長椅子に横たえる。その身体は意識がないせいで見た目以上に重く感じた。青白い顔で、硬く目を閉じている。
ひどく痩せた男だった。身なりは薄汚れていて、所々破れて布で継ぎあてられた跡がある。肩より少し長い色素の薄い茶色の髪は、後ろで一つに束ねられている。不自然に長い前髪が左目を隠していた。見た目の年齢はアイディンより少し上ぐらいだろうか。見過ごせないのは、長い履物の裾から見えている左足首に巻かれた足輪だ。これがアイディンの見間違いや勘違いでなければ、少々面倒なことになる。
「エルヴァン」
「なんだアイディン殿」
「この男が目覚めたら、すぐに追い出すからな」
「何故だ」
「この男はおそらく、ここにいていい人間ではない」
「? どういうことだ」
「それは」
先を続けようとしたとき、新たな訪問者が訪れた。陽気な声がする。
「おーい、アイディン邪魔するぜ」
「ドゥーダ」
「なんだ、神妙な顔して。何かあったのか? ・・・ザイード!!」
ドゥーダが長椅子に横たわった男を見た途端、形相を変えた。誰が見ても分かる、ひどく慌てた様子だった。
「知り合いか?」
「あ、あぁ。・・・コイツどうして」
「エルヴァンが拾ってきた。道で倒れてたらしい」
「そうか・・・」
そう言って、ドゥーダは眠る男の頬に手を伸ばした。そっと、確かめるように輪郭をなぞる。慣れた仕草だった。
「コイツも、この街にいたのか」
「ドゥーダ殿?」
そんなドゥーダの様子に何かを感じたエルヴァンが、不安げな顔を向ける。
「はぁーい、私の可愛いエルヴァンに会いに来たわよー」
そんな空気の中、騒々しい場違いな声が響いた。シェナイまで来たらしい。今日は予定していない客が多すぎる。
とりあえず、ザイードと呼ばれた男が自然に目を覚ますのを待って、アイディン達は手前の部屋へと移動した。ドゥーダがそう頼んだのだ。「コイツを今は眠らせてやりたい」と。
「エルヴァン、ありがとうな。アイツを助けてくれて」
「いや、困っている者がいれば助けるのは当たり前だ。礼には及ばない」
そんなことよりも、エルヴァンには聞きたいことがあるのだろう。その瞳がそれを物語っていた。
「アイディン殿、先程の話の続きだが、何故あの者を追い出さねばならんのだ。ここにいていい人間でないとはどういうことなのだ」
やはり、そこが気になっていたらしい。気が進まないが説明してやる。
「エルヴァン、あの男の足首を見たか?」
「いや、見ていない」
「あれは人間であって、人間として扱われていない。あの男は奴隷だ」
「奴隷・・・!?」
「お前も聞いたことはあるだろう? 奴隷は主人の所有の証である足輪を取り付けられていると。それがあの男の足首にもあった」
「あぁ・・・知っている」
エルヴァンが何か苦痛を堪えるような表情をする。それを労わるようにして、同じように複雑な表情をしたシェナイが続ける。
「じゃあなに? 奥の彼はどこかの主人の下から逃げてきた逃亡奴隷かもしれないってこと?」
「必ずしもそうとは言えんがな、その可能性は大いになるだろう」
「アイツは! ザイードは、そんなことはしない」
「ドゥーダ」
ずっと黙って話を聞いていたドゥーダが振り絞るような声を上げる。
「・・・そういえば、ドゥーダ殿はあの者と知り合いのようだったな」
「あぁ」
「奴隷って基本的に一人での外出は許されていないのでしょう? どこで知り合いになったの?」
「俺とザイードは物心ついた頃からの昔馴染みだ」
「え、それって」
「ドゥーダ」
いいのか、と言外に瞳に込める。
「いいさアイディン、こうなったら黙ったままじゃ先に進まねぇ。全部話すさ」
「・・・・・・」
「エルヴァン、シェナイ。俺もな、かつて奴隷だったのさ」
「・・・!」
二人は驚きの表情を浮かべる。アイディンは何かを噛み潰したような顔でドゥーダの話を聞いている。
「別に罪を犯してそうなったわけじゃないぜ。俺の両親が奴隷だったんだ。奴隷の子は奴隷。俺はこの通り身体も大きくて丈夫だったからな。だいぶ無茶な仕事でいろいろこき使われた」
それに何の物語性もない。ある所に、奴隷の夫婦がいた。そしてその夫婦はいつしか赤子を宿した。新たな労働力が増えることを喜んだ奴隷夫婦の主人はその子を産むことを許可した。産まれた子供は、生命力が強く身体が丈夫だった。逞しく成長したその奴隷の子は特に力仕事に重宝された。じきに歳老いて使えなくなった彼の両親の死に目には会わせてもらえなかった。奴隷家族の扱いなんてそんなものだ。分かっていても、彼にはそれが許せなかった。無謀にも主人へと盾突いた彼は当然その怒りを買い、より酷い主人の下へ高値で売られた。それからは、彼が何か仕出かすたびに次々と別の主人の所を転々とした。その奴隷がドゥーダだ。そして、何度目かの主人の末辿り着いたのが、ここカレンデュラだった。彼はそこでまだ歳若い頃のアイディンと出会ったのだ。
「で、アイディンが俺を前のご主人から買って解放してくれたんだ」
「そんなことがあったの・・・」
ドゥーダに今なお残るその足の傷も、奴隷時代にできたものだ。その怪我を負った詳しい話はアイディンも知らない。
「では、ドゥーダ殿の今の主人は、アイディン殿なのか・・・?」
「こんな大男、俺はいらん」
「アイディン殿・・・」
「そういうことさ。俺は今、ただのドゥーダだ。俺は運が良かった。アイディンのおかげで俺は今を自由に生きている。俺はアイディンを裏切らない。絶対に何があっても、この恩は忘れられるものじゃない」
「俺は恩を売った覚えはないぞ。お前は使えると思ったから、少し手を貸してやっただけだ」
アイディンからすれば、正直若気の至りだ。自分の役に立つと思ったから、当時安くはない金を払って彼を解放したのだ。今ならたぶん、こんなことはしない。実際、妙に顔の広いこの男は、案内人や交渉人としてアイディンの力になってくれているので、あのときの判断は間違いではなかったが。
「アイディン、あなた意外といい男なのね」
「意外とはなんだ。・・・おい、なんだその目は。キラキラした目で見るな。だから知られたくなかったのだ。余計なことまでペラペラと話しやがって」
エルヴァンとシェナイの見直したかのような視線が面映い。決してそんな瞳で見つめるようないい話ではない。アイディンはアイディンのためにそうしただけだ。
「ザイードは、俺が始めに売られたときに引き離された奴隷仲間だ。子供の頃ずっと一緒にいた幼馴染でもある」
そこで、ドゥーダは昔を懐かしむような優しい目をした。
「アイツは身体があまり丈夫じゃなくてな。それでよく主人に苛められていた。けど、頭は俺なんかじゃ比べものにならないぐらい良い奴なんだ。俺に文字を教えてくれたのもアイツだ」
「そうであったのか・・・」
「ずっと探していた。けどアイツも売られたらしくて消息がつかめなかった。それが今になってやっと会えたと思ったら、子供の頃以上に痩せてて、しかも道で倒れてたってどういうことだよ・・・」
ここで、ドゥーダは言葉を切った。しばし逡巡して、意を決して話す。
「俺はザイードを、助けたい。アイディン、なんとかならないか」
ドゥーダがそう言い出すことはある意味当然のことだった。けれど生憎、アイディンの答えは決まっている。
「駄目だ」
「何故だ!」
「そうか・・・。アイディン、無理を言って悪かったな」
「ドゥーダ殿! アイディン殿、どうして!」
「いいんだ、エルヴァン」
「よくない! アイディン殿、どういうことだ!」
はぁ、と大きくため息をつく。エルヴァンの反応は予想の範囲内ではある。が、やはり面倒くさいのに変わりはない。
