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染まる海、染める碧  作者: 泉水優飛
2/6

染まる海、染める碧 2章

     二、


 宝石箱盗難事件の翌日、朝日が昇ってから少ししてエルヴァンはアイディンの店に訪れた。

「では、今日からよろしく頼むぞ」

 ニコニコニコ。こちらにまでその擬音が聞こえてくるような笑顔である。昨日無残にも散った髪の毛は襟足のみ緩く残し、それ以外の部分は肩にかからないぐらいの長さで整えられていた。アイディンはそれに少しほっとした。

「始めに言っておくぞ。俺はお客様な弟子を持ったつもりはないからな。自分で学べ」

 これだけはしっかりと釘を刺しておかなければならない。弟子にすることは仕方なく認めてやったが、お荷物にしかならないようなら放り出す気満々だ。

「もちろんだ。どんどん使ってくれ。ではまず私は何をしたらいい? アイディン」

「・・・エルヴァン」

 それともう一つ、ずっと気になっていたことを確認する。

「お前歳は幾つだ」

「十七だ」

 思っていたより年下だった。アイディンの歳は二十六なので十近く離れていることになる。

「よし、ならば師匠であり年長者をそのように呼ぶ無礼をまず理解しろ」

「これは失礼した。アイディン〝殿〟」

「いいだろう。では行くぞ」

「どこに?」

「商品の納品だ。今回はお前が取り戻した商品でもあるし、特別に連れて行ってやる」

「分かった」

 そうして、出来立ての師弟揃って店を後にした。

「この度はありがとうございました。今後も何かご入用なものがございましたら、ぜひお申し付け下さい」

「こちらこそありがとう。こちらの品、大変気に入りましたわ」

 そして、滞りなく商品を納品する。昨夜奪還した宝石箱だ。両手に乗るあのサイズで30,000(3万)クルツ。アイディン自身はそんな額を払ってまで欲しいとは思わないが、女性はこういうキラキラしたものを好むのだろう。仕入れ値が8,000クルツだったことを考えるとまずまずの利益だ。ちなみに輸送費等を考慮すれば、決してぼったくりの額ではないとアイディンは思っている。金払いはいいし受け答えも丁寧だし(人妻なのが残念なぐらいには美人だし)、今回は突発の依頼だったが今後もお付き合いしたい、目下口説き落とし中のお客様である。

「それで商人さん。そちらのかわいらしい方は?」

「ああ、ご紹介が遅れました。少し忙しくなってきましたゆえ、弟子を取りまして。・・・エルヴァン」

「初めまして綺麗なご夫人。エルヴァンと申します。以後お見知りおきを」

「ご丁寧にありがとう。サリーネよ。よろしくね」

「はい、こちらこそ」

 女性的な丸いフォルムの美人とスレンダーな中性的な美人が微笑む。自分は一歩離れてしばらく眺めていたいぐらいだ。実際、夫人宅の使用人達はしばし仕事の手を休めて見蕩れてしまっている。

