染まる海、染める碧 3章
三、
緋翠の原料となる紺灰石の購入ルートを確立させても、アイディンには他にもやるべきことがあった。今はまだ、新たな商売に向けて足を一歩前に踏み出したにすぎないのだ。
それの一つを解消するために、珍しくアイディンからドゥーダを店に呼び出した。
「最近お前ちゃんと家に帰っているらしいじゃないか、なんでだ?」
「店に住み着いた奴がいるからな」
「エルヴァンか?」
「仕方がないだろう。寝る場所がないと言われたら・・・!」
このまま放っておいたら、また港に座って夜を過ごしかねない。幸い、アイディンがかつてそうしていたように、寝泊りする程度なら店で何の問題もない。一応事前に、年頃の少女には酷かと思って、エルヴァンにも確認した。結果、エルヴァンの返答は「助かるアイディン殿! 本当にありがとう!!」だった。
「金を返してやればいいじゃないか。あのたんまりもらった受講料」
「もちろん返そうとした。だがよく分からんが、「これは私の覚悟だ」なんだと言って頑なに受け取ろうとしない」
「なんだそりゃ」
「俺が知るか」
弟子にしてくれと頼み込んできていた頃から、エルヴァンは変なところで頑固だ。アイディンにそれを動かす術はない。最近は自分の不利を悟れば早々に引くことにしている。負ける戦はしない主義だ。
「そのエルヴァンはどこに行ったんだ?」
「今はサリーネ夫人のところだ。本当に気に入られたものだ」
商品の受け渡しにアイディンではなくエルヴァンを希望する夫人のおかげで、アイディン自身もう随分と夫人に会っていない。
「美人は得だねぇ」
「全くだ」
自身の美醜を今まで気にしたことはなかったが、こうも顕著に対応の差が出てくるとなると話は別だ。決して、アイディンの容姿が整っていないわけではないのだ。エルヴァンのような華はないが、鼻筋は通っているし薄めの唇の形も悪くない。短い黒髪は清潔感があり、赤の色味が強い赤茶の瞳は褒められることもある。背だってそりゃあ大男のドゥーダに比べたら低いがそれでも平均以上はある。彼は、自身が人を寄せ付けない主な理由が、己の無愛想な表情だということに気づいていないのだ。
「しっかし、あの石が火にかけただけでこんな色になるなんてなー」
ドゥーダは長椅子に寝そべっただらしのない体勢のまま、手の中の緋翠を転がす。まだ形を整える前段階なので歪で平べったい形をしている。
「面白いなー。お、こうするとアイディンが透けて見えるぞ」
眼鏡のようにして覗き込む姿など、まるで子供だ。
「おい遊ぶな。そんなことのためにお前を呼んだんじゃない」
「へいへい。俺は何をすりゃいいんだ?」
「これを加工する精製所を構えたいと思っている。ちょうどいい物件を探してきてほしい」
「お、俺もかませてくれるのか?」
「お前は元の石を見てしまっているしな。ずっと根掘り葉掘り聞かれるより、こちらに巻き込んでしまった方が後々楽だ」
「物件の大きさはどうする?」
「設備がどれだけ場所を取るか分からんからな・・・。少なくとも一〇〇人は入れる規模は欲しいな」
「いきなり一〇〇人か」
「追々はもっと増やすぞ」
「おーおー。こりゃでかいことになりそうだな」
失敗すれば大きな痛手を負うが、成功すればそれ以上の利益を得ることができる。ハイリスクハイリターンだ。けれどアイディンには確信がある。初期投資のハイリスクなど、すぐにローリスクに変えられるはずだと。資金が豊富にあるアイディンだからこそ使える手だ。
「さっそく作り始めるわけじゃないんだろう?」
「ああ。いきなり商品レベルは難しいだろうしな。まずは試作品からだな」
「ま、そうだな。で、何にするんだ?」
「とりあえずは無難に、身に着ける装飾品か何かがいいだろうな」
「だな。・・・おい、誰がそのデザインを考えるんだ? 言っとくが俺は無理だぞ」
「・・・俺だって無理だ」
アイディンもドゥーダも、装飾品にこれといった興味はない(利益を生む商品という意味では興味はあるが)。基本的に装飾品のターゲットは女性だが、どのようなデザインが好まれるかなど想像もできない。
「エルヴァンにでもやらせるさ」
実際、緋翠という名付けのセンスは悪くなかった。試作品段階ならそれでいいだろう。
「あぁ、女の子は自分の欲しいと思う物を考えればいいんだしな」
「そうだな」
「アイディン殿ー、ただいま戻ったぞー」
タイミングよく、エルヴァンの帰宅の声が戸口にかかる。
「私もあまり装飾品は身に着けないし、自信はないな」
「何?」
サリーネ夫人のサインが入った領収書を受け取って、不備がないのをチェックする。問題ないようなので、代金と引き換えにもう一度エルヴァンに戻す。領収書の管理はエルヴァンの仕事だ。それら全てが終わってから切り出したアイディンの言葉を、エルヴァンはそうばっさりと返した。まさかの拒否反応である。当てが外れた。
「それでも俺が考えるよりはマシなはずだろう」
「私の何にそんなに期待してくれているのか分からないが、買い被りすぎだぞ」
「いいや、お前ならできる。エルヴァン、お前がやるんだ。師匠の不得手を手助けしてこそ弟子だろう。そのための弟子だ」
先程帰ったドゥーダが聞いていたら「んなわけねぇだろ」と突っ込む言動である。
「大丈夫だアイディン殿。私に心当たりがある」
エルヴァンは自信満々にそう言って、瞳を輝かせた。
それから数日経って、エルヴァンの便りはアイディン達の下に台風を連れて来た。
「エルヴァン! 会いたかった!!」
実際、アイディンの横ですれ違いざまに小さな風が起こった。
(誰だ?)