「ドゥーダは分かっているのさ。俺が単純に善意だけで動くような人間ではないことがな。エルヴァン、お前にも分かるように説明してやる。一つ、あの男は奴隷だ。奴隷と言うことは誰か別に主人がいるということだ。無用な争いは避けたい。二つ、俺は知らない男を、大金を払ってまで助けてやるような善人ではない。三つ、仮にあの男を助けたとして、あの男は俺に何をしてくれるというのだ。つまり、現時点で俺にあの男を助ける利点はない」
それに、あの男だけを助けるのは不公平だ。何も彼だけが奴隷なわけではないのだ。ドゥーダのように使えるとも限らないのでは、結果危ない橋を渡るだけになる可能性の方が高い。
「アイディン殿!」
「びっくりするぐらい現実的で冷淡な男ね。・・・見直して損したわ」
「そう言うならお前達でなんとかしてやればいい。俺は何度も言っているだろう。人は必ずしも善ではないと」
どれだけ心では助けたいと思っても、現実問題、そんなに簡単な話ではないのだ。
重い空気がその場を占める。誰もが言いたいことはあっても、それを言葉にすることができない。
「俺、奥でザイードを見てるよ」
そう言って、ドゥーダは店の奥へ入っていく。
「なんだ。俺は俺の意見を変える気はないぞ。いくらお前達がそんな目で見てもな」
残った二人の視線に、先手を打っておく。
「それに、悪いのは俺でも、あの男の主人でもない。奴隷なんて文化が今なお残っているこの国そのものだろう」
アイディンのその発言に、二人ははっとした顔をした。そして、言いにくそうに口を開く。
「そうね。ごめんなさい。私が責められることではなかったわ。何もできないのは私も同じなんだもの」
「私もすまない。本質を見誤ってしまっていた」
「・・・あぁ」
どこか、痛いところを突いた発言だったのかもしれない。エルヴァンとシェナイはそう言ったきり、すっかり無言になってしまった。しばらくその空気のままでいると、奥の部屋からドゥーダに肩を借りた男―ザイードがやってきた。顔色はまだ悪いが、歩けるぐらいには回復したらしい。
「ご迷惑をおかけしました。僕を助けてくれたのはあなたですね。ありがとうございました」
「いや、礼には及ばない。目が覚めてよかった」
ドゥーダの手を借りて立っている状態のザイードは、近場の椅子を勧めても座ることはせず立ったままである。
「僕はザイードといいます。もう皆さんお気づきでしょうが、僕は奴隷です。今日は一人で任されたとある仕事の最中で行き倒れてしまいました。格好悪いところを見せてしまい、申し訳ありませんでした」
なるほど、ドゥーダが先程言った通り、なかなかに聡明そうな男ではあった。
「ドゥーダ、まさか君に会えるなんて思わなかったよ。本当によかった」
「ザイード、それは俺もだ。ずっと心配していた」
「僕もだよ。元気そうでよかった」
「お前は、元気とは言えないみたいだけどな・・・」
ドゥーダに支えられなければ、まだ立っていられない痩せた身体を見下ろす。ザイードはなんでもないように笑う。
「僕が痩せていたのは元からだろう? 今日は少し暑さにやられてしまっただけだよ。君が心配するようなことはないよ」
説得力はまるでなかった。継ぎはぎだらけのその身なりを見ただけで、主人に大事にされていないのは丸分かりだ。けれど、そのときのザイードの笑みにはそれを問わせない力があった。
「今日は本当にありがとうございました。お礼の品一つも差し上げられず申し訳ありません。これで失礼します」
「ザイード!」
「ドゥーダ、僕は帰らないと。きっと心配されている」
そう有無を言わせない表情をして、ザイードはもう一度丁寧にお礼をした。
「また、お会いすることがありましたらよろしくお願いします。それでは」
「ザイード・・・」
「ドゥーダも。元気でね」
「ザイード殿!」
ここで、ずっと黙っていたエルヴァンが突然ザイードに近付く。
「ザイードとお呼び下さい。それで、どうかされましたか?」
「これを受け取ってほしい」
そして、強引にザイードの手に何か握らせる。緋翠のついた、腕輪だった。金属の色は金。ここ最近、シェナイが用意した白銀以外の試作品だ。
「そんな、このような物受け取れません」
「いいんだ。今日私達が出会えた記念に。そして、ドゥーダ殿と再会できた記念に受け取ってほしいのだ」
「ですが・・・」
そんな物を突然押し付けられる形になったザイードは当惑顔だ。けれどアイディンにはすでに今後の展開の予想ができていた。こうなったエルヴァンが引くことはない。しかも今回は二人の援護射撃付きだ。
「受け取ってくれよ、ザイード。これは俺の今の仕事の一つだ。お前に持っていてほしい」
「あら、作ったのは私なんだけどね。気に入らないなら無理には言えないけど、そうでないなら私も受け取ってほしいわ」
「ザイード殿、ぜひ」
勝てるはずがない。アイディンも別に参戦はしないが、反対するほどのことでもない。結果、根負けしたザイードがその腕輪を懐に仕舞うのは当然のことであった。
「ありがとうございます。大事に致します」
おそらく、それが本当の彼の笑みなのだろう柔らかい表情を浮かべて、何度も礼を言ったザイードは帰っていった。
「アイディン! 大変だ!」
形相を変えたドゥーダが飛び込んで来たのはそれから数日経ったときである。
「どうした、そんなに慌てて」
「俺達が精製所にと押さえてた物件、どっかの金持ちが俺達の倍の値で横取りしたらしい!」
「何だと!?」
「俺もびっくりしたんだよ。さっき近くに寄ったから中を見ようとしたら、不法侵入者みたいな扱いで門前払いされてよ。持ち主に問いただしてみたら、もう売ったなんて言いやがって」
「手付け金はきちんと渡してあったんだろう?」
「もちろんだ。まぁ、倍の値なんて言われたら、即決で売っちまう気持ちも分かるんだけどよ」
くそー、けど俺達が先に目をつけて契約直前までいってたのに、何の連絡もナシかよー。ドゥーダが心底悔しそうに唸っている。
「購入したのがどんな奴か聞いたか?」
「随分身なりの良い、貴族様みたいな若い男らしい。俺達よりもずっとな。それこそ二十歳そこそこの」
「名前は聞かなかったのか?」
「聞いたさ。でもなんでだか、口を割らなかったんだよ。ありゃ口止め料も渡されてるな」
「そうか・・・」
身なりの良い貴族風の若い男なんて情報だけでは、個人を特定することは難しい。
「こりゃ、俺達への妨害か?」
「だろうな。あの物件は、倍の値を出してまで購入するようなものじゃない」
平静を装っているが、アイディンの心中は穏やかではない。
「クソ。どこかから嗅ぎ付けられたか」
ある程度情報を重視している商人なら、アイディンの動向は常にチェックされている。大方、アイディンが新たに手を出そうとしている事業を邪魔してやろうと思われたのだろう。
この場合、カルロがカレンデュラの人間でないのが幸いした。さすがに緋翠の原料となる紺灰石にまでは手は及んでいないと思いたい。
「どうする? あの物件は諦めて、また新しいのを探すか?」
「買い手が分かれば、交渉次第で何とかなるかもしれん。お前は少ない情報で難しいだろうが、なんとかして買い手を特定してくれ。少しなら金を握らせてもかまわない」
「分かった」
それからしばらくして、物件を横取りした犯人は驚くほど早く判明した。
「アイディン! 分かったぞ。最近こっちに越してきた男だった。ルミージェ卿と呼ばれているらしい」
「ルミージェ卿? 貴族か?」
「そこまでは分からん。が、駄目元でアイディンの名前を出してみたら、あっちから話がしたいと言ってきやがったぜ」
「あっちから?」
なんだ。二倍以上の値であの物件を買わせるつもりか?