「それでは夫人。失礼致します」

 だがもちろんいつまでも眺めているわけにはいかないので、夫人に挨拶をしてその場を去る。

 その帰り道、狭い迷路のような路地を進むアイディンの後をエルヴァンは必死に追う。エルヴァンの歩幅に合わせる配慮はアイディンにはない。

「以前から思っていたが、アイディン殿の店は大層分かりにくい場所にあるな。客が不便ではないのか?」

「あー、いいんだそれで。わざとそうしている」

「わざと?」

「試験を兼ねているからな。まずは俺の店に辿り着けるかどうか。そこから商談の話になる」

 ただし、それにも例外はある。先程のサリーネ夫人のように、アイディンが金になると判断した顧客候補には積極的にこちらから声をかけている。

「・・・そういえばお前はどうやって店の場所を知ったんだ?」

「アイディン殿の後ろをつけただけだ」

「・・・」

 もう何も言うまい。

「しかし、それは少し意地悪なのではないか?」

「そうでもしないと捌ききれない。それに一応案内人もいる。昨日お前も会っただろう? 兵士を連れて来た大男」

「ああ」

「アイツの仲介なら余程難しい案件でなければ引き受けることにしている」

「アイディン殿はその者を信頼しているのだな」

「それは違う。ドゥーダを捕まえる方が大変だからだ」

 何の臆面もなく信頼なんて言わないでほしい。おい、だから何故そんなに嬉しそうなんだ。身体中が痒くて堪らなくなる。それに。

「エルヴァン、いいことを教えてやる。『商人は信じるな。信じさせろ』だ」

 だから、キラキラした瞳で見てくるな。その紫が眩しくてこっちの目が潰れそうだ。



 こうして、晴れてエルヴァンの弟子生活はスタートした。

 正直、期待は端からしていなかったが、エルヴァンの弟子具合はアイディンの予想以上にそれはもうひどいものだった。

「お前は人の話を聞いていたのか! この店に辿り着けるのも一つの条件だと言っただろう!!」

「だから辿り着いているではないか。この者には話を聞いてもらう資格がある」

「お前が連れてきている時点で不正行為と同じだ、それは!」

「なんと! すまない。それは知らなかった」

 と呼んでもいない客を連れてきたり(しかも大して金にもならない仕事だった)。

「おいふざけるな! いいか、商売の基本は、『有る物を無い所へ』だ! すでにここに有る物を仕入れてどうする!!」

「しかし、ご婦人が困って」

「困っている奴なんか探せばいくらでもいる。それをお前は全て助ける気か! お前の自己満足に俺を巻き込むな!」

 と頼んでもいないものを買ってきたり(小麦なんてここに腐るほどある)。

「おいなんだこの状況は。馬車でも突っ込んだのか!」

「アイディン殿。すまない、机の上の掃除をしようとしたのだが、勝手が分からず」

「お前はもう何もするな! とりあえずそこから動くな!!」

 とどうやったのか器用に帳簿やら書類の山に埋もれていたり(幾つか駄目になってしまった書類もあって、完璧な二度手間だった)。

 もう我慢ならん! とアイディンが叩き出そうとする度に、本当に申し訳なさそうに謝るエルヴァンの金の髪が揺れて勢いを削がれる、それの繰り返しだった。あまり意識したことはなかったが、自分は髪にだいぶ重きを置いていたらしい。


「だいぶ参ってるみたいだな。アイディン」

「・・・ドゥーダか」

 決して疲労のためだけではない大きなため息をついたアイディンをドゥーダはおざなりに労わった。面白半分かお前。

「なんだ、仕事か」

「いや。噂の美人ちゃんを見に来た。あの夜はお前に後始末を押し付けられたせいでしっかり見れていなかったしな」

 訂正、ただの冷やかしだった。己の味方はいないのか。

「その噂の美人ちゃんというのはアイツのことか」

「俺らの中じゃその噂で持ちきりだ。アイディンが最近美人を囲ったってな」

「囲うかあんな奴。弟子だ弟子」

「分かってるよ。それでその美人の弟子は?」

「さっき昼食を買いにやった。もうじき帰って来るだろうさ」

 アイディンは連日のエルヴァンの所業により、多少の失敗は仕方がないと思うところまで慣らされてしまっている。もうどうしようもない物を買ってこなければそれだけでいい。これなら一人でやっていた頃の方が断然楽だった。つい遠い目をしてしまう。

 そんなことを思うなら、今からでもエルヴァンを首にすればいい話なのだが、如何せんエルヴァンの評判が良すぎるのだ。今まで門前払い気味だったお客様候補も、エルヴァンが笑って挨拶するだけで、じゃあ話だけでも、と奥に通される。結局世の中顔なのだ、クソ。この際それが利用できるならとことん利用してやる。

 もちろん、世間知らずだし人が良すぎるし要領も良くないが、エルヴァンが悪い人間でないのはアイディンにだって分かっている。それに、初対面の際の挨拶は完璧だし人に不快感を与えない振る舞いやぴんと伸びた姿勢は見事と言う他ない。エルヴァンの周りにいた人間は、いったい何に比重をおいて教育をしてきたのだと思う。初めて会ったときにエルヴァンは学術所に通ったことがないと言っていたが、文字の読み書きや計算などの必要最低限レベルのことは問題なくできるようだし、よく分からない。

 しばらくそうしていると、パタパタと軽い足音が近付いてくる。最近聞き慣れてしまった音だ。そうだ、あの弟子は落ち着きもあまりない。

「アイディン殿! ただいま戻った」

 間を置かずして頬を紅潮させたエルヴァンが勢いよく扉を開ける。腕には言いつけ通り昼食が抱えられている。アイディンもエルヴァンも料理をしないので(そもそも店には調理環境が整っていない。材料の小麦とか塩は文字通り売るほどあるのに)、腹が減れば外で調達してくるしかない。これも最近エルヴァンが覚えた仕事の一つだ。エルヴァンはこのお遣いが気に入っているらしい。

「お帰り、エルヴァンちゃん」

 アイディンは目線だけエルヴァンにやって、無言で鶏肉と野菜を薄いパンで包んだものを受け取る。迎えの声を上げたのは首だけエルヴァンの方を向いたドゥーダである。

「おぬしは・・・、確かあのとき兵士を連れてきてくれた者だな」

「そう。案内人のドゥーダだ。交渉人であり情報屋紛いのこともしている。ま、何でも屋だとでも思ってもらえばいい」

「そうか。ドゥーダ殿、私のことはエルヴァンでよい。アイディン殿の弟子だ」

「噂はかねがね」

「噂?」

「こっちの話さ」

 余計なことを言うなよ、と視線に込める。その思いは通じたようで、ドゥーダもこれ以上エルヴァンについての噂を話すつもりはないようだった。

「ドゥーダ殿もよければどうだ。店主が一つおまけでくれたのだ」

「お。ではありがたく」

 こうして、ドゥーダの手元にも昼食が与えられる。残りの一つを机に置いてエルヴァンは一度奥へ引っ込む。さすがに茶ぐらいは入れられるようで、しばらくすると三人分の食器を手にエルヴァンが戻ってくる。そしてしばし無言で食べ進める。若い三人は、それをすぐさま腹の中に収めて温かい茶を啜る。

「エルヴァン、その袋はなんだ。行くときは持ってなかっただろう」

 一息ついたアイディンは目ざとくそれを見つける。紫色の手のひらほどの小さな袋がエルヴァンの腰元に括り付けられている。確かに店を出るまではなかったはずだ。

「あぁ、これか」

 エルヴァンは静かにそれを外して、食器を除けて机に中身を転がす。五、六個大小様々な石のようなものが散らばる。大きさの差異はあれど、全て同じ石のようだ。

「なんだこれは」

「市場への途中に小さな広場があるだろう? そこで旅の商人から買ったのだ」

「この石くずを?」

 エルヴァンには少ないながらも幾らか自由にしていい金を渡している。それをエルヴァンは最初拒んだが、「これは最低限の賃金で、お前には俺が弟子にそれすら払わないような人間に見えるのか」と言えばしぶしぶ受け取った。だから何を買おうとエルヴァンの自由裁量な部分は確かにある。が、しかし。

「ガラクタか?」

 一つ摘んでみる。紺色と灰色を混ぜたような色をした硬質な石。アイディンの目には正直道端に転がっている石とそう大差ないようにしか見えない。これを、金を出して買った?

