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再会

 聞こえる。

 男の苦しそうな唸り声。

 不思議だ。

 耳から聞こえるのではない。

 心に響いてくるような感じだ。

 これがかつて母上が言っていた宿命の人の声か。

 だけど、その人はどこにいるのか。

 

 胸に手を当て、イツキは心に響く声に耳を澄ませた。

 しかし、もうその声は聞こえなくなってしまった。


 時折、こういうことがある。

 空耳なのだろうか。

 定めの人に早く現れてほしいという念が強すぎるから聞こえてもいない声を聞こえるように思ってしまうだけなのだろうか。


「イツキ様。どうかされましたか」


 舟を降りて駆け寄ってきた五助が心配そうにイツキを見下ろす。


 五助は大きくなった。

 数年前から日増しに背が伸び、身体に肉が付き、立派な大人の男になった。

 イツキより三歳上の二十歳だ。


「何でもない。それよりも今日はどうだった?」


 イツキが訊ねると、五助は少しはにかみながらも背負った魚籠を地面に置いた。

 何か良い獲物が獲れたのだろう。

 駄目だったときの五助はイツキの言葉を無視して、怒ったようにそのまま寺に帰ってしまうのだから。


 魚籠の中にはやはり優に一尺を超す鱒がいた。

 しかも三匹もだ。

 他にも小さな魚がいっぱい入っている。


「すごいな、五助。今日は大漁だ」


 イツキが誉めると、五助は一瞬頬を緩めたが、すぐに顔を引き締め「早速夕餉の支度をいたします」と再び魚籠を背負って歩き出した。


 五助は昔から言葉数の少ない男だ。

 なかなかイツキの話し相手になってくれない。

 それはおそらく身分の差を感じてのことなのだろう。

 

 イツキは今は滅んだがかつては北近江の大名浅井家の姫。

 一方の五助は氏素性が分からない寺の小僧で、飯炊きやまき割りなどの雑事をしている。


 もともと五助は捨て子だったらしい。

 ある日、寺の門前でねんねこ半纏に包まって泣いていたのを爺が見つけ、育てたのだと姉上から聞いたことがある。

 

 大名の姫君と天涯孤独の寺の小僧。

 その差が五助を萎縮させるのか。

 親が大名だろうが百姓だろうが、この島に暮らしている上では関係のないことのように思うのは、私がまだ世間というものを知らない証拠なのかもしれない。

 

 湖の西に陽が沈む。

 鷹となってあの陽の方へ飛んでみたいと思う。

 そうすれば、様々な獣と出会えるだろう。


 神畜は獣に変化できるが、実際に己の目でしっかりと見たものにしかなれない。

 一族の掟によって島から出られないイツキはまだ変化できる獣が限られていた。


 人以外にはイツキのもともとの姿である蛇。

 島に羽を休めに来た鷹。

 そして、寺に棲みついている鼠。


 母が亡くなってもう十年が過ぎると言うのに、変化の力は少しも向上していない。

 島の外に出られないのだから仕方がない。

 しかし、このままでは己の変化の力が錆びついてしまうのではないかという不安が募るのも否定できない。


 母上の本来の姿である狼や姉上の馬にはなれない。

 神畜の姿を見ても、獣を見たことにはならないようだ。

 やはりこの世に生きる獣でなければならないらしい。


 イツキは四足で地面を蹴って疾駆する獣への憧れが強かった。

 母や姉のように土をしっかり捉え風を切って走ってみたかった。


 そのイツキの目に夕景の橙色に輝く太陽の光の中を何かがこちらに駆けてくるのが見えた気がした。

 幻だろうか。

 それは一瞬で消えてしまった。


 イツキは五助が同じものを見ていないかと背後を振り返った。

 しかし五助はこちらに背を向け、寺と浜の間にある森に姿を消すところだ。


 イツキはもう一度湖に目を凝らした。

 すると、やはり何かが湖の上に見える。

 しかもその姿は先ほどよりも大きくなった。

 湖面を滑るようにして、こちらへ向かってゆっくり近づいてくる気がする。


 あれは何だろうか。

 人ではない。

 栗色に輝いて見える。

 あの長い首は……。


「五助……、五助、五助!」


 イツキは声を大きく上げた。

 半ば叫ぶように五助の名前を呼んだ。


「どうされました、イツキ様」


 森の手前から五助が返事をする。


 あれは。あの姿は……。


 馬が近づいてきた。

 間違いない。

 馬が島に向かって湖を渡ってくる。

 四本の脚を折って顔だけを起こし湖面に浮かんでいる。

 栗毛色の馬。

 そう。あれは姉上だ。


 イツキは着物のまま湖に向かって駆け出した。


「イツキ様!どちらへ」


 五助が駆け寄ってきて、イツキの肩に手をかける。

 波が二人の足を洗う。


「姉上じゃ」


 イツキは沈みゆく太陽に向かって指を差した。


 イツキの指の先へ五助が目を細める。

 そして、目の前の光景が信じられないというような呆けた表情で立ち尽くす。


 栗毛の馬は確実に近づいてきていた。

 何かに乗っているのだろうか。

 不思議と馬は水面に伏せたままの姿勢なのに沈むことがない。

 そして、指呼の間に至り、それが姉上だけではないことにイツキは気が付いた。


「背に何か……」


 五助も同じことを思ったようだ。


 馬の背に何か乗っている。

 それはざんばら髪で馬の首筋に己の顔を押し当て、手をだらりと垂らしている。

 足に具足がついている。


「五助。爺に、爺に伝えよ。怪我人じゃ!」

「承知しました」


 五助は魚籠を担いで、寺へ向かって駆け出した。


 目の前にやってきた馬は口元を湖面に付けぐったりとしていて、疲労の影が見える。

 そしてその背に乗っている武者も意識があるのかどうか分からない。


「姉上!」


 イツキが呼びかけると、馬は優しい目で少し首を持ち上げ、そして、そのまま力なく横ざまに倒れた。

 水面に武者が投げ出される。

 波が馬と武者に打ち寄せる。

 馬は何とか顔を起こすが、立ち上がれない様子だった。


 イツキは駆け寄って、まず武者を砂浜に引きずりあげようとした。

 女の手にはぐったりと動かない男は重かったが、波の力が助けになって何とか武者を浜に仰向けにすることができた。


 武者は刀や鉄砲による傷が全身に無数にあり、腕や腹には火傷も負っているが、息はしていた。


 イツキは次に馬の体の下に手を差し込んだ。

 すると、馬の姿が変化して人の姿になった。


 忘れもしないタキの姿だ。

 タキは少し微笑んだが、急に堪えきれず倒れこむように体をイツキに預けてきた。


 タキの重みでイツキの身体が砂に沈む。

 その時、一転して急に体が楽になった。

 身体が浮かび上がったかと思うと、タキと共に砂浜へ放り出されるような格好になった。


 砂浜に手をつき背後を振り返る。

 すると、波の中に巨大な黒い影が見えた。

 影は瞬く間に水中に消え、見えなくなった。


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