慈雨
ズルズル。ズルズル。
何かが引きずられている音がする。
ズルズル。ズルズル。
その音とともに動いているのは自分の体だと分かった。
少しずつ意識が覚醒してくる。
意識が戻ってくると全身の痛みとともに思い出すのは五助の死だった。
イツキの目の前で五助は藤堂高虎の配下、藤堂高刑の手によって絶命した。
高刑は五助から託された刀を振るうと自らの陣羽織を脱いで五助の首を包み、槍に差して立ち上がった。
そしてつかつかと吉継の御首が埋められているあたりに近づきその場にしゃがみ込んだ。
まさか、五助との約束を反故にする気か。
イツキはあまりの怒りに頭が破裂しそうなほどの圧迫感と痛みを感じた。
吉継が死に、五助も命を失って、さらに吉継の御首まで取られてしまっては、もう気がふれてしまいそうだ。
しかし、高刑はそこで合掌し何やら呟くと、サッと立ち上がり踵を返して、そのまま静かに立ち去った。
五助が命と引き換えに守った吉継の御首。
それが埋められている穴へイツキは懸命に体を動かした。
漸く、辿り着き、その穴から出ている白い布地がやはり吉継の陣羽織であることを確認して、イツキはハラハラと落涙した。
そして、陣羽織の裾に頬をすり寄せ、意識を失ったのだった。
ズルズル。ズルズル。
私は誰によって、どこへ連れていかれるのだろう。
イツキは淡い意識の中でその疑問を覚えたが、自分のことなどもうどうでも良いという気持ちしかなく、再び意識が遠のくのに体を委ねた。
イツキ。イツキ。イツキ。
自分を呼ぶ声に覚えがあった。
覚えがあった、などという程度ではない。
声は吉継のものだった。
イツキはハッと目を覚まし、首を左右に振って吉継を探した。
しかし、辺りは群青の闇。
目を凝らすと、上空にわずかに星が瞬いていた。
一方の空の果てが橙色に染まっている。
夜が明けるのか。
時の流れは残酷だ。
吉継が身まかり、五助が息絶えても無情に時は進んでいく。
その場にとどまっていたいイツキを強引に押し流してしまう。
新しい日など来なくて良いのに。
定めの人を失ったこの身に新しく訪れる今日という日は一体何を求めるのか。
“イツキ。……目を……覚ましたか?”
耳に届いたのは吉継とは似ても似つかぬ老女のしゃがれた声と弱々しい息遣いだった。
そしてその向こうから微かにザザー、ザザーと繰り返し聞こえてくるのは波の音のようだ。
声は自分の下から聞こえてきたようだった。
見下ろすと黒い大きな塊が見える。
イツキはこの黒い生き物の上に乗っていた。
人ではないようだ。
しかし、人の言葉を話すということは、神畜なのだろうか。
そして、どうして定めの人でもない人の声が心に聞こえるのか。
“どなたなのですか?どうして心で話ができるのですか?”
“我が……名はウカ。そなたの……祖母じゃ”
心の声でありながらも老女は苦しそうに話す。
まさに息も絶え絶えという感じだ。
イツキは慌てて身を捩りウカと名乗った黒い生き物から降りた。
いくら傷ついたこの身であっても、祖母の背と知って寝そべっているわけにはいかない。
ウカ。
その名はタキから聞いていた。
しかし、そのウカが生きていたとは。
“驚きました。お名前は伺ったことがございましたが、まだ御存命でしたとは。今までどちらにいらっしゃったのですか?”
“そなたたちの……近くにおった。この姿に……見覚えは……ないか?”
白々と夜が明け始め、イツキの目の前にいる生き物の姿も少しずつはっきりと見え始める。
思い返せば乗り心地は初めてではない気がした。
この巨大で黒い生き物は……。
“主!”
そうだ。これは琵琶湖の主ではないか。
“そうじゃ。……琵琶湖の……大鯰じゃ”
“そうだったのですか。それで、いつも私たち一族の傍にいてくださったのですね”
“そう。……それが、神畜の定めを……破った私の務め”
ウカの心の声はあまりに苦しそうで聞く者を不安にさせる。
このまま、この場でウカは息を引き取るのではないか。
そう思わないではいられないほどに声に生気がない。
“お祖母様。大丈夫なのですか?大変お苦しそう”
“私のことは……良い。これで……私の務めは……漸く……終わるのだ”
“申し訳ありません。私のために”
大鯰のウカはひどく衰弱しているように見えた。
ここがどこかは分からないが、琵琶湖から関ヶ原まで這いずって辿り、そして関ヶ原からイツキを背に乗せ来た道を引き返してくれたのだろう。
その道程がウカをここまで衰弱させてしまったのではないか。
“そなたの……ためではない。一族の、そして、……弁財天のため”
“それは私が龍に変化できるからですか?”