「何かは私にも分からぬ。ただ気になって仕方がなかったのでな」

「んー。この石が?」

 アイディンに倣ってドゥーダも一つ掴んで近くで眺めてみる。

「・・・駄目だ。俺にはこれの何が気になったのかさっぱり分からん」

 どこからどう見ても、ただの石だ。唸るようにそう告げたドゥーダの意見にアイディンも賛成だった。

「そうか・・・。私にも不思議なのだが、一瞬透き通るような碧色の石に見えた気がしてな。見間違いかと思ったが、試しに幾つか買ってみたのだ」

「ま、お前の金で買った物だ。文句はないがな」

 文句はないが、正直苦言はある。この石が碧色に見えた? どういう目をしている。その紫水晶の瞳は偽物か。その旅の商人とやらに騙されたのではないのか。まぁ、エルヴァンが買える程度の値段だったのならそう痛い買い物でもないが。

 アイディンのその言葉にあからさまにほっとした顔をしたエルヴァンは広げた石を元通り袋に戻して、最近導入したばかりの自分の小さな机の上に置いた。そしてそのまま付属の椅子に腰掛ける。

「ではアイディン殿。今日も頼む」

「お? 何が始まるんだ?」

「コイツは何も知らんからな。商売の初歩中の初歩を教えてやっているだけだ」

 さすがに弟子としてエルヴァンをこき使うだけではひどすぎるだろうと、昼食後のひとときを講義の時間としている。

「ドゥーダ、お前はもう帰れ。目的は果たしただろう」

「俺が聞いていたら駄目なのか?」

「駄目だ。気が散る。帰れ」

 正直、師匠と弟子の講義を聞かれるのはアイディンには気恥ずかしい。

「分かったよ。じゃあな、エルヴァン。コイツにいじめられたらいつでも言えよー」

「ドゥーダ殿、お気遣い感謝する。だが大丈夫だ」

 そして、ドゥーダはなんだかんだで師匠をやっているらしいアイディンににやにやした視線を寄越しながら店を去っていった。これで師匠と弟子の二人きり。講義の始まりだ。

「昨日は『富の移動』まで話したのだったな」

「そうだ」

「では今日はそれの応用だ。このルスタ国において、他国から仕入れることが最も愚かな商品はなんだと思う?」

「・・・アイディン殿は、以前商売の基本の一つを、『有る物を無い所へ』と言っていたな」

「ああ」

 言った。盛大にキレながら言った。あのときは血管が切れるかと思った。

「では塩だ。既に有る物を仕入れる必要はない」

「正解だ。国の三方を海に囲まれているこの国において、塩の価値は限りなく低い」

 エルヴァンは無知だが、覚えの悪い生徒ではない。一度言ったことは忘れず、それを広げる応用力もある。

「もっと言えば、余剰分を売買という形で消費できれば、その分だけ利益となる。余剰は無い所に売り払ってやればいい。なあに、この国ではせいぜい30クルツ程度の価値しかない塩が、別の国では十倍二十倍の金貨に化ける」

「なるほど」

「正当な賃金を得られるなら、働こうとする者はおのずと出てくる。塩を作り、それを売り、そこで儲けた金を労働者に賃金として支払う。労働者はもっと賃金を得るためにまた塩を作る。人・物・金。これで一つの産業の完成だ」

 商売の基本は『富の移動』という考え方だ。富の基本とは、生きていく上で必須の食料を、物々交換や保存の関係の問題上「金銭」に交換することから始まる。つまり何かしらの生産活動を行うことで富が生まれるのだ。ではその富をどうやって作り出し、移動させればよいか? 簡単だ。一過性でない、継続性のあるサイクルを作り出してやればいい。アイディンがやっていることはまさにそれだ。そして、それはエルヴァンが学ばんとしていることでもある。これをアイディンは『繁栄の種』と呼んでいる。

「いいか、常に頭の片隅にでも置いておけ。富をどうやって移動させるか。どうやればより多くを提供することができるか。どうすればより多くに貢献することができるか。自分はどれだけの何を為すことができるか」

「どうやるか、どうするか、何ができるのか、か」

「それが当面のお前の宿題になるだろうな。・・・今日は以上だ」

 ちょうど、食休みにいい具合の時間が経った。

「今日もありがとう、アイディン殿。考えておく」

 こうやって、弟子はゆっくりと、だが着実に師匠の知識を吸収していくのであった。



「はぁー」

 アイディンはため息と共にペンを置いた。目が霞んできたし、これ以上やっても捗らないだろう。外も暗くなってきているし、今日の仕事はここまでだ。傍らで最近また新たに覚えた、取引済の領収書を整理していたエルヴァンにも声をかけてやる。

