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手柄

 イツキは休み休みしながら、痛む体を動かした。

 依然として変化するための力は回復しておらず、蛇のままのろのろと前進するしかなかった。

 時折行き過ぎるどこかの兵に見つかることのないよう、できる限り物陰を選びながら這い進んだ。


 世にも珍しい白蛇だ。


 まだ子どもだった頃、そう叫んだ三成に体を抑えつけられたイツキを吉継が助けてくれた。

 その吉継が定めの人だった。

 今はもう定めの人はこの世にはいない。

 誰も助けてはくれないのだ。

 ここで小早川の兵にでも見つかり、捕らえられて見世物にされでもしたら、これ以上の屈辱はない。


 イツキは慎重に前進を続けた。

 目指す場所は吉継の終焉の地。

 そこで何か吉継の形見の品を手にしたかった。

 刀の鍔でも良い。

 陣羽織の紐でも良い。

 頭巾の切れ端でも良い。

 何でも良いから吉継の生きた証を肌に感じたい。


 遠くから幾万もの男たちがあげる勝鬨が地鳴りのように聞こえてくる。


 石田方はこの天下分け目の大戦において、たった一日で完膚なきまでに敗れた。

 やはり吉継が言ったとおり、そもそも実力の差は歴然だったのだろう。

 今となっては、それを納得せざるを得ない。


 だいぶ傍まで来たはずだ。

 ところどころ木漏れ日が差し込む林の中でイツキは一本の木陰に隠れ息を整えた。


 ザクッ。ザクッ。


 耳を澄ますと刃物で土を抉るような音が聞こえてくる。


 イツキは草の隙間から目を凝らした。

 よく見えないが、一人の武将が刀を使い、土を掘っているようだ。

 男はやがて刀を脇に置くとさらに手で掘り進め、できた穴の中に丸く白いものを沈めた。


 その時、「貴殿はいずこの隊の将か?」と問いかける別の武将の声が辺りに響き、イツキは心臓が止まるかと思うほどに驚いた。

 いつの間にか近くまでやってきていた武将に誰何され、穴掘りの男は一瞬肩をぶるっと震わせた。

 しかし、返事はしない。


「いずこかと問うておる。答えられよ。さもなくば斬る」


 それでも男は返答しない。

 そしてせっせと穴に土を被せた。


「何を埋めておる。見せてみよ」


 そう訊ねられ、男は先ほどまで穴を掘るのに使っていた刀を手に取った。


 それを見た武将は機敏に一歩退き、大きく足を開いて腰の刀に手を掛け、目に敵愾心の炎を点した。


 穴掘りの男は手にした刀を土に差した。

 そして振り返るとどっかと腰を下ろす。


「拙者は湯浅五助と申す者でござる」


 地面に胡坐をかいて相手を見上げる男の、その泥だらけの顔にイツキは明らかに見覚えがあった。


 五助……。

 確かにそこにいるのは五助だった。

 ということは……。


「湯浅……。その名には覚えがある。貴殿は敦賀大谷家の家臣ではあるまいか?」


 五助は澄んだ目で「いかにも」と頷いた。

 イツキが子供の頃から知っている誠実で優しい目。


「嘘偽りは申さぬ。我が主は大谷刑部少輔吉継」

「では、そちらの穴には……」


 言わずもがなだ。

 吉継の御首が埋められているのだ。


 イツキは目を凝らした。

 穴から何か白いものが顔をのぞかせている。


 あれは……。

 殿の陣羽織ではないか。

 そう思った瞬間、イツキの目から涙が溢れ出た。

 あそこに。

 あそこに、殿が。

 イツキは叫んだ。

 しかし、喉からはシャー、シャーと音が漏れるばかりだった。


「お察しのとおり。ここには我が主が眠っておる」


 そこまで言って五助はスッと地面に手をついた。「主君吉継から受けた恩義は琵琶の湖より広く、伊吹の山よりも高い。武運拙く我が隊は敗れ、主君吉継は後の仕置きを拙者に託し、後顧の憂いを捨て戦場に散った。拙者は主君の恩義に報いるべく、何としてでも御首を守らねばならん。武士の情けでござる。何卒、大谷吉継を安らかに眠らせてやっていただきたい」


