染まる海、染める碧 1章
一、
王都イストレージャの南東の方角に、交易都市カレンデュラはある。星の意味を冠する王都より多くのものが溢れる、北・東・南をペリル海に囲まれた美しい都市である。色とりどりの花が咲き誇り、街を歩く人波は活気に溢れている。ほぼ全てが白い壁の建物で統一された街並みが眩しい。
そこは交易都市というだけあって、大陸中の全てが集まっていると言っても過言はなかった。食べ物はもちろん織物や宝石、美しい芸術品に人々を楽しませる娯楽。ありとあらゆる贅沢がそこにあり、吟遊詩人や旅人達はこぞってこの都市の美しさを唄にして広めた。
そして人や物の集まるところに商人あり。その都市には支配階級と披支配階級とで間逆の評価を受ける黒髪の商人がいた。その男は、利益重視で金勘定はとんでもなくシビア、仕事自体もまずは人づての紹介でないと引き受けてももらえない。けれど一度受けた仕事は必ず遂行するという。都市ではその男に任せれば手に入れられないものはない、ともっぱらの評判であった。
その商人の名はアイディン。齢二十六にして、多くの富を得ている成功者である。
「この国一番の宝を用意せよ」
開口一番そう宣った、自称王子様の付き人をアイディンは冷めた目で見やった。
「は?」
「ティメル殿下がこの国一番の宝をご所望である、そう申しておるのだ」
「聞こえなかったわけではないので結構だ」
ジロリ、と付き人の後ろにいる旧知の案内人兼仕事相手を一睨みする。おい、我関せずみたいな顔をするな。
「そうか。ぬしは年若いがここカレンデュラでなかなかの商人だそうじゃな。このような栄誉ある仕事を託されたことを誇りに思うがよいぞ」
不健康に太った腹を抱え、瞳だけは奇妙にくぼんだその男は明らかにアイディンを下に見ていた。権力に弱い、一介の若い商人だと。これはその愚かな間違いを訂正してやらねばなるまい。
「成功した暁には、王子殿下からお褒めの言葉を頂戴できるであろう。望むのであれば、王都で商売できるようにわしが口を利いてやってもよい。それとも、美しい女などの方がよいかの」
「そのお話、お断りする」
「なっ、王子殿下の命なるぞ。貴様っ」
「なかなかの一商人でしかない私にはそのような大任は果たせるべくもありませぬ。英雄と名高い王子様ご自身でお探し下さいませ」
アイディンの口調こそ丁寧だがその無礼過ぎる発言を聞いて、案内人のドゥーダは部屋の隅で青褪めるでもなくため息を漏らした。これは予想通り、といった反応か。
(連れてくる客は選べと言っているだろう)
まず、こちらの都合を気にせずに要望だけ述べるこの感じがいただけない。減点一。自分を「なかなかの商人」呼ばわりしたのも気に入らない。減点二。王子様のお褒めの言葉など飯の足しにもなりはしない。減点三。恩を押し付けられるような口利きなど必要ない。減点四。己が女に不自由しているように見えたのか、失礼だ。減点五。それでもいつものアイディンならもう少し話を聞いてやってもよかったが、今回は依頼主が判明した時点で門前払い決定である。
ティメル王子。ここルスタ国の第四王子で、確かアイディンと同年代の二十六歳。なんでも優れた武人らしく、戦いたがりの国民達の間では英雄と持て囃されている。伝え聞く性格は差別的で排他的、気に入らない人間はすぐに斬り捨てる人物だという。
ただでさえ富を築いている自分と王族や貴族といった支配階級の相性はよろしくないのに、そんな典型的な王族と関わりなど持ちたくない。付き人は王族の名を出して威信を示したつもりかもしれないが、己には完全に逆効果だった。
「お引取り願えますかな」
なので、強制的にこの話を聞かなかったことにする。こちらはお近づきになんてなりたくないのだ。
「こっちの肝が冷えたぜ」
「ふん」
偉そうな付き人が怒りで顔を真っ赤にして退出した後、自分の存在を空気と同価値にしていたドゥーダが大きな身体を揺らしアイディンに近づいた。子供の頃に足を壊したらしいこの男の歩き方はいつ見ても特徴的だ。