「どうする? 返事は一応保留してきてあるが」
「もちろん会う。ドゥーダ、お前もついてこい」
「エルヴァンは?」
「アイツはいい。また変なのに好かれても困るしな」
「?」
「こっちの話だ」
ルミージェ卿なる人物との面会はすぐに取り付けられた。
「初めまして、常々、お会いしたいと思っていたのですよ」
「光栄です」
ルミージェはアイディンが思っていた以上に若い男だった。青年の域に達したばかりに見える。上に伸びた身長に横幅が追いついていない。
その青年に促されて席につく。ドゥーダがアイディンの左に座る。ルミージェ卿はアイディンの真正面に位置する場所に座った。
「それで、今回の会談はルミージェ卿が希望されたと聞いているのですが、話の内容とはやはり物件のことでしょうか?」
「あぁ、あの物件ですか」
その興味のなさそうな反応を不審に思う。
「私はてっきり、二倍以上の値なら売ってもよいと言われると思っていたのですが」
「あぁ、あんな物件、私には必要ありませんから、なんなら貴方に差し上げますよ」
「? そんなに簡単に手放されるのなら、何故二倍もの値を出して購入されたのですか? それこそ横取りでもするかのように。・・・いえ、失礼しました」
「その通り、横取りです。こうしたら、きっと貴方に会えると思いましてね」
「私に?」
「カレンデュラで一番の商人アイディン殿。貴方に会うためなら、あの程度の金など惜しくありませんよ」
720万クルツをあの程度? 金銭感覚がおかしい。
「・・・賄賂、ですか?」
「贈呈物とおっしゃって頂きたい。何、安い買い物でしたよ」
「・・・少々私を買い被りすぎですよ」
「いえいえ、私の目に狂いはありませんよ」
「旦那様、失礼致します。お飲み物をお持ちしました」
そのとき、部屋の奥から見知った男が入ってきた。数日振りの再会だった。
「ザイード!」
ドゥーダが小さく腰を浮かす。お盆を持っていたザイードもこちらを見て驚いた顔をしている。
「私の物とお知り合いでしたか」
目の前の男は当たり前のようにザイードを物と言った。ドゥーダが身体に力を入れるが、腕を押さえて堪えさせる。
「・・・えぇ。一度市場付近で会ったことがありまして」
「あぁ、あのときですか。ではザイードを介抱してくれた方というのは貴方のことだったのですね。ありがとうございました。礼が遅くなって申し訳ありません」
「いえ」
お茶を並べ終えたザイードが一礼して奥へ下がろうとしたが、ルミージェ卿がそれを止める。
「ザイード、ここに残りなさい。・・・よろしいですよね?」
「えぇ、私はかまいませんが」
呼び止められたザイードは何故自分が同席を求められたのか分からない顔をしている。今、その意図を分かっているのはルミージェ卿だけだろう。
「失礼致します」
恐縮しながらも、礼のある振る舞いで主人の後ろに留まる。椅子に座ることはなかった。
「私はこちらに最近越してきたばかりでしてね、顔見知りがほとんどいないんですよ。あなたとは今後、いいお付き合いをさせて頂ければと思っていますよ。幸運にも、所有物同士がすでに知り合いのようですし」
「所有物?」
その発言は聞き捨てならない。ドゥーダもザイードも青い顔をしている。発言した当の本人だけが変わらない笑みを浮かべていた。蛇のような笑みだった。瞳が凍るように冷たい。
「? 貴方の隣の彼は貴方の物ではないのですか?」
「違います。彼は私の友人で仕事仲間です。勘違いでも、そのようなことは言わないで頂きたい」
「それは失礼致しました。そちらの方も、すみませんでしたね」
「いえ・・・」
ドゥーダの精神状態が心配になってくる。この場に同席させたのは失敗だったかもしれない。
「そういえば、今日はご一緒ではないのですか?」
「誰のことですか?」
「ほら、貴方にはとても可愛らしいお弟子さんがいらっしゃるのでしょう?」
エルヴァンはこの青年にも知られているのか。本当の狙いはアイツか?
「ご存知でしたか。確かに弟子ですが、いつでも一緒というわけではありませんよ」
「残念。評判のお顔を私も拝見したかったのですが」
ここまでくると、弟子のあの整った顔は長所ではなく短所な気がしてきた。良からぬ人間を寄せ付けてしまう、間違った蜜だ。
一度席を立ったルミージェ卿が戻ってからは、歯の浮くようなお世辞をずっと並べられていた。やっと解放されたとき、自然と息が漏れた。
「俺はあの男は好かん」
「奇遇だな、俺もだ」
会談直後にそう言ったドゥーダの感想は最もであった。アイディンにしても、久しぶりにあんなに胸糞の悪い男に出会った。結局貴族かどうかの確認はしていないが、やはりああいう自分が上に属すると思っている人間はいけ好かない。
「お前の二枚舌振りには恐れ入るよ」
「口先だけで機嫌を取れるなら、俺は喜んでそうする」
「俺にはとてもできそうもない芸当だ」
「意外と役に立つぞ」
「俺はまず、役に立つような場面に遭遇したくねぇよ」
「確かに」
ルミージェ卿と顔見知りになっても、正直アイディンにはなんの得もない。いや、一つだけあったか。
「奪われた物件がタダで手に入ったのが唯一の収穫だったな」
「あれも俺はいけ好かん。今回アイディンと顔見知りになるためだけに、720万クルツもの大金を支払ったのか? 金をゴミのように捨てる奴は嫌いだ」
「そうだな」
一刻も早く、慣れ親しんだ自分の店に戻って一息つきたいところだった。
「おい、なんだこれは」
しかし、戻った店は、ほっと一息つける状況ではなかった。
窓ガラスが割られ、部屋中を漁られた跡が残っていた。分かりやすいぐらいの空き巣被害を受けた状態だった。
「アイディン殿! すまない、私が外出していた際にやられたらしい」
アイディン達に気づいたエルヴァンが頭を下げる。部屋の片付けを始めていたのだろう。服の裾が少し汚れていた。
「お前は被害に遭ってないんだな?」
「あぁ。外から戻ってきてみればすでにこの状態だった」
「お前だけか?」
「いや」
「私もいるわよー」
おかえりー、と部屋の向こうからシェナイが顔だけを出す。こちらもいつもより薄汚れている。エルヴァンの片付けを手伝ってくれていたらしい。エルヴァンが一人でなかったことにほっとする。
「エルヴァン、気をつけろよ。お前はいちいち変な奴に好かれるみたいだからな」
「何それ、どういうこと?」
しまった。シェナイの耳にも届いてしまったか。
「コイツは何度か変な奴に狙われたことがあってな。コイツは一人でいると無防備だから」
「別に無防備ではない!」
「エルヴァンは黙ってて」
弁解しようとするエルヴァンをぴしゃりと黙らせる。やはりこの姉はこの弟子に効く。この際だから、エルヴァンの危うさをシェナイにも知っておいてもらおう。
「挙句の果てには、何か飲まされたこともあったらしい」
「大丈夫だったの? エルヴァン」
「問題ない。身体が動かせないだけで、意識ははっきりしていた。感覚もしっかりあったしな。今はなんの後遺症もない」
「そんな危ないもの、何に入っていたの?」
「どうせ酒だろう?」
「いや。直前に飲んだ水に入っていたようだ。かすかに甘い香りがした。混入されていたのはそれだったのだろう」
「へぇ・・・」
「おい、お前ら。話してないで手伝ってくれよ。動いてんの俺だけじゃねぇか」
一人地道に片付けていたドゥーダから突っ込みの声が上がる。確かに、割られた窓ガラスがこのままでは危ない。四人はしばらく黙々と片付けに精を出した。不思議なことに、金目のものは何も盗まれていなかった。
あの会談以降、市場でザイードを見る機会が増えた。きちんと外出の許可を得ているらしく、ドゥーダに会いに来ることも増えた。どうも外出するその仕事で、少しの報酬も与えられているらしい。