“変化ではない。……そなたは、もう……龍神になったのだ”
“龍神?”
イツキは上体を起こして自分の体を見下ろした。
そこには白蛇はいなかった。
鱗に覆われた血のように赤い体。
大きさは白蛇の時と同じ程度だが、この姿は明らかに小早川軍に火炎を吐いた龍の姿だった。
“全ては龍神を導く……ための……ものなのだ。……変化の力も、定めの……人も、一族の掟も。必要なのは……怒り。新畜の一族の中でも……限られた……者だけが激しい怒りを契機に……龍神となる。龍神は……この国に平穏を……もたらす”
ウカの説明がタキの言葉と重なる。
“定めの人も、龍神を導くためのものなのですか?”
“そう。……定めの人の……苦しみ、悲しみ、……そして、悲惨な末期。これが……神畜に大きな……怒りをもたらす”
やはりそうなのか。
だとすれば、神畜はつまり破滅の神ではないか。
神畜と心を通わせたゆえに悲惨な末期を迎えることになる男たちの無念はいかばかりか。
そして、定めの人に訪れる艱難辛苦が自分の存在ゆえのものであることを知らずに必死に定めの人を支え、仕えてきたこれまでの神畜一族の女たちの何と無知で愚かなことか。
姉上……。
イツキはタキを想った。
タキは聡明だった。
タキが正しかった。
タキの言葉にもっとしっかり耳を傾け、自分が吉継との関係を断ち切ってしまえば、吉継はこのような無残な最期を迎えることはなかったに違いないのだ。
“私は何をすれば良いのでしょうか?”
イツキは半ば自棄気味に訊ねた。
定めの人を失い、心の空虚さは如何ともしがたい。
全身に砲弾を浴びて体は傷だらけ。
こんな満身創痍で一体何ができると言うのか。
できることならここでとどめの一撃を頂戴し吉継の後を追って黄泉の国へ旅立ちたい。
“何も……しなくて……良い。琵琶の……湖で好きに……生きなさい”
“それで、……それだけでこの世に平穏が保たれるのですか?”
“それは、……分からないが、きっと……そうなのだろう。その昔、私が神に……言われたことは、いつか……現れる龍神を……琵琶湖にまで……連れ帰れ、ということだけ。その課せられた務めを……果たすためだけに私は……何十年と……琵琶湖に棲み、一族の……動きを見ていた。そして、昨日、神は……私に……仰った。関ヶ原へ行け、と。そして……龍神を背負って……帰ってまいれ、と。……そして、神は私に……心の声を……授けられた”
ウカは、イツキの何倍もある全身を使って呼吸を繰り返し、苦しそうに喘ぎながら、イツキに背に乗るように言った。
しかし、イツキはとてもウカに乗ることはできなかった。
息も絶え絶えのウカをこれ以上苦しませるわけにはいかない。
琵琶湖を目指すのなら、逆に自分がウカを引っ張っていくべきだろうとイツキは考えていた。
“務め……なのだ。神が……ご覧になっている”
どんどん夜が明けていく。
星は消え、薄く朝もやが立ち込めている。
遠くに波の音が聞こえる。
よく見ると、草むらに寝そべる大鯰の腹からは血が滲んでいた。
顔や背は渇きのせいか、至る所で肌がめくれ上がり白く硬化している。
やはり関ヶ原への往復がウカを衰弱させたのだ。
“どうして神はこのようなむごい務めを?お祖母様は先ほど神畜の定めを破ったとおっしゃいましたが、何をなさったのですか?”