「あんな客を連れてくるなら、今後のお前の仕入れは知らん」
「俺の前じゃ猫かぶってやがったんだよ。悪いな」
ドゥーダは軽く言い、大げさに肩をすくめることでアイディンの睨みをかわした。
(嘘をつけ。どうせ自分で断るのが面倒だっただけだろう)
しばらく待ってみても目線を合わせないのは彼なりの「これ以上この話をしても無駄だ」のサインである。それをよく分かっているのでアイディンもこれ以上の追求は諦める。
「・・・で、なんだったんだ。あの、『国一番の宝』というのは」
「なんでも、話の始まりは国王陛下だと」
「国王陛下、だと?」
はっ。皮肉たっぷりに小さく笑って、話の続きを促す。
ドゥーダの話を要約するとこうだ。
王都イストレージャにおわす現国王レヴェントは恋多き人物とされ、それはもう幾多の美姫と浮名を流した。その結果、正式な世継ぎの数を誰も把握できていないという事態に陥った。その事実は、国民三〇〇人が集まれば一人の割合で「私は王統の血を継いでいる」と主張する者がいる、といったこのルスタ国で一番有名で全く笑えない冗談話まで生んだ。
そして、次期国王―つまり誰を王太子の席に座らすのか、といった問題が今までずっと宙ぶらりんになっていたのである。結果、ぜひ我をと訴え続ける息子達に辟易したレヴェント王は『自分の思う国の宝を持て。最も良き宝を持参した王子を王太子とする』と告げたのだという。
国政なんかより愛を振りまく方がずっと大切なこの王唯一の英断は、このままでは血で血を洗う戦争になるだろうと噂されていた傍迷惑な兄弟喧嘩を止めたことぐらいだろうか。
「馬鹿馬鹿しい」
手元の帳簿を整理する方が余程有益だ。アイディンは視線をやらずにそう言い放つ。話終えたドゥーダはアイディンの反応には興味がないのか棚に並ぶ商品の物色に夢中だ。
「お前はそう言うと思ったよ。・・・お、珍しいな、ここらで見ない酒だ」
「なら始めから連れてくるな。・・・あぁ、なんでも西の方で作られている果実酒の一種だそうだ。需要があるかは分からんが、試しに幾つか仕入れてみた」
「よし、俺が試してやろう」
「100クルツ」
良心的な値段を告げたにもかかわらず、差し出した手はいっそ清々しいほどに無視された。
「相変わらず忙しくやってるみたいだな。西に行っていたんだろう?」
「あぁ、あっちの農場の視察を兼ねてな」
ちょうどいい具合に収穫の時期に訪れることができたのは日程に恵まれたと思う。その収穫物も今日こちらに到着する予定だ。
「また増えたのか? 景気のいいことで」
「いい加減一人で回すには厳しくなるぐらいには儲けさせてもらっているな」
「うらやましいかぎりだ。・・・アイディンお前、念のためしばらくは身の回りに注意しとけよ。さっきはだいぶ怒らせていたみたいだしな」
そう言ってドゥーダは去って行った。その手にはちゃっかりと酒瓶を持って。
結局酒の代金を受け取っていないが、まだ残っている売掛金に追加すれば回収できるのでひとまず気にしないことにする。
そんなことより今は倉庫の整理の方が大事だ。この後届く予定の商品を仕舞うスペースを用意しなければならない。本当なら今頃その作業は終了していたはずだったが、先程のお呼びでないお客様のせいで手も付けられていない。
「ドゥーダに手伝わせてやるんだったな・・・」
厄介ごとを持ってくるだけ持って来て、ぱっといなくなりやがって。
アイディンは所狭しと商品が並べられた室内を見た。アイディンは商人だが、自分で直接商品を販売する店舗を構えているわけではなく、依頼者に直接売り渡すか、市場に商品を卸すといったことを生業としている。だから店と言っても便宜上そう呼んでいるだけで実質は倉庫兼住居だ。実際、ここ最近は忙しくて自分の本当の寝床に帰れていない。疲れた身体を横たえるには快適ではないが、誰も帰りを待っていない一人身の気楽さでついついそうしてしまっている。
「ここに木箱を一〇か・・・」