「エルヴァン。今日はもういいぞ。俺も仕舞いにするからお前も帰って休め」

「分かった。これが終わればそうさせてもらう」

 エルヴァンの手元の領収書は残り数枚程度しかない。この量なら確かに中途半端に明日に残すより、今日終わらせてしまった方がいいだろう。アイディンでもきっとそうする。

「俺は奥にいるから、帰るときに声をかけろよ」

「あぁ」

 エルヴァンの返答を後ろで聞いて、長椅子に身体を横たえる。このままだと眠ってしまいそうだが、まぁそうなったとしてもアイディンはあまり気にしない。

(疲れた・・・)

 エルヴァンがアイディンの弟子になってからもう一ヶ月以上経つ。まだ突拍子もないことをするときもあるが、かろうじて役に立つようになってきた。正直、顧客対応などの営業に関してはアイディンよりエルヴァンの方がずっと向いている。つい先日も、エルヴァンのおかげで新たな顧客を抱えることに成功したばかりだ。件の宝石箱のサリーネ夫人はエルヴァンを大層気に入ったようで、試しに何度かエルヴァンに相手をさせていたら彼女はそのまま正式にアイディンの顧客になったのだ。アイディンがなんとかして口説き落とそうとしていた太客だ。これは間違いなく、エルヴァンの手柄だった。まぁ結果として、夫人を他の商人から奪い取る形になってしまったので、ここしばらく最低限の用心を必要としているが。そういった懸念を入れたとしても、アイディンとエルヴァンの師弟関係はなかなか上手くいっていると思う。これはエルヴァンの性格が素直だったことが大きいだろう。自他共に認める捻くれ者のアイディンと付き合うには、それこそドゥーダのように喰えない奴かエルヴァンのような奴じゃないといけない。

「アイディン殿! アイディン殿!!」

 ぼんやりとこの一ヶ月を振り返っていたアイディンは、向こうの部屋から聞こえた弟子の声で現実に戻された。終了の報告にしては、エルヴァンの声は随分と切羽詰まっている。もう少しで夢の世界に旅立ってしまうところだった。

「なんだー?」

 まだ眠気の方が勝っているので、アイディンの受け答えはだいぶ間延びしていておざなりだ。アイディンとエルヴァンの温度差が激しい。

「大変だ! 火が!! とにかく来てくれ!!」

「火?」

 ランプでもひっくり返したか? それぐらい自分でなんとかしろ。

 そんなことを思いながらも、一応声のした方に顔を出してやる。熱い。眠気が一気に醒めた。室内が燃えている。

「どうしてこうなった」

 人間、驚きすぎると逆に冷静になる。自分よりも慌てている者がそばにいると特に。エルヴァン、お前はいいから少し落ち着け。

「窓ガラスが割れる音がしたんだ。外から何か投げ込まれたんだと思う。そしたら一瞬でこうだ」

 火の勢いが強くて、火元に何があるのか確認することはできない。火の色からして燃料が入った火炎瓶のような物だろうか。水をかけたぐらいでは簡単に消えそうもない。

「おい、エルヴァン。とりあえず布を水で濡らしてこい!」

「分かった!」

 手頃な布がぱっと浮かばなかったのだろう。自身のターバンを外して水瓶に浸しにいく。その間にアイディンは火に思い切り大量の塩をぶちまけた。砂をかけた方がいいのかもしれないがすぐには用意できないし、代わりの塩なら十分にある、とりあえずの応急処置だ。火は周辺に酸素がないと燃えないのだから、これで酸素供給は幾分マシになるはずだ。この上から水を含んだ布でも被せれば大きな延焼は防ぐことができるだろう。

「アイディン殿! これを」

 水を吸ってだいぶ重くなったターバンを受け取って被せる。窒息消火が上手くいけばこれで大丈夫なはずだ。

「なんだってこんなことに・・・」

「・・・煙がひどいな。エルヴァン、一旦外に出るぞ」

 どうしても持ち出さねばならない商品も今は運良くここにはない。如何にも身体に悪そうな煙をこれ以上吸わないように姿勢を低くして避難する。ほっと一息をつこうとして、アイディンはそれに失敗した。店の外の壁も、別の火で燃えている。

(まいったね、こりゃ)

 アイディンはバチバチと音を立てる火の粉を見やりながらため息を漏らした。これは間違いなく、面倒事に巻き込まれたらしい。周囲を観察してみると、暗闇からはこちらを伺う視線を感じる。直接的な標的が自分だとは思いたくなかったが、あわよくば、ぐらいの意味合いであればその可能性を否定できない。商いの上で故意に損をさせたことはないが、商売敵に妬まれていることは間違いないからだ。もっとも、彼にすれば報復するにしても方向性が違うだろう、と思うのだが。

(やはりコイツかねぇ)

 標的が自分でないと仮定すると、最近自分の周りであった変化はたった一つ。太陽に透ける髪を持つ押しかけ弟子以外にありえない。アイディンには世間知らずのお嬢様にしか見えないが、何か疫病神にでも憑かれていたのだろうか。

 念のため自分の腰に剣があるのを確認する。滅多に使わないため本当に簡素な、護身用としてもいささか心もとない代物だが、ないよりはマシだろう。

 正直、腕にそこまでの自信はない。せいぜい、最低限自分の身を守れる程度だ。当然だ。アイディンは商人であって戦士や武人ではない。自己の利潤を生み出すことを好み、商い以外の手法を用いてまで他者のそれを奪おうとは思わない。

