武士
突然カッと目を見開いたかと思うと、タキはガバッと半身を起こした。
辺りをキョロキョロ見回す。
「姉上?姉上!」
イツキが呼びかけても構わずタキは何かを探している。
「殿!殿!」
タキは声を張り上げた。
そして顔を顰めた。
痛そうにこめかみに手を当てる。
「姉上!無理はいけませぬ。まだお休みになっていてください」
イツキはタキの肩に手をやり、諭すように言った。
タキには目立った外傷はないが熱がある。
イツキが触れた肩はまだ熱い。
目が充血していて顔も火照っているように見える。
とにかく休息が必要だと爺が言っていた。
今は無理やりでも横にならせなくてはいけない。
「イツキか?」
漸くタキがイツキの存在に気が付いたようだ。「と言うことは島に帰ってこれたのか」
「そうです。ここは竹生の島ですよ」
イツキが微笑んで答えるとタキは漸く目の力を弱めて、再び頭を枕に戻した。
「良かった。夢ではなくて」
「夢ではありませんよ。昨日、姉上は十年ぶりに島へ戻ってこられたのです」
気が付けばイツキの頬が濡れていた。
ぽたぽたと涙がイツキの拳に零れ落ちる。
姉上が生きていた。
このことがどれだけイツキの心のこわばりを取り除いてくれたことか。
イツキは一睡もせずに看病をしていたが、全く疲れを感じていなかった。
もう、一人ではないのだ。
そう思うと心が高揚してくる。「背に乗せてこられたお方は爺が看ております。ですので姉上は安心してお休みください」
タキはイツキの言葉に「良かった」と息を漏らした。
「イツキ。大きくなったな。今まで、よう耐えてくれた。辛かったろう?」
タキが手を伸ばし、イツキの頬の涙を拭う。
イツキは堪え切れず、タキの腕に縋り付き声を上げて泣いた。
わんわん泣くイツキの髪をタキが優しく撫でてくれる。
イツキはタキの傍で泣き疲れてそのまま眠ってしまい、気が付けば、肩に掻巻が掛けられていた。
身を起こすと、五助が囲炉裏に枯れ枝をくべているのが見えた。
タキはイツキの隣で静かに眠っている。
「私、……眠ってしまったのか」
「はい。お疲れでしょう。私が看ておりますので、イツキ様もお休みください」
「いや、少し寝たら楽になった」
イツキは立ち上がって囲炉裏の傍に行った。
五助の向かい側に座ると、五助が白湯をくれる。
飲むと体に染みわたっていくのが分かる。
「ようございましたね」
五助が笑って言った。
五助もタキの帰島が嬉しいのだろう。
タキとイツキと五助はこの寺で兄弟のように育ったのだ。
「本当に」
イツキはぼんやり火を眺めながらゆっくり白湯を飲んだ。
長かった。
寂しかった。
父が死に、姉がいなくなり、母が死んだ。
あれから十年。
振り返っても何かをした思い出がない。
何もなかったわけではないが、タキが戻ってきた今、思い出すのはタキと五助とで遊んだ幼いころのことばかりだった。
「イツキ様はどうされるのです?」
訊ねられている意味がイツキには分からなかった。
首を傾げて五助を見返す。
「一族のタキ様がお戻りになられた今、イツキ様は島を出ることができるのでしょう?」
言われて初めて気が付いた。
「そうだな。ほんに、そう言えば、そうだ」
「イツキ様はよく湖をご覧になられています。島の外へ出られたいのかと思って見ておりました」
「……出たい。いずれは島を出て、色々な獣を見てみたい」
率直にそう思った。
しかし、それは今すぐの話ではない。「今はとにかく姉上の看病じゃ」
「私も島を出てみとうございます」
ぼそっと五助が言った。
「そうなのか?」
初耳だった。
しかし、死ぬまでこの寺の下男として暮らすのはあまりに窮屈だということは理解できた。
そして、五助の言葉を聞いて一つの情景が思い出された。
かつて羽柴秀吉が島に参詣に来た折、配下の武将に五助が森の案内をしたことがあった。
その時、その武将に五助は秀吉のために働かないかと持ち掛けられていた。
「私も、いずれの話でございますが」
「五助には羽柴家への仕官の話があったではないか。島を出たいのなら、あの時、どうして断ったのだ?」
「羽柴家にだけは仕える気はございません。秀吉にだけは」
五助は浅井家への恩を忘れていないのだ。
この寺で育てられたということを浅井家に育てられたということと同義と感じているのかもしれない。
その浅井家を滅ぼした秀吉の手先になりたくはないと言ってくれるのはイツキとしても嬉しかった。
しかし、秀吉が北近江に封じられてもう十年近い年月が過ぎている。
この宝厳寺も秀吉の支配下に置かれ、毎日の生活も、建物の修繕も秀吉からの寄進で賄われているところが大きい。
秀吉が長浜に城を築いてからは平穏になったのか参詣客も少しずつ増えてきている。
秀吉の治世は悪くはないのだろう。
浅井家が没して久しい。
そして五助は浅井家に仕えていたわけではない。
あまりに義理立てし過ぎて視野を狭めてしまうのは五助にとって良くないのではないかとイツキは思った。
「武士になりたくはないのか?」
イツキは五助が時折剣術や槍の稽古をしているのを知っていた。
いつかは武家に仕官して名を馳せたいという思いがあるのだろう。
「イツキ様」
五助はいつになく力強い目でイツキを見た。「私は武士なのです」
「え?」
「和尚様から伺ったのです。イツキ様もご存じのとおり私はこの寺の門に捨てられていました。そのとき、私は陣羽織に包まれていたようなのです。おそらく合戦で敗れた武家の形見なのだろうと和尚様は仰っておられました」
「そうだったのか」
「家の再興など興味はありません。ですが、自分が武士だということは守って生きていきたいのです」
いつも言葉数の少ない五助がこんなに多くを語るのは珍しかった。
囲炉裏の火に照らされて、五助の顔は赤かった。
そのときイツキの背後で衣擦れの音がした。