「あ、姉上。落ち着いて・・・」
「姉?」
「あぁエルヴァン。あなたからの便りをずっと待っていたのに音沙汰が何もないんだもの。今までとても寂しかったわ。でもいいの! あなたが私を頼ってくれたのだから!」
エルヴァンの姉? この一人で騒がしいのが? ぶつかるように問答無用の力で抱き締められたエルヴァンは苦しそうだ。
(似てないな)
言われてみれば、エルヴァンの姉らしく目鼻の造りは確かに整っている。間違いなく美人の部類に入るだろう。けれど、なんというか、目の前の女には女性らしさの欠片もない。出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいるメリハリのあるスタイルなのに何故だ。やはり立ち振る舞いか。それともアイディン並に短い金髪のせいか。瞳は綺麗な空の青なのになんと勿体無い。それに、その小麦色の肌も女性というには焼けすぎだ。全体的に健康的なその容姿を好む人間もいるだろうが、アイディンの好みのタイプではない。
「あなたが何か危険な目に遭ってやいないかと心配で心配で心配で、私は夜しか眠れなかったわ!」
おい、しっかり寝ているではないか。
言葉遣いはエルヴァンより余程女らしいのに、彼女の外見と相俟って大分印象が違う。はっきり言って外見のイメージとチグハグで合っていない。
「そうであったか・・・。姉上、それは申し訳ないことをした。私はこの通り元気だ」
「私の可愛いエルヴァン。その顔をもっとよく見せて・・・。その髪型もよく似合っているわ・・・」
見つめ合う二人。紫と青が交差する。アイディンの目の前で二人だけの世界が繰り広げられている。ここは店先だから周囲の視線も気になるし、完全に置いてけぼりを食らっているこの状況は少し気まずい。こうなればベタだが仕方がない。
「ゴホン」
「あぁ、アイディン殿。紹介が遅れてすまない。こちら、私の姉上でシェナイという。・・・姉上、こちらが」
「知ってるわ。あなたが黒曜商人のアイディンね? そして、今はエルヴァンの師匠。初めまして、エルヴァンの姉のシェナイよ」
「こちらこそお初にお目にかかる。・・・シェナイと呼んでも?」
「好きに呼んでくれてかまわないわ。私もアイディンでいいかしら?」
「あぁ、かまわない」
見る限り、アイディンと歳もそう変わらないようだし。それよりも。
「その、黒曜商人というのはなんだ?」
己のそんな通称、アイディンは初めて聞いた。
「私が勝手にそう呼んでるだけ。綺麗な黒髪だわ」
通称でもなんでもなかった。なんだこの女。
「エルヴァン、お前が言っていた心当たりとはコイツのことか?」
「そうだ。姉上は私とは比べものにならないぐらい、そういった分野に明るいのだ」
本当に? 表情に出てしまっていたのだろう。シェナイが面白くなさそうな顔を寄せてくる。豊満な胸元が近い。
「これでも女の端くれですからね。小さい頃から装飾品に囲まれて育ってきたわ。それ自体はあまり自慢できることではないけれど、せっかくエルヴァンが私を頼ってくれたんだもの。役に立ってみせるわ。・・・それとも、アイディンは仕事を見ずに第一印象だけで決めてしまうような男なのかしら?」
「・・・いいだろう」
挑戦的なその目は悪くなかった。それに、アイディンは弁の立つ女は嫌いではない。
「そこまで言うのなら、きっちり結果を出してもらうぞ。来い、現物を見せてやる」
俄かに好戦的なムードを漂わせる師匠と姉に困惑したエルヴァンをそのままに先に室内に入る。シェナイに長椅子を勧めてアイディンはその向かいに座る。遅れて入ってきたエルヴァンはシェナイの横に腰掛けた。
「これがその石?」
明るい外から急に室内に入ったため、視界はまだ完全ではない。その視界でもってしても、机の上に置かれた緋翠の輝きは誰の目にもはっきりと確認できた。
「・・・綺麗ね」
やはり女性らしく、シェナイはほぅ、と息を吐いてそれを見つめる。
「手に取っても?」
「かまわない」
しばらく近付けたり遠ざけたりを繰り返すシェナイを二人で見守る。するとシェナイは、光に当てての確認が終わったのか、指先で弾き始めた。ぶつぶつと小さく呟く。
「しっかりとした硬さがあるわね・・・。ぶつけた程度で傷つくことはなさそう。重さも見た目以上に軽いわね。・・・いいじゃない」
青の瞳がキラキラと輝き出す。
「エルヴァン。紙とペンを借りられるかしら?」
「もちろんだ。姉上、これを」
エルヴァンから一式を受け取ったシェナイはものすごい速さでペンを走らせる。紙の上に次々と簡単な下書きができあがっていく。
正直に言おう、そのときアイディンはただただその勢いに圧倒されていた。
そして、軽く一〇枚ほど描いてからシェナイはペンを置いた。
「見てもらえる?」
「・・・・・・」
黙って手に取る。驚いた。首飾りに腕輪や指輪、耳飾り。女性が好みそうな装飾品がどの紙にも所狭しと描かれている。どれも繊細で、細やかで、華やかだ。文句のつけようがない。
「見事だな」
虚勢を張るスキもない。
「ふふ・・・。合格かしら?」
「あぁ。間違っていたのは俺の目の方だったらしい」
「姉上。どれも素晴らしいデザインだと思う」
「ありがとう」
これはいい。エルヴァンに続いて、期待していなかった人物が予想以上に使えるというのは得した気分になる。弟子は実にいい人物をカレンデュラに呼んでくれた。
「これは?」
最後のページにあたる一〇枚目で手を止める。趣向が変わったのか、随分無骨で大胆だ。指輪や腕輪が多く描かれている。
「あぁ、それは男性用の方の案ね。この石の色味なら男性が持っていてもおかしくないわ。女性用と揃いで考えても面白そうだし」
「なるほど。揃いか」
確かに面白い。夫婦や恋人同士で似たデザインを持ちたがる人もいるだろう。
「先程の非礼は詫びる。お前に正式に頼みたい。やってくれるか?」
「エルヴァンの頼みだもの。断るはずないわ」
「姉上・・・! ありがとう・・・!」
少しも悩むことなく即答された。エルヴァンは余程この姉に溺愛されているらしい。
「ね、試しに幾つか作ってみてもいいかしら?」
「それはこちらも願ったり叶ったりな話だ。頼んでいいのか?」
「もちろんよ」
「しかし、製作する環境はあるのか?」
「それは姉上なら問題ない」
エルヴァンが口を挟む。そりゃそうか、エルヴァンが良いところの出ということは、姉であるシェナイもそうなのだろうし。お抱えの職人でもいるのかもしれない。
「ならこちらからお願いする。石は好きなだけ持って帰ってくれ」
大まかな製作スケジュールを調整し、詳しくはまた明日、となったときだ。アイディンは切り出した。
「シェナイはどこか宿をとっているか?」
「えぇ、ここからそう離れていない場所に。荷物も預けたわ。それがどうかした?」
「今夜はエルヴァンもそこに連れて帰ってやってくれ」
「どういうこと?」
「コイツは今、ここで寝泊りしている」
「なんですって?」
ぴしり。空気が瞬時に凍りつく。知られたくなかったのだろう、ぎくりとエルヴァンが身体を小さく縮こませる。
「エルヴァン、どういうことか説明してくれるかしら?」
「いや姉上、意外と不便ではないのだぞ。この周辺は静かだし、横たわって休むこともできる」
「奥にベッドでもあるの?」
「そんなものない」
「アイディン殿・・・!」
「ならどこで?」
無言でシェナイが腰掛けている長椅子を指す。シェナイの表情を見るに、それだけで伝わったようだ。そして、アイディンの言いたいことも。
「エルヴァン。あなたとは一度話さなければならないようね」
「あ、姉上」
よかった。シェナイはエルヴァンよりきちんと常識がある。年頃の自分の妹が、こんな所で寝泊りしているのを良しとしない程度には。
「エルヴァン、あなたの爺が泣くわよ。あなたが長椅子で休んでいるなんて知ったら」
「う・・・」
ちなみに、港で夜を明かしたこともあったんだぞ。言わないけど。
「私が近くに部屋を借りてあげるから、これからはそこから通いなさい」
「そんな姉上。姉上にそこまでして頂くわけには」
「泣くわよ」
「だが」
「いいわね?」
「・・・分かった。この恩はいつか必ず返す」
二人の普段の力関係が見えた。アイディンはエルヴァンが引いたのを初めて見た。エルヴァンを納得させたいならシェナイを連れてくる、頭に刻む。
「アイディン、教えてくれてありがとう」
「いや、こちらこそ礼を言う」
これでアイディンも店に泊り込めるようになる。それにやはりエルヴァンを夜一人で店に置き去りというのも気になっていたし。
「じゃあ今日は帰るわね」
「ではアイディン殿。お先に失礼する。また明日」
「ああ」
エルヴァンー。今日は久しぶりに一緒のベッドで眠りましょうねー。あ、姉上! 何を言っているのだ。そんなこと私にはできない。たまには姉様のお願いをきいてくれたっていいじゃない。しかし・・・!