ザイードの身なりは見違えて良くなった。もちろん、それでも一般市民と同じになっただけなのだが、元の状態を知っているこちらとしては、一目瞭然の変化だった。ルミージェ卿にどういう心境の変化があったかは分からないが、それは歓迎すべき変化だった。足首の奴隷の証を外すことはできないが、はたから見ただけではザイードが誰かの所有物だというのは分からないだろう。
ザイードは格段に笑うことが増えた。それがドゥーダは嬉しかった。
「アイディン殿、エルヴァン殿。お邪魔します」
「どうしたザイード。また何か言付けられたのか?」
ルミージェ卿からの言付けを伝えるのも、ザイードに与えられた仕事の一つだった。もう何度目になるのか数えていないが、気安く出迎える程度にはアイディンもエルヴァンもそれに慣れていた。
「いえ、今日はそういったことで訪れたのではありません」
「ならドゥーダか? 今日はこっちに来る予定はないぞ」
ドゥーダに決まった仕事場所はないから、出没率が高いここに来たのだろうか。
「ドゥーダを探しているのでもありません。何か、理由がなければここを訪れてはいけませんか?」
「いや、別にお前がそれでいいならこちらはかまわない」
「ありがとうございます」
素直なタイプの人間の対応は苦手だ。一癖も二癖もある人間の方がアイディンには合っているのかもしれない。
「エルヴァン殿はいらっしゃらないのですか?」
「アイツなら奥で頭を抱えている」
「? 何か問題でも?」
「俺が前に出してやった宿題の答えを必死に探しているだけだ」
あの弟子は、まだ緋翠の価格設定を決めあぐねているらしい。前に安価にしてほしいとアイディンに訴えてきたことがあったが、いざ自分がそれを決める立場になってその難しさを痛感しているのだろう。最近空いた時間は自分の机で唸っていることが多い。
「何故笑っている?」
「いえ、すみません」
ザイードがどこか子供を慈しむような顔をしていた。彼はいつでも穏やかだ。けれど、髪に隠された彼の左目が無残にもムチで叩かれたような痕を残して開かないのを、アイディンはすでに知っている。最初の主人に負わされた傷だそうだ。
「宿題という響きが少しうらやましかっただけです。僕には望むべくもないことでしたから」
「文字の書き取りや簡単な計算はできると聞いた」
「ドゥーダですか? えぇ、独学なので曖昧な部分はありますが」
ザイードはなんでもないように言ったが、奴隷の身の上でそれらを独学で習得するのは、生半可な努力では不可能だっただろう。それこそ、ドゥーダの言う通り地頭が良くない限りは。
「生徒になったことはありませんが、先生になったことならあるんですよ」
「ドゥーダだな?」
「はい。彼はなかなかに骨が折れる生徒でした」
「だろうな」
「けれど、知識は絶対に無駄にはなりませんから。僕はドゥーダが大好きだったので、無理してでも覚えてもらいました」
その彼の努力が、今のドゥーダの仕事にも少なからず繋がっているので、彼のその思いは報われたと言っていいだろう。素直に頭が下がる。それに、知識云々のくだりはアイディンがかつてエルヴァンに言ったことと全く同じだ。
待遇の良くなった今のザイードにその必要はないかもしれないが、金を払ってでも助けてやってもいいかなと思う程度には、アイディンはザイードの聡明さを気に入っていた。
「ザイード、俺はこれから少し出てくる。お前は好きにしてくれていていい」
「そうでしたか。呼び止めてしまったなら、すみませんでした」
「かまわない」
「ありがとうございます。では、エルヴァン殿と少しお話をさせて頂きます」
「あぁ。エルヴァンに俺の外出を伝えておいてくれ。じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃい」
アイディンはザイードに見送られて店を出た。最近は緋翠事業にばかり目をかけていたが、アイディンの扱っている商品は他にもある。市場の定期調査は必要な仕事だった。
残されたザイードは、邪魔になるようならすぐに辞するつもりで、奥の部屋にいるというエルヴァンを覗いた。そこには、机に突っ伏したままで頭から煙が出そうになっているエルヴァンがいた。
「エルヴァン殿」
「・・・あぁ、ザイード殿。いらしてたのか」
エルヴァンのザイードへの口調は直らなかった。何度も「自分は奴隷ですから」とザイードは言ったのだが、「年長者に対して無礼は働けない」とエルヴァンが引かなかった。弟子になった当初のアイディンの教えをずっと守っているのだ。なので、ザイードは複雑な気持ちながらもそれを訂正することはしなくなった。ちなみに、ザイードも当初はドゥーダ以外の全ての人の敬称を「様」としていた。そう呼ばれる当人達に猛反対された結果、その敬称は使わせてもらえなくなったという経緯がある。
「はい、先程からお邪魔しております。アイディン殿は少し出掛けてくるとのことです」
「そうであったか。伝えてくれてありがとう」
机に体重をほとんどかけた状態のエルヴァンは見るからに疲れていた。こんなにくたびれたエルヴァンを見ること自体稀なことかもしれない。
「お疲れの様ですね。アイディン殿に宿題を出されているとか」
「そうなのだ。いろいろ考えてはいるのだが、考えれば考えるほど分からなくなっていくのだ。けれどアイディン殿は降参を許してくれない」
「何をそんなに考えてお困りなのですか?」
「今後、新しく売り出す商品の価格を決めねばならないのだ。しかし、かかる費用や年間目標を一緒に考えていると、途中から自分が何をしているのか分からなくなってしまうのだ」
「その紙に記されているのが諸経費の目安ですか? 見せて頂いてもいいですか?」
「もちろんだ」
ザイードはエルヴァンの書き込みで真っ黒になった紙を受け取ってざっと目を通した。文字の上を何度か往復して、ザイードは口を開く。
「エルヴァン殿、今から僕が言うことは何の学もない素人考えかもしれませんが、よろしいですか?」
「なんだ。なんでも言ってくれ」
「こういったことを決める場合は、何を第一目標とするのかを考えるのがいいと思います」
「第一目標」
「はい。利益を一番とするのか、労働者に無理のない生産数を一番とするのか、市場に出回る商品数の多さを一番とするのか、手に取りやすい価格の安さを一番とするのか、そういったことをです」
「ザイード殿・・・」
「はい」
「素晴らしい! 今の私にはとてもありがたい助言だ」
「お役に立てたのならよかったです」
エルヴァンの感動も当然であった。仮にこの場にアイディンがいたとしても、ザイードの発言を聞いていたら感嘆の息をついていたことだろう。とても学術所に通ったことのない人間がする発言ではなかった。
「それで、エルヴァン殿は何を一番とされますか?」
「そうだな・・・。ザイード殿、笑わずに聞いてくれるか」
「もちろんです」
「私はな、全ての人が幸せに暮らしていける仕組みを作りたいと思っているのだ。私一人の力では無理でも、その仕掛けの一つぐらいは私にも作れるのではないかと」
「僕が笑うはずありませんよ。とても素晴らしいことだと思います」
全ての人が幸せに。理想論かもしれないが、それが本当に現実にできたらどんなにいいだろう。それは、奴隷の身のザイードにこそとてもよく分かった。
「それでは、そのエルヴァン殿の希望を前提に考えることに致しましょう。先程僕が挙げた例の中に、一番重要視される項目はありましたか?」
「これは、アイディン殿には叱られるのだろうが・・・」
「はい」
「私は、私達の利益は二の次でいいと思っている。私が大切にしたいのは労働者と消費者の方だ」
「はい」
「その中でも、まずは労働者だな。乱暴な言い方かもしれないが、たとえ価格が高額になったとしても、消費者には買わないという選択もできるのだしな」