新しい倉庫の鍵の受け取りは明日なので、今日は無理やりにでもここに押し込まなければならない。とりあえず、最近はもっぱらアイディンの寝床に成り果てている応対用の長椅子を部屋の隅に押しやった。
これは一度に持ちすぎた。
アイディンは歩き出してからわりとすぐ後悔したが、今さら持つ量を減らして往復する回数を増やすのは面倒くさい。鍵を受け取った倉庫までの距離が近いからといって荷台を借りるのを省いたのは失敗だった。なんとかこれが最後だからと踏ん張る。
狭い路地は目の前を木箱に塞がれている視界の悪さもあってひどく歩きにくい。この時間帯は走り回る子供がいないだけ恵まれてはいたが。
(とりあえずこれを運び終わったら次は市場調査だな。何か足りてない物があるかもしれん。その後は店に戻って何か言伝がないか確認して・・・)
なんて考え事をしながら歩いていたのがいけなかった。一瞬の気の緩みでアイディンの顔の高さにある一番上の木箱が揺れる。
「大丈夫か?」
崩れる、と思った木箱はぐらぐらと揺れていたがなんとか踏み止まっていた。とっさに出した己の節くれ立った手に添えられた白い誰かの手。この手が支えてくれたおかげで崩落を免れたらしい。
木箱を抱えた状態だったため、こんなに近くに人がいたことに気がつけなかった。
「助かった。礼を言う」
いまだ不安定な木箱を地面に置く。急に重さを失った腕が痺れを訴えていた。軽く肩を回しながら、やっと白い手の持ち主を自分の視界に収める。息を飲んだ。
(これはこれは・・・なんとも上等なお嬢ちゃんだ)
そんな感想しか出てこなかった。
ここでアイディンの名誉のために言っておくが、彼は人間そのものを『商品』としたことは一度もない。技術力や知力を売買したことならあるが、人間の尊厳を侵してまで利益が欲しいとは思わない。
そのアイディンをして金勘定させてしまう何かが目の前の人物にあった。
すらっと伸びた手足は見るからに滑らかそうで、一目で無垢だと分かる瞳は紫水晶の輝きを放ち、それを縁どる長い睫毛はすべらかな頬に影を落としている。小さく開いた形のよい唇は瑞々しい花弁を思わせる。その中性的に整った顔立ちは異性にも同性にも羨望の眼差しを向けられることだろう。日差し避けに被っていた濃紺のターバンから零れる髪は太陽に透けて金に光っていた。
「・・・何か私の顔についておるか?」
声はハスキーで少し低めだが、寝所であればどんな言葉も睦言にする力を持っていると想像できる。アイディン個人の好みとしても、高いよりこれくらいの方が耳に優しく聞こえていい。
そんなことを考えていたものだから、目の前の麗しすぎる金紫が不思議そうな表情を浮かべるのに気がついたアイディンは後ろめたくなって少し早口になった。
「なんだ、何か用か」
情報も彼の商品の一つではあるが、この美しい若者になら初回特典として差し出してやってもいいだろう。そう判断してアイディンは相手の言葉を待った。断じて一瞬でも不埒な想像をしてしまった罪滅ぼしからではない。
「この辺りに、アイディンという名の商人がいると聞いて来たのだが、知らないだろうか」
「・・・それは俺のことだが」
なんとこの金紫は己をご所望らしい。
麗しの金紫は自分のことをエルヴァンと名乗った。それに倣って一応アイディンも名乗っておく。探し人に巡りあえたエルヴァンは分かりやすく喜色を示した。
「実は、おぬしに聞きたいことがあって探しておったのだ」
ほころぶような笑顔は破壊力抜群で目に毒だ。とりあえずと路地に置いた木箱に座っているので今はこちらが見上げる体勢になっている。どうせ中身は小麦なのだからとエルヴァンにも座るよう勧めたが「それは商品なのだろう? なら私は立ったままでよい」と言われてしまったのでアイディンだけ目線が下だ。
「その前に、お前は何故俺を知っている?」
「? ここで一番の商人は誰かと問うたら皆おぬしの名を出したぞ」
よしよし。どこの誰かも知らないが見る眼がある奴がいるではないか。我ながら単純だが少し機嫌が良くなった、のでこちらから話を振ってやる。
「して、俺に聞きたいこととは?」