騒がしい声が少しずつ遠ざかってゆく。
こうして、台風はエルヴァンを巻き込んで去っていった。
「毎度ありがとうございましたー」
愛想のいい店主に会釈して、エルヴァンは店への道を歩く。お遣いもすっかり慣れたものだ。アイディンの弟子になって随分経つ。今ではエルヴァン一人で市場を迷わずに歩くことができる。
市場をゆっくり見る余裕が生まれ始めた最近のエルヴァンには、不思議に思ったことがある。それは胡椒の価格である。
以前講義で、アイディンが胡椒の希少価値をエルヴァンに説いたことがあった。希少価値があるものはそれだけで魅力的な商品と成り得るものなのだと。しかし、市場に溢れる胡椒の数は多く、価格はどう高く見繕ってもせいぜい塩の三倍程度しかないのだ。市場平均価格はおよそ100クルツ。単純計算で胡椒は塩の十倍の価値がある、そうアイディンは言っていたのに。
その疑問を解消しようと、ちょうど都合良く客がひいた店舗の店主らしき男に近づく。
「いらっしゃいませ」
「つかぬことを聞くが、胡椒の値段は本当にこれで間違いないのだろうか?」
「胡椒? 値段は間違いないですよ。それがどうかしましたか?」
「いや、私は元はこの都市の者ではなくてな。随分と、その、安くないだろうか?」
「あぁ。他所から来た人ならそう感じるでしょうね」
店主はゆっくりとエルヴァンの傍らにある胡椒瓶を手に取ると、人好きのする笑顔を浮かべた。
「カレンデュラには奇特な商人がいましてね。彼はこの市場で胡椒を占めている若い商人なんですが、「この値段より高く売る店には胡椒を卸さない」なんて言っているんですよ。本来ならその商人は自分の好きなだけ高値で取引できるんですがね。まぁ、私たち市民は安く手に入れられるので有難いかぎりなんですが」
「ほぅ」
その若い商人とはきっとアイディンのことだ。師匠のことを良く言われて、エルヴァンは自然と嬉しくなった。
「アイディン殿はすごいな!」
「なんだ、突然どうした」
「今日、市場で聞いたのだ。アイディン殿は胡椒の卸売りを市場で独占しているのだろう? その上でそれを安く提供している。素晴らしいことだ」
帰ってきた途端、そう言い出したエルヴァンに面食らう。興奮で顔が赤い。
「俺は市場の胡椒を独占などしていないぞ? せいぜい七割ほどだな」
「しかし、アイディン殿が価格を決めておるのだろう? 独占しているから好きに価格を決められているのではないのか?」
「俺は必要最低限の利益が出る値で売っているだけだ。安く売る分には必ず売れるからな」
「必要最低限?」
「他の商人が俺より高い値をつけてももちろん売れない、俺が安く売ることで市場の相場が決まっているからな。そして俺より安い値をつけても赤字になるだけだ」
どうだ、師匠がふんぞり返って笑う。
「実際にはそうでなくても、独占しているように見えるだろう?」
見える。実際、エルヴァンも先程までそう思っていた。それに、アイディンが胡椒を独占していると勘違いさせておけば、新たな商売敵がこの分野に手を出してくることを防げる利点もある。
「嗜好品ならいざ知らず、生活必需品かそれに近い消耗品など安く売っても利益は出るからな。わざわざ高く設定する必要はない」
生活に直結している商品はよく売れるし、相場がころころ変わればそれだけ市民の生活に影響を与える。だから、アイディンが商人になって初めて取り扱った商品は塩、小麦、胡椒だった。市場相場の安定を一番始めの目標としたのだ。
それに、胡椒を利益率ギリギリで販売する利点は他にもある。市民や小売業者は胡椒を安く売ってくれる商人としてアイディンのことを知っている。そのため、アイディンはそれらの人達におおむね好意的な目で見られている。その副効用(追加効果)で、特別安くしていない他の競合商品も売れやすくなるのである。
「いや、それでもだ。必要最低限にしても安すぎるのではないか? 塩の十倍の価値が胡椒にはあるのだろう? 仕入れの段階で赤字ではないか」
「その点は大丈夫だ。専用の農場を持っている」
「専用の農場?」
「胡椒をいかに安く販売することができるかが、カレンデュラで成功できるかどうかのポイントなのは分かっていたからな。商人になったばかりのときに、一人で西方まで行って栽培方法を学んだ。まず小さな農場を自分で始めて、それを少しずつ大きくしていった」
つまり、アイディンには現地で胡椒を購入する必要が全くない。アイディンが破格の安さで胡椒を卸せるカラクリはここにある。
「アイディン殿・・・!」
「なんだ」
「アイディン殿は本当にすごいな! 私はアイディン殿の弟子で本当によかった」
「褒めても何もやらんぞ」
「それに、多くあるというのは本当に素晴らしいことだな。誰もそれを奪い合うことなく、全ての人がそれを手にすることができるということだものな!」
エルヴァンの紫の輝きは最大値だ。弟子の感激具合はこの瞳を見れば、簡単に確認できることをアイディンはとっくに知っているのだ。
それから数日して、シェナイが店を訪れた。力いっぱいエルヴァンを抱き締めそれに満足してから、彼女は本題に入った。試作品のお披露目である。
「どうかしら」
「凄いな・・・」
見事と言う他ない。この間見た下書きなんかよりずっといい。試作品なんてレベルの完成度じゃない。
「これが一番の自信作なのよ。碧が映えるように、極力他の色は使わないようにしてみたの。強度も十分だし、これぐらいシンプルなら普段から着けていられるでしょう?」
並べられた装飾品の数々。その中から特にシェナイが推したのは、白銀の金属に緋翠を等間隔に散りばめたシンプルな腕輪だった。大きさが幾つかあるので、男性でも女性でも身に着けられるようにしたのだろう。
「こりゃ、すぐにでも売れるぜ。俺だって欲しいぐらいだ」
「あら、ドゥーダだったらこっちの大振りの指輪の方が似合うんじゃないかしら」
「これか。・・・どうだ?」
「なかなかいい男に見えるわよ」
くすみ加工を施された金の指輪を身に着けたドゥーダとそれを見たシェナイが盛り上がる。陽気な二人は気が合ったようで、顔合わせから数回経った今、まるで旧知の友人のように仲が良い。