(これだから暴力的な奴は嫌いなのだ)

「アイディン殿。ここにも火が・・・!」

 慌てるエルヴァンを余所に、アイディンは無造作に周囲に視線を巡らせ、この状況から脱する手段を探す。視界の端に行商用であろう栗毛の馬を見つけた彼は、頭の中で持ち主へ無断拝借を謝罪し、ついでに後日支払わなければならないであろう金銭を計算した。無駄な出費は抑えたいが背に腹はかえられない。タダより高いものがないように、命より高いものなどないというのが彼の持論である。生きてこその財産。アイディンは生きることに清々しい。

「エルヴァン、来い。逃げるぞ!」

「え、アイディン殿。この馬はアイディン殿の物なのか?」

「うるさい。今は逃げるのが先だ!」

 文句を言うエルヴァンを問答無用で馬上に引き摺り上げる。馬を走らせ始めたアイディンに気づいたのだろう。こちらを伺っていた視線に動きがあって、俄かに騒がしくなる。バタバタと馬を用意する音がして、アイディンの後を追いかけてくる。追っ手の方がいい馬なのだろう。ただでさえこちらは二人乗りだ。少しずつ距離が縮まっていく。相手の顔が見えるようになる。

(参った。狙いは俺の方か)

 追走者の中に見知った顔があった。あれだ、懸念していた通りアイディンに件のサリーネ夫人を奪われた商人の取り巻きの中で見たことがある。アイディンへの報復のため商人に雇われでもしたのだろうか。では彼らの標的は自分だ。最後の駄目押しこそエルヴァンだが、その前からあの夫人を口説き落としていたのはアイディンだ。とすればエルヴァンはアイディンの巻き添えということになる。

 すでにもうじき追いつかれそうな距離まで馬は迫ってきている。このままでは二人とも危ない。ならば仕方ない。

「舌を噛むなよっ」

「あ、アイディン殿っ」

 ばしゃん。

 アイディンは容赦なく馬上からエルヴァンを近くの川に突き落とした。エルヴァンは巻き込まれないようにとの、せめてもの情けだ。ある程度の深さがある川だ、怪我はしまい。エルヴァンも剣で切られるよりは濡れる方が幾分マシだろう。

 そのまま身軽になって少しスピードの上がった馬を街外れの丘に走らせる。そこでアイディンは一人、追走者達を迎え討つ。これでまたしばらくは、兵士達に厄介者と思われてしまうだろう。


「アイディン殿! 無事でよかった」

 再会を果たしたエルヴァンはやはりずぶ濡れで、金に透ける髪を滴らせていた。幸い、一目で分かるような怪我はない。

「してアイディン殿。何故私を川に落としたのだ」

「あのまま二人だったらじきに追いつかれていたからな」

「そうか。馬の荷を軽くしたのだな」

 別段怒った様子もなく真っすぐすぎる瞳でそう言われると、さすがのアイディンも一瞬怯む。それだけなのか。

「おい、俺が言うことではないがお前少しは怒れ」

「アイディン殿がそうした方がよいと思ったのだろう? 私はアイディン殿を信じている」

 エルヴァンのその言動には物申したいものがある。エルヴァンのそれは一見美徳かもしれないが、盲目的なことが必ずしも正しいことなのではない。アイディンは意識して偽悪的な男を装った。

「簡単に人を信じるな。俺を含め、人は決して善ではないぞ」

「人は生まれながらに善ではないか。人を信じることは素晴らしいことではないのか?」

「俺に言わせりゃ、限度を間違えば信じることはただの思考放棄で大馬鹿者がすることだ」

「限度?」

「適度に疑え、ということさ。信じることはできれば確かに楽かもしれんが、自分の責任を放棄して誰がそれを代わってくれるというのか」

 濡れぼそった服の裾を絞りながら、エルヴァンはアイディンの口撃(、、)を受け止める。

「それに物事を一面からしか見られないというのは浅慮という他あるまい。確かに、お前を突き落としたのは馬の負担を軽くする目的もあった。だがそれだけではない、他の可能性を考えろ。仮にあのままお前を連れて逃げたとして、剣も持たないお前は戦えたのか?」

 そこでエルヴァンはアイディンの身体に先程別れたときにはなかった浅い刀傷が幾つかあるのに気づいた。命に関わる傷ではないようだが、衣服も少し血に染まり痛々しい。

「・・・すまない」

 そして、エルヴァンは彼が囮の役割を果たしてくれていたことを理解した。

「私が戦えたらアイディン殿は傷つかずに済んだかもしれぬのだな。すまなかった」

 面食らったのはアイディンである。彼にしてみれば先程の発言は嫌味ですらない。ただの雑談であったのだ。それを彼の弟子は要談にしてしまったのである。加えて、わざわざ真実を告げる気もないが、今宵狙われていたのはアイディンであってエルヴァンではない。それなのにこの弟子ときたら、さもアイディンが自分を守るために傷ついた、とすら思考したのである。そんな反応をされては、正直面食らう。