「おぬしはこの国一番の宝は何だと思う?」
何だそのデジャブ。
「・・・最近その質問が流行っているのか?」
「そうなのか?」
いや、聞いているのはこちらなのだが。そんなにきょとんとした顔で覗き込んでこないでほしい。
「それは仕入れることが可能なものなのだろうか?」
例えば、アイディンなら。
「・・・可能だと言えば可能だが、不可能だと言えば不可能だ」
「なぞなぞか?」
「問答のつもりはないぞ。一番なんてものは、何を目的とするかで変わるものだからな」
目的・・・と呟いてエルヴァンはしばし黙り込む。椅子代わりに座っている木箱の上でその様子をしばし眺める。
「難しく考えずとも、お前が望むものでいいぞ」
エルヴァンがあまりにも考え込んでいる様子なので助け舟を出す。
「なら・・・国を潤わす、という目的ならどうだろう」
「ほぅ」
なかなか良い着眼点だ。
「ちなみにお前は何だと思う」
「・・・やはり金貨などの財貨だろうか」
しかし結局はそこ止まりか。
「知識だな」
「知識?」
「まぁそれだけが全てではないが。確かに財貨は必要だ。俺に言わせればこれは最低限な要素で結果だな。金を回すにも、人を使うにも必要なものはそれに見合う知識だと俺は思う」
「なるほど」
アイディンの知識とは所謂、経済学というものだ。経済学に限ったことではないが、やはり知識は必要不可欠だ。しかもその知識は自分の脳に入れてしまえば力になるこそすれ邪魔にならないのがよい。教育の大切さを謳う者が多いのは、結局こういうところで差が出てくるからだと思う。
「聞きたいことはそれだけか? これ以上ないようなら俺は仕事の続きがあるから失礼するぞ」
正直アイディンからしたら初対面の人間に対して出血大サービスなぐらい答えた。やはり人間見た目は大事な要素だな、と感じる。特に初対面の際、大きな印象操作の材料になる。こうも自分の口が軽くなるとは、美人恐るべし。
そのまま木箱を持ち去ろうとしたら袖を掴まれた。まだ何かあるのか、と視線に込める。
「待ってくれ。もちろんおぬしはその知識を持っているのであろう?」
「当たり前だ」
でないと今日までこの都市で商人として生き残れていない。
「決めた。アイディン、私にそれを教えてくれないか」
「は?」
「私はその知識とやらを必要としている。ここでおぬしと出会えて本当によかった。これほど都合のいいことはない。そうだ、私のことは弟子か何かだと思って使ってもらえればよい」
「待て待て」
勝手にさくさくと一人で話を進めるエルヴァンの薄い肩を掴んで止める。
「お前、どこか学術所に通ったことは?」
「? ないが」
「・・・生家が何か商売をしていたとか」
「いや」
「誰か別の商人に師事したことは」
「ない」
それでは完璧な素人でないか。いやその前に、その身なりで学術所に通ったことがないというのはどういうことだ。
「お断りする」
考えるまでもない。確かに昨日自分はドゥーダに一人では厳しくなってきたとは言ったが、弟子ぐらいこちらで選びたい。わざわざ真っ白なキャンパスを選ぶ道理はない。たとえそれがどんなに中性的な美人だとしても。
「何故だ」
「それはこちらが聞きたい。何故俺がそれを受け入れると思ったのか。いいことを教えてやる。全ての商人がそうだとは言わんが、少なくとも俺は損得勘定で動く。善意で動くような人間ではない」
何故そこでアイディンの返答が予想外みたいな顔をするのか不思議でならない。
「そしてこの俺の損得勘定が言っている。お前の事情は知らんが、現時点で俺にお前を弟子にする利点がない」
まぁ無理やり利点を挙げるとすれば目の保養になるぐらいだが、それだけでは算段は取れない。
「・・・なんとか頼めないだろうか?」
「無理だ」
捨てられたような表情にアイディンの少ない良心が痛まないこともなかったが、基本的に面倒ごとは御免なのだ。
「・・・分かった。無理を言って悪かったな。少し失礼する」
今度こそ木箱を持ってエルヴァンとすれ違う。ん、少し?