アイディンには多くの者が手に取れるように安価にしてほしいとかつての自分は言ったが、ただ単純にそれを行うのがどれだけ難しいのかすでに知ってしまっている。市場に出回る数がどれだけ増えても、どれだけ手に取りやすい価格でも、売れた結果の利益が少なければ、賃金もろくに払えないし次の材料を仕入れることもできないのだ。
「では、労働者に正当な賃金が支払われて、生産数も無理のない程度に、これが第一目標でいいですか?」
「そうなるな」
ザイードが整理してくれるのでとても助かる。自分の考えを誰かがまとめて復唱してくれるだけで、こんなにも頭の回転がやりやすくなるとは。
「賃金は・・・、あ、ここにありますね。では、賃金のことを考える必要は今回はありませんね」
「では無理のない生産数ということだな」
「参考までに聞きたいのですが、実際、一人の人間が無理なく一日でどれぐらいの数を加工できるものなのですか?」
「あぁ、それは以前姉上に聞いた。・・・四十から五十らしい」
別の書き込みを見る。念のために聞いておいてよかった。
「なら間を取って四十五個が一日に生産できる数としましょうか」
「そうだな」
「あとは、そうですね。一月の労働日数はどうしますか。これさえ決まればとりあえず月当たりの生産可能数が分かりますから」
「うむ・・・、そこは世間に揃えていいのではないだろうか。月に二十二日程度だな」
「月に八日ほど休める計算ですね。そうですね、それでいいでしょうね」
一日当たり四十五個の生産数。これに日数の二十二をかける。九百九十。
「端数が気になりますね・・・。誤差の範囲でしょうし、千としましょうか」
「そうだな。その方が計算も楽だな」
「ということは・・・」
「一月当たり一人が千個の商品を加工することができる。労働者は一〇〇人だから、生産数は十万個だな」
空いたスペースに月当たりの生産数を十万個と書き込む。
「おぉ、ザイード殿、見事だ!」
「まだ終わりではありませんよ。次はいよいよ価格と、それによって導き出される利益額です」
「はい」
いつの間にか立場が逆転している。ここにいるのは、もう一組の先生と生徒だ。
「ときにエルヴァン殿」
「なんだ」
「以前エルヴァン殿に頂いたこの腕輪ですが、エルヴァン殿なら幾らまでなら購入を考えますか?」
「うむ」
「こういうときは、自分も消費者の目線に立ってみるのが一番だと思います。どうですか、エルヴァン殿。石などの材料費を知ってしまっているため、想像しにくいかとは思いますが・・・」
ザイードの薄い手のひらに載せられた金の腕輪。市場で見た限り、余程高価でなければ装飾品の大体の相場は800クルツから1,200クルツが一般的だったと思う。けれどそれは本物の宝石を使っているからこその値であって、緋翠はそうではない。ならそれよりは安く。となると。
「600クルツぐらいだろうか」
無意識に絞り出すような声が出た。ずっと机の前で唸っていたのだ。喉が渇くのも仕方がない。結局消費者の目線に立つことはエルヴァンには無理だったので、いろいろ比較をして考えてみた。悪くはないはずだ。
「600クルツですか。では、400クルツにしましょう」
「さらに安くするのか?」
エルヴァンの中では十分に下げたつもりだったのだが。
「エルヴァン殿がそう考えるということは、幾人かはその価格を妥当と思うということです。なら、その妥当だと思われる価格よりさらに下げれば、大抵の人はその商品を間違いなく安いと思ってくれるでしょう?」
「確かに・・・」
「まぁ、これできちんと利益が出るかは今から計算しなければいけませんけどね。とりあえずは暫定で400クルツとします」
「分かった」
「ではあとは簡単な計算です。エルヴァン殿、頑張って下さい」
「・・・しばらく待っていてくれ」
商品一つ当たり400クルツで販売する。それが一月に十万個作られる。
「作った商品は全て売れる計算でいいのだろうか」
「そうですね。在庫を考えると違うのかもしれませんが、今回はそれでいいのではないでしょうか」
なら、一月で40,000,000(4千万)クルツの利益が上がる。
「ザイード殿・・・!」
「エルヴァン殿、これで終わりでもありませんよ。その利益から一月分の諸経費を引いて純利益を出すところまでです」
「・・・分かった」
こちらの先生もなかなかに手厳しい。優しい物腰なギャップの分、アイディンよりそれが際立って感じる。
以前、アイディンの言っていたことを書き殴った紙を確認する。まず材料原価が一つ当たり90クルツ。これを十万個加工するから全部で9,000,000(900万)クルツ。人件費が3,000,000(300万)クルツ。施設維持費が200,000(20万)クルツ。備品などの雑費が100,000(10万)クルツ。これを合わせた金額を利益から引く。と。
「27,700,000(2770万)クルツ・・・」
桁が途方もなさすぎて眩暈がした。いざ数字になるとその凄さがよく分かる。
「凄いですね・・・。まぁ、もちろん始めは全てが売れるわけではないでしょう。実際の純利益はその半分程度ですかね。それでも1千万クルツ以上です。そう悪くないのではありませんか?」
「ザイード殿はそう思われるか?」
エルヴァンは突然見た莫大な金額に頭が回らない。
「エルヴァン殿は全ての人が幸せに暮らしていける仕組みを作りたいと思っているのでしょう? そのための仕掛けを一つでも作りたいと」
「ああ」
「なら、これは正解の一つだと思いますよ。利益が見込めるのであれば、勤勉な労働者には特別に手当てを出すこともできますし、新しい精製所を設けることもできます。新たな事業に手を回すこともできるようになるでしょう。商業の発展は人の暮らしを豊かにします。それはいつしか、カレンデュラ以外にも広がっていくでしょう」
「ザイード殿・・・」
「なんですか?」
「私は! 本当に人に恵まれている! ありがとう、必ず私がより良い国にしてみせる!」
「ふふふ。では期待してますね」
臨時の先生は柔らかく微笑んだ。生徒も、感激で瞳を潤ませながら微笑んだ。
その後、店に戻ってきたアイディンはエルヴァンの終わった宿題を見てとても驚いた。それはアイディンが考えていたものとほとんど同じだったからだ。突然の正答の理由をアイディンが弟子に問いただすと、エルヴァンはザイードが先生になってくれたことを元祖師匠に伝えた。それを聞いたアイディンは「エルヴァンではなくザイードを弟子にほしかった」と呟いたという。
アイディン達の毎日は、驚くぐらいに順調に進んでいた。一時精製所を横取りされるという事態には陥ったが、結局それも贈呈物という形で手にすることができた。緋翠の価格も無事決まり、あとは労働力の確保を残すだけというところまできていた。一般に募集をするのと合わせて、ドゥーダはその顔の広さを生かして良い人材がいないかと街中を駆け回る毎日だった。
傷だらけのザイードが飛び込んで来たのはそんなときだった。エルヴァンを外に遣いにやって、アイディンとドゥーダ、戯れに訪れたシェナイが店にいたときだ。ザイードは殴られたのか、それともムチで打たれたのか、至る場所の血が痛々しい姿をしていた。それに、初めて会ったときのように顔色も悪かった。最近姿を見なかったと思えば、それはあんまりな再会だった。そのことにドゥーダが血相を変えるのも当然のことだった。
「どうしたザイード!!」
「アイディン殿。これを」
「これは・・・」
ザイードの手には見慣れた石が乗っていた。精製手前の紺灰石だ。斑に緋翠になっている部分がある。
「どこでこれを」
「すみません。いくら謝罪しても足りないけれど、僕は主人に間者の役割であなた達と知り合わされたようです。ドゥーダ、君の昔馴染みだと調べられていたらしい。それを利用されたんだ」