 ここで五助がこの男に討ち取られれば、吉継の御首は敵の手に落ちる。

 吉継が最も嫌った事態が眼前で起きてしまう。

 吉継の神畜として、それだけは絶対に阻止しなければならない。

 イツキは懸命に意識を集中した。

 しかし、やはり変化するための力はどうにも集められない。


「そうしてやりたいのは山々だが、拙者も手柄を欲しておる。大谷刑部殿の御首を持ち帰れば、我が叔父、藤堂高虎は内府様に大いにお褒めいただけるであろう。我が名も天下に轟く。これぞまさに武門の誉れ。貴殿も武士なら分かるであろう。申し訳ないが、ここは見過ごすわけにはいかん」


 五助の前に立つ武将は柄に掛けた手に力を込めた。


 駄目か。


 こうなったらこの男の息の根を止めるしかない。

 五助が歯向かえば男は仲間を呼ぶだろう。

 やるのは私だ。

 変化できないのであれば、この蛇の姿のままでやるしかない。


 イツキはのろのろと体を動かした。

 使えるのはこの毒牙しかない。

 近づいて噛みつくことができれば……。

 しかし、全身に力は入らず、男までの距離は遠い。

 これでは、間に合わない。


「主君吉継は病に冒され、痩せさらばえ、目は見えず、肌は崩れ、足腰は立たず、……それでも最後の力を振り絞り頭巾を被って顔を隠してまでして戦陣に立った。それは何故か。武士としての死に場所をこの戦に見出したからでござる。今、この墓を掘り起こされれば、病のために元の凛々しさをとどめておらず、重臣にも見せなかったその顔を満天下に晒すことになる。いくら敗軍の将であっても、それではあまりに不憫。大谷吉継は群雄が割拠したこの戦国の世でも傑出の将である。その将から貴殿は武士としての誉れある死を奪おうとされるのか。頼む。この通りだ。ただでとは言わぬ。拙者のこの首と引き換えに、この穴だけはそっとしておいてはくださらぬか」


 五助の泥にまみれた頬や顎から流れ落ちるのは汗だけではない。

 滂沱たる涙を流して五助は男に訴えかけた。


 男はそれを怜悧な眼差しでじっと見つめた。


 遠くから足音が聞こえきた。

 間もなく四、五人の兵が男の傍に駆け寄ってくる。


高刑たかのり様。この者は?」


 イツキは固唾を飲んだ。

 高刑と呼ばれた男が穴を掘り起こせと兵に命じれば五助の涙は意味を失くす。イツキの吉継への最後の務めも果たせなくなる。


「ここは良い。その方らは先へ行け」


 高刑は林の奥へ顎を向けた。


「しかし、この者が……」

「わしが良いと言っておる!」

 高刑の威厳に満ちた声が兵たちの口を閉ざす。「こちらは名高き勇将、湯浅五助殿である。その立派な最期はこのわしがしかと見届ける。何人たりとも邪魔は許さん」


 高刑の言葉に従い兵は一礼を残して姿を消した。

 辺りに再び静寂が戻る。


 高刑は五助の傍に寄り、膝をついて五助の顔を見下ろした。


「湯浅殿。貴殿の主君を思う強い気持ち、この藤堂高刑、感服いたした。貴殿のような義に厚い男が守ろうとする大谷殿は噂にたがわぬ立派な方であったのだろう。その大谷殿が貴殿に己の首を任せた。それはつまり大谷殿が貴殿を最も信頼に足る人物だと認めていたからに違いない。湯浅五助は最後の最後まで主君の首を守った義の男であると拙者が後世に語り継ごう。拙者の手柄は日の本一の義の男の首よ」

「かたじけない」


 五助は土に額が付くほどに頭を下げ、顔を起こすと腰から一振りの刀を取り出した。「これは主君から拝領した刀。願わくば、これで我が首を刎ねていただきたい」

「承知」


 高刑は五助から刀を受け取ると、鞘を取り払い、頭上高く掲げた。

 木漏れ日が神々しく高刑の刀に降り注がれる。


 五助!

 五助!


 どれだけ叫んでも声は出ない。


 五助はイツキの叫びに気付くことなく、高刑に向かって軽く頭を垂れ、薄らと満足そうに笑みを浮かべた。


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