「おい、何度来ても俺は」
エルヴァンの言い回しの違和感に気づいて訂正を入れようと後ろを振り向いたが、それを受け取る者はすでにそこにいなかった。
エルヴァンと別れたアイディンは重い木箱を倉庫にしまい、当初の予定通りきっちり市場調査をした後店に戻った。そのまま惰性で帳簿の整理をしていたアイディンの目の前には今、金貨の小山がある。その小山の向こうに神妙な表情をしたエルヴァンが見える。
「なんだ、これは」
「おぬしは私を弟子にする利点などないと言った。確かに今の私は役に立たぬ足手まといであろう。なら私はそれに勝る何かを示さなければならないと思った」
だから金を用意した、と。方法はどうあれ、その心がけは悪くない。しかしほんの数刻で用意するには目の前の金貨はいささか多すぎる気がする。
「お前は随分と良いところの育ちらしいな」
こんなにも無防備に大金をよくも知らない相手に差し出せるとは。
「お前、何故そんなにも俺にこだわる。これだけの金があれば、別に他の誰かでもよいではないか。それこそ学術所にも通えるぞ」
「私はおぬしの答えが気に入ったのだ」
アイディンの答え。国一番の宝とは何か、だったか。
「おぬしは知識と答えた。私は安直に財貨と考えたがそれは時に争いの種となる物だ。おぬしの答えは誰も傷つけない。それに」
「それに?」
「実はおぬしに断られた後、他の商人にも同じことを聞いてみたのだ。皆財宝だとか宝石だとか女だとか、即物的な答えばかりだった。誰もおぬしのように目的など聞いてもこなかった」
まぁ答える者にとってそれが答えなのだろう。結局答えなんてあってないようなものだ。受け取った側がどれを正解と感じるかどうかだ。
「人脈と答える者もいた。その答えも私は気に入ったが、それこそ人に教えを乞うものではないと思ったのだ」
「それで、俺のところにもう一度やってきた、と」
「それにカレンデュラで一番の商人はおぬしなのだろう? そのような逸材がいるのに他の者に教えを乞うのは勿体無いではないか」
勿体無い。その考え方は好きだ。自分が巻き込まれない前提でだが。
「・・・何度来てもお断りだ。この金も受け取れない」
「ではそれは預かっていてくれ」
「は?」
「思ったより金になったのでな。その量は持ち歩くにも不便だし、おぬしが預かっていてくれていると助かる。あ、もちろん受け取ってくれても構わない」
「俺は金貸しの類ではないぞ」
「ははは。それは重々承知している」
じきに諦めるだろう。そのときに返してやればいい。根競べには自信があった。
しかし、エルヴァンはそれから何度もアイディンの元を訪れた。どれだけこちらが冷たく断っても毎日やってきた。
決して口には出さないがその諦めの悪さは賞賛に値するレベルだと思う。
そして世間知らずなくせに相手の空気を読むことには長けているのか、アイディンが本気で煩わしく思い始める一歩手前ですっと帰って行く。
ちなみにあの日無理やり渡された金貨はいまだ返せていない。これは今必要のない物だから預かっておいてくれ、とエルヴァンが頑なに受け取らないのだ。
アイディンは自分自身をなかなかの頑固者だと思っていたが、上には上がいたのだなといった気持ちになった。
「で、律儀にちゃんと保管してあるわけだ」
月末、溜まっていた売掛金を支払いに来たドゥーダの目は部屋の片隅に置かれたままの金貨袋を見ている。
「だいぶお前らしくないんじゃないか?」
「・・・うるさい」
そんなこと自分が一番分かっている。アイディンが金を着服するかもしれないと少しも考えていないかのようなあの態度には、正直むず痒いものがあるのだ。
「そんなに美人なのか?」
「殺すぞ」
「おー怖い怖い」
にやけた顔をするドゥーダを無視する。そのまま放置していると退屈したらしいドゥーダが机の上の荷物を手に取ろうとする。
「おい、落とすなよ。それの買い手はすでに決まっているんだからな」
「へいへい。なんだこりゃ、仰々しい箱のくせに随分軽いんだな」
「・・・軽い?」
そんな馬鹿な。入っているのは西方の貴族由来の宝石箱だ。六面のうち底以外の五面にこれでもかとキラキラ輝く硝子で精巧な細工がしてあったはずだ。間違っても軽いなんてことあるはずがない。
ドゥーダから中身に衝撃の与えない早さで奪い取る。軽い。
「まさか・・・!」
掏り返られたか?