「ありがとう。アイディン殿・・・」

 しかもとんでもなく素直に礼まで言われてしまえば。

「・・・お前に怪我がなくてよかった」

 その一言だけがかろうじてアイディンの口から漏れた。エルヴァンの泣きそうな笑顔を直視することはできなかった。調子が狂うことこの上なかった。


「それでアイディン殿。私達を追って来ていた者達はどうなったのだ」

「今はとりあえず纏めて縛ってある。ま、家屋に火を放ったのだ、罰は免れまい」

「どのような罰になる?」

「詳しくは分からんが、かなり重い罰になるだろうな。それこそ、生きているのを辞めたくなるぐらいには」

 もちろん冗談だ。おそらく小火程度で火は治まっただろうし、せいぜい500,000(50万)クルツ程度の罰金で済むはずだ。真面目に働けば、一年半程で稼げる額だ。

「そんな! なんとか助けてやることはできないのか? 何も私達の命まで奪おうとしたのではないのだろう?」

 エルヴァンがそう反応するだろうことを、アイディンはすでに予測済みだ。伊達に一ヶ月師弟として一緒にいたのではない。確かに、追走者から殺意は感じなかった。おそらくは警告の意味合いが強い行為だったのだろう。

「おい、俺は少ないながらも傷を負っているのだぞ」

「あぁ・・・。しかしアイディン殿。だからと言って、命を捨てたくなるほどの罰はあまりに重すぎるではないか。なんとかならないのか」

 少々からかってやるつもりだっただけなのだが、エルヴァンがさすがに気の毒になってきた。種明かしをしてやる。

「・・・安心しろ。幾らかの罰金は科せられるだろうがその程度だ。命まで奪われることはない」

「そうか・・・! 罪を償えば大丈夫なのだな。よかった」

 コイツ少し人が良すぎるのではないか? つい先程まで自分に危害を加えようとした輩に対して、温情が過ぎる。この弟子の先行きが不安になるレベルだ。

「あとで兵士に連絡して引き取ってもらうさ。心配することはない」

 そしてもちろん、今回アイディンが被った損害の賠償もきっちり請求させてもらうつもりだ。アイディンにエルヴァンのような慈悲の心はない。

 それからしばらくして気を取り直してみると、直近の問題はアイディンの今夜の寝床が燃えた、ということであった。滅多に帰らないおざなりな自宅もあるが、逃げた方向と逆方向に位置しているし今更面倒くさい。もちろん財産を一箇所に集中させるという愚行を彼は犯してはいなかったので、金銭面ではかすり傷程度の損失で済んでいる。だからといってこんな夜更けに用立てることはできなかった。

 今夜はとりあえず安宿で身体を休めることに決めて、アイディンは街に馬を巡らせる。当たり前のようにエルヴァンがその後ろをついてくる。

「お前、何故ついてくる」

「私には寝る場所がないのだ」

「は? 自分の宿はどうした。お前元は旅人だったのだろう? 他に預けた荷物もあるだろうが」

「私の荷物は私の身一つだ。持っていた荷物は全て売っておぬしの受講料にしたし、残していた金もこの間尽きたしな」

「・・・は?」

 アイディンの呟きは賑やかな光を灯す夜の街に消えていった。


 その後、頭痛を抱えながら辿り着いた安宿の前でアイディンはうなり声を噛み潰していた。彼の傍らには当然馬鹿弟子がいる。一部屋380クルツ。二部屋だとその倍だ。

「760クルツか・・・」

「同じ部屋では駄目なのか? そうすれば一部屋分の料金でよいのであろう?」

 馬鹿か。反射的に出掛かった言葉をアイディンは飲み込んだ。

 初見こそエルヴァンを上等な女として見定めたが、アイディンには十ほど歳の離れた少女に手を出す趣味はない。不承不承なれど弟子にしたからにはなおのこと。

 こっちが気を遣ってやっているのに、何故お前はそんなに危機感がないのだ。

「・・・エルヴァン、ちなみにお前昨夜はどうしたんだ」

 そんなこと言えるはずもなくて、アイディンは沸いた疑問を口にすることで誤魔化す。金が尽きた厳密な日付は聞きたくない。そうだ、普通に考えれば一ヶ月以上も滞在費が続くわけがないのだ。新しく部屋を借りるにも、エルヴァンは成人していないため保証人が必要となる。今、エルヴァンの一番近くにいる大人はアイディンだ。そして、自分はその打診をされていない。それに気がつかなかったのはアイディンの落ち度だ。

「港に座って海と星を眺めていたら朝になっていた」

「馬鹿がっ!!」

 今度の言葉をアイディンは我慢できなかった。というかしなかった。

 カレンデュラがいくら平和な都市であっても小さな諍いはある。闇に乗じての犯罪など一定数までしか減るはずがないのだ。それをこの小娘(小娘で十分だ)は自分の容姿の危険さを理解せず、馬鹿馬鹿しいこと極まりない。先ほどから街の至る所から浴びせられる視線にも気づいていないのか。俺は商いの弟子を取ったのであって子守を請け負ったのではないぞ、とアイディンは自分が少し可哀想になった。というか、お前一度盗賊紛いに商品にされかけたのをもう忘れたのか。