「なんだと・・・」
なら、あの日エルヴァンがザイードを助けたところからルミージェ卿の思惑通りだったと言うのか。本当に今、この場にエルヴァンがいなくてよかった。
「僕のことを信じてくれとはとても言えない。そんな資格は僕にはないだろう。けれど僕は、主人が君達を妨害するために、手段を選ばないことを知ってもらわなければならない。執着する理由はさっぱり分からないけれどね。この石も、僕とは別の者が盗んでいたみたいだ。たぶん、君達が主人と初めて会ったときに」
あの会談で一度席を外したあのときか。
今更ザイードの言うことを疑う者はいない。さすがのアイディンも、ザイードがこういう嘘をつける人物かどうかは分かっているつもりだ。かつての空き巣被害の真相を教えてくれただけでもありがたかった。
「ルミージェ卿は何をするつもりなんだ」
物件をタダでアイディン達に譲っておいて、今更何をするつもりだ。
「まず事業が軌道に乗り始めた辺りで、資金力に物を言わせて近くに精製所を設け、そして、緋翠ではない本当にただのガラクタの石を「これが本物の緋翠だ」と言って大量に市場に流すつもりのようです。消費者にはそれの区別がつかない。結果、緋翠の価格は暴落します」
「ぬか喜びをさせておいてからの嫌がらせか」
「はい・・・、おそらく以前頂いた腕輪から何か勘付かれたのだと思います」
タダより高いものはない。それを痛感する。ザイードがいなければ、まんまと出し抜かれてしまうところだったかもしれない。
そこでザイードは言い淀む。何かを言うか言うまいか悩んでいるように見える。しかしその逡巡は、ザイードの身体を心配していたドゥーダに断ち切られた。
「ザイード、お前、その傷は」
「予定が狂ったんだろうね。僕が君達の情報を漏らさないことに業を煮やしたんだと思う。僕がどこまで知ってしまったのかは分からなかったみたいだけど、手酷く痛めつけられたよ」
「最近姿を見なかったのは」
「・・・監禁されていたからだよ。自分の思い通りにならないとよくこの手を使われるんだ」
「ザイード、お前に初めて会ったとき倒れていた本当の理由はなんだ?」
「・・・実験です。主人のルミージェは毒や薬といった分野に詳しい人物です。僕達奴隷は、その毒物の実験体として生かされているんです。死なない程度に薄めた毒を食事と一緒に摂取しています」
「お前! なんであのときそれを言わなかった!」
「言えるわけがないだろう! 幸せに生きている君を前に言えるわけがない。そんなことを知ったら君のことだ。どんな無茶だってやってしまう。子供の頃、僕を庇って足を怪我したあのときみたいに。僕にはそんなこと耐えられない!」
「馬鹿野郎・・・」
なんとなく予想はしていたが、やはりドゥーダのその足の傷はザイードが関係していたらしい。
「くそ! それを聞いてザイードを、あんな野郎のところになんていさせられるか! 俺は一人でもザイードを助けるぞ!!」
「ドゥーダ、君の気持ちはありがたいが、僕の他にも奴隷は大勢いる。自分だけが助かるわけにはいかない。もちろん、君を危険に晒すわけにもいかない」
「俺は! お前だけでも助けたいんだ!!」
ドゥーダは泣きそうな声を上げた。言っていることは彼のエゴ丸出しだ。
完全に頭に血が上ったドゥーダを見て、アイディンは大きくため息を吐くしかなかった。勤めて冷静を装って彼に問いかける。
「ドゥーダ。精製所の人材の確保の件はどうなっている?」
「アイディン! 今はそれどころじゃねーだろーが!!」
ドゥーダの怒りは激しい。気持ちが分からないでもないが、その殴りかからんばかりの怒りをこちらに向けられても困る。
「まぁ聞け。俺は、奴隷はいらん。奴隷はいらんが、労働力はほしい」
「アイディン、何言ってんだよ・・・」
ここでアイディンはザイードを見た。聞きたいことがあった。
「ザイード、ルミージェ卿のところにいる奴隷達の具体的な人数は?」
「健康な者が六〇人ぐらい、僕のように毒で弱っている者も合わせれば一〇〇人くらいでしょうか」
よし、ちょうどいい数だ。
「おい、アイディン。どういうことだよ。なんで今そんなことを聞く? 関係ない話なら、お前でも容赦しないぞ」
「ドゥーダ。これを聞いても、まだ分からないのか?」
アイディンが頼み方を変えろ、と言っていることにまだ気づかないのか。
「アイディン、あなた回りくどすぎるわよ」
ザイードを軽く手当てしたきり黙って話を聞いていたシェナイが訳知り顔で笑う。
「・・・・・・」
「アイディン殿。あなたは何をお考えなのですか。まさか」
「ドゥーダ、本当に分からないのか?」
アイディンのこの静かな怒りに気づくか? 人間を緩やかに死に至らせる毒なんて、アイディンの中でも許せることではない。
「・・・! アイディン、人材の確保の件だが」
「あぁ」
「心当たりがある。数もちょうど一〇〇だ。元が奴隷だから、きっと皆勤勉に働くぞ」
そう、それでいい。
「それはいい労働力になりそうだな。よし、なら口説き落としに行くか」
「アイディン殿! やめて下さい。危険です! ルミージェ卿は恐ろしい人物です!」
「ザイード。それは聞いてやれねぇよ。お前をそんな目に遭わせた奴を許せるわけがないだろーが」
「ドゥーダ、一応言っておくがお前の気持ちは俺には関係ないからな。俺は、ただ俺の利益になるからそうするだけだ」
「分かってるよ。お前、面倒くさすぎるだろ」
「うるさい」
ここで視線を傷だらけのザイードに移す。
「ザイード」
「はい・・・」
「俺がお前に手を貸す理由はお前のためじゃない。俺がお前に望むことがあるから、その手助けをするだけだ。だから、お前が俺の望みを叶えてくれると約束するなら、俺は必ずお前を助けよう」
「望み、とは」
自然、ザイードの声が固くなった。その警戒心は褒められたものだ。
「俺が新しく始める精製所の現場管理者になること。そして俺の経理の手伝いをしてくれることだ」
「アイディン殿・・・」
「どうだ、お前の返事を聞きたい」
「・・・喜んで、お受けさせて頂きます。その望み、僕も叶えたい」
「交渉成立だな」
そう言って握手を交わした二人をドゥーダが嬉しそうな顔で見つめていた。
「ザイード、それでお前以外の奴隷達の様子はどうなんだ。こちら側につく可能性はあるか?」
「・・・可能性は大いにあります。誰も毒を飲んで生きていたくはありませんからね。今日無事でも明日は分からない。皆怯えております」
「よし、なら全員俺がもらう」
商人は皆、基本的に強欲な人種なのだ。アイディンなどそれの最たるものだ。
「具体的にはどうするんだ?」
「問答無用で強奪するのが手っ取り早いが、それでは盗賊と同じだな・・・」
それに、武力行使はアイディンの得意とする手ではない。あれほどの屋敷だ、私兵も大勢いるだろう。
「ザイード、今から俺は答えにくい質問をする。辛いだろうが答えてくれ」
「なんなりと」
「お前は自分の値段を知っているか?」
「アイディン!」
「ドゥーダ。必要な話なんだ。文句は壁にでも言っていろ」
「およそ500,000(50万)クルツです」
たったそれだけ? 人間一人の値段が放火の罰金と同じだというのか。
「僕達はどこにも居場所がない底辺の奴隷です。その僕達を今の主人が安く買い叩いたと聞いています」
つくづく反吐が出る話だ。しかし、今回に関しては都合がいい。
「よし、お前達を俺が買い取る」
「え・・・」
「一〇〇人で50,000,000(5千万)クルツか。それぐらい俺ならすぐ用意できる金額だ」
エルヴァンの計算した通りにいけば、低く見積もっても一年もあれば余裕で回収も可能な額だ。失敗すれば正直かなりの痛手だが。
「アイディン、お前・・・」