瞬間、先程この荷物を持ってきた人物がいつもと違う男だったことを思い出す。
「アイツか」
「どうした? おい、空じゃねえか」
箱を覗き込んでドゥーダも事情を察したらしい。
「ドゥーダ。濃い茶色のターバンを巻いて左手に刀傷のある、見た目四十ぐらいの男の情報を探してくれ。どんな些細な情報でもいい」
「そいつが犯人か」
「おそらく。くそ、手渡さなかったのはこのためか」
確か、壊れやすい物ですから、と随分丁寧に机に置いていた。そのときは特に何も思わなかったが、箱の重さでアイディンに気づかせないためだったのか。そうだ、それに何故箱の中身を知っていたのか。
「舐められたものだ」
「お前の方が極悪人みたいな顔になってるぞ」
そりゃあ自分の商品を騙し取られたらそんな顔にもなる。まぁ自分で自分の顔は確かめられないから正確には分からないが。
それから、とりあえず適当に情報集めてくるわ、と言って出かけたドゥーダは意外と早く帰ってきた。
「アイディン」
「何か分かったか」
「そのターバンの男な、裏通りの方に行ったのを見た奴がいたぞ」
「裏だと倉庫街にそのまま隠されてしまうこともあるな。面倒なことを」
ドゥーダからもたらされた情報は、ある程度予想していた通りだった。アイディンの商品を横取りして、ほとぼりが冷めたら何食わぬ顔で売りさばくつもりなのだろう。いい度胸だ。
「どうするんだ?」
「取り返しに行くに決まっているだろう。・・・相手の人数が分からんな。お前は兵士を数人連れて来てくれるとありがたい」
「報酬は?」
一応友と言える間柄の窮地にもがめつい男だ。
「果実酒の代金は返却する」
「了解」
日の落ちたカレンデュラの街は、大通りを一つ外れただけで急にその暗さが目立つ。昼間あんなにも賑わいを見せていた市場の喧騒も遠く、人並みもほとんどない。けれど大小の倉庫はほとんどこの界隈に配置されていて、日中以外にも出入りのある商品を扱っているアイディンも幾つか利用している。とりあえず細かい情報はないからここからはしらみつぶしに探し回るしかない。ついでに自分の倉庫の戸締りも確認しておく。まずは右側からだ。
「こちらでもないか・・・」
手がかりはないまま、着々と時間だけが過ぎてゆく。もう処理された後なのかもしれない。すでに買い手がついていた商品というのが痛い。しかも、その買い手は顧客にと口説き落としている最中の相手。
それでも根気よく、諦めずに新たな区画に足を伸ばしたときだった。遠く、人が争い合う声が聞こえる。
「だから! それはおぬし達の物ではないだろう!!」
「あぁん!?」
(なんだ? この奥の倉庫の中からか?)
気づかれないようにひっそりと扉の影に身を隠して音がする方を伺う。
暗い室内にランプの光が揺れている。その光に浮き出されるような細身の背中が見える。それに相対する数人の男達のシルエットも。嫌な予感がする。その声に聞き覚えも、後ろ姿に見覚えもある。
「これはアイディンの物なのだろう! 返せ!」
「おーおー。俺らはこれが誰の物かなんて関係ないんだよ」
「関係ないはずないであろう! おぬし達がやっていることは窃盗だぞ!」
「あぁん!?」
馬鹿か。正論でわざわざ火に油を注ぐ奴があるか。男達の向こうには、お目当ての探し物が倉庫内の棚にあるのが確認できた。
「うるせーな。とりあえず黙らすか」
「なんだ、おい、離せ!」
あ、マズい。
細い腕が簡単に捻り上げられて、その拍子に顔を覆っていた布がふわりと落ちる。
「おいおい、こりゃあ・・・」
「とんだ掘り出しモンじゃねぇか」
途端、下卑た笑いが男達の間で起こる。顔が見えたことでアイディンの嫌な予感が確信に変わる。やはりあの細身の人影はエルヴァンだ。
「下手な商品なんかよりよっぽど価値があらぁ」
「おい、嬢ちゃん。名前は?」
「嬢っ・・・! 無礼な!! この手を離せ!」
懸命に身体を捻るが多勢に無勢、エルヴァン一人の力では振り解けもしない。
