龍神
体が地面に叩きつけられ、後頭部を強かに打ち付ける。
意識が遠のきかけたとき、五助の「殿!殿ぉ!」という泣き叫ぶような声がイツキの耳をつんざいた。
殿が撃たれた。
ハッと目を開くと、遠ざかっていく輿の上で吉継の体が横ざまに倒れるのが見えた。
“殿!”
心で必死に呼びかけるが吉継の返事はない。
敵兵の喚声が一気に高まる。
イツキはそれを日に焼けて熱い土の感触を背にしながら聞いた。
誰だ。
誰が殿の体に傷をつけたのだ。
許さん。
絶対に許さん。
我は神畜。
殿を守るために、ここにいる。
我が命ある限りは、殿の命は必ず守り抜く。
イツキは体内の血が熱く滾るのを感じた。
かつて感じたことのないほどの強い怒りが全身を支配していく。
地面から何か得体の知れない力が体内に浸入してきて体を揺り動かすのを感じた。
脇腹の痛みは不思議なほど感じなくなった。
湧き上がる力とともに体を起こしたイツキは自分の足下に違い鎌の旗を無数に見た。
怒りに任せてその旗に向かって吼えた。
すると、目の前に紅蓮の炎の柱が噴出され、数十の兵が一瞬にして消え去った。
炎の通り道に残ったのは焦げた地面だけだった。
「龍だ!」
足元で童のような小ささの兵がイツキを見上げて恐怖に顔を歪めている。
その表情がイツキの心の奥に潜んでいた嗜虐性を刺激する。
そんな顔をするぐらいなら、もともとこの場に足を踏み入れなければ良かったのだ。
我が定めの人に対し刃を持ち銃口を向けた罪は万死に値する。
イツキは再び吼えた。
先ほどよりも強く。
すると橙色に染まった火炎がイツキの口から咆哮とともに吐き出され、足元にいた雑兵を焼き焦がした。
暑い日差しの下、風の音もない静寂が藤川台と松尾山の間に訪れた。
“イツキ”
心の中に吉継の声が聞こえた。
しかし、それが幻聴なのか、現実なのかの判断がイツキにはできなかった。
それほどに吉継の声は弱く小さい。
“殿!殿!御無事で?”
イツキは心の中で懸命に吉継に呼びかけた。
“大したことはない。弾は肩から出ていった”
先ほどよりもしっかりと吉継の声が微かな笑い声とともに心に響く。
イツキの全身にほんの少し安堵の気持ちが広がる。
吉継の傷は致命的なものではないようだ。
“殿。良かった”
気を抜けば、涙が出てきそうだ。
しかし、ここは戦場。
気を緩めることは一切できない。
イツキは威嚇も兼ねて首を右から左へ動かしながら火炎を吐いた。
小早川隊の前線が怯んで大谷隊から後ずさりしていく。
“イツキ”
“はい”
“龍に、なったのだな”
吉継の言葉に我が身を見下ろす。
自分の体が見たこともない獣に変化していた。
周囲と比べると自分の目の高さは普通の人の高さの三、四倍ほどの位置にある。
蛇を巨大にしたような形だが短い手がある。
全身が鱗のようなものに覆われ、体の色は真っ赤だった。
吉継が鉄砲に打たれたときにその体から噴き出した血の色と全く同じだ。
“私が龍に?”
“分かったぞ、イツキ。お前は龍神になったのだ。弁財天となったのだ”
“私が……”
“ああ。龍神は世に平穏をもたらすという。イツキが今、龍神になったということは、この世に平穏が訪れる証左だ。よかった。これで戦乱は収まるだろう。もはや石田も徳川も豊臣も関係ない。戦がなければ民が喜ぶ。わしは言いしれぬ満足を覚えている”
“お言葉ではありますが、殿。私は殿のために戦います。戦はまだ続いております”
その時、腹を揺するような轟音が何発も響いた。
それは石田隊が放っていた大砲の音と同じだった。
そして次の瞬間、イツキの体に重い衝撃が次々と襲い掛かってきた。
ぐはぁ。
イツキが吐いたのは炎ではなく大量の血だった。
イツキはあまりの痛みに堪えきれず上体を前に折った。
体を支えようと手を差し出すが、手よりも先に顎が地面にぶつかる。
その拍子にもうもうと土煙が立ち上り、さらに大量の血が口の端から零れ落ちる。
土煙の向こうで喚声が起こる。
「龍が倒れたぞ!」
「今だ!一気に押し込めぇ!」
小早川の軍勢が倒れたイツキの横を、体の上を駆けていく。
大谷軍本陣へ殺到しようとしている。
倒れている場合ではない。
傷ついた殿を敵から守るためには私が戦わねば。
グゥオアアアア!
イツキは痛みを堪え、咆哮を上げながら必死に体を起こした。
イツキの体に乗っていた兵士が転げ落ちていく。
大谷軍本陣に駆けこもうとしていた小早川隊の将兵が顔を恐怖に歪めて立ち止まる。
何人もここは通さん。
イツキは力の限り炎を吐いた。
イツキの怒りが込められた紅蓮の炎が小早川隊の兵士に巻き付く。
断末魔もなく人が消し飛んでいく。
炎が焦がしてできた道を進み、イツキはさらに口から火炎を放射した。
面白いように敵が消えていく。
一度に百は倒せているのではないか。
これを続けていけばどれだけの兵が相手でも勝てないことはないはず。
どんどん前進して松尾山の金吾も火炎地獄に落としてくれる。
イツキは体を起こして松尾山の頂を見据えた。
その時、先ほどよりもさらに多くの轟音が天地を揺すった。
ほぼ同時にイツキの体に無数の砲弾が浴びせられる。
熱く硬く大きい鉛の塊が体の奥深くに幾つもめり込んでいくのを感じた。
崩れる。
体が、心が、音を立てて崩れていく。
自分が仰向けに倒れていくのを止められない。
少しずつ視界を青い空が占領していく。
その空にイツキの口から噴き上がった赤い血が舞う。