金持ってる奴って怖い。ドゥーダは素直にそう思った。
「そんな、僕にそこまでして頂くわけには」
「なに、初期投資だと思えば安いものだ。それに、今回は物件をタダで譲ってくれた「お優しいお方」がいたのでな。その分の金も回せる」
まさか、あのときの賄賂が自分に返ってくるとは思わないだろう。それでも浮いた金は360,000(36万)クルツと到底足りないが、アイディンは気にしない。それを気にしない程度にはアイディンも怒り狂っているのだ。
「私も行くぞ!」
外出から戻って話を聞いたエルヴァンは当然、自分もついて行くと主張した。
「ダメよ! エルヴァンは絶対に行っちゃダメ。どんな危険な目に遭うか分からないでしょう?」
「しかし、話し合いに行くだけなのであろう? ならそう危険はないはずだ」
「それでもダメよ!」
「しかし姉上・・・! アイディン殿!」
「俺もシェナイに賛成だ。そんなことはないとは思いたいが、いざ危なくなったとき、俺もドゥーダもお前を守ってやれるとは限らない。お前は大人しくここでシェナイと待ってろ。いいな」
それに、できれば奴隷の購入交渉なんてものをエルヴァンには見せたくない。
「・・・ドゥーダ殿!」
「わりぃ、エルヴァン。俺もお前が来んのは反対だ」
「結論が出たな。エルヴァンはここに残れ。シェナイ、頼んだぞ」
「分かったわ」
「・・・必ず、二人とも無事に戻ると約束してくれ」
「善処はする」
「馬鹿、アイディン。そこは素直に約束してやりゃあいいんだよ」
「ザイード、お前もここに残れ」
「・・・はい」
「お前の気持ちは分かる。けれどそんな傷だらけの身体では、エルヴァン以上に連れて行けない。心配しなくても、お前の所有権はしっかり奪い取ってきてやる」
「お気をつけ下さい。ルミージェは、おそらく誰かの命を狙っています」
「何だと!?」
「すみません。さっきも言おうと思ったのですが。不確かな情報だったため、報告が今になってしまいました。一度主人の部屋の外で、そう言っていたのを聞いたのです。「アイツにこれ以上生きてもらっていては困る。そろそろこの舞台から降りてもらう」と。そのときは誰のことを言っているのか分からなかったのですが、おそらく・・・」
「あぁ、俺達の中の誰かのことだろうな」
ルミージェ卿に暗殺を考えさせるほど恨まれている人物がこの中にいる。事業の妨害といい、ここはやはり代表人物のアイディンだろうか。こうなった以上、ルミージェはやはり捨て置けない。
「すみません。結局余計な心配事を増やすだけになってしまって」
「いや、よく教えてくれた」
知っているのと知らないのとでは大違いだ。用心できるだけありがたい。
そして、アイディンはドゥーダだけを連れ立って店を出発した。
なんの約束も取り付けず訪れたアイディン達を、ルミージェ卿はいつも通りに迎え入れた。アイディン達の表情を見た今なら、それは不自然すぎることだった。
「これはアイディン殿。よくいらして下さった。どうぞ、おかけになって下さい。これもよろしければお飲みになって下さい」
「結構だ」
ザイードにルミージェは毒物の実験をするような人物だと聞いている。彼の用意した飲み物など口にできるはずもなかった。
アイディンは話を伸ばすことなく、グラスを押しやり机の上に用意してきた金をどさりと置いた。締めて60,000,000(6千万)クルツ。念のため1千万クルツ上乗せしてある。
「これは?」
「ルミージェ卿の所有される奴隷達をこれで俺にお譲り頂きたい」
「そう来ましたか」
「足りないようなら更に用意してもいい。貴公にも悪い話ではないはずだ」
問題は、ルミージェ卿が金を必要としていない場合だ。720万クルツを溝に捨てるような男だ。さて、どうでる。
「かまいませんよ」
「なに?」
だから、青年の言葉には少なからず拍子抜けした。
「ですから、その話お受け致しますよ」
「何を企んでいる・・・?」
「企むなんて人聞きの悪い・・・。ですが、そうですね、もちろん条件はありますよ」
「その条件とはなんだ」
「私の物達が、貴方のその提案を聞いて良しと答えたら、です」
「は?」
そんなことで? そんなに簡単なことで?
気が抜けそうになったところを意識して立て直す。目の前の青年は、負けた目をしていない。勝つ自信があるということだ。
「いいだろう。彼らはどこにいる?」
「案内させますよ。ザイード、・・・はいませんでしたね。こちらの方々をあの部屋にお連れして」
一瞬辺りを見回して、傍らに控えていた従者に声をかける。彼は奴隷ではないのだろう、身なりも整えられているし足輪もない。ザイードの名を出されたドゥーダの怒りは燃え上がったが、なんとか堪えさせる。
そしてアイディンとドゥーダはルミージェ卿をその場に残し、奴隷達が集められている部屋に向かった。
「おい、なんだこりゃあ」
ドゥーダが呻くような声を上げる。無理もない、それぐらいの光景が目の前には広がっていた。
狭い、部屋だった。到底一〇〇人なんかを押し込める広さじゃなかった。明かりはたった一つのランプだけで、その光に死んだような目をした奴隷達が映っていた。風呂も与えられていないのだろう、すえた汗の臭いが狭い室内に充満していた。このような環境では、身体も休まらないだろう。
「こんなとこにザイードはいたってのかよ・・・」
「ドゥーダ、堪えろ」
案内を終えた従者はアイディン達をおいて早々と去っていった。顔色一つ変えることがなかっただけでも、彼らの普段の扱いが見えるようだった。
「誰、ですか。今度は何の実験ですか。それとも力が必要ですか」
アイディン達に気づいた、扉近くにいた三十半ばぐらいの男が声をかけてきた。唇が乾ききって、ひび割れたそこからは血が滲んでいた。
「いや、仕事ではない。俺はお前達を買いに来た」
そこで助けに来た、と言わないのがアイディンである。
「俺達を買いに・・・?」
「あぁ。ここから出してやる。少なくとも、これ以上の環境は約束する」
この劣悪な環境から逃げ出せることを考えたら、それだけで天国だろう。アイディンは自分の勝ちを確信していた。だから、続いた言葉に驚いた。
「無理だ・・・」
「何?」
「信用できない。俺達はここで生きていくんだ」
「次は屋根がないかもしれない」
「そうだ、飯を与えられることなく働かされるかもしれない」
「ここなら雨風は凌げる。少ないが腹も満たされる」
「これ以上の環境なんてあるものか」
一人が話し出したのを皮切りに次々と声が上がる。皆、ひどく後ろ向きだった。
ザイードの言葉を思い出す。何が「こちらにつく可能性は大いにあります」だ。話が全然違うではないか。ルミージェ卿の支配はここまで根が深いのか。人の心をここまで折ってしまうぐらいに。この環境に満足してしまうくらいに。
ザイードは知らなかったのだ。彼の利用価値に気づいたルミージェ卿からの待遇が良くなったおかげで、最近ルミージェの物になったザイードはこの地獄に長く触れたことがなかったのだ。それでも聡明なザイードは薄々ルミージェの恐ろしさに気がついていたようだったが。
「お、おい。アイディン・・・」
ドゥーダも予想外だったのだろう。元奴隷の彼からすれば、解放される可能性をむざむざ自分から捨てる意味を理解できるはずがなかった。
「おい、お前達はなんだ。死人か?」
「何だと?」
「お前達が今までどのような目に遭ってきたのか俺は知らん。そのような死んだ目で全てを諦める心境も全く理解できない」
ドゥーダが隣で小さく「アイディン・・・」と呟く。今まさに支配されている彼らには酷な言葉かもしれないが、動いてくれないのならこうする以外の方法をアイディンは知らない。この際、アイディンに対する怒りでもなんでもいい。諦め以外の感情を表してもらわなければ、先に進むことはできない。