これ以上は隠れて見ている場合ではない。アイディンは決して優しい男ではないが、目の前で人身売買だが婦女暴行だかを見過ごすほど冷血漢ではないつもりだ。しかもどうも話を聞くかぎり、アイディンの商品を守ろうとして絡んだ結果のようだし。
「おい、手を離してやれ」
「なんだてめー。邪魔すんな」
「あぅ、コイツは・・・!」
お。茶色ターバンの男。遠目だが、刀傷の痕もばっちりある。
「誰だと問われれば、お前らが盗んだその商品の持ち主だ。ちなみにその騒いでいるのとは顔見知り程度の仲でもある」
「アイディン!」
「お前、無鉄砲にも程があるぞ」
暗闇から現れたアイディンの姿を認めた途端、エルヴァンはほっとした顔をする。
さて、とりあえず中に入ったはいいが、この状況をどうすればよいか。目的は宝石箱の奪取とエルヴァンの救出だ。エルヴァンは戦力に数えないとして三対一。見るかぎり相手はナイフとかそういった類の武器は持っていないようだから、やりようによってはどうにかなる。やはりネックは敵の懐にいる形になってしまっているエルヴァンの存在だ。
「おい兄ちゃん。近づくなよ。この可愛い嬢ちゃんを傷つけたくなければな」
はい来た。悪役定番のセリフ。しかし実際こちらの痛いところを突いてきている。
「おぬし、また・・・! ぐっ!!」
何か言いかけたエルヴァンの言葉はリーダー格らしい男が乱暴にエルヴァンの編んだ髪を縄のように掴んだことで止まる。ターバンに収められて見えていなかったが、その金色は随分と長かったらしい。
「てめーは何も見ていない。ここを見逃してくれるなら盗った商品は返してやってもいい」
「お前、あれだろ? 自分の得にならないことはやらないって噂のあのアイディンだろ?」
「そうだ、なんなら俺たちの後でならおこぼれをくれてやってもいいぜ」
吐き気のする口臭がこちらにも届いているかのようで不快だ。
「これでも女にはさほど困っていないので結構だ。お前達と違ってな」
「てめぇっ」
アイディンの安易な挑発に乗った男が一人飛び出してくる。身長はアイディンと同じくらいか少しあちらが低い。武器はない。頭に血が上ったまま繰り出された大振りな拳を難なく躱してカウンターの要領で体重を乗せて叩き込む。
「ぐぁっ」
上手い具合に相手の顎に入ったアイディンの拳はまずは一人を戦闘不能に追い込むことに成功した。これで二対一。
「アイディン!」
「エルヴァン。お前はとりあえずそこから動くな」
髪を鷲掴まれてはいるが、エルヴァンを商品もしくは玩具として見ている内はそう手荒な真似はされないだろう。たぶん。
「てめぇ!」
「正当防衛だ」
できればもう一人ぐらいこの手に引っかかってほしいところだ。こちらの懸念がばれてしまえば分が悪くなる。
「お前、あのときの荷物を届けた男だな。随分お粗末な計画だな。結局こうやって俺に嗅ぎ付けられてるわけだし」
この際、入れ物を持ち上げるまで気づかなかった自分は棚に上げておく。
「この野郎!」
アイディンの思い通りに、挑発に乗ったターバンの男が前に出ようとする。が。
「待て。・・・おい、アイディンお前さっき顔見知りっつってたよな。なら顔見知りがひどい目に合うのなんか見たくないよなぁ?」
エルヴァンの髪を掴んだままの男に見抜かれてそれは止められてしまった。すなわち、エルヴァンの人質としての価値に気づかれた。
「よーしそのまま動くなよ」
身動きできないままさっき飛び出しかけたターバンの男から腹に一発もらう。ついで頬にも一発。その拍子にどこか切ったらしく、口の中に血の味が広がる。
「アイディン!」
とっさにこちらに駆け寄ろうとしたのだろう、エルヴァンの髪が捻り上げられる。
「ぐぅ・・・!」
「エルヴァンは動くな!」
形勢不利。ドゥーダが呼んで来るはずの兵士はまだ来ないのか。アイディンが乱入したことにより、物音は一騒ぎ程度にはなっているから近くまで来れば気づくはずだ。
