【三題噺】しゃもじ・側溝・鰯雲
或る文芸評論家「自画自賛するのもつらくなってきた。」
欄干から寸分程度の頭を出して、往来の様子を眺めていると、不覚にも笑ってしまうことが日に二、三度は見受けられる。今日は猫に逃げられた青年の姿を見た。
猫といっても、たいしたものではない。毛先のやわらかそうな白猫であったが、その目は人を煙に巻くようなものだった。黒い瞳はぎっちりと細くしぼられており、まぶしい白い毛に覆われた顔は、青年の姿を前にして媚を売るようにゆらゆらしていた。
青年も青年で、その白猫を見た瞬間にハタと歩みを止め、往来の真ん中で石像のようにつっ立っていた。どうやら白猫の様子を窺っているようだった。その緊張した面持ちは、どれほど彼と深い親交を持つ人間であっても、滅多に目にすることはできないものであったろう。
青年の目は、白猫とは対照的に真っ黒に見開かれていた。輝かしく光る、一匹の白猫に近づかんとするために、今まさしく彼の脳内では様々な議論が交わされているようだった。久しく動いていなかった彼の脳は、怒濤の水流を回して止まらぬ水車のように働いている。やがて議論は数秒を以ってして終わり、青年はじわりじわりと白猫に近寄るという方針をとった。青年が近づいてくるということを当然のように見計らっていた白猫は、今にも身を翻して青年の股の下からスルリと抜けていこうとする気配を見せていた。その気配があまりにも露骨に見えて、これはどうも人に馴れすぎている猫であると思いながら、今度は青年の方を見ると、ほんの少しだけ絶望の色を表情に浮かべていた。
青年は、実際に白猫に触ることができたときの感触と、呆気なく白猫に身をかわされてひとり往来に立ち尽くす自分の姿とを同時に思い浮かべているのだろう。そのためか、まるで幸福と絶望とが同居したような表情を顔に塗っていた。だが、白猫はそんなこと、とうの昔から経験してきているに違いない。人間をいかに楽しませつつ、自らに危害を与えないかということをわきまえている。青年の手が、自分の身に纏っている白い毛先に触れるか触れないかという瞬間まで身じろぎしなければいいのだ。目には警戒の色を浮かべ、まるい手足にじっと体重をかける。すると、今にも逃げそうに見える体勢ができあがるものだ。こうして青年の挙動に緊張感を持たせる。緊張した青年の挙動は、途端に遅くなり、脂汗と一緒に、じりじりと焦りがこめかみに噴出してくる。
さて、この睨みあいの勝負、結果はもちろん白猫の勝利であった。絹よりも手触りのよさそうな毛玉が宙に躍りながら、華麗に青年の股の下をくぐった矢先、人間たちの足元をするする抜けて、往来を斜めに突っ走りながら向かいの路地へ姿を消した。青年はといえば、どうやら白猫が逃げた瞬間に、勢いあまって頭から体を突っ伏したらしく、そのまま平衡を失い側溝へ身を突っ込む羽目になってしまった。
おおよそ計り知れない一大事件が、身近な往来でも起こっているのだなと感心していると、襖を開けて初美が入ってきた。欄干にぶら下がって往来を見ている自分に、「何を眺めていらっしゃるのですか」と、襖を閉めながら尋ねてくる。いま往来で起こった事件を上のごとく説明して聞かせたら、初美はろくに相槌もうつことなく、ただ自分を見ながら「ふつう、猫の尻尾は長いものでしょうか。」と返してきた。猫はたいてい長い尻尾の持ち主じゃないかという旨を伝えると、初美は特に関心も持ち合わさぬように、
「猫は尻尾の長いほうが、情緒深いものでしょうね。」
とだけ口元で呟いた。
その言葉は誰に言っている風でもなさそうであったから、自分はただ適当にあしらっただけだったが、我ながらなんとも噛み合わぬ会話に、気が空回りするようであった。
初美はそのまま襖の前に立っていたが、やがて自分の隣に移り、欄干に触ることなく外をぼんやりと眺めた。
「鰯雲が、たいへんきれいなこと。」
初美はただ宙に言葉を乗せるようにして言った。自分は満足に空も見上げられない体で、ただ視界の一部に空の欠片が映っているのを意識するだけであった。そんなにきれいかとだけ思っていると、「あなたにも見せてあげたいわ。ほら。」と初美は柄の部分を握り、自分の顔を空に当ててくれた。
なるほど、たしかにこれはきれいな、いや、鮮やかな鰯雲であると思った。すると初美がクククと笑いをこらえているようであったので、鰯雲の何かおかしいかと不思議に思っていると、「しゃもじに鰯雲を見させるだなんて、アタシもおかしい」とだけ言って、そのままこらえていたものを吹き出し、とうとう笑い崩れてしまった。自分は部屋の方へ投げ飛ばされ、畳の境目あたりに「ポト、トタ。」とだけ音を立てて倒れてしまい、これはいけない。鰯雲が天井の木目に変わり、そこに久しく感ずることのなかった、しゃもじとしての意思が戻ってくるかのようであった。