「やっぱり実物になると印象が変わるから、細かい手直しを加えたいところもあるけどおおよそのデザインはこれでいいと思うの。アイディンはどう思う?」
「デザインに関しては全てお前に任せる。下手に口出しした方が邪魔になりそうだ」
「そうそう、アイディンに聞くだけ無駄だぜ」
「ドゥーダ・・・」
「はいはい」
「姉上にはこちらのものが似合いそうだな」
「そう? エルヴァンに選んでもらえるなんて嬉しいわ」
エルヴァンがシェナイに勧めたのは、耳の出る髪型のシェナイにぴったりのドロップ型の耳飾りだ。形良い耳元にそれを持っていったシェナイを見る。確かによく似合っていた。
「こりゃあ、本当に相当でかいことができるんじゃないか?」
「できるんじゃない、やるんだ。ドゥーダ、物件の方はどうだ。目ぼしいものはあったか?」
「幾つか候補は見つけておいたぜ。持ち主に軽く話してあるから、見学もすぐできる。毎月賃貸するより、物件ごと買い取った方がいいんだろう?」
「ああ。初期投資は高くつくが、長い目で見たらその方が都合がいいからな。中をいじっても文句を言われずに済むし」
「じゃあこの辺かな。時間の都合をつけられる日を教えてくれ。案内するから」
「分かった」
「ドゥーダってちゃんと仕事してるのね」
「おいおいシェナイ、失礼な奴だな。頼まれた仕事は俺だってちゃんとするさ」
と言いながらもドゥーダに怒った様子はない。冗談だと互いに分かっているのだ。
「・・・どうした? エルヴァン」
さっきまで嬉しそうにキラキラして話を聞いていた弟子の様子がおかしい。
「姉上はデザイン。ドゥーダ殿は物件探し。アイディン殿はその全てを管理している」
「ああ」
「それがどうかした?」
「・・・私は何をすればいいだろうか。このままでは私だけ役に立てていない」
そんなことで落ち込んでいたのか。そもそも緋翠を見つけてきたのはエルヴァンなのだが、それを忘れたのだろうか。
「安心しろ。お前にもきっちり仕事はある」
「っなんだ?」
机に広げられた試作品を見る。指輪はドゥーダ、耳飾りはシェナイが持っている。エルヴァンの顔と装飾品を何度も見比べる。この顔を利用しない手はない。
「これを着けてみろ」
「これは?」
「あら、アイディン意外と見る目あるじゃない。貸して、着けてあげる」
シェナイが受け取って背後に回る。当のエルヴァンは置いていかれたままだ。
「お、いいね」
「似合うわよ、エルヴァン」
「・・・・・・」
「あの・・・」
アイディンが選んだのは頭飾りの一種だった。金具を後ろ髪の下で留めて、ぽつんとついた大振りの緋翠を額に垂らして着ける物。短めの首飾りをそのまま頭に載せたようなものだと言えばいいのか。
思った以上にいい。金の髪と碧は互いを引き立てあっているし、大振りの石が一つだけのシンプルなデザインもエルヴァンの顔によく似合っている。紫の瞳と緋翠の碧が喧嘩してしまうかと思ったが、それも問題ないようだ。
「あの、アイディン殿?」
「エルヴァン、お前はこれを片時も離さず身に着けていろ。いいな、それがお前に一番向いている仕事だ」
「? 分かった」
「シェナイ、今回お前が作ってきてくれた物は工賃を考えてお前の好きにしていい。ただ、これはエルヴァンにやってくれ」
「こんなに似合ってるんだもの、もちろんよ。試作品なんだから有効活用しましょう」
「礼を言う。・・・ならその指輪はドゥーダ、その耳飾りはシェナイ、お前達が同じように身に着けていてくれ」
「俺ももらっていいのか?」
「かまわないわ。それで私達は、より多くの人の前を歩けばいいわけね?」
「話が早くて助かる」
「なるほどな」
「すまない、私を除け者にしないでくれ・・・」
「いきなり店舗に商品を置いてもそう簡単には売れないでしょう? まずはこの緋翠を皆に知ってもらうところから始めるってこと」
つまり、歩く広告塔だ。そしてこれにうってつけの人物はエルヴァン以上にはいまい。シェナイだってアイディンのタイプでないだけで美人だし、宣伝としては十分だ。まぁ、ドゥーダは正直ついでだが。
「なるほど」
「アイディンもやるのか?」
「俺はいい」
「あら、どうせだから皆で着けましょうよ。はい、アイディンはこれね」
強引に残っていた白銀の腕輪を渡される。男性用なのだろう、金属の幅が広い。つき返そうと思ったが、シェナイと押し問答になるのが容易に想像できてしまった。仕方なく左腕に通す。重さはほとんどないし、これぐらいなら邪魔にはならないだろう。
「これでいいんだろう・・・」
アイディンは腕輪。エルヴァンは頭飾り。シェナイは耳飾り。ドゥーダは指輪。狙ったわけではないが、上手い具合に全員バラバラに行き渡った。試作品で残っているのは女性用の腕輪と華奢な首飾りだ。
「姉上、この首飾りだが私がもらってもいいだろうか」
「あら、それも気に入った? いいわよ」
「すまない、私が着けるわけではないのだ。・・・アイディン殿、この首飾りをサリーネ殿にさし上げようと思うのだが、どうだろうか?」
「サリーネ夫人に?」
「ここ最近、頻繁に商品を買ってもらっているだろう? それにサリーネ殿は顔が広いようだし、身に着けて頂けたら意味はあると思うのだが」
確かに貴族の夫人なのだから、アイディン達以上に緋翠が人目に触れる機会は多いだろう。なかなかいい着眼点だ。
「いいんじゃないか。ぜひ受け取って頂いて来い」
それからしばらく経った商品納品の際、エルヴァンは予定通りに首飾りを取り出した。
「サリーネ殿。今回はよろしければこちらもお受け取り下さい」
「あら、とても綺麗。これは?」
「近々、私共が新たに販売しようとしている商品です。アイディン殿が「夫人にぜひに」と申しておりましたので」
アイディンに絶対にこれは言え、とエルヴァンは言い聞かせられていた。
「エルヴァンが着けているそれも同じ物なのかしら?」
「はい、同じ石を使用しています」
そう答えるエルヴァンの額には、アイディンの言いつけ通り、頭飾りが着けられている。エルヴァンの額の緋翠は、今も澄んだ輝きを放っていた。
「あなたにとても似合っているわ」
「ありがとうございます。・・・喜んで頂けるでしょうか?」
「もちろん嬉しいわ。ありがとう、アイディンにもそう伝えてね」
「分かりました」