「おい、黙ってないでなんとか言ったらどうだ。その口は飾りか?」
「お前に、そんな身なりのいいお前に、俺達の気持ちが分かってたまるか」
「明日の生も俺達には保障されてない。なら今あるものを失わないようにすることの何が悪い」
「確かに、お前達の気持ちは俺には分からん。お前達の不安はなんだ」
恵まれている人間に対する憎しみの目で見られてもアイディンは気にしない。アイディンは続ける。
「当面の生活の保障は俺がしてやる! ここで死んだように生きていたいなら勝手にしろ。もし、少しでもここから逃げ出したいと望むなら、この手を取れ!」
はっとした顔を視界の端に収める。完全に死んでいたわけではないらしい。この反応があるなら、もう一押しだ。
「働き口も用意してやる! 俺は労働力を必要としている。お前達は人間らしい生活を必要としているのだろう。利害関係の一致だ。俺はお前達を支配したりしない。正当に、お前達の働きの分に見合った報酬を払ってやる。この意味が分かるか!」
つまり、奴隷の身分からの解放だ。世間的にはアイディンが主人のように見えるだろうが、アイディンにその気はない。それは、隣にいるドゥーダが長年をかけて証明している。
「そうだ、俺もかつては奴隷だった。そしてコイツに買われた。けどそれは物としてなんかじゃない。俺は、今誰かの所有物としてではなく、俺として生きている」
その場にいた者の視線がドゥーダに集まる。
「簡単に俺達を信じられないのも分かる。だから、すぐに信じてくれとは言わない。けど、アイディンの潔白はこの俺が保証する! 俺が生きた証拠だ!」
広い胸に手を当て、熱の入ったドゥーダはさらに続ける。ここはドゥーダに任せることにする。
「・・・なぁ、俺達は確かに奴隷だ。自由を奪われ続けてきた。けどな、俺達だって生きてるんだよ。だったら幸せを望んだっていいじゃないか。ごく当たり前の生活を夢見たっていいじゃないか。それを叶えるチャンスが今、お前達の目の前に広がってるんだ!! そうだろ、アイディン!」
突然話を振られる。多少面食らいながらもそれに続く。
「お前達は一労働者として、寝て食って働いて、俺に力を貸してくれればそれでいい。お前達がそうする限り、俺はお前達の人間としての権利を守ろう」
アイディンのその言葉に、幾人かの奴隷が顔を上げた。彼らはしばらくアイディンとドゥーダの顔を見比べていた。そして、アイディンを見つめたまま彼らは一筋の涙を流した。それが全ての答えだった。それは瞬く間にその空間に伝染していった。
無事勝負に勝ったアイディン達が戻ったときには、そこには誰もいなかった。飲み物を出された部屋にも、屋敷中どこを探してもルミージェ卿の姿は見当たらなかった。
「くそ! 逃げられたか!」
「まぁ、仕方がない」
結局ルミージェが誰の命を狙っているのかを吐かせることはできなかった。しばらくは用心が必要になるだろう。
アイディンの用意していた机の上の金はきっちり回収されている。元からその予定だったのでそれは構わない。
「しかし、お前の判断には恐れ入ったぜ。よくあんな大金をぽんと出せるもんだ」
「大変なのはこれからだ。俺の貯蓄もこれで残り二割を切った。この事業が上手くいかなければ俺は首を吊るしかないかもな」
「マジかよ・・・」
そんなこと、アイディンは百も承知だ。ドゥーダが呆れを含んだ目で見てくるが気にしない。実はアイディンがドゥーダと同じように怒っていたことなど、ドゥーダにはとっくに気づかれていただろうから。今はそれよりも。
「おい、なんだこの異様な物音は。それにやけに空気が熱い」
「うわ、解放された奴隷達がテンション上がっちまって屋敷に火を放ってやがる。そりゃ気持ちは分かるけどよ」
気持ちは分かるがそれは犯罪行為だ。解放された矢先に厄介事を自分達から抱え込んでどうする。
「ドゥーダ、火を消すのを手伝ってこい。ある意味お前の後輩達になるんだろう」
「ちぇー、分かったよ」
おうお前らー、火を消せー。俺達のご主人様がお怒りだぞー。ドゥーダのおどけた言葉に笑いが起こる。元奴隷達の人心掌握にちょうどいい人材を、アイディンはすでに手に入れていたようだった。
解放した奴隷達はひとまず精製所予定の物件で休ませることにした。ベッドも何もないが、全員が横になっても十分すぎる広さがあり、風通りのいい部屋は快適だったのか、彼らから文句が出ることはなかった。
「アイディン! ドゥーダ!」
「シェナイ」
「おー、全部上手くいったぜ」
店へ戻るため、夜の街を行っていた二人に声がかかる。一人駆け寄ってきたシェナイに隣を歩いていたドゥーダが陽気に答えている。おい、正確には全部上手くいったわけではないのだが。
「エルヴァン達はどうした」
「店で大人しくさせてるわ。私は居ても立ってもいられなくなって出てきちゃった」
「奴隷達の解放には成功した。けれどルミージェには逃げられた。お前もあまり一人で出歩くな。誰が狙われているのか分からんからな」
「私は大丈夫よ。けどそう、逃げられてしまったの」
「アイディンと戻ったときには、もぬけの殻だったんだよ」
「ううん、皆無事なだけで十分よかったわよ」
ふと、そこでシェナイは立ち止まり、二人から距離を取った。
「シェナイ? どうした、帰るぞ」
「先に帰ってて。私は少し、寄る所があるから」
「一人じゃ危ないってアイディンに言われたばかりだろーが」
「大丈夫よ、本当に近くだから。すぐに戻るわ」
「そうか? なら先に戻っている。ドゥーダ、行くぞ」
そこで、アイディン達はシェナイと別れた。剣を持って戦ったわけではないのに身体がひどく疲れていた。エルヴァン達に報告をすませて、早く横になって休みたかった。
ルミージェ卿は遠く、かつての己の屋敷を背に歩いていた。身体は全く汚れていないし、傷は一つも負っていない。けれどその代わりに彼のプライドはズタズタに傷つけられていた。あんな、奴隷上がりに、あんな、ただの商人に、あんな、世間知らずに、自分が。
落ち着け。まだ手はある。妨害の仕様は幾らでもあるのだ。奴隷など幾ら解放されたところで痛くも痒くもない。なんなら次は兄に協力を願い出てもいい。当初はその兄も出し抜いてやる予定だったが、こうなれば仕方がない。最終的な手柄は兄にくれてやる。とにかく自分はアイツを絶望させ、叩き潰せればいい。
しかし、空き巣を装ったり一人のときを狙ったりと幾度もアイツを襲わせたのに、何故こうも上手くいかなかった? 自分とは別に、誰かの思惑が働いているとでも言うのか。
「――」
そのとき、背中から胸部にかけて焼けるような痛みが走った。呆然と胸元を見下ろすと自分の心臓のあたりから剣が生えていた。
「だ、れだ」
かろうじて首だけ振り向くと、背後からの刺客は顔を隠していたヴェールを外す。見知った顔だった。
「そ、んな・・・」
「あなたにはここで退場してもらうわ」
口の中に血の味が広がる。身体の痛みよりも、心の痛みを感じる。何故だ? 何故、貴女がこんなことをする?
「調べさせてもらったわ。かつて、貴族の夫人を唆して薬を渡したのはあなただったのでしょう? あなたお得意の手だわ。商売の邪魔をするぐらいなら私も目を瞑った。けれど、エルヴァンを危険に晒したことは絶対に許せない。私の守りも限界がある。このままあなたを生かしてはおけない」
秘密裏にアイツの命を何度狙っても成功しなかったのは、貴女がそれの邪魔をしていたからなのか?
「シェ、ナ、イ・・・」
「さようなら、ジェミル」
私の弟。せめて、私の手で。
シェナイが一気に剣を引き抜く。途端、栓を失くした傷口から大量の血液が溢れ出る。助かる出血量ではない。
そしてそのまま、ジェミルの名を持つ、少しも優しくなかった青年は地に伏して動かなくなった。