「な、何故怒るのだ。輝く星々と海から溢れた黄金の朝日はとても美しかったぞ」

「・・・今後お前の夜の一人歩きは禁止だ」

「どういうことだ」

「約束しろ。師匠に誓え。誓えぬなら破門だ。もちろん破っても破門だ」

「・・・訳が分からぬが。分かった、弟子として誓おう。夜一人では出歩かない」

 アイディンの有無を言わせない空気にエルヴァンはそう誓うしかなかった。だが、その表情には「理解していません」と大きく書いてあったので、アイディンは周りの視線の出所を指差しつつ、夜の街の危険性を言い聞かせてやる。頼むから、一度で分かれ。そうすると、ようやくアイディンの怒りの理由を理解したエルヴァンは再度師に誓った。

「すまない・・・。一人で自由に、というのが初めてで少しはしゃいでいたのかもしれぬ」

 エルヴァンが無知なのは否定しようがないが、今そのことで本人を責めても仕方がない。お前はどこぞの箱入りほにゃららだ、の苦言は胸の内に仕舞いこむことにする。

「分かったならもういい、とりあえず入るぞ。俺は一刻も早く横になりたい」

 安宿は残り一部屋しかなかったが、当のエルヴァンが気にしている様子もないのだからいいだろう、とアイディンは開き直ることにした。その夜、師弟は各々のベッドで眠りについたのであった。



 翌日の仕事は延焼した店の掃除からだった。幸い、思っていたよりも外壁の被害は少ないようで、窓側に面していた一部分が煤けているぐらいであった。どうやら火災に気づいた近隣の住人が消火作業をしてくれていたらしい。まぁ、被害のあった一区画には弟子の机が置いてあったので、エルヴァンの落ち込みようは随分大きかったが。

「あぁ、私の机が燃えてなくなってしまった・・・」

「この程度ですんでよかったと思え。机ぐらいまた用意してやる」

 しばらく二人無言で室内を片付けてゆく。身体中煤だらけになるが仕方ない。

「? なんだこれは」

「どうした?」

「アイディン殿、こんな物が」

 煤で汚れたエルヴァンの手のひらにキラキラしたものが乗っている。透き通った、碧色の物体。

「こんな物あったか?」

「さぁ・・・、机の残骸の下に落ちていたのだが」

「下?」

 エルヴァンにつられて覗き込むと、他にも幾つか同じ物が転がっている。エルヴァンの手に一つ、床に五つ。その近くには何か布の残骸のような物もあった。

「これ・・・」

 しばらくそれらを見比べていたエルヴァンが、何かに気づいたような顔をする。

「なんだ」

「アイディン殿。これはもしや、以前私が旅の商人から買った石ではないか? ほら、この布は石を入れていた袋の燃え残りではないだろうか」

 確かに、大きさも数も合うし、落ちていた布もかろうじて元が紫色だったようにも見えなくもない。しかし。

「こんな色だったか?」

 アイディンの記憶では、紺と灰を混ぜたなんとも形容し難い色だったはずだ。少なくとも、こんな綺麗な色ではなかった。

 エルヴァンと同じように、床に落ちている一つを手に取ってみる。それを深く考えずひっくり返す。裏側にはアイディンの記憶通りの色が斑に残っていた。この色は確かにあのときの石だ。何故色が違う? 以前見たときと何が変わってこうなった? 以前と今とで違うことは? そこで、はたと気づく。もしや。

「エルヴァン、陶器の皿とマッチを持ってこい」

「? 分かった」

 エルヴァンからそれを受け取って、斑模様の石を皿の上に置いて火を点ける。アイディンの考えが合っているならこれで分かるはずだ。

「アイディン殿、何を」

「黙って見ていろ」

 石に火を点けたとは思えない燃え上がりを見せるその現象をしばらく眺める。炎の色が始め赤だったのが青に変わっていく。それからその青い炎が自然に沈下するのを待って、皿に残った石を見る。ビンゴだ。

「・・・色が変わった」

 エルヴァンがほう、と呟く。アイディンの思った通り、斑だった部分も透き通るような碧色に変化している。

「火で加熱されることで色が変わるらしいな。しかも一度色が変わると元に戻ることもないようだ」

「面白いな!」

 面白いなんてものじゃない、これはもしかすると。

「おい、エルヴァン。お前はこの石を幾らで買った?」

「20クルツだが」

 思っていた以上に安い。まさか塩より安いとは。

「間違いないな?」

「あぁ。確かにその値段だった」

「これを売っていたのは旅の商人だと言っていたな。その商人がいつまでカレンデュラにいるか分かるか?」

「詳しくは聞いていないが、しばらくはここに留まる予定だとは言っていたな」

 エルヴァンがこの石を買ってきてから約一ヶ月。まだこの都市に居る可能性に賭けるにはギリギリだ。まずあたってみるのは市場前の広場か。

「いったいどうしたのだ、アイディン殿」

「エルヴァン、これはひょっとしたらひょっとするぞ」

 上手くいけば今回の損失分を帳消し、いやそれ以上の成果を得られる可能性がある。災い転じて福と為す、だ。店に火を点けられなければこれに気づくことはなかった。

「一人で納得していないで、私にも分かるように話してくれないか」

「つまり、お前はとんでもない掘り出し物を、そうとも知らずに購入したのかも知れないということだ」

 さぁ、ここからは商売の時間だ。新しい『繁栄の種』が手に入るかもしれない。



「ああ、確かにワシが売ったな」

「エルヴァン、コイツで間違いないか」

「間違いない。この者だ」

 探し人はすぐに見つかった。運良く、件の商人は同じ場所で商いを続けてくれていた。異様に鼻の高い、大きな目のはっきりした顔立ちの年配の男だ。おそらく、アイディンやエルヴァンと人種自体が違うのだろう。なんというか、顎鬚といい睫毛といい全体的に濃い。