そうして、華奢な首飾りがサリーネ夫人の胸元に飾られる。その姿を手鏡に映して、にこりと微笑む。それを受けて、サリーネも無邪気に笑う。
「大変お似合いです」
「ふふ、ありがとう。こちらの商品は他にもあるのかしら」
「もちろんございます。今回は首飾りをお持ちしましたが、指輪や腕輪、耳飾りなどもご用意しております。男性用もありますので、旦那様にも一度見て頂けたらと思います」
「そう。では今度、見せて頂きますわ。主人はおそらく着けないだろうけど」
「・・・余計なことを言いました。申し訳ありません」
「いいのよ、エルヴァン。装飾品を好まない殿方は少なからずいるでしょう? 私の主人がそうだっただけのことよ」
「そう言って頂けるとありがたいです。・・・では、私はこれで失礼します」
「えぇ、またね。エルヴァン。首飾りどうもありがとう」
二階の窓から去っていくエルヴァンに手を振る。少しずつ、その金色が小さくなっていくのをそのまましばらく眺める。
「貴女らしくもありませんね」
「ジェミル様。お見えになっていたの?」
いつの間にか背後に立っていた痩身の男に視線をやる。室内に入ってきていたのに気づかなかった。サリーネにジェミルと呼ばれた男は、一目で上流階級以上に属すると分かる、身なりの良い青年だった。けれどその瞳だけが、ひどく冷たい。
サリーネはこの男の名以外何も知らない。いつもどこからともなく現れて、ふっといなくなる。夫も知らない、サリーネの秘密のお友達だ。
「覗き見だなんて、はしたないですわよ」
「これは手厳しい。美しい華を遠くから眺めていただけですよ」
本心を隠した会話だ。二人とも話の内容をそこまで気にしていない。
「それで、何が私らしくないのかしら?」
「それは貴女が一番ご存知でしょう?」
ジェミルは彼女に跪き、恭しくその手の甲に口付けた。
「美しきマダム・サリーネ。貴女が欲しい物を前にして、尻込みをしているなど。この目で見た今も、私は信じられない気持ちでいっぱいですよ」
「ふふ。お楽しみをすぐに手に入れてしまったら面白くないでしょう?」
妖艶な笑みをサリーネは浮かべる。先程エルヴァンの前で見せた笑顔とは全くの別物の笑みだ。サリーネの本質とも言えるその笑みを知る者は、ジェミルを含めあまりいない。少なくとも、表の世界には。
サリーネには、貴族の夫人という表の顔とは別に裏の顔がある。彼女は生物の眼球に異常な執着を持っている。もはや一種のフェティシズムと言ってもいい。表の世界で無邪気な顔で美しく笑うサリーネは、裏の世界では有名な生粋のアイコレクターなのだ。
「けれど・・・そうね。アレは瞳だけじゃなく容れ物もとても綺麗だわ。そろそろ私の物にしてしまおうかしら」
「ならば、貴女にこれを」
「これは?」
「しばし優しい夢へと旅立つための秘薬ですよ」
その後は貴女のお好きなように。
そうして、サリーネの右手に琥珀色の液体が入った小瓶が渡された。
「アイディン殿、少しいいだろうか」
「どうした、エルヴァン」
精製所の物件も目処がついたし、今は特別忙しくしている状況ではない。珍しく神妙な弟子の表情に、話を聞く体勢を整えてやる。ここ最近、何か考えこんでいるように様子がおかしかった理由もこれで知れるだろう。
「話があるのだ」
「ああ」
エルヴァンが意を決したように顔を上げる。額の緋翠が揺れる。
「緋翠の販売価格について相談なのだが・・・」
「ああ」
確かにエルヴァンの言う通り、まだ具体的にどのくらいの値にするか考えていない。考えるための判断材料がまだ足りていないのだ。
「可能な限り、安価にしてほしいのだ」
「何?」
「これがただの私の我侭なのは百も承知だ。だが、私は緋翠を市民にとって身近なものにしたい。誰もが無理せず手に取れる商品にしたいのだ」
「高い値をつければ、それだけ儲けになるんだぞ? 緋翠を持っているのは俺達だけなんだからな。胡椒とは違う、正真正銘独占状態だ」
だからこそ、カルロともそういう契約を結んだのだ。自分達以外に紺灰石を売らないように、と。幸い、シェナイのデザインならば、多少高値に設定しても問題なく売れるだろう。それはエルヴァンだって知っているはずだ。
「確かに、緋翠を高く売れば私達は利益を得られる。それは分かっている。けれど、それだけだ。アイディン殿は以前言っていたではないか。富は移動させねばならないと。高値で売っていたら、富は私達の所で止まってしまう。富は循環させねばならんのだ」
「エルヴァン・・・」
「緋翠は十分にある。その緋翠を加工する人を雇うには金がいる。しかし、そのための金は緋翠が売れないと手に入らない。ならば、その緋翠の値は、塩や胡椒と同じように市民が気軽に買えて、このぐらいなら欲しいと思える範囲が妥当なはずだ」
随分と必死な弟子の様子に、アイディンは素直に驚いた。まだまだ計算は甘いが、エルヴァンが言っていることは一概に間違っているわけではない。つまり、一理ある。
「私はそう思ったのだが、駄目だろうか・・・?」
黙っているアイディンに不安になったのだろう。エルヴァンが自信なさげにこちらの様子を伺ってくる。
「お前は最近ずっと、そんなことを考えていたのか?」
「ずっとではないが、アイディン殿に胡椒の話を聞いてからうっすらとは考えていたのだ。物を独占しているからと言って、安易に高値をつけるだけが正解なわけではないと」
確かあのときのエルヴァンは、胡椒が多くあるということを大層喜んでいた。望む全ての人の手に渡ることに感激していた。そういうことか。
「・・・価格付けは加工にかかる費用とも示し合わせて設定しなければならない、今ここで決められるものではない」
「・・・」
そんなあからさまに落ち込んだ顔をするな。最後まで聞け。
「が、いいだろう。もちろん俺達も儲けさせてもらわねばならんから、とんでもなく安価ということはできないが、覚えておく。今後に続く、妥当な金額にしよう」
「アイディン殿・・・! ありがとう・・・!」
師匠の気づかぬうちに、弟子はまた大きくなったようだった。
それから数日経ったある日、いつものように商品を納品しそのまま場を辞そうとしたエルヴァンを、サリーネ夫人は呼び止めた。
「エルヴァン、あなたを今夜の夕食にお誘いしたいのだけれど、いかがかしら?」