痛む腹をさする。実はこちらには護身用の剣があるので、エルヴァンを見捨てさえすればなんとでもなる状況だ。が。己の与り知らぬところで起こったことならまだしも、現場に居合わせてしまった今その選択はさすがにできない。それにまだ宝石箱も回収できていない。さてどうする。
自分達の優位を悟った男達の注意がアイディンに集中する。大方、アイディンをどう痛めつけてやるかの算段でもしているのであろう。そしてその後には昂ぶった欲をぶつけるエルヴァンが待っている。反吐が出る話だ。
ざく。
そのときそんな音が響いた。そして音の出所を目にして誰もが言葉を失くした。
それは男達の一瞬の隙をついて、エルヴァンが隠し持っていたらしい短刀で己の長い金髪を三つ編みごと切り落とした音だった。はらり。無残にも金糸がそこらに散らばる。
止まったままの空気の中、唯一拘束が解け動けるようになったエルヴァンは、そのまま梃子の要領で自分を捕まえていた男の腕を宙に投げた。そしてアイディンの方に駆けてくる。
「アイディン!」
「・・・よくやった」
呼びかけられたことにより硬直の解けたアイディンは苦笑するしかない。潔すぎるだろう、と。エルヴァンに投げられ地面に強かに打ち付けられた男はすぐに動けそうにない。残り一人。ターバンの男。
「先程はどうも」
「ひぅっ」
仕返しとばかりに自分と同じように相手の腹に怒りを込めた拳を叩き込んでやった。
結果、商品は無事アイディンの手元に戻った。これでお得意様候補を一つ失わずに済む。今後は運送方法にも気をつけねばなるまい。とりあえずは商品受け取りの際の立会いと中身の確認は必須事項だな、と頭に刻む。
盗みの現行犯と人身売買及び婦女暴行未遂の男達三人はその後現場に駆けつけたドゥーダと兵士達に連行されていった。近頃カレンデュラで小さな窃盗を繰り返していた奴らだったらしい。
「おい、やめろ。大した傷ではない」
そして今、アイディンは自分の店で口元にできた傷の手当てをエルヴァンに受けている。
「血が出ていたではないか。気休めでもやらせてくれ」
強引に消毒液に浸した綿を押し付けられる。傷に沁みて余計痛い。
「お前、何故あんなところにいたんだ」
「あの場に至ったのはほんの偶然だ。迷い込んだ先があそこだっただけだ」
「それが何故あの状況になる」
「なに、どこかからおぬしの名が聞こえたのでな。てっきりアイディンがいるのかと思って聞き耳を立ててみたのだ。そしたら首尾よく盗めた、とあやつらが言って」
「それで馬鹿正直に止めに入ったのか」
「そうだ」
はぁ。こいつはどういう教育を為されてきたのだ。
「商品が無事でよかったな」
ため息を漏らしたアイディンをどう思ったのか、エルヴァンは暢気に笑っている。こちらの気持ちも知らないで。
「その、なんだ」
己の視線より少し下にあるエルヴァンの顔を見ることができない。
「まぁ、助かった。今回の礼をせねばならん。望みはあるか」
「私の望みは変わらぬ。私に商いの知識を授けてほしい」
やっぱりか、とアイディンはげんなりした。本来、使えない弟子などこちらから金を払ってでも自分から遠ざけたいものなのだ。
断りたい。本当に断りたい、がしかし。
バラバラに切られた金色がアイディンの視界の端に映る。
(女の髪を犠牲にさせた責は負わねばなるまい・・・)
たとえ悪いのはあの男達であって、しかも実際切り落としたのはエルヴァン自身だとしても、原因の何割かは己にもある。エルヴァンの時間稼ぎがなければ手元にあるこの商品も戻らなかった可能性もあるのだし。
しかもただでさえ、自分の適当に整えている黒髪とは別物の価値ある金の髪。
「おぬしに預けている金貨は、今後の受講料としてそのまま納めてくれて構わないから」
受け取った金貨は手をつけず保管してあるからそのまま突っ返すことはできる。
「頼む、アイディン」
だからそんな目でこちらを見るな。
「・・・分かった。俺の負けだ」
しかし結局、アイディンには頷く以外の選択肢は残されていなかった。