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最期

 ぼんやりとした意識の向こうでイツキは「脇坂、朽木、小川、赤座の四隊が裏切り!」と誰かが惑い叫ぶ声を聞いた気がした。


 まさか。

 大谷隊の配下にある四隊が裏切るとは。

 殿の憤怒と落胆はいかばかりか。


 こんなときこそ、神畜である私が定めの人の傍にいなければ。


 イツキは懸命に体を動かした。

 大砲を何発も受けて体はどうかなってしまっていた。

 目の前にあるのは土と草と屍。

 草いきれと血のにおいが鼻にまとわりつく。

 人の三、四倍あったイツキの体躯は見る影もなく小さくなってしまっていた。

 恐らく本来の姿である蛇に戻ってしまったのだろう。

 体をくねらせ引きずるようにしてイツキは大谷隊本陣を目指した。


“イツキ。聞こえるか?”


 吉継の案じる声がする。


“はい”

“大事ないか?”

“何とか動けます。殿はいずこに?”

“わしか。……わしは、本陣から裏手へ二町ほど行った林の中におる”

“何故、そのようなところへ?”


 イツキは不安に胸を衝かれ、意識を集中させた。

 しかし、鷹や馬に変化できるだけの力が体に残っていなかった。

 仕方なく懸命に体を動かす。

 早く。

 早くしなくては。


“イツキ。戦の行く末は見えた。わしはここで最期を迎えることにする”


 嗚呼。

 予感が的中し、イツキは涙を溢れさせた。

 しかし、それでも、少しでも前へと体を動かし続けた。

 自分の体が思うように動かず、歯がゆさと悔しさにさらに泣けてくる。


“殿。お待ちください。すぐにまいります。私もお供させてくださいませ”

“イツキ。事は猶予ならんのだ。小早川に続き、脇坂、朽木、小川、赤座の四将も我らを裏切った。既に因幡守殿もこの世にはおられん。敵はすぐそこまで来ておる。事ここに至っては、病に醜く冒された我が首が敵の手に落ち、晒しものにされ、死して恥辱を受けることだけは絶対に避けたい。わしは逝く。イツキ。そなたは龍神として生き、この世に戦のない平穏をもたらすのだ”

“しかし、殿。死出の旅路のお供も許されず、最期にお傍にいることも叶わないでは、私は恨みの塊となってしまいます。徳川を、小早川を恨んで恨んで……。そのような心情で世に平穏をもたらすことができるとは思えません!”


 イツキは心の中で叫んだ。

 悲しみで胸が張り裂けそうだった。

 焦りが体を突き動かして、イツキは懸命に地を這った。


 何が神畜だ。

 何が龍神だ。

 殿の命だけは守ると誓ったのに、何もできないなんて。

 何故。

 何故こんなに体が動かないの。


“イツキ。恨んではならん”

“しかし、殿。あんまりです。一人残されて、私はどうすれば良いのでしょう。殿が逝かれるのなら、私は一人で憎き小早川と戦います。そして殿の後を……”

“イツキ。それこそ無駄死にではないか。全ては終わったのだ”

“しかし、……しかし”


 泣きじゃくるイツキに吉継は優しい声音で諭すように言った。


 此度の戦、確かに金吾が裏切ったことがきっかけで我らは総崩れになった。

 しかし、金吾の裏切りで石田方が負けたわけではない。

 そもそも勝てる見込みは少なかったのだ。


 もし、小早川が裏切らなければ、と考えたくなるのは分かる。

 しかし、小早川が裏切るという算段がつかなければ、内府様は決戦を先延ばしにし、秀忠殿の三万八千の軍勢を待たれたであろう。

 仮に立花宗茂殿の一万五千の兵がここで我らに加勢してくれていれば違った戦いができたかもしれぬが、持久戦となり加賀の前田利長が二万五千の兵を率いて北から攻め込んで来たとなれば我らは袋の鼠。

 どうあがいても勝ち目はない。


 我らは狭隘なこの関ヶ原に敵を誘い込み、周到に陣を組み、必勝の陣形を張った。

 これでも勝てなかったのだ。

 やはり内府様は強かった。

 内府様は負けない自信があったからこそ、こんな不利な地形に入り込んででも戦うことを選択された。

 そもそも会津の上杉を討つとして佐吉にわざわざ背中を見せた時点で、内府様には必勝の将来が見えていたのだ。

 そこに佐吉は飛び込んだ。

 罠にはまったのよ。


 もちろん罠だということは佐吉も知っていた。

 しかし、万が一にも勝てる率があるのならばと佐吉は立った。

 その心意気にわしは乗った。

 それだけだ。

 金吾を恨む気持ちも、ましてや内府様に唾を吐くつもりもない。

 願わくば、内府様に戦のない世を築いていただきたい。

 今はそれだけだ。

 イツキもわしと同じ気持ちで、わしの代わりにこれからの世の行く末を見つめてほしい。


 吉継の言葉にイツキは頷くことしかできなかった。

 これ以上、吉継に抗い、困らせてはならないと思った。

 イツキは一体の屍に寄り添い、息を殺した。

 どこの隊かは分からないが、近くを何人もの足音が通り過ぎていく。

 きっと吉継の首を狙って敵方の兵士が血眼になっているのだろう。

 吉継が言うように、最早一刻の猶予もないようだ。

 これ以上、自分が駄々をこねて吉継の御首が敵の手に落ちるようなことがあっては、それこそ悔やんでも悔やみきれない。


“殿。ご無念ではありませんか?”

“そのようなことはない。天下分け目の大戦に臨み、死に場所を得た。わしは今、晴れやかな気持ちだ。今日の空のように”


 イツキは吉継が見上げているであろう空を見上げた。

 吸い込まれそうなほどどこまでも深く清々しい秋の青さが目に沁みる。


“殿。私は神畜。神の使いです。我が定めの人たる殿のことは必ず神がお守りくださいます。何も案ずることなく往生なされませ”


 こんな別れの言葉を告げなければならないとは。

 イツキはタキの言葉を思い出した。

 我らは破滅神。

 確かにそうなのかもしれない。

 殿。

 申し訳ありません。

 私が傍にいたばかりに。


“イツキ。そなたに出会えて幸せであった。そなたはわしにとって幸福の神。もったいない妻であった”


 これを最後に吉継の声は聞こえなくなった。

 間もなく、ぶつり、と音とも言えない音が胸を裂くように響き、イツキは全てが終わってしまったことを察した。

 殿……。

 イツキは空に向かって力の限り叫ぼうとした。

 しかし、今の姿ではろくに声も出せなかった。


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