「ありがたいお言葉ですが、サリーネ殿の旦那様に無断でそのようなことはできません」
「そんなこと気にしなくてもいいのよ。夫は仕事が忙しくて滅多に帰ってこないの。一人での食事は寂しいものなのよ。私を喜ばせてくれないかしら?」
「サリーネ殿、私はまだ見習いの商人にすぎません。お客様のあなたと共に食事をするなど、無礼にあたります」
「そんな・・・。私はあなたとお友達のつもりでいたのだけれど」
「それは光栄です。ですが、師匠のアイディンを差し置いて、弟子の私だけがそのお誘いを受けるわけにはいきません」
意外と律儀なあの師匠は、エルヴァンが戻るまで待っていてくれるだろう。ここでエルヴァンが帰らなければ、アイディンは何も知らずに店でずっと待ちぼうけだ。
「あらそんなこと。ならばアイディンにはこちらから使いの者を出しますわ。あなたの師匠も呼んで、皆で食事と致しましょう」
「ですが・・・」
「ね、いいでしょう? それともエルヴァンはそんなにも私と一緒に食事をするのはお嫌?」
「いえ、そのようなことは」
「なら一人寂しいお客様をもてなすつもりでかまわないわ。ね、お願い」
「そこまで言われるのであれば・・・」
サリーネ夫人の勢いに負けて、エルヴァンはしぶしぶと了承する。アイディンは知らないが、エルヴァンは基本的に女性の押しには弱いのだ。なので、かつてないほどの強引な夫人の押しにエルヴァンは頷くしかなかった。結果としてエルヴァンは、そこに違和感を覚えるべきだった。
エルヴァンの不幸はこの場にアイディンがいなかったことではなかった。使いの者をやったので、じきに師も来るというサリーネの言葉をそのまま信じて、そう深く考えずに夕食の席に先に座ってしまったことであった。
「嬉しいわ。今日はとっても素敵な夜になりそう」
自身の年齢を理由に酒を辞したエルヴァンの前に、美しい硝子のグラスが置かれる。グラスの中は無色透明な液体で満たされている。サリーネに勧められるままに、それを手に取って口元に近づける。
「アイディンが来るまで、これで喉を潤して待っていましょう?」
「何か甘い香りがしますね」
「リラックス効果がある蜜を垂らしてありますの。エルヴァンが疲れているのではないかと思って。どうぞお飲みになって」
「お心遣い感謝します。ではいただきます」
そして、サリーネの絡めとるような視線に気づくことなく、エルヴァンはグラスに口をつけそのまま大きく傾けた。
「エルヴァンはまだ帰らないの? 随分遅いんじゃないかしら」
「この様子だと、サリーネ夫人に夕食にでも誘われたのかもしれんな」
「そんな・・・、私は可愛いエルヴァンに会うためだけに待っているのに・・・」
俺は完璧にオマケか。心中で突っ込む。アイディンは今、随分久しぶりに店を訪れたシェナイと二人きりだった。先程ここ最近姿を見なかった理由を問うたが、「女には秘密が付き物よ」と相手にされなかった。そういえば、エルヴァンの姉ということ以外、シェナイの素性や普段何をしているかなどアイディンは何も知らない。まぁ、それは同じように弟子にも言えることだが。
長椅子に座ってぼやき続けるシェナイの横顔を眺める。その横顔と、見慣れた弟子の横顔はアイディンの中で重ならない。
「お前達はあまり似てないな」
気が緩んでいたんだろう。自分の心の内にだけ留めておくつもりだったのに、ついぽろっと口に出してしまった。
「母親が違うからかしらね」
「それは・・・すまない」
「いいのよ。気にしてないわ。エルヴァンの他にも兄や弟、妹もいるわ。姉はいないけどね」
「随分多いな」
「そりゃあもう。覚えきれないほどにね」
こちらを振り向いたシェナイが、言葉通り何も気にしていない顔で笑う。
「弟や妹達は皆可愛いわ。けどその中でもエルヴァンは特別。いつでも私に笑いかけてくれて、私を否定したりしない。・・・エルヴァンは大事な大事な私の唯一よ」
自分の家族を、素直にそう言えるのはいいことだ。生憎、それを羨ましいと思う感情はアイディンにはないが。
「アイディンには? 兄弟はいないの?」
「絶対に相容れない愚兄が一人いる」
「・・・仲は、悪そうね」
「ここ十年、顔も見ていない。さすがに死んではいないだろうが」
「もう会うことはないの?」
「俺も会いたくないが、あちらも会いたくないと思っているだろう。このままならどちらかの葬式で死に顔とご対面だろうな」
アイディンはずっとそう思っている。それを悲しく思う感情もない。
「ふふ」
「何がおかしい?」
「死に顔を見に行くぐらいにはまだ情が残ってるのね、と思って」
「・・・」
深く考えてはいなかったが、確かにそう取ることもできる。アイディンは少しばつが悪くなった。
「ま、お前達のように仲睦まじくというのは絶対にないだろうがな」
「仲睦まじく見える?」
「当たり前だろう」
正直、うっとおしく感じるほどにシェナイとエルヴァンは仲が良いと思う。シェナイはエルヴァンを目の中に入れても痛くないほどに可愛がっているし、エルヴァンもシェナイに全幅の信頼を置いているように見える。
「嬉しいわ」
アイディンにとっては面映い空気が場に流れる。誰にも言ったことはないが、シェナイはエルヴァンのことで笑うときが一番魅力的だと思う。
「エルヴァンはそんな姉を待たせて何をしているのかしら」
「またそれか。お前もう今日は帰れ」
堂々巡り。また話がスタート地点に戻ってしまった。柔らかい空気が霧散する。
そのエルヴァンが今まさに危機に見舞われているなど、二人は想像もしていないのだった。
「う・・・」
暗い室内でエルヴァンは目を覚ました。身体が動かない。椅子に座らされているようだが、この暗さでは周りを確認することすらできない。
「目が覚めまして?」
椅子に座ったまま動けないエルヴァンの近くから声がかかる。その声の主のサリーネはうっとりとエルヴァンを見つめている。随分と距離が近い。
「サリーネ殿、これはいったいどういう」
べろり。出掛かった言葉を飲む。反射的に閉じてしまった目蓋を無理やり開かされ、眼球をそのまま舐められる。暗がりの中でも婦人の顔はとても赤い。まるで酒に酔っているかのようだ。いや、実際酩酊しているのと同じ状態なのだろう。こんなにも至近距離でエルヴァンを見ているのに、婦人の瞳にはエルヴァンの紫の瞳しか映っていない。