イツキの問いにウカは一つ大きく息を吐き出した。
“簡単な……ことよ。タキと……同じことを……したのだ”
“姉上と同じ……”
つまり、神畜の存在が定めの人を苦しめると悟り、定めの人を遠くへ追いやったということか。
“そうじゃ。きっと……タキも神に……厳しい務めを……課せられるであろう”
ウカはイツキに早く背に乗れと言う。
神に課せられた務めを果たすために。
イツキは心を痛めつつもウカの言葉に従い、その背に乗った。
ウカは身を捩り、這いずって前へ進んだ。
きっとその腹にはさらに傷ができ、血が溢れ、ウカに激しい痛みをもたらしているだろう。
それでもウカは先へ進む。
波の音が近づいてきた。
そして、イツキの前に琵琶の湖が広がった。
朝の陽光を受けて湖面がキラキラと輝く。
帰ってきた。
琵琶湖に帰ってきた。
イツキは湖水に導かれるようにウカの背から波打ち際に降りた。
穏やかな波がイツキを濡らす。
するとたちまちイツキの体がむくむくと巨大化した。
全身の痛みが消え体に力が漲ってくる。
これが龍神の本来の力か。
体内から溢れんばかりに湧き上がってくる力を抑えきれずイツキは湖面に踊った。
踊っているうちにあっという間に竹生島に辿り着いた。
そこから上空に舞い上がり、一気に雲まで達すると、今度は顔から湖水に突っ込んだ。
琵琶湖の中を自由自在に動き回る。
手で一掻きするだけで、体を少し屈伸するだけで体がするすると水の中を気持ち良く駆け巡る。
空中でも水の中でもイツキの動きを妨げるものは何もなかった。
“イツキ。……おいで。渡すものが……ある”
ウカに呼ばれイツキは波打ち際に戻った。
ウカを見下ろす自分の体はウカの何十倍にもなっている。
そのウカの尻尾は白く丸いものに巻き付けられている。
“あれは……”
ウカに訊ねるまでもなかった。
白いものは吉継の陣羽織だった。
大きく描かれた揚羽蝶の模様がその証拠だ。
五助が自分の命と引き換えに守った吉継の御首。
イツキは手を震わせて御首を包んだ陣羽織を掴んだ。
すると、丸まった陣羽織は内側から黄金色に光り輝き出し、イツキは眩しさに目を細めた。
やがて光が収まるとイツキの掌中にあった吉継の御首は黄金の宝玉に変化していた。
“イツキ”
不意に吉継の声が胸に響いた。
心の声と言うよりも、心の中に吉継がいるかのように聞こえる。
“殿!”
“イツキ。見えるぞ。空が、山が、琵琶の湖が。……我らは一心同体となったのか”
“はい”
吉継の言葉にイツキは一片の疑いもなかった。
吉継は我が心の裡にいる。
吉継の声の聞こえ方は、そう考えるのが一番自然だった。
イツキの手の中で宝玉が一瞬さらに強く光り輝き、そしてその光がイツキの赤い体に吸い込まれていくのが見えた。
“イツキ”
“はい!”
イツキは吉継と再び言葉を交わすことができる喜びに満ちていた。
“雲を呼び寄せられるか?”
“やってみます”
イツキは上空へ飛び上がり、頭の中に雲を呼び寄せる様子を思い描いた。
すると四方から灰色の雲が餌に群がる鯉のように集まってきた。
たちまち幾層にも重ねられた雲がイツキの周囲に出来上がった。
雲の下には雨が降り始めている。
“イツキ”
“殿。仰られなくても、殿のお考えは分かります。この雲を東へ、関ヶ原へ飛ばすのですね”
“さすが、イツキだ。一心同体というのは便利だな”
吉継が高らかに笑った。
殿のこのような軽やかな笑声を聞いたのはいつ以来だろう。
少なくとも敦賀に所領を得て病が篤くなってからはない。
殿は神の力によって長い苦しみから解き放たれたのだ。
イツキは満ち足りた気持ちで雲を東に向けて軽く吹いた。
雲は意志を持ったかのようにイツキの思い通りに水の滴をまき散らしながら関ヶ原の方へ流れていった。
殿。
雨を降らせましょう。
戦いの地に柔らかい雨を。
勝者にも敗者にも平等の雨を。
雨は血を、怒りを、恨みを洗い流してくれることでしょう。
千切れた雲の合間から朝の陽射しが戻ってくる。
琵琶の湖に注がれた日脚に七色の虹が映し出された。
その虹に沿って何やら小さく黒いものが幾つもひらひらと飛んでいる。
よく見ればそれは無数の揚羽蝶が舞っているのだった。
揚羽蝶は四方に別れ遠く彼方へ飛んで行く。
龍神の瞳はその様子をいつまでも見つめ続けた。