「おい、コイツが買った石は何か特別なものか?」

「あの石か? 売っておいて言うのもなんだが、ワシの故郷でごろごろ転がってる、ただの石だ」

「なるほど・・・。お前がここに来てから、他にその石を購入した者はいたか?」

「いや、この別嬪さんだけだな」

 なんと都合がいい。神様もアイディンに味方をしてくれているようだ。

「石に名はあるのか? お前はさっきごろごろ転がっていると言っていたが、これはお前の故郷には沢山在る物なのだな?」

「質問が多いな、兄ちゃん。ちょっと落ち着けよ」

 男は、自然と前のめりになったアイディンから距離を取る。そしてたっぷりとした顎鬚を撫でつけながら続ける。

「これに名前なんてもんはねぇよ。ワシの故郷じゃ、適当に見たまま「紺灰石(コンパイセキ)」なんて呼んでるがな。あと、なんだ? 故郷に沢山あるか、だったか? こんな石、それこそ近くの山を掘ればわんさか出てくる。今回だってワシは別にこれを売りに来たわけじゃない。荷物の中に孫が悪戯で入れていただけさ」

「紺灰石か。この石をお前は自由に持ち出すことができるのだな? それとも、誰か所有者がいたりするのか?」

「所有者なんてのはいない。こんな子供のガラクタ、持ち出したところで、誰も文句は言わんだろうさ」

 なんという幸運。誰も、この石に秘められた価値に気づいていないのか。もう都合が良すぎて怖くなってくるレベルだ。

「よし分かった。・・・お前は旅の商人だったな。俺はこの都市の商人だ。俺と契約する気はないか?」

「契約?」

「そうだ。その紺灰石、俺があるだけ買い取ってやる。お前の故郷にある分も含めて全部だ」

「は? 兄ちゃん正気か?」

「俺ならこのガラクタ同然の石に価値を与えてやれる」

 頭の中で算盤を弾く。掛かる費用と将来手にするだろう収益のバランスを考える。施設費や人件費なども忘れてはならない。ある程度の計算を終えたところで傍らに控えていたエルヴァンを見る。話の勢いについていけていないのか、目を白黒させている。

「金はコイツのときの十倍支払う。どうだ?」

「そりゃあ、ワシには願ってもない話だが」

「ただし一つだけ約束してもらいたい。紺灰石の売買契約は俺が独占させてもらう。それがこちらの提示する条件だ」

「アイディン殿?」

 エルヴァンが不思議な表情をしたが、ひとまず無視する。このまま独占契約さえ結べれば、これから考えられる利益で十倍なんて額は簡単に取り戻すことができる。さぁ、頷け。

「どうだ、それを聞いた上で俺と契約する気はあるか?」

「・・・よく分からんがいいだろう。契約しよう。ワシの名前はカルロ。兄ちゃんの名前は?」

「アイディンだ。それでは、交渉成立だな」

 アイディンとカルロと名乗った商人は、どちらともなく手を差し出して固く握手を交わした。


 後日、正式に契約の機会を用意することを約束してカルロとはそのまま広場で別れた。ちなみに、現在カルロが持っていた石はすでに購入済みだ。

「エルヴァン、これから忙しくなるぞ」

「アイディン殿はこの石で何かを始める気なのだな?」

「そうだ。ここカレンデュラに新たな名物を創り出してやる」

 アイディンは今、珍しく高揚していた。店へと帰る足取りが軽い。懸命に後ろをついてくるエルヴァンも、そんな師匠の雰囲気に引っ張られてどこか嬉しそうだ。

 カルロが頷いたことで物の供給は整った。金は上手くいけばおのずとついてくる。人を本格的に集めるのはまだ先だ。まずは試作品の作成からだ。経済の新しいサイクルの回り出す音が遠く聞こえる気がする。

「そうだエルヴァン、お前がこの石に名をつけろ」

「紺灰石ではないのか?」

「そんな名では格好がつかない。それに、俺達はこれを加工して、碧色の状態にしてから売買するのだ。名も商品の大事な顔の一つだ」

「しかし、何故私が?」

「これを見つけてきたのはお前だろう? それに俺にそういったセンスはない」

 大抵のことはそつなくこなすアイディンにも、一つや二つ不得手なことはある。

「分かった。・・・では、緋翠(ヒスイ)というのはどうだろうか」

「ヒスイ?」

 音だけでは文字の想像がつかない。どう書いてヒスイだ?

「緋色の緋にみどりを意味する翠で、緋翠だ」

「翠は分かるが、緋色の緋というのはどこから来た?」

「なに、この石は火で加熱されることでこのような美しい色へと変化するだろう? 炎の赤なくしてこの輝きに成ることはないのだ。なら名に冠される資格は十分にあると私は思う」

 緋翠。アイディンには到底思い浮かぶ名ではない。だが、不思議としっくりときた。

「・・・やはり駄目だろうか」

「いや、意外と悪くないんじゃないか」

 紺灰石改めこの緋翠が近い将来、ここカレンデュラのみならず、このルスタ国や大陸を席巻する日が来るかもしれない。そんな予感に、アイディンの胸は大きく高鳴った。

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