「美味しい・・・」
「くっ、サリーネ殿・・・」
「私、あなたを初めて見たときからそれが欲しくてたまらなかったですのよ。なんて綺麗な紫の瞳・・・私の紫水晶」
舐られて生理的な涙が出た。その雫すらも美味しそうに舐め取る。
怖い。
「落ち着いてくれサリーネ殿。どうされたというのだ」
「あなたには特別に私の宝物を見せてさしあげますわ。その綺麗な瞳でちゃんと見て下さいね」
会話が成立していない。エルヴァンの投げる言葉は全てサリーネをすり抜けてゆくようだ。
「・・・っ!」
サリーネが部屋の蝋燭に火を灯したことにより室内が明るくなる。部屋中が見渡せるようになって、エルヴァンは絶句した。
大きさも様々の、色とりどりの目。め。目。メ。目。眼。目。瞳。目。見渡す限りの物言わぬ瞳が四方からエルヴァンを見下ろしていた。それらを背にして、サリーネが不自然なほどに妖艶に美しく笑う。
「綺麗でしょう・・・? 大陸中から集めましたのよ。今からあなたもこの仲間に入れてさしあげますからね」
「う・・・」
吐き気がする。冗談だと思いたいが、サリーネが冗談を言っているようには見えない。エルヴァンが今まで見ていたサリーネ夫人と違いすぎる。懸命に身体を動かそうとするが、びくともしない。見る限り縛られてもいないのに、何故だ?
「逃げようとしても無駄ですわよ。あなたは動けない」
「・・・水か?」
「そう。先程あなたが飲んだあのお水に魔法をかけさせて頂きましたの」
大方、何か薬でも入っていたのだろう。甘い香りがしたのはこの効果であったのだ。
突如思い出す。かつてのアイディンの言葉を。
『簡単に人を信じるな。人は決して善ではない。限度を間違えば信じることはただの思考放棄で大馬鹿者がすることだ。適度に疑え。信じることはできれば確かに楽かもしれんが、自分の責任を放棄して誰がそれを代わってくれるというのか』
あんなに口酸っぱく苦言を呈してくれていた師匠の言葉の意味を痛感する。サリーネ夫人に対する用心を、自分は怠ったのだ。知らずにすることはただの無知で済むが、知った上でしてしまったことは罪と同じだ。ならば、この後始末はエルヴァン自身でつけねばならない。間違っても、助けが来るのを待ってはいけない。それが当然だと思ってはいけない。
(アイディン殿・・・!)
喉元から出掛けた声をエルヴァンは懸命に堪えた。
(また巻き込まれてやがる・・・)
あまりにもエルヴァンの帰りが遅いため、アイディンはサリーネ夫人の屋敷を訪れていた。ちなみに、シェナイは途中からうるさくて仕方がなかったので、宿に無理やり帰してから行動した。
夜分の訪問を詫びたアイディンに、使用人達は皆一様に「エルヴァンはすでにこの屋敷から帰った」と応対した。すれ違いになったかと思ったが、どこかアイディンと目を合わせようとしない使用人達を不審に思い、こっそりと敷地内に侵入してみたらこれだ。使用人達が近付かない方を彷徨っていたら、エルヴァンがサリーネ夫人に捕まっている場所に行き着いた。外壁に耳を押し付けるとなんとか、二人の話す声が聞こえる。
(アイツを気に入っていたのは、瞳欲しさだったのか・・・)
上得意客のサリーネ夫人は、なかなかに稀有でクソッタレな嗜好の持ち主だったらしい。
「エルヴァン、私あなたのこととっても気に入ってましてよ」
だから。サリーネが息を吸って、吐く。
「選ばせてあげる。あなたは瞳だけじゃなく、その姿もとても綺麗だわ。あなたがこのまま私の可愛いお人形になってくれると言うなら、その瞳ごと私のそばでずっと愛してあげる」
命だけは助けてやる、そう夫人は言っているのだ。眼球をくり抜かれたショックで大抵の者は死んでしまうだろうし、夫人からしたらそれは破格の対応を提示したつもりなのだろう。実際、殺されるよりマシだと、その選択をする者もいるかもしれない。
「夫人、私は貴女のコレクションの一つになるつもりも、ましてや聞き分けのいいお人形とやらになるつもりもない。私には、為さねばならないことがあるのだ」
だが、エルヴァンにそのどちらかを選ぶという考えはない。たとえ、この返答でサリーネの怒りを買ってしまうとしても、だ。
壁に耳をつけて、それを聞いていたアイディンは堪らず苦笑した。
正直に言おう。ここでエルヴァンが無様に助けを乞うたら、アイディンは弟子をひとまず見捨てるつもりであった。常日頃口酸っぱく言ってきたのだ、「信じすぎるな。その上で信じるのならその結果に生じた責は自己で負え」と。アイディンにはどういう経緯でこうなったかは分からないが、少なからずエルヴァンの用心が足りなかった結果の出来事なのだろうと思う。自業自得とまでは言えないが、きっと回避する方法はあったはずだ。
そして、彼の弟子は優秀な教え子であった。エルヴァンは果敢にも夫人に盾突き、助けを呼ぶような行為をしなかった。今のエルヴァンの表情は想像するしかないが、きっと覚悟の決まった瞳をしていることだろう。
とりあえずは、合格だ。
ここでアイディンは大声を張り上げた。
「夫人! サリーネ夫人! 夜分遅く申し訳ない。アイディンでございます!」
しばらくして、アイディンの前に夫人が姿を現す。アイディンの知るサリーネと何も変わらない姿に見える。なかなかの役者だ。
「殿方お一人で来るには無作法な時間でしてよ」
「申し訳ございません。どうしても、今日中に終わらせねばならない仕事がございまして、ご無礼を承知で失礼致しました」
「なにかしら」
「夫人から返して頂かねばならないものがございます」
「・・・」
「不肖の弟子が、まだ帰りません。連れ帰らせて頂きます」
「弟子? エルヴァンがどうかしまして?」
「夫人、誤魔化しても無駄です」
普段なら騙されたかもしれないが、アイディンはすでに知っているのだ。ここですぅと大きく息を吸い込む。
「おいエルヴァン!! 聞こえているだろう、俺だ、アイディンだ!! いろいろ言いたいことはあるが、仕方がないから助けてやる!!」
暗い屋敷にアイディンの声が響き渡る。しーん、と静まり、返ってくる音はない。
「何もないようですけれど?」
変に意地を張っている場合か! あの馬鹿!
「おい、馬鹿弟子!! 意地を張らずに声をあげろ!! 自分の行動に責任を持てとは言ったがな、いざ助けが来たなら責任なんて気にせずにきちんとその助けの手を取れ!!」
「アイディン。これ以上騒ぐようなら、兵士を呼びますよ」
「おい、聞いたか、エルヴァン! このままだと、俺は謂れのない罪で兵士に捕まるらしいぞ!! 俺はそんな薄情な弟子を持った覚えはないぞ!」
これで返事がないようだったらもう知らん。そう思いながらも、アイディンの耳は少しの物音も聞き漏らさないように集中している。
「・・・んーんー!」
遠く声が聞こえる。不明瞭なその音は、猿ぐつわでも噛まされているからか。そりゃそうだ、喋れる状態で放置したりなどしない。
「夫人、失礼しますよ」
強引に音のする室内に続く扉に向かう。諦めたのだろう、サリーネから制止の声は上がらなかった。
「エルヴァン!」
勢いよく扉を開け放つ。目玉だらけの室内の真ん中にある椅子の上に、布を噛まされたエルヴァンが座っていた。
「おい、エルヴァン。帰るぞ」
「アイディン殿・・・! すまない。感謝する」
唾液を吸って湿った布を引き抜いてやって、エルヴァンの腕を引っ張る。動かない。
「おいどうした、しっかり立て。こんな気色の悪い部屋、俺は一刻も早く出たいんだ」
「すまないアイディン殿。身体が全く動かないのだ。指一本も自分では動かせない」
確かに、掴んだエルヴァンの身体は力が入っていないのか、脱力しきっている。
「いちいち世話をかける弟子だな、お前は」
「すまない・・・」
しぶしぶ、背中におぶってやることにする。外見通りエルヴァンの身体は軽い。
(背負うならシェナイの方が楽しいな)
そんな下世話な考えが場違いにも頭に浮かぶ。アイディンも健康な男性だ、そう思ってしまっても仕方がない。そう思う程度に、エルヴァンは慎ましやかだった。
「では夫人。失礼します。貴女には大人としての対応を期待していますよ」
「アイディン。あなたのその瞳も、私は嫌いではありませんでしたのよ。もっと赤が強ければ、いいコレクションになったでしょうに」
「それは・・・光栄です」
己の瞳まで狙われる可能性があったなんて知りたくなかった。ただの赤茶で本当によかった。見目が麗しすぎるのも考えものだ。やはり、己は今の自分の容姿に納得して生きていこう。気が抜けたのか眠ってしまったエルヴァンを背負って歩きながら、アイディンはそう思った。
サリーネの可愛いお人形は逃げ出してしまった。今の持ち主がサリーネのそれを許さず連れ戻してしまった。アイディンのことを少し見誤っていたのかもしれない。まさか、上得意客の自分を敵に回してまで弟子を助けようとするとは思わなかった。自分の利益のみを追求する商人と聞いていたが、どうやらだいぶ絆されているらしい。
アイディン達が今夜のことをこの都市の領主に訴えたとしても無駄だ。そんなもの、夫の力で簡単に握りつぶすことができる。普段から仕事に忙しい彼女の夫は、妻を美しい人形としてしか愛していないが、その人形を守るためだったら何だってしてくれる。そのことに関しては心配していない。だから、素直に残念でならなかった。
もうエルヴァンが自分に近付くことはないだろう。そもそも、アイディン達との繋がりももう望むべくもない。手に入れられないのならせめて、あの瞳を近くで見続けるぐらいで満足しておけばよかったのかもしれない。
そして、一人窓辺に佇む彼女の背後から声がかかった。
「マダム・サリーネ」
「・・・ジェミル様」
相変わらず気配を感じさせない、神出鬼没な男だ。
「今宵のことは残念でしたね」
「えぇ。・・・また新しいお人形を探さなくてはなりませんわ」
音もなく近付いてきたジェミルがサリーネに何か差し出す。それは彼女でも片手で十分に持てる、酒瓶のようだった。
「それは?」
「良い酒が手に入りましてね。本来は、勝利の美酒を貴女と一緒に飲みたいと思って持参したものですが、せっかくの機会です。貴女の悲しみを一緒に飲み干させて頂けませんか?」
「あら素敵。今グラスを持って来させますわ」
使用人に二つグラスを命じ、二人はその間に部屋に置かれた小さな卓につく。受け取ったグラスに静かに酒が注がれる。
「綺麗・・・」
「珍しい紫でしょう? 貴女のご執心と合わせて選んだのですが、逆効果になってしまいましたね」
「いえ、嬉しいですわ」
そして、カチンと小さな音を立てて乾杯をする。サリーネが先にそれに口をつけると、さらりとした甘さを舌に感じる。その様子をじっと見つめていたジェミルが聞き取れないほどの声で言う。
「貴女には、もう少し私の役に立って頂けると思っていたのですけれどね・・・」
「ジェミル様?」
「貴女はもう、用済みです」
するり。サリーネの手元からグラスが落ちる。それが地面に落ちて中に残った液体が床を汚す前にジェミルがそっと受け止める。
「それでは、マダム。良い夢を」
力の抜けたサリーネの身体を見下ろす。眠るように目蓋を閉じたサリーネの瞳が開くことは、もう二度とない。
ジェミルは受け止めたグラスをしっかりと夫人の手に握らせる。ジェミルの分のグラスはこのまま現場から持ち出してしまえばいいし、後はこれを持ってきた使用人の口を塞いでやればいい。これで、美しき貴族夫人の悲劇は完成だ。知らせを受けた夫は自分の妻が何を苦に思って命を絶ったのか、頭を悩ませるだろう。あまりにもうるさいようなら、その夫も同じ目に遭ってもらうまでだ。
「さて・・・」
物言わぬ人形にはもう興味はないのか、ジェミルはサリーネに一瞥もくれずにその場を後にする。
「次は、少し別の手で攻めるとしますかね・・・」
誰の息遣いもなくなった暗い室内に、ジェミルの